2017年7月17日月曜日

軽自動車とミニバンにだけヤンキーやファンシーが炸裂する理由

気が付けばもう半年近く前の話になってしまうのですが。4年半前に日本に帰国した際に買ったプジョー1007が壊れました。最初は「なんか加速が悪いかな?」くらいで、乗り終えた後に車を降りたらクラッチ板の焼けるような匂いがしたのでたぶん自動クラッチ周りの何かに問題があるんだろうなとは思っていたのですが。どんどん状況が悪化するのでディーラーに持って行ったときはすでに手遅れで、ディーラーの説明によると「1007はモーターショーに出展したコンセプトカーをそのまま製品にしてしまったようなところがあって、7万キロを超えたあたりから色々とトラブルが出始めるので…」と言われました。結局修理代金が30万円を超えると言われてたところで諦めて廃車となりました。
このプジョー1007は帰国直後にまだスペイン人気分でいる僕と奥様にはとてもしっくり来る選択肢ではあったのです。確か、最初はフィアットのニューパンダを買おうと思ってたんですが、奥様が1007にほぼ一目惚れしたために半ば勢いで選んじゃったのでした。まぁ、「ハイオク指定車だった」とか「前列のシートにリクライニング機能がついてない」とか「オートマとはいってもクラッチを自動化する装置をつけただけ」など、買ってから「あれ?」というのもあるにはあったのですが、それを補って余りあるくらい愛着の持てる車ではありました。

このプジョーがお亡くなりになったので、とりあえず通勤に使える車をなるだけ早く手に入れなくてはいけなくなりました。当初は家族4人くらいで乗っても全然問題ないくらいの車(フリードとかシエンタとか)を考えていたのですが、この車格のファミリーカーはあまり買い替えることが無いせいもあってか、中古ではあまり玉数が少ない上に買うとなると5-6万キロ走ってる物件でも100万円近くしてしまうのです。というわけでこの路線は早々に諦めて、セカンドカーとして僕が通勤に使ったりする程度の車を探すことにしました。
そもそも僕は車に対してそんなにこだわりがある方ではないのです。もちろん見た目や走りはある程度良いほうがいいですが、基本的に車に対しては「ちゃんと走れればなんでもいいや」程度のこだわりしかないのですね。だから、何百万もする車を新車で買ったりする気にはなれないのでいつもほどほどの状態の中古車しか買わないのです。プジョーを買ったときは子供もいないし日本に帰ってきた直後の勢いもあったのですが、子育て世代のサラリーマンとしては最早車に遊び心みたいなのを求めようという気は全く起きないので、結果としては軽自動車をお買い上げすることになりました。結果として2.5万キロ走行、車検はあと半年弱、という軽自動車をコミコミ50万円で手に入れたのは我ながら比較的よい買い物だったとは思います。

ずいぶん長い前置きになってしまいましたが、そんなこんなで久しぶりに車の情報を探してみて思ったのですが。タイトルにもあるように軽自動車とミニバンにだけ突出してヤンキーやファンシーが炸裂していることに気づいたのです。
まずミニバンですが。この車格の車は例えば「ガイア」「オデッセイ」「ノア」「エリシオン」といった具合に、名前の段階でもうすでにヤンキーセンスが炸裂しています。そして、高速道路で前の車をガンガン煽りながらずっと右車線をものすごい勢いで走っていくのって、この手のミニバンが多いと思います。たぶん中には血の気の多いおっさんヤンキーみたいなのが乗ってるんでしょうね。
一方、今回探した軽自動車ですが。今回このカテゴリの車を探してみて思ったのですが、およそ6割の軽自動車のデザインはヤンキーセンスでできています。そして、このヤンキーセンスの軽自動車を中古で探すとたいてい白か銀か黒のどれかの色しか選択肢がありません。この関連に気付いたあたりから、僕はネットで中古の軽自動車を探すときには色の指定のところで上記の三色を外して探していました。こうすることでヤンキー臭のする車はかなり効率的に除外できることに気づいたのです。しかしながら軽自動車の残り2割は
"lapin"や"mira cocoa"などの女子向けファンシー車で構成されていまして。こちらは色はカラフルなものが多いのですが、なにせデザインがファンシー過ぎて40手前のおじさんが通勤に使う気にはちょっとなれないのですね。
結局僕が買ったのは、軽自動車の中でもヤンキーでもファンシーでもない最後の「オバさん」カテゴリの中からオバさん臭さが少しでもマシそうなものを選んだのでした。でも、「オバさん」は一度買った車を最後まで乗り続けるので、なかなか中古車では玉数が少なくて探すのに苦労しました。

