2013年6月26日水曜日

プロレスラー達は政治をめざす

参議院選が近づいてまいりました。橋本徹の自爆とそれに伴う内輪モメで死に体ともいえる維新が、何を思ったかアントニオ猪木を候補として擁立してきました。もうやめとけばいいのにそれでも出てくるアントニオ猪木。しかも維新から?維新っていうとやっぱり長州の方が…とプロレスファンは突っ込まれるのは目に見えてるのに。やっぱりこの人は常にある一定量世間に対して認知されてて目立ってたいんだろうな。その点に関してはヘタな政治家よりも全然ブレて無いと思いますよ。頭の中が完全に昭和の頃のままで止まってるだろうから。。しかしながら、「プロレスラーの政界進出」を最初に成し遂げた彼の功績は大きいと思います。アントニオ猪木の後にも思いつく範囲で高田、大仁田、神取、馳、サスケ、デルフィン…と、プロレスラー達は選挙に出ています。

彼らが次々と政治に進出しようとする背景に、政治とプロレスがとても似ているということがあるように思うのです。表面的なところでは確かに、団体(政党)の離散集合とかマイクアピール、乱闘などプロレスと政治は似てる要素があるとは思うのですが。何よりも政治とプロレスに共通しているのは「本気」と「演技」がシームレスに同居しているということなんじゃないかと思うのです。よくプロレスを「あんなものはショーだ」と言い切る人がいますが、これは随分貧しい物の見方というか、こういう人ってプロレスを見ても全然楽しいと思えないんだろうなと思います。だって、ドロップキックやブレーンバスターをくらったらすんごく痛いですよ?全部がリアルファイトだとは当然僕だって思いませんが。痛いものは本気で痛いですし、それに耐えれる彼らはやっぱり強いと思うのです。そして、優秀なプロレスラーからはこういう痛みや強さ、凄みが説得力を伴って伝わって来ます。

プロレスのこういう側面はそのまま政治にも当てはまると思うのです。上述したプロレスを楽しむ才能の無い人(この10年くらいで急速に増えた気がするのですが)って、政治家を「私利私欲に走る強欲なオッサン」として扱いたがる人と同じカテゴリに属してるように思うのですが。政治家だって全く私利私欲だけを望んでるわけでもないだろうとは思うのです。二世議員とかはよくわりませんが、たいていの政治家が政治を目指した最初の動機はおそらく「世の中をよくしたい」という青雲の志だったんじゃないかと思うのです。まぁでも、現実に政治家やっていこうと思ったらキレイ事ばっかり言ってもいられないのでそりゃ悪いことの一つも出来ないと勤まらないとは思いますよ。でも、彼らにだって青雲の志はあっただろうし、今も大なり小なりはそれを持ってはいると思うのですよ。

「本気」と「演技」とか、「本音」と「建前」のような矛盾を矛盾したまま受け入れるという、清濁併せ持つ資質がたぶん政治家には必要なのですが。プロレスラーという人達はこの矛盾と常に付き合うことが職業上不可避なわけです。そりゃ政治に進出しようと思うのは自然なことだと思います。こういうことについて、プロレスラーから参議院議員になって今や自民党衆議院のベテラン議員の馳浩はどう思ってるんだろうか。

2013年6月24日月曜日

マザコン国家はメシがうまい

前々回の投稿で、ヨーロッパと日本では子育てに対する根本的な姿勢が全然違うんじゃないかということを書きました。でもヨーロッパって一口に言ってもいろんな国があって、そこにはいろんな文化や宗教があるのです。民族だけでも社会の授業で習ったように主だったところでラテン系、ゲルマン系、スラブ系などがありますが、実際はそんな単純な物ではありません。これに加えて、アラブ系とかユダヤ系とか、さらに移民がいたりします。バルカン半島とかもう民族的には何がどうなってるのか訳が分からないです。宗教も基本はキリスト教なんですが、その中も教科書で習った範囲でもカトリック、プロテスタント、正教系など色々で、でも実はさらにもっと複雑です。

結果として前回の投稿の最後で触れたように、ヨーロッパでも漫画やアニメの文化に対する受容は国によってだいぶ異なります。フランスが一番の漫画/アニメ大国で、スペインでも同じく人気があります。日本のアニメが違法アップロードされている動画サイトを見ると、たいていポルトガル語かスペイン語の字幕がついています(また字幕の翻訳のクオリティがすごく高くていつも関心します。誰がやってるんだろ?)。
これらのヨーロッパでのアニメ受容国は、つまるところ南欧=ラテン=カトリックの国々なわけです。ヨーロッパの北の方の国で漫画やアニメが盛り上がってるという話は聞いたことが無いです。こういったヨーロッパ各国のアニメに対する受容の態度は、丁度「メシがうまい国」と「メシが不味い国」で大きく分かれるように思うのです。

マザコン男は買いであるという本には、本稿のタイトルにある通り「マザコン国家はメシがうまい」ということが書いてありました。曰く、日本や韓国、イタリアなどの美食の国々は国家として「マザコン体質」であり、対してアメリカやイギリスなどのメシの不味い国は父性原理が優勢な文化であると。マザコン国家では母親が子供のために手間ひまかけて手の込んだ料理を作るのでメシがうまくなるというようなことが書いてあったと思います(この本、家にあるはずなんだけど探しても見つからなかったのです。)。
これを読んだ当時はなるほどなと思った記憶があります。これは、ヨーロッパに限って言えば、プロテスタントとカトリックの違いというのは一つの大きな要素なんじゃないかと思います。カトリックの教会に行くと、イエスよりもマリアの方が前面に押し出されている印象を受けることが多いのです。一方、プロテスタントの教会はほぼイエス一点押しでマリアはあんまり出てこないように思うのです。僕は聖書も読んだこと無い上にプロテスタントとカトリックの違いについてちゃんと勉強したことも無いですが。カトリック=マザコンとプロテスタント=ファザコンという図式には、ちょっと教会を見たことがあるだけ程度の印象ですが直感的に納得できるところがあります。だってほら、マンマに毎日電話するイタリア人の男とかイメージに浮かぶけど、そんなことするイギリス人ってイメージできないでしょ?

