2021年4月13日火曜日

「多様性」って簡単に口にする日本人について思うこと

 春になりました。とはいえ、しがないサラリーマンの僕には、これといって大した変化の無いまま桜が咲くだけの春が今年もやってきました。でも人生半分終わってしまった身としては、また桜が咲いているのを見れたという、ちょっと若い頃にはなかった感慨のようなものもあります。そんな春先なのですが、わが社の将来について考えるプロジェクトの報告を見る機会が最近ありました。その中で「多様性」と言う言葉が錦の御旗のように振り回されているのを見て、色々考えてしまったので、その話を今回は書きます。


SDGsの中に「多様性」というキーワードがあるせいか、昨今なにかと「とりあえず多様性って言う人」が増えてるように思うのですが。「多様性」って言うのは簡単なんですけど、「多様性」という言葉で何をイメージするかは個々人のそれまでの人生経験の振れ幅がそのまま反映されてしまうので、「多様性って大事だよねー」と違口同音に唱えている人の間でも実はかなり大きな乖離があるのではないかと思うのです。つまり、「多様性」という言葉でイメージすることが多様であるという再帰関係が存在するのですが、そのことが意識できてない人が多いように思うのです。


こういうこと言うと「海外経験マウンティングを取りにいってる」と言われるのであんまり会社では人前で言えないのですが、件の「多様性って大事ですよね」という報告を聞いたときの率直な印象としては「それって、ケンミンshowレベルの日本人の間でのチマチマした差異を多様性って言ってるだけなんじゃないのか?」と思ってしまうのです。確かにどこの国に行ってもケチな人、よくしゃべる人、怖そうな人…いろんな人がいるのは事実なんですが。でも一方で「多様性」という文脈で扱われるべき差異とは民族、宗教、性的指向など、差別や社会的分断をもたらすようなもっと大きな枠組みの話だと思います。


ちょっと話がそれますが、日本には武田鉄矢を筆頭に「坂本龍馬が好き」っていう人が結構いらっしゃるのですが。確かに、会社の設立や新婚旅行など、今の規範からしてみれば当たり前のことを最初にやった点では先駆者なのですよ。でも、脱藩などの行動にも見られるように、当時の常識からしたらほぼ変人と言ってもいいでしょう。「坂本龍馬が好き」と何の躊躇もなく公言できるような人って、こういうことを勘定に入れて考えられない人のように思うのです。つまり、もし今の時代に坂本龍馬みたいに規格外の行動を取る人がいたら真っ先に排斥しにかかるようなタイプの人が多いのではないかと思います。


話を多様性に戻します。「多様性」という言葉を安易に使う人にも「坂本龍馬が好き」という人と同じような感想を禁じ得ないのです。安く軽く簡単に「多様性」とか口にする人に限ってたぶん実際は多様性の芽を摘みたがるような人なのではないでしょうか。本当に多様性を大事にするなら、たとえ「多様性なんてどうでもいい」という人でさえも尊重するべきだと思います。これは、親鸞の悪人正機説にも通じる発想だと思うのですが、そこまでの覚悟を持って言うなら「多様性」という言葉も真に受けてもいいと思います。