ミニバンと軽自動車というカテゴリーにだけ突出してヤンキーやファンシーといった日本ローカルなセンスが炸裂している理由は、おそらくこれらの車格が日本ローカルであることと関係あるんじゃないでしょうか。欧州に住んでた時の記憶をたどっても、プリウスやマーチやフィットのような車はいくらでも走っていたように思うのですが、軽自動車やミニバンはほとんど見た記憶がありません。軽自動車は日本の税区分でないと存在意義が無いですし、欧州人は子供がいてもスライドドアや三列シートの車を欲しがったりはしないようです。
欧州でミニバンがあまり普及しない理由はいろいろ考えられますが、直感的に言うと日本では車は「車輪がついて動く家」のように思われている気がするのですが、欧州人にとって車とは「エンジンや駆動系の上に人が乗るための空間がついている」という感覚なのではないでしょうか。だから、欧州では”操縦している感”が味わえるMT車が主流であり、居住性や機能性を追及した日本車のようなものを求めていないんだろうと思います。ドイツなんてアウトバーンを200キロで走れないと車として使い物にならないわけですから、日本のミニバンではたぶん使い物にならないでしょう。運転するのが高速で右車線を激走する血の気の多いおっさんヤンキーでもない限りは。。

2017年7月9日日曜日

反知性主義と「うまいこと言う能力」

久しぶりに更新しようと思ったら、蝉が鳴き始めてすっかり夏らしくなってしまいました。これを書いている7月上旬の政局は、「都議会選で自民党が歴史的敗北」「この結果を受けて、内閣支持率も急落」「失言で足を引っ張った稲田や安倍などへの批判は高まるものの誰も責任を取る気配はない」という状況です。勝ったのが小池とはいうのはさておき、選挙の結果を「前よりはマシになった」と思って眺めていられるのは4年前にこのblogを書き始めてから初めてといっていいくらいだと思います。
個人的には「AKBと安倍政権と林修先生は本来なら耐用年数を超過していてとっくに飽きられていて然るべきなのに、代わりになるものが出てこないから消去法的に生き残っている」と思っているので。今回の都議会選から潮目が変わって、日本人が安倍政権に愛想を尽かせ始めたのだれば、それはとりあえず歓迎すべきだと思っています。もちろん「勝ったのが小池か…」というのはあるにはあるんですが、それでも現時点では安倍よりはまだマシだとは思います。

折しもこのように政局の潮目が変わり始めた気配がしてきた時期に、たまたま「反知性主義」について橋本治が非常に的確に説明している本を読んたので、まずはその本の話をさせていただきます。「反知性主義」というキーワードは、日本では橋下徹が台頭してきた辺りから聞くようになった言葉ですが、その後の安倍政権~トランプの大統領当選といった具合に、日本のみならず世界的な潮流となっています。
橋本治は自著の中で、反知性主義が世界的に台頭するに至る背景を「中流層の貧困化/下流化」として説明しています。「一億総中流」という言葉に象徴されるように、戦後の日本は大多数の庶民が中流層に属する(という幻想を共有した)国を作り上げました。しかしこの社会はバブルの崩壊や経済のグローバル化に伴ってだんだん維持するのが困難になりました。中流層というのは「自分達は下流層よりは何かしら優越している立場である」という根拠の不明瞭な思い込みによって自身の社会的立場を位置づけています。この中流層が貧困化し始めると「根拠の無い優越」が「崩された」と感じ、ほぼ無条件にまず「不機嫌になる」と橋本治は言っています。
これは日本に限らず全世界的に反知性主義が台頭してきたことに対するかなり的を射た説明なのではないかと思います。状況はアメリカでもイギリスでも似たようなもので、中流層が貧困化/下流化して「不機嫌になっていく」中で反知性主義が台頭していった結果、プアホワイトの支持を得たトランプが大統領になったり、移民によって追い詰められた下流層の支持によってイギリスはEUから離脱することになりました。