実際のところ南欧のラテン国家(たいていカトリックです)は概してヨーロッパでもメシがうまい国(アイルランドやオーストリアまで含めると話がややこしくなって「カトリック=マザコン=メシがうまい」という説明にもたぶん限界があるのでとりあえず"ラテン"という縛りを都合よく採用しています。)だったと思います。思い出してもヨダレが出ます。で、これとアニメとどう結びつくんだ?と言われたら、あんまりパリっとした答えが実は思い浮かばないんですが。ヨーロッパでも南のマザコン国家は北のファザコン国家に比べたらまだ「子供らしさ」への許容度が高いんじゃないかと思うのです。
前々回で触れたように、ヨーロッパは子供が子供らしく好き勝手に振舞うことを許さない、日本人の目から見ると「子供嫌い」と受け取れるような社会なのですが。(ここからは知らない世界のことは言えないのでとりあえずスペインに限定しますが、)でも彼らだって何から何まで子供の子供らしい振る舞いを否定しているわけではないと思うのです。「大人=人間」の世界に迷惑かけるようなことさえしなければ、全体として見たら日本よりもスペインの方が子供は甘やかされてるとさえ僕は思います。例えば日本では「我慢=禁欲」を美徳として子供に教育しようとすることってあるでしょう?たぶんああいう物の考え方ってスペイン人には無いと思います。やりたくないことはやらなくてよい、好きな事だけやっててよいというのはスペインでは割と一般的なんじゃないかと思います。結果としてガウディやピカソみたいな天才が出て来やすい土壌なんじゃないかとは思います。
つまるところ日本もスペインも、「子供の子供らしさを否定しない=甘やかす」という観点から見るとどちらも同様に子供を甘やかして育てる=マザコン的なんじゃないかと僕は思うのです。もちろん甘やかし方も違えば、その背景にある考え方も全然違うんですけどね。で、この「子供らしさ」への許容度というのが、日本の漫画やアニメが受容されるかどうかに密接に関わってきてるように僕には思えるのです。で、最後行き着くのは「メシのうまいマザコン国家でだけ日本のアニメはウケる」ということになってるんじゃないかと。あ、とりあえずまとまったぞ。

2013年6月23日日曜日

大人のいない国のクールジャパン

前回の投稿で言及したように、「菊と刀」という本では「日本人は無邪気に振る舞うことを許されていた幼少期と、それ以後の『恥を知る』大人としての時期とで明確な断裂がある」と指摘しています。僕はこれは結構鋭い指摘なんじゃないかと思います。というのも前回の投稿の通り、欧米、とりあえず僕の知る限りでスペインでは子供は「人間=大人」になるまでの過渡段階にあると考えられているようで、「人間=大人」の世界になるだけ早い段階で順応することを求められてるように見えます。だから、日本のように「子供のうちは好きにわめいて走り回ってもよい、子供に罪はない」という風には考えられていないように思えるのです。

しかしながらこれも「菊と刀」が書かれた60以上前の日本の話であって。日本ってどんどん大人のいない国になってきたように僕には思えるのです。つまるところ、大人と子供の断裂が曖昧になって、いつまでも子供みたいな大人が増えてきたということです。まぁ僕も人の事を言えた身ではないのですが。こうなった原因について「大人のいない国」という本が採用している説明の一つは、「日本はたいへん成熟した社会なので、人は未熟なままでも生きていけるようになった。」ということで。この説にはある程度の納得感があると思います。
日本に比べて安全な国なんてほとんど無いので、国によって程度の差こそあれ、海外で生活するには「自己責任で危険を回避する、身を守る」という大人としての能力が日本よりも要求されます。
例えばスペインでは池や川にフェンスなんてありません。バルセロナの海辺の埋立地にあったショッピングモールには敷地と海を隔てるものが何もなく、ショッピングモールのウッドデッキみたいなところから簡単に海に落ちてしまえるように出来ています。日本だとこういうところにはフェンスの一つでもつけておかないと何か事故があったときには責任を追及されそうなのですが、どうやらスペインではそういう風には考えられていないようなのです。体感的には、日本だと二重三重にセキュリティをわざとかいくぐらないとできないようなことがスペインだと簡単にできてしまうので、「うっかりしてると日本よりかなり簡単に死んじゃうかも」と、いつも思ってました。

そんなこんなで、スペインで2年間暮らして日本に帰ってきたら、日本が本当に「子供の国」に見えたからです。上述のフェンスの話だけでなく、例えば各自治体は判で押したように「ゆるキャラ」の着ぐるみをつくり、メディア媒体や看板にも萌えアニメ調の絵が当たり前のように出てくる。家電チェーン店では子供が歌うテーマソングが流れる。30代半ばの同期と久しぶりに会ったら、全員がAKBの押しメンについて当たり前のように語り合える。こういった日本を見て僕は「子供文化がどんどん大人の世界を侵食していて境界がどんどん曖昧になってきている」と感じました。で、さらにこういう物を伝統文化とセットにして”クールジャパン”と名前をつけて売り出そうとしているんでしたっけ?でも、結局のところクールジャパンがやっていることは「大人にならなくても許される日本」「子供の側に大人が擦り寄って合わせる日本」を世界に発信しているだけのように僕には見えます。

僕も中学生くらいまではアニメオタクだったのでアニメは今でも見ちゃいます。大好きです。それでもアニメや漫画やゲームには「子供文化」という出自に対してある程度自覚的で、それに対する後ろめたさを持ち続けてほしいのです。ましてや国を代表する文化であるような顔はして欲しくないのです。日本でアニメやゲームの文化が発達した一番の理由は、子供と大人の間に大きな断裂があるので子供のための娯楽(アニメや漫画やゲーム)を作ることが立派な商売に成り得たということなんじゃないかと思います。で、その子供文化に本気でハマる大人=オタクが出現したわけです。
これはアフロディズニーという本の受け売りですが、オタク文化が今のように社会的に認知されるようになる課程はアメリカで黒人音楽が市民権を得るまでの過程と相似形なんだそうです。曰く、アメリカの黒人音楽は人種差別と根深い関わりを持っていて、差別と戦いながらも最後は彼ら独自の文化を築いた。これは、日本のオタクが社会的に冷遇されながらも現在に至るオタク文化を育てた過程とまるで一緒であると。
でもその結果としてあれだけオタクについての自己言及的な啓蒙活動を続けてきた岡田斗司夫さえ、「オタクはすでに死んでいる」と言い出すに至りました。オタク的な物があまりに世の中で普通になってきたので、オタクがマイノリティとして相互扶助的なコミュニティを構築する必要がなくなってしまったと彼は言っています。そうなった原因は「オタク文化が立派に大人文化の一翼として認知された」というよりは、どちらかというと「大人と子供の境界が曖昧になってきて、気がついたらアニメも漫画もゲームも大人の世界で市民権を得てしまった」という側面の方が強いんじゃないかと僕は思います。簡単に言うと、スターウォーズのフィギュアを集めて部屋に飾ってる人がオタクでもなんでもなく割と普通になってしまったということです。
少なくとも僕が現役でアニメオタクだった頃(90年代前半)は、思春期の中学生がアニメ=子供文化が好きだなんて言うのはカッコ悪いという風潮がありました。そんなのより月9とかのトレンディドラマ(遠い目…)=大人文化をちょっと背伸びして見るのが当たり前という世の中でした。当時アニメオタクだった僕としてはそのような世の中に対して多少の憤りもあったのですが、今となってはアニメの立ち居地ってあの頃くらいが正常なんじゃないかな?と思います。中学生ぐらいになったら背伸びして大人文化に積極的に触れようとするのが普通で、子供文化の側にいるのはカッコ悪い…というくらいで丁度よいと思うのですよ。そういう意味では、中学生くらいにとってそこまで魅力的な大人文化に見える物って今あるんですかね?

