2017年3月18日土曜日

世界の中心で「この世界の片隅に」について叫ぶ

気が付いたらすっかり春めいてまいりましたが。このblogを正月以来永らく放置しておりました。別に誰に何を言い訳する必要もないのでしょうが、理由はいろいろありまして。育児が忙しいとか、会社で異動があったりとちょっとバタバタしてたとか、リビングからダイニングテーブルを排除した結果PCに向かうための机と椅子がなくなったのでblogの更新が面倒になったとか、まぁ、いろいろあるにはあるのですよ。
そんな中でも、これはblogに書かずにはいられないような映画に出会ったので、今回はその話をさせていただきます。しかし、「この世界の片隅に」という映画は世間的にはほとんど話題になっていません。おそらく主人公の声を担当している「のん」こと能年玲奈の移籍騒動の影響で、大手のメディアがこの映画について一切スルーしてしまったからでしょう。しかし、それにもかかわらずこの映画は各方面から絶大な支持を受けています。特に、映画業界の方々からは絶賛されています。

いろんな人がいろんな媒体で言ってることの焼き直しになりますが、改めて自分の言葉でこの映画の何が素晴らしいのか説明してみると。戦争や原爆を描いた映画でありながら、見終わった後はものすごく暖かいもので頭の中が塗りつぶされたような気分になるのです。そして、後でこの映画について思い出す度に、この感覚が再現されます。どのシーンがどう、というわけでもなく、この映画について考えるだけでほぼ自動的に何か暖かいもので頭の中が塗りつぶされるのです。
日本人が戦争に関する映画を作ると、どうしても「蛍の墓」や「はだしのゲン」のように「かわいそう」「被害者としての日本人」等々の暗くて重い物を残してしまいます。一方で、戦争とは関係なければ単に「あたたかくて優しい気分になれる映画」もいくらでもあります。しかし、この映画は戦争の中でもあたたかい日常生活を営んでいた家族の姿を中心に据えています。そこがこれまでの日本人の作る戦争映画とは一線を画していて、その結果として、戦争が描かれているにも関わらず最後見終わった後に「あたたかい気分」になれるんじゃないかと思います。

ここで、岸田秀の内的自己・外的自己モデルを持ち出してみます。このモデルの骨子は、日本人はペリーの来航以来、「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」と「内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」に分裂したというものです。岸田秀の説に少々独自解釈を加えてここ100年程度の日本の歴史を総括してみると、内的自己の暴走の末に第二次世界大戦で大敗し、その後「経済=金」によって内的自己を充足させてきたものの、経済成長に限界が見えはじめたところに震災が発生して、これまで押さえられていた内的自己のフタが開いてしまい、その後は安倍政権などに見られる通り「内的自己=ヤンキー性」の暴走が社会のあらゆるところで猛威を振るっている…と、ざっくり言えばこうなると思います。
「蛍の墓」や「はだしのゲン」の例で説明したように、これまでの日本人が作った戦争映画はどうしても「内的自己の慰撫」という側面を持ってしまい、それが見た後に何か重いものを残してしまいます。しかし、「この世界の片隅に」という映画は「内的自己の呪い」を呪鎮した上で、清貧でも楽しく生きていく道を示してるように思えるのです。これは日本人が長く抱えている「内的自己・外的自己の分裂」という病を治癒できる可能性を示しているのではないでしょうか?この映画について事後的に思い出す度に、とにかく「あたたかい何かに頭の中が塗りつぶされるような感覚」というのは、つまるところ、この治癒効果なんだと思います。

「この世界の片隅に」について言いたいことは以上で大体終わりなのですが、最後にどうしても一言、「のん」こと能年玲奈について触れておきたいと思います。今回の映画では広島弁の役でしたが、彼女の出世作の「あまちゃん」も含めて、この人は方言がよく似合います。というより、標準語で話しているとなにかしら違和感があるというか、物足りないようにさえ思います。今回の映画を通して思ったのですが、彼女は日本という国の片隅に暮らす人々の依り代=巫女という稀有な資質を持っているのではないでしょうか。今回の映画で直接実写で役を演じるのではなく声優としてアニメに命を吹き込む作業を行ったことによって、彼女の巫女性がより際立ったように思いました。その資質たるや、もはや長嶋茂雄とか山口百恵とか浅田真央とか、そのレベルだと思います。