で、ここからようやく「自分がオリジナルに言わんとすること」の話になるのですが。日本において反知性主義が最初に関西から台頭したことには、それなりに必然性があったのではないか?と思うのです。まず、上述したように反知性主義は「中流が沈下して不機嫌になっていく」ことと繋がっているのですが。東京一極集中で徐々に下降の一途をたどっていく中で関西には不機嫌な空気が少しずつ蔓延していたのではないかと思います。そしてさらに、反知性主義と関西の相性が良いもう一つの理由に「お笑い文化」があるのではないかと思います。
僕は高校卒業まで関西で育ったので、なんとなくの皮膚感覚として思うのですが。関西では「面白いことを言う」「うまいこと言う」という能力は日本の他の地域よりも高く揚称される傾向があります。たとえば女子にモテるための条件として「カッコいい」「運動ができる」などは全国共通ですが、関西ではルックスが多少悪かったり運動が特にできなかったりしても、面白いことが言えればそれなりにモテたりするのです。
このような風土と反知性主義はそもそも相性がいいのではないでしょうか?実際のところ関西のお笑い芸人は排外主義や反知性主義に近い政治スタンスを持っている人が多いようです。僕が記憶している範囲だけでもこんな調子です。
小藪の教育勅語肯定発言
ブラマヨ(吉田)の長谷川豊擁護発言
笑い飯(哲夫)の慰安婦問題についての発言
ただし、これらはすべて吉本の芸人でして。関西の芸人の中でも唯一鶴瓶だけは安倍政権に対して批判的なコメントをしているのですが、鶴瓶は吉本ではなく松竹芸能所属です。鶴瓶が表立って安倍政権を批判できたのは、その辺りの事務所のカラーも関係があるのかもしれません。
もちろんお笑い芸人の中には鶴瓶以外にもネトウヨ的な政治信条に批判的な人もいるのかもしれませんが。上記のようにお笑い芸人が橋下徹のような発言を繰り返す背景には、彼らの思考様式そのものが「複雑な問題の一部分だけを取り上げて議論をすり替えたりしてうまいこと言う」ことだけに特化されているという、ある種の職業病のようなものが透けて見えるような気がするのです。そして、こういうお笑い芸人の作り出す「笑い」を文化の中心に据えている関西にはこのような反知性主義的な思考に同調しやすい土壌があったのではないでしょうか。

そもそも政治がなぜ必要かというと。いろいろな人の立場や利害があって社会が複雑だからこそ「そんなに悪くはない最適解に着地させて解決させる」ために政治はあるのではないでしょうか。言い換えると、世の中がはそんなに単純でないからこそ政治が必要なわけであり、そう考えると、政治家に必要な資質は本来「複雑で簡単に答えが出ない問題について議論して解決していく能力」であるべきだと思うのですが。反知性主義はこういう姿勢を放棄して「いかにクリアカットで歯切れのいいことを言うか」にだけ能力を最適化しているように思えるのです。
その昔「プロレスラーは政治を目指す」で申し上げたように、一昔前までの政治家には「青雲の志を持ちつつ悪いこともできる」という清濁併せ持つ能力を求められていて、その点では「真剣勝負と演技」という矛盾した要素を止揚することが職業上不可欠なプロレスラーはまさに政治家に向いている…と僕は思っていました。しかし、反知性主義が猛威を振るっている昨今の状況を見ていると、もはや政治にはこのようなセンスさえも必要とされなくなったのではないかと思えてくるのです。
というのも、最近の安倍総理や菅官房長官を見てると、もうこの国の政治家は「うまいこと言えればいい」というのも通り過ぎて、「うまいこと言おうとする気さえもなくなっている」ように見えるのです。つまり、「うまいこと言う努力さえも放棄して国民に対してナメた態度を取っていられる上限を競うチキンレースに興じる」という、いわば「末期反知性主義」的な段階にさしかかっているのではないかと思うのです。まぁ、いくらなんでもさすがに今回の都議会選挙ではこのような姿勢に対して国民から「No」を突き付けられたのですが。「末期反知性主義」からこの先、日本はどう変わっていくのでしょうかね?