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とはいえ漫画やアニメがある程度海外で認知されているというのは本当のことだと思います。だけど、漫画やアニメの受容はヨーロッパでも国によってだいぶ温度差があります。ヨーロッパ一のアニメ受容大国はフランスで、その次はおそらく我がスペイン…つまりラテン国家だけなんですよね。例えばイギリスとかドイツとかスウェーデンでアニメが人気という話はあんまり聞いたことないです(そりゃ好きな人はそれらの国にもいるとは思いますけどね。)。ヨーロッパでもラテン=カトリック=マザコン=メシのウマい国でだけアニメは人気があるのですよ。というわけで次回予告、「マザコン国家はメシがうまい」。

2013年6月17日月曜日

日本は子育ての人的コストがすごく高いんじゃないだろうか?

一週間のバルセロナ出張を終えて、渋々ながら日本に帰ってきました。バルセロナにいると人が楽しそうな雰囲気を発しているので「ここに生きてるだけで楽しい」と思えるのですよ。日本でそういう楽しそうな雰囲気を発してるのって、僕の住んでる街だと中南米系の日系人だけなんですね。10か月前に日本に帰ってきたときも、「日本人ってオシャレで細くて白いけど、楽しそうな雰囲気を発してない」と思ったのを覚えてます。あの頃は駅前にいるブラジル系の日系人に無理やりスペイン語で話しかけたくなったものでした。

さておき。今回は日本とスペインの子育て事情の違いについて、子育て経験も無いくせにちょっと考えてみようと思います。というのも、安倍晋三が「女性人材の活用」のために「育休を3年に増やす」とか「待機児童ゼロ」とか言ってるのを見て、そんな簡単な問題かな?と思ったのですよ。
とりあえず僕が分かる範囲でスペインという国と比較してみると。スペインという国は日本に比べれば少なくとも子供を育てながら働いている女性の割合は高いです。夫婦共働きというのがほぼ当たり前になっています。
この背景には、子育てをサポートする環境(保育園など)も勿論あるでしょう。そして、雇用が日本よりフレキシブル(みんな契約社員みたいなもので、その契約内容が個々人の事情に合わせて異なる)なのが日本と違うと思います。例えば「子供がまだ小さいから8時から2時(スペインの昼休み)まで働く」とかいうことができちゃうんです。勿論その分、雇う側の労務管理のコストは高くなるんですが、それくらいしないと女性が働くのが当たり前の社会って実現できないんじゃないかと思います。あと、終わる時間がきっちりしているので、「できたところまででいいことにする」というのも育児と仕事を両立しやすい要因かもしれません。
スペイン人の体力が日本人と比べ物にならないくらい強靭だということも大きく違うと思います。スペインで出産した日本人の女性が、産後数週間くらいの時期に姑から「もう回復しただろうから、庭に杭を打つ作業をやって」と言われて、言われた通りやってたら倒れたという話を聞いたことがあります。たぶんこれ、姑が意地悪なんじゃなくてスペイン人の体力が日本人と比べ物にならないくらい強靭だということを物語ってるんじゃないかと思います。実際のところ、朝までパーティーしてても次の日一応職場に来る(まぁ流してるんですけど)とか、そういうところをみてると日本人とは根本的な体力が違うと思います。

しかし何よりも子育てにかかる人的コストがスペインとは比べ物にならないくらい日本は高いんじゃないかと思うのです。日本に帰ってきてから不思議に思うようになったことの一つに、子供が飲食店などで大声でわめきながら走り回ったりしているのを親がそれなりに注意しつつも結局好きにさせてるということがあります。これはスペインではちょっと考えられません。そもそも、そういうった公共の場に小さな子供を連れて行く習慣がスペインにはなかったり、連れてきたとしてもちゃんと子供がお行儀よくしていることが多いのです。
どうしても必要なのであえて脱線しますが、同じことは犬にも言えます。僕がかつて住んでいたバルセロナという街ではほとんどの人が集合住宅に住んでるにも関わらず、当たり前のように犬を飼っています。日本人の感覚からすると集合住宅で犬を飼うなんて近所迷惑だと思うかもしれませんが、そうでもないんです。だって犬がほとんど吠えないから。彼らの世界では、犬というのはちゃんと躾された犬をペットショップで買ってくるのが普通なので、勝手に吠えるような犬は飼い犬として存在しえないのです。稀に飼い犬が言うこと聞かずに暴れてるときがあるのですが、そんなとき飼い主は何の躊躇もなく犬をボコボコに蹴ります。
つまるところ何って、"大人=人間の世界" >>>> (越えられない壁) >>>> "飼いならされた動物=家畜の世界" >  "野生動物の世界" というのが彼らの自然・文明観の根本にはあるように思えるのです。で、人間と共生を許されるのは家畜までなんです(その家畜さえ人間との間にも大きな断裂があります)。このヒエラルキーの中で赤ちゃんは生まれたときは"野生動物"で、これをまず"家畜"レベルに育てて"大人=人間の世界"に対して害の無い存在にして、そこから"大人=人間の世界"の成員にしてあげることが親の義務だと彼らは考えているようなのです。
だから日本の子供のように公共の場でわめきながら走り回ったりして大人の迷惑になるような行為をスペイン人の親は割と徹底して許さない傾向があると思います。こういう場合、スペイン人の親はまず”人間レベル”として「何がどう迷惑か」をちゃんと論理だてて説明して理解させようとする印象があります。で、それでも言うことを聞かない(=家畜以下レベルと見做す)と結構本気でお尻を叩いて戒めたりします。この段階での対応は飼い犬が暴れてるのをボコボコに蹴ってるのと基本はあんまり変わらないんじゃないかと思います。勿論相手は人間の、しかも我が子なんでそこは大きく違うんでしょうけどね。
こういった傾向は子供の寝かせ方にも反映されていまして。スペインでは"duermete niño(ひとりで寝なさい)"という育児メソッドがあります。これ、とにかく子供はお母さんと離されて一人で寝かせるんだそうです(これがどこまで普通なのかはわかりませんが僕の認識ではスペインでは結構普通なんだと思ってます)。どんなにぐずっても基本ほっとくんだそうです。このメソッドで育てると夜鳴きせずよく寝るとか、割と早い段階から分別のついた子供に育つとか、色々効用はあるそうです。もちろんこの育児法には賛否両論あるんだそうですが、少なくとも日本ではちょっと実践するのが難しいだろうと思います。

