2014年10月7日火曜日

マッサンはクールジャパンと同じ香りが漂ってる気がする

朝の連続テレビ小説を一番ちゃんと見てたのは小学生だった昭和末期の頃なんじゃないだろうか。夏休みとかになるとヒマだから毎日のように母親と一緒になって見てたのですよ。その頃の朝ドラは必ず明治~大正~昭和初期という時代設定で、必ずと言っていいくらい主人公が空襲で焼け出されたり、「おしん」みたいに苦労したり、とにかく苦労や災難やトラブルの間になにかしらの幸せ(意地悪な人が優しくなってくる、恋愛~結婚~出産、ダンナが戦地から生きて帰ってくるなど)が挟まって話ができているという王道パターンを踏襲していたような記憶があります。
苦労する人を見て感情移入したり涙を流したりするのがエンターテイメントとして成立するという感覚ってたぶんアジア人に独特なんでしょうね。韓流ドラマとか見てても同じこと思いますし、インドネシアで「おしん」が大ヒットしたのもきっとそういうことなんだろうなと思います。

実は大人になってからはこういう喜怒哀楽のローテーションで構成されているドラマ(敢えて言うと、女性の好きそうなドラマ)がなんだか苦手になってしまったのです。「わざわざそんなアップダウン激しくなくても、小津安二郎の映画みたいに淡々と日常が描かれてるドラマでもいいんじゃないかな?」とか思ってしまうんですけど、それを奥様に言うと「そのアップダウンが面白いんじゃん!」て言われるんですね。まぁ、そうなんだろうな。。
朝ドラの時代設定が「あまちゃん」以降3作連続で戦前に戻った理由には、「あまちゃん」のインパクトが大きすぎたので現代劇を持ってくるのに勇気がいるというのもあるのでしょうが。あの戦前の時代を舞台にすると苦労や貧乏を現代劇に比べてより鮮明に描ける上に、そこまで差し迫った現実感の無い「バーチャルな苦労や貧乏」としてほどほどの距離感を保ちながら安心して受容できるんじゃないかと思うのです。例えば現代劇でダンナのDVの末に離婚して生活保護受けながら子供を育てる女性の苦労を朝ドラで毎日のように見せられたとしたら、たぶんあまりに現実的すぎて見てる側がいたたまれなくなりそうでしょ?

さて。そんなこんなでようやく本題、先日から始まった朝の連続テレビ小説「マッサン」の話です。朝ドラ史上初の外国人ヒロインということでどんなものかと初回から数回見てみたのですが。早くもクールジャパンにも通じる「日本人による、日本人のためのセルフ接待に外国をワンクッション噛ませただけ」という空気をなんとなく嗅ぎ取ってしまったのです。
まず、スコットランドでの回想シーンが全部吹き替えっていうのはさすがにどうかなー?と思うのですよ。前作の「花子とアン」は「戦前の日本で山村の貧民出身ながら英語が喋れるようになった日本人」の話だったので、とにかく登場人物に英語を喋られせては全部日本語字幕で表示してたのですが。今回の「マッサン」は「ガイジンが日本に来る」という話なので、「ガイジンが英語で喋ってる会話なんてどうでもいいから全部吹き替えにしちまえ」という空気を感じるのですね。別の言い方をすると、アウェイ(花子とアン)の後にホーム(マッサン)を対置したような関係になっているから、ホームではガイジンの会話も全部吹き替えにしちゃったということなんだろうと思います。
吹き替えっていうのはリアリティとか外国語とか、色々な物に対する冒涜なんじゃないかなと思うのですよ。しかもそれをスコットランドでの回想シーンだけに限定して適用するのってなんかヘンじゃないか?と思うのですね。二回目の放送なんて主人公の二人が初めて出合った重要なシーンなのに、そこでの会話が全部吹き替えなんですよ?さすがにあんまりだと思いました。これについては僕だけじゃなくて、同じ指摘をしている人は沢山いるそうです。

マッサンは「世界のこんなところに日本人が」とちょうど真逆の構造なのですね。この手の番組ではたいてい日本人が外国に嫁いで色々と苦労もしながらも現地に馴染んで暮らしている(けど時々日本のアレが食べたいとか日本のアレが懐かしいとかそんな)絵を流しているのですが。不思議なことに日本人妻が日本の悪口を言うところを一切流さないんです。
海外にローカライズされて長年暮らしている人から見たら、日本は忘れられない祖国であると同時に今更あの国で暮らすのはちょっと無理って思ってるだろうと思うので。当然「ココがヘンだよ日本人」的な指摘があってもいいはずなのですが、そういう言動は全く放送されないのですね。結局は日本人の視聴者に「海外での暮らしぶりをを少しだけ追体験させる→でも結局海外よりも日本で暮らすのが一番」という満足を与えるためにあの手の番組は存在しているように見えるのです。

話をマッサンに戻しますが。なんとなくこの先を予想すると、エリーが苦労しながらも日本人の人情に支えられて日本の「お・も・て・な・し」の心を学んでいくとか、そんな話になっていくんじゃないんだろうかと思うのです。つまり、国民全員が小姑目線で「日本の生活習慣に不慣れな外国人が色々失敗するのを優しい目で応援してあげる」とか「だんだん日本の素晴らしさが解ってきたか、よしよし。」みたいなイイ気分にしてあげる方向に向かいそうな気がするのです。
前作の「花子とアン」と「マッサン」をセットで考えると「少しずつだけど国際化しつつある日本」という現実に対して日本人の心象を何かしら投影しているようにも見えるのですが。前作の「花子とアン」は戦時中の日本で一部の知識階級が無知蒙昧な差別を受ける姿を通して右傾向化する日本をやんわりたしなめているように見えたのに対して、こうも真反対のクールジャパンバンザイ方向に急に振れてしまっているのは本当に不思議なんですよね。やっぱりあのNHKの会長とか経営委員とかのせいなのかなぁ。。