スペインで子育てをしている日本人のお母さんみんなが僕に同意するかは分かりませんが、僕から見たスペインという国の育児事情は上記の通りで。僕から見るとスペインでは「子供の世界」というのが明確に存在せず、子供は"大人=人間"の世界の成員へ至る過渡状態にあると考えられてるように思えます。そしてスペインというか、カトリックの国はまだ欧米(例によってこの言い方好きじゃないんですけど)の中では子供に甘い方だと僕は思います(この話はいずれ、「マザコン国家はメシがウマい」というタイトルで書こうと思ってます。)。"大人=人間の世界"の都合に合わせてる限りはスペイン人の方が日本人より子供に対して甘いとさえ僕は思いますし。
一方我が日本について。また例によって「菊と刀」の受け売りですが、「日本人は『イノセントな存在』として無邪気に振る舞えた幼少期と、それ以後の『恥を知る』大人としての時期とで明確な断裂があり、大人になった後も楽しかった幼少期の記憶をいつまでも持っている。日本人が2,3杯サケを飲むと途端に子供のように幼稚になってしまうのはそのためである」。なんだそうです(私見ですが、これは「菊と刀」が書かれた60年前の話であって、今の日本では大人と子供の断裂さえも希薄になってきているような気がするのですが。これについて書いてるとまた長くなるので後日)。同意できるようなできないような微妙なところですが、結構鋭いことを言ってるように僕は思います。
結局のところどうって、例によってどっちがいいとかは抜きにして育児に際して子供に対してかける手間が日本とスペインでは大きく異なっています。日本では子供が大人の都合に合わせることを求められないので、常に走り回ってる子供に気を配ったり、夜泣きする子供をなだめたり、子供のワガママにつきあったりする必要がある分だけ育児コストが高いんじゃないかと思うのです。こういう文化・風習である以上、育休を1年延ばしたり保育所を充実させるくらいで本当に日本が女性に働きやすい国になるのかはちょっと疑問なのですよ。しかも上述したように、なんだかんだで「年功序列、終身雇用」を前提としたシステムに働く側が合わせることを求められる日本では、尚のこと育児と仕事を両立するなんて大変なんじゃないかと思うのです。

慰安婦発言を「恥の文化」「罪の文化」という観点で考えてみる

ちょっと前の橋下徹の慰安婦発言について。発言そのものよりも、その後のらりくらりと言い訳しながらも撤回しなかったり、マスコミの誤報だとか人のせいにしたり。で、アメリカが結構毅然とした態度に出てきたら結局謝ったんだっけ?途中から追うのも面倒になって最後どうなったのか知らないですけど、とにかく橋下という人は自分の価値を下げたということは確かでしょう。それだけならまだ勝手にやってくれればいいんですけど、日本という国の価値まで一緒に巻き込むのは本当にやめてほしいです。
最後結局どうなったか知りませんが、少なくとも初期に橋下の言ってたことは「戦争の際に兵士の性処理に女性を利用した国はほかにもある。日本だけが避難されるのはおかしい。」ということで。これってスピード違反で捕まった人が「なんで俺だけ捕まるんだよ?他にも違反してる奴いるだろ?」と逆ギレしてるのとまったく同じにしか僕には見えないのですが。そういう趣旨のことをtwitterに書いたらネトウヨっぽい人が「戦後60年スピード違反で日本だけが捕まってるならそりゃ逆ギレもするさ!」と、僕の指摘した問題点を分かり易くそのまま居直って再生産しただけのメッセージを返してきたので、これはどうしたことかと思ってちょっと考えてみました。

結論から言うと、日本の右寄りの人が採用する論拠は「日本のやったことは相対的な尺度で他の国よりマシ」とか「日本だけが他国に比べて相対的な尺度で不当な扱いを受けるのはおかしい」という”相対的な尺度”の話が多いように思うのですが。これって日本が、絶対的な善悪の基準が行動規範となる「罪の文化」ではなく、「人前で恥をかかない」という他人との相対的な関係が行動規範となる「恥の文化」の国であることを如実に物語っているように思うのです。ええっと。例によって以前もご紹介した「菊と刀」という日本文化論の古典的名著の受け売りにちょっとアレンジを加えただけなんですけどね。
恥の文化では「俺だけが捕まる」というのは「自分だけ恥をかかされた」という点において由々しき事態なんでしょうね。だけど、それがスピード違反という罪を帳消しにしてもらうに相応すると考えるのは日本人(の一部)だけなんじゃないのでしょうか?少なくとも罪の文化では「でも君のやったこと罪でしょ?何を居直ってるの?」ってなるんじゃないかと思います。
他にも、右寄りの人の言うことって「その当時の基準で言えば帝国主義的な侵略は普通のことだった。日本だけ非難されるのはおかしい。」「欧米列強はアジア植民地を単に奴隷として搾取しただけだったが、日本は原住民を国民と位置付けて植民地の子供達に対してちゃんと教育をほどこした。」「従軍慰安婦があったおかげで日本軍の民間人への性暴力は最小限で済んだ。そういう制度を持たなかったソ連の民間人への性暴力はひどいものだった。」と、他者との関係を引き合いに出して当時の日本を正当化しようとする印象があるのです。繰り返し言いますが、この語法が正当な自己弁護だという風に罪の文化の人々には認識されないんじゃないかなと思うのですよ。「罪は罪として認めて謝れ」というのが罪の文化の考え方なんじゃないでしょうか。

アメリカが橋下徹に対して毅然とした態度を示してきた理由も、「戦争を理由に女性の尊厳を踏みにじる」という「罪」に対する居直りともとれる姿勢をアメリカ人の罪の文化では許容できないということなんじゃないかと思います。特にアメリカっていう国はいまだにアフガンやイラクに軍隊を派遣して現役で戦争をやっている国です。戦争を継続するためには彼らは「正義の軍隊」である必要があるので、「アメリカだって沖縄占領時代は好き勝手やってただろ?お前らだって一緒じゃん?性暴力は戦争につきものだろ?」と言われて同意するわけありません。
安倍晋三の「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う。」という言葉も、「絶対的な善悪の価値基準=罪の文化」を否定して自己弁護につなげようとしたから諸外国から非難を受けたんじゃないかと思います。

別に僕は「日本は恥の文化だからダメだ」とか言うつもりもなければ「罪の文化が正しい」と言うつもりは毛頭無いです(韓国は「恨(ハン)の文化」らしくて、これはとても深い上にややこしくなるので今回は省略しましたけど)。しかし、相手と自分の何がどれだけ違うかということを理解しないまま「なんで俺だけソンしなきゃいけないの?」て言ってると、ただ他国との軋轢が増していくだけで、結果的に右寄りの人が好んで使う「国益」を損ねるだけになっちゃうんじゃないですかね?実際のところ橋本徹はそうやって日本を嘲笑の対象にしてしまいました。僕はそのことが我慢なりません。だってほら、僕だって「恥の文化」で育ってますから。
自分達がどういう「文化=民族的奇習(これも内田樹の日本辺境論からの受け売りです)」を持っていて、それが他人とどう違うのかということを理解した上で、「わかりあえないところから」相手と対話するそういうのを国際感覚と呼ぶのではないでしょうかね。

2013年6月9日日曜日

初めて英語よりスペイン語で話したいと思ったとき

来週からバルセロナに出張に行ってきます。バルセロナ ああバルセロナ バルセロナ。と、バルセロナという街に対して日本的情緒で思いを馳せるのはなんか倒錯していますね。こういうとき、やっぱり日本人なんだなと思います。そういえば昔、在西暦十年以上の日本人が「日本に居たときは中島みゆきが大好きだったけど、スペインに来てしばらくしてから全く聴く気がなくなった」と言ってた話を思い出します。日本的なフォークの感性って「いつでもどこでも楽しい」スペイン人と対極にあるので、そうなるのはすごくよく分かる気がします。

さて。そんなスペインですが。3年前にスペインでの生活を開始した直後はそりゃ色々と大変だったのですよ。なにせ言葉がほとんど分からなかったので。一応スペイン語の基礎みたいなのは勉強して行ったのですが、最初は電車の中で人がカタラン語で話してるのか標準スペイン語で話してるのか、その区別さえ出来ませんでした(9ヶ月くらい経ったら「理解できなかったことはカタランだったことにする」という習慣が定着したのですが)。しかもそんな状況で家をさがしたり役所(スペインの外国人局の職員はほとんど英語なんて喋れません)をまわったりといったことをやらなければいけないので、さすがに色々しんどかったです。この時期は、カラオケ屋にいって大声で歌いたいとよく思いました。

当然この当時は、とりあえず英語で話してくれる人がすごく有り難かったです。少なくとも職場の中は全員英語ができるので最初はほとんど英語で会話していました。しかしそれも「英語で話してもらってる」という感じはどうしてあった上に、僕に気を使ってわざわざ英語で話してくれてる内容がわからなかったりすると本当に申し訳ない気分になったものです。この頃は自分のことを「もしもこの職場が悪魔超人だったら、英語さえも不自由な自分は明らかに一番弱いステカセキング」だと思ってました。

しかしながら、辛い思いをしながらもしばらく生活しているうちに少しずつスペイン語にもだんだん慣れてきまして。ある日、スウェーデンからきていたERASMUS(ヨーロッパ内での交換留学制度)の学生と英語で話しているときに「今この人とスペイン語で話したい」と初めて思ったのです。なぜかって、彼の英語が訛ってる上に流暢過ぎて何言ってるか全然わからなかったからです。で、ためしにスペイン語で話してみたらだいぶ会話しやすくなったのです。彼は短期滞在なのでそんなにスペイン語ができるわけでもなければ、そんなに熱心に勉強しているわけでもないので、僕とスペイン語のレベルがだいたい釣り合っていたのです(って言ってもそれなりに頑張ろうとしてた僕と大差ないレベルだったんですけどね)。

僕だってスウェーデン人の彼だって、絶対的な語学力はどう考えても英語の方が上なんですが。それでもスペイン語で会話した方が(すくなくとも僕には)スムーズだったということは。つまるところ、快適にコミュニケーションするには絶対的な語学力の高さよりも、お互いの語学力の相対的なレベル差が少ない事のほうが大事なのかもしれないと思ったわけです。

ではとりあえず行ってきます。たぶん思ってる以上にスペイン語がヘタになっててしょんぼりして帰ってきそうな予感がするのですが。ともあれ、パンコントマテやパタタブラバスや生ハムや…アレやコレを食べれるだけでもヨシとしましょう。

「分かり合えることには限界がある」ということを分かってもらいたいというパラドクス

平田オリザの本はわかりあえないことからニッポンには対話がないというたった二冊しか読んだことないのですが。この二冊に通底しているテーマは、日本人はコミュニケーションを「分かり合うこと」と位置づけてしまうけど、異文化間コミュニケーションは「分かり合えない同士が妥協点を探っていくような作業」である、ということなんじゃないかと思います。そのことをしみじみと実感するようなことに日本に帰ってきてから頻繁に直面します。

といっても僕が日本人に対して引き合いに出せるのはせいぜいスペイン人くらいなのですが。彼らのコミュニケーションは「人が分かり合えることには限界がある」という諦めが根底にあるように思います。それが暗黙の大前提として存在している上で、お互いに意見を言いあって妥協点を探るなり結論を出すなり、そういう作業をすることをコミュニケーションと考えているように思います。
みんな意見が違うのは当たり前なので、反対意見を言うときに特に気を使ったりすることはありません。また、最後にみんな同じ見解に達するなんて事は最初から期待していないのである程度話したら割とさっくり結論を出します。そして、彼らはこういう一連の作業を当たり前のことのように笑顔でやります。

日本人の会議が長い理由の一つに「分かり合えることには限界がある」ということを認めようとしない、別の言い方をすると「たくさん時間をかけて話し合えばわかってもらえるはずだ」という物の考え方が根底にあるように思うのです。そしてさらに言うと、彼らは「分かり合わなければ前に進めない」と思ってるようにも見えるのですが。結論に対して納得してなくてもとりあえず決定には従うということは実は全然可能な事なんですけどね。

とりわけ厄介なのは、「正義」を背にして「正論」を展開する「正義の人」タイプの日本人で。こういう人って、口で言ってることは当然ロジックとしては筋が通っているのですが。「筋が通っている=正義」だから自分の主張は歓迎とともに受け入れられるべきだと信じて疑っていない気配を感じるのでホント困ります。こういう人の言ってることは「正しい・正しくない」で言えば確かに「正しい」のです。しかし、「正しい」ことはたくさんあって、彼らの言ってることは「たかが正しいことのうちの一つ」でしかなかったりするのですが。「粘り強く説得して最後はわかってもらう」「最後まであきらめない」なんていう日本人の好きそうなストーリーを信じて自分の正義を振り回した結果、「自説に都合のいい要素を次から次へとエンドレスに並べ立ててとにかく譲る気が無い人」っていますよね。ねぇ安西先生?

「納得していないけど結論に従う」というのは民主主義で国を成立させるために重要な資質だと僕は思うのです。アメリカでもフランスでも、大統領選挙のときは投票する候補をめぐって国が割れます。当然です。割れなきゃ選挙する意味が無いですから。しかし、一度大統領が決まれば、散々ネガティブキャンペーンを行った反対派もある程度は大統領に対して敬意を表しているように思えます。日本にはこういう習慣は、少なくとも今のところ無いと思います。どっちかと言うと、政敵は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になりがちなんじゃないかなと思います。別の言い方をすると、日本にはケンカのしかたにルールが無いように思うのです。

2013年6月8日土曜日

イタリア(とフランス)だけカッコいいっていうのはいつまで続くんだろ?

私、このたび会社のイベントの実行委員というメンドクサイ仕事をおおせつかりまして。先日初回の会議があったのですが、「まずはイベントのテーマを決めましょう」という話になりました。で、過去の我が社のその手のイベントのテーマというのを見てると、半分くらいが英語なのです。それも、「make ***」(長嶋茂雄の「メークドラマ」みたいなの)とかそんなやつ。ほぼ日本人しか関係しないイベントのテーマをわざわざ英語にしたい積極的な理由がどこにあるのかよく分かりませんが。誰か「メークドラマ」みたいなことを提案した人がいて、さらにそれを支持した人がいたのでしょうね。

国民の大半がほとんど英語喋れないのに横文字・カタカナが大好きというのはつくづく我が国(だけでもないんだろうけど)の不思議な国民性だと思います。たとえば鈴木楽器の大正琴みたいに「弁慶」とか日本語で商品名がついてるのはほとんど稀で、たいていの商品ってカタカナかアルファベットで名前ついてますよね。
さらに「メークドラマ」とか、あと松坂大輔の「リベンジ」(「リターンマッチ」という文脈ですっかり日本語になってしまった)みたいに本来の英語を逸脱して「奇形化」させたオリジナルの英語を生み出してすっかり定着させているあたりは、器用なのか不器用なのかもう判断不能です。松坂はこれを書いている現在マイナーにいるみたいですが、メジャーに復帰したときにはとりあえず「リベンジを果たしました」とコメントして、自身の発明したジャパニーズ英語を逆輸入して欲しいと思います。

そして日本に帰ってきてから思うのが、イタリア(とフランス)ばっかりカッコいいことにされすぎなのはなんかおかしくないか?ということです。例えばマンションの名前に「カサ・デ・フェリーチェ」とか、美容院の名前がフランス語とか、あとオシャレなカフェもだいたいイタリア語かフランス語ですよね。
「英語じゃなんか普通だからもうちょっとオシャレな何か別の外国語」となったときにはだいたいこのどっちかが使われる傾向があるのですが、みんなそろそろこれに飽きないのかな?と思うのですよ。僕は当然スペイン語を押したいのですが、ドイツ語でもベトナム語でもなんでもいいからそろそろ流れを変えてほしいと思うのです。

それにしても、イタリア料理店はどう見ても日本に多すぎるように思うのです。パスタとかピザが日本人の口に合うのはわかるし、僕も好きなんですが。一軒でいいからスペイン(のパスタは本当にマズい。日本の缶詰のミートソースの方がはるかにマシ。)に移転するか、スペインバルに変えるかどっちかしてほしいと思います。

2013年6月4日火曜日

ビジネスとかイノベーションとか、カタカナばっかり振り回す彼らは『モテるためのマニュアル本』信者と一緒に見える

僕が働いているのは会社の研究開発セクションというところでして。茶畑に囲まれた職場で世の中の最先端を造り出せというのが我々のミッションなのです。この立地に加えて、そもそもが田舎の製造業という業態の我が社で”世の中の最先端”なんていうことを標榜している部署には、カウンターとして必ず一定の割合で「オレ、世の中のハヤりはちゃんと押さえてるから」「オレ、何でもわかってるから」とでも言わんばかりの、「言ってることだけ不自然に若作りな田舎のおじさん」みたいな人達がいるのです。

こういう彼らの特徴の一つに、ビジネスとかイノベーションとかアーリーアダプターとかコアコンピタンスとか、とにかく「やたらカタカナを使う」というのがあります。そして、彼らはだいたいソフトバンクがどうとかジョブズがどうとか、何かしら彼らが思う成功例を引き合いに出しながら、「うちの会社もあんな風になろうよ」みたいなことを言うわけです。さらにもうちょっと彼らの話を聞いてみると、どうやら彼らがこうなった背景には、彼らが感銘を受けたという(前回の言い方をすると「器用に血肉化した」)ビジネス書があるみたいなのです。
あんまりちゃんと読んだこと無いので、かなり思い込みも入ってますが。ビジネス書って例えばスティーブ・ジョブズがどうとか、松下幸之助がどうとか、googleがどうとか、勝ち組の成功例だけを羅列して後付でもっともらしい説明をつけて本が出来てるような印象があります。だけどそういう本に出てくるのって、人望だったり発想だったり、なにより”運”も含めて何かしらが人並み外れた人達であって。普通の人が真似できるような要素っていうのはほとんど無いんじゃないかと思います。そもそも、その本に登場する彼らはそんな本なんて読まなくてもその成功を成しえたという事実こそが、その手のビジネス書の無意味さを物語っているように思えるのです。

この関係は何から何まで「モテるためのマニュアル本」と相似形だと思うのです。モテるためのマニュアル本を読んでる人は、マニュアル本を手にしている時点で「モテる」ための重要な資質を明らかに欠いているというのは誰でもわかることです。もっと簡単な別の言い方をしましょう。週刊プレイボーイを毎号買ってる人にはたぶんプレイボーイはいません。それと同じです。
しかしながら、マニュアル本(これまたちゃんと読んだこと無いけど)はそんな本当のことを言っては商売にならないので、「君にもできる」「こうすれば君もモテる」とささやきかけてその気にさせるようにできてるんだろうと思います。実際にはその本を手にした瞬間に、読者に対して「モテる才能が無い」という烙印を押してるとしか思えないんですけどね。

「モテるためのマニュアル本」の話は結構誰にもでも納得してもらえると思うのですが。ところがこれが"ビジネス"の話になると、途端に理性的な判断を失う人がなぜか増えてしまうように僕には見えるのです。やっぱり「君にもできる」というメッセージにすがりたくなるからなんですかね?そして、ここから後は前回の「スタンダードを血肉化した挙句に信仰するに至ってしまう彼ら」と全く同じ話になります。凡庸な人ほどビジネス本の信者に陥りやすい上に、本から学んだであろうことを杓子定規に振り回してしまった結果、才能のある人のいいところまで潰していきます。かくして、ビジネス書が喧伝している何かデカい成功をつかむ可能性をどんどん潰していくわけです。

人にはそれぞれ天分っていうものがあって、それぞれが身の丈にあった役割を果たして社会が回ってればいいと思うんですけどね。世の中にインパクトを与えるようなことが出来る人っていうのは実際には世の中のほんの一握りだけです。むしろそんなに沢山いても困ります。いいじゃん、普通の人で。

2013年6月3日月曜日

"スタンダード"を信仰できる彼らは器用なのか不器用なのかよく分からない

サラリーマンに向いてる人ってどういう人か?というと、そりゃまぁ人って色々なんで一概に決め付けることなんて無理なんですが。「"スタンダード"を血肉化できる器用さ」がある人って、サラリーマンに向いてるんじゃないかとよく思うのです。一番最初にこういう才能に自分が恵まれていないと感じたのは就職活動のときでした。同時期に就職活動に入った高校の同級生に会って就職活動の話をしていたときに彼が放った「それは自己分析がちゃんとできてないことが問題なんじゃないの?」という一言に、僕は衝撃を受けたのでした。

この同級生は、「就職活動のためには、まず"自己分析"が不可欠である」「自己分析によって自分がやりたいことが見える」という"スタンダード"をあたかも自分がずっと昔からそう考えていたかのように血肉化して当たり前のように僕に言ってのけたわけです。僕自身は就職活動が喧伝する「自分探しのゴールとしての就職」みたいなストーリーにはちっとも納得してなかったですが。かといって修士も卒業することだし、彼らが「自己分析」とかいう言葉で言いたそうなことはなんとなくは分からんでもないから、とりあえず合わせておこうかくらいに考えていたのですが。僕の同級生は僕とは違って後天的に押し付けられた”スタンダード”を器用に血肉化して見せたわけです。
改めて言いますが、こういう人はサラリーマンに向いてると思います。良い・悪いとかいう問題じゃなくて向き・不向きの問題として向いていると思います。だって日本の会社ってそういう人の方が幸せに生きていけるようにできてますから。僕は元々そういうことろがあんまり器用じゃない上に、スペインに行ったことでそれにさらに拍車がかかってしまった感があります。

こういう、ある日空から降ってきたスタンダードを当たり前のように血肉化して振り回せる人達への違和感は就職してからも続きました。ほら、5W1Hだとか、PDCAサイクルだとか、プロジェクトマネジメントとか。。たとえばPDCAって、そういう仕組みにすると「うまくいくことが多い」という先人の知恵ではあるんですけど、その通りにしさえすればいいとか、その通りじゃないとダメとかっていうわけではないと思うのですよ。
何度も言いますが、便宜上発明された"スタンダード"という道具を血肉化する器用さをもっていること自体は良いことでも悪いことでもないと思うのですが。あんまり行き過ぎると、「"スタンダード"に即していないものは悪」「"スタンダード"に則ってれば正しい」という安易な信仰にたどり着いてしまう人がいて、そういう人と話すときって本当に困るんです。ある日空から降ってきたものを血肉化できる器用さはあるのに、どうして彼らの信仰する"スタンダード"を信仰する気の無い僕との隔たりを理解して埋める器用さは無いんだろうと思ったりするのです。
そして、こういった"スタンダード"は人の才能とか資質を度外視して設計されている、別の言い方をすると「誰でも実行可能」「誰でもつかいこなせるよう」に出来ているということに彼らはあんまり気づかないようなのです。そういう物を杓子定規に振り回していると、"スタンダード"になじまない特異な才能を持った人のいい所を潰すことになってしまうが往々にしてあると思うのですが、彼らはそういう可能性について考えないんだろうと思います。逆に言うと、特異な才能を持たない普通の人だからこそ、彼らは"スタンダード"を信仰できるんじゃないかとも思います。

といったところで次回予告。次回は「ビジネスとかイノベーションとか、カタカナばっかり振り回す奴は『モテるためのマニュアル本』信者と一緒に見える」という話を書こうと思います。

2013年6月2日日曜日

日本はあらゆるシステムが複雑すぎる

(今回も敬体で…たぶんこのままなし崩しに敬体で通すと思います。)

9ヶ月前。日本に帰るにあたって、帰国直後の数日宿泊するためのホテルを予約する必要がありました。で、相当久しぶりに楽天トラベルを使って宿を探そうとしたら、欧州でホテルを探すときには考えられないくらい複雑なプランが一杯ありすぎてびっくりしました。同じホテルに宿泊するにも「Quoカード付」、「グルメチケット付」、「岩盤浴割引券付」などプランが一杯あるわけです。僕としてはそんなのどうでもいいから、昼前にホテルに着くのでチェックインの時刻が何時か知りたかったのですが、そういう基本的な情報を得るためにすごい苦労を要しました。このときは結果として、「12時からチェックイン可能!ラブカップルプラン」というプランを予約したのでした。なんか違うんだけどなと思いつつも、着いてすぐに布団で眠れるようにするにはそれぐらいしか選択肢がなかったのです。

そして。日本に到着したら、日本での生活インフラを1から整備する必要に迫られまして。まずは携帯を手に入れるところから始めようと某家電量販店に行ったら、今度は携帯のシステムがあまりに複雑すぎてびっくりしました。本体価格はいくらで、ナントカ割に入るとそれがいくらになって、でもそのかわり解約できる時期が限られてしまって、結果として本体価格の一部は月々の通話料と一緒に何円ずつ支払って…もう複雑すぎてさっぱり意味が分かりませんでした。
(また、このときの家電店の店員の一方的に畳み掛けるような説明もひどかったのですが、これについて書いてたら長くなった上に本題とはやや違うので全部カットしました。)

日本の電車やバスのシステムも欧州に比べたらすごく複雑です。僕の知る限りヨーロッパのたいていの国では市内交通は一回一律何ユーロと決まっていて、制限時間内ならどれだけ乗っても良いシステムになっています。乗車距離の違いを料金に反映させる仕組みは、大まかな”ゾーン”で料金が変わるようになっている程度で、日本みたいに数駅毎に細かくバスや電車の運賃が変わるような複雑なシステムは見たことがないです。

ホテルも携帯も電車も、日本のあらゆるシステムが複雑すぎることを示す解り易い例だと思います。どれも、各論ではそれぞれなりの理由があるんでしょう。ホテルや携帯は他社との競争だったり、電車やバスは乗車区間に応じて運賃を変えないと不公平だとか。でも、こういった個別の事情を汲んだ上で「全体をデザインする人」が日本にはいなくて、どんどん社会全体が複雑になっていってるように思います。結果として日本という国全体が、豊富な機能を持っているけどボタンがびっしり並んでて複雑すぎて「今これをやりたい」を実現するにはどうやっていいのか分からない残念な機械みたいに僕には思えるのです。

もっと言うと、「社会をシンプルに保ちたい」とそもそも日本人はあんまり思って無いんじゃないかなと思います。日本人だってこんなシステムの複雑さが本気で嫌だったらさすがになんとかしろと怒り出すだろうと思うのですが。こういう話を日本人にすると、僕の話に一定の理解を示してはくれるものの、それが重大な問題だとはあんまり思ってなさそうなのです。むしろ日本人って、こういう複雑なシステムに対して「知識」や「裏技」を披露しあったり、「コンシェルジュ」とかいってこの複雑さから最適な選択肢をレコメンドするサービスを作り出したりして、どこか楽しんで付き合ってるようにさえ思えるのです。スペインだったらたぶん日本みたいな複雑なシステムにはならないでしょう。お客さんの目に触れる以前に、サービスを提供する側がそんなに複雑なシステムを作ろうと思わないんじゃないかと思います。これはスペインに限らず、たぶん欧州全体そうだと思うんですが。彼らは社会をシンプルに保つべきだという意識があるように思えるのです。

2013年6月1日土曜日

遅刻に厳しいけいど終わる時間には寛容な日本人 (2011年8月、在西当時の日記より)


以下は2011年8月、在西当時の日記。



twitterの言葉botで「「あら、日本人は終わる時間には寛容なのに、始める時間には厳しいのね」という言葉を見て、ちょこっと考えました。 
https://sites.google.com/site/kotobabot1/1601-1700/1674 
http://www.j-cast.com/kaisha/2010/09/06075122.html 

まぁたしかにその通りなのです。特にラテン国家は時間が守れないというか、あんまり時間にきっちりしてない人が多いので、日本人としては本当にイライラすることはよくあります。例えばスペインで誰かの家でパーティーを8時からやるといわれて、もし本当に8時に行ったらたぶん誰もいないはずです。パーティーのホストもたぶんちょっと迷惑そうな顔をするだろうと思います。だいたい集合時間の1-2時間後くらいにのそのそ人が集まってくるのが普通だそうな。だけどこれがレストランの予約だったら、さすがに1時間も遅れるとマズいとは彼らも思うらしいのです。どうもこのへんの力加減は一年近く経ってもよくわかりません。 

しかし上記の言葉は、日本と欧米(という言い方を便宜上採用するけど、とりあえず僕の知る限りではスペイン)との間で「公」と「私」のバランスが完璧に逆転しているということを端的に示しているように思えるのです。日本の社会ではなんだかんだ言っても「公」が「私」よりも優先です。色々な「私」を犠牲にしてでも、「公」のために決められた時間に集合場所までたどり着くことがまず求められます。 
そして決められた時間に集まった後は、もちろんさっさと終わった方がうれしいのは誰だってそうなんですが。日本は「公」が優先なので、時間以内に物事が終わらなかったらお互いの「私」を犠牲にして時間を延長してでも目標を達成しようとします。さらに言うと、そうやって互いに「私」を犠牲にしあうことでむしろ何かしらの連帯感みたいなのが生まれたり、で、その連帯感を深めるために「私」をさらに削って飲みに行っっちゃったりするわけですよね。。たぶんこの「飲みニケーション」の辺りからスペイン人には理解不可能な世界なんだろうと思います。まぁ、僕の考えてる「日本」も田舎にある自分の会社をイメージしてるところがあるので、東京辺りではもう随分違ってるんじゃないかとは思いますが。

スペイン人って、「できたところまででお互いに許しあう」とか、「とりあえず決められた時間になったらそこで強制終了」みたいな文化が割と徹底してるように思うのです。その昔、初めてバルセロナに出張してきたときに。出張で話し合うべき議題があまりまとまらないまま最終日(金曜日)を迎えたので、「明日(土曜日)のフライトは昼からだから、明日の午前中も話をしようか?」と提案したら、出張先の会社の社長に「えー、ダメに決まってんじゃん。俺は明日車借りて**にドライブに行くことになってるから。」と言われたときにはびっくりしましたが。彼らの世界では「私」が「公」より優先なのです。だから明日遊びに行く予定がすでにあることは、提案を覆す正当な理由なのです。日本人だったらさすがにそこでわざわざ本当のことは言わないでしょう。「明日は私事でどうしても外せない用事がありますので。。」くらいの説明にとどめるでしょうね。 

例によって、どっちも一長一短あると思うので、どっちがいいかは何とも言えませんが。働く側としては確かに何時までに来なければいけないとか、そういう細かいルールが無い分だけスペインの方が働きやすいと思うときはあります。が、その分だけ自己管理が求められます。先日風邪気味なので仕事を休んだときには、有給が消化されたわけでもなく、上司に報告するわけでもなく、何も減らないまま自分が休んでいることに逆に不安を感じました。どうせだったら、日本にいたときみたいに消化しきれない有給が一日減るくらいの方が、休む上でむしろ精神衛生上いいんじゃないかとさえ思いました。やっぱり僕は日本人なんだなぁと思いました。文句言いつつも、ほどほどに管理されてた方がなんだか安心するのです。

ラテン系は本当にいい加減か?

(今回は文末を全て敬体で書きます。なんでかわからないけど、今日は敬体にしないと書きづらいのです。このブログはここまで全部常体で書いてきたんですけどね。)

一般的に「ラテン系はいい加減」と言われてまして。まぁ、これは実際にその通りだとは思います。特に日本人から見たらそりゃいい加減に見えると思います。だけど彼らだってお互いのいい加減さが許せないんだったら、もうちょっとお互いにキッチリしあう社会を作るでしょう。彼らがいい加減な国民性でいられるのは、他人を許す能力が高いからなんじゃないかと思うのです。具体的に例を挙げると、「ラテン国家の国民はいい加減だ、待ち合わせの時間に平気で二時間も遅れてきたりする。」というのは見方を変えれば「ラテン国家の国民は寛容だ、待ち合わせに二時間遅れても許してあげられる。」と言えるのではないかという事です。
「他人を許す能力」というのをもう一段踏み込んで考えると、「他人を愛する能力」であり、それはやっぱりカトリックという宗教と深く結びついているんだろうと思います。同じキリスト教でもプロテスタントの国はもう少しキッチリしてる印象がありますから。

「お互いに許し合う社会」では、自分がいい加減でも許されることがある反面、他人のいい加減さによって自分が不利益を被ることを許容することが求められます。最初は僕もスペイン人のいい加減さにイライラすることが多かったのですが、慣れてしまえばラテン式の方が生き易いと思いましたし、今も僕はそう思ってます。
スペインでの生活を終えて日本に帰ってくる頃には、「お互いに許し合う社会」の対極にある、日本の「他人を許さない社会」が怖かったし、今も正直なところ苦手です。「他人を許さない社会」である日本は、「他人」同士の関係が著しく非対称で、その事が社会全体をお互いに不機嫌にしあってるように僕には見えます。例えば会社の仕事では上司が部下に対して「完璧な仕事」を要求し、何か手落ちがあると当然の権利のように叱責するというのは珍しくありません。お店では”お客様”の立場が店員よりも絶対的に優位であり、少しでも店員の対応に落ち度があった場合は”お客様”は正当な権利としてクレームをつけてくることが普通にあります。結果として店員の態度は表面的には無駄にうやうやしい一方で、マニュアルに沿った機械的な態度になります。
こういう非対称な関係が連鎖すると…例えば、上司に叱責された部下が飲み屋で店員の対応にクレームをつけて…ということは社会をお互いにどんどん不機嫌にしあっていきます。そんな「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連鎖は現実にはそう起こらないでしょうが、それが起こらないということは、上司やお客様の無理難題に振り回されるストレスに常にさらされることになってしまい、やっぱり社会全体が不機嫌になっていくんじゃないかなと思います。そりゃうつ病や自殺が増えるのも無理ないでしょう。

先日、スペイン時代の元同僚が書いてよこしてきたレポートを読む必要に迫られたのですが。一応締め切りまでに送ってきたものの、まぁこれが明らかに書きなぐりで、ところどころ説明不足だったりするので読むのにすごい苦労した。これは毎度のことなんですが、これに対して日本人は毎度のごとくぶつくさ不満を漏らしていました(そのくせスペイン人に面と向かっては言わないんだけど)。実際のところ僕も、「もうちょっとちゃんと書いてよ」とは思いました。が、一方では彼らの考え方から言うと「できたところまでで良いことにし合う」というのはわりと当たり前なのです。日本人の考え方のままで彼らと付き合うと、ただ相手のいい加減さに振り回されて損しているような気分にしかならないと思うのですが。そこを日本人に皮膚感覚として理解してもらうのはやっぱりなかなか難しいと思います。やっぱり結論としてはスペインに職場全体を移転させてしまうしかないのかな。。