2023年11月19日日曜日

「君たちはどう生きるか」について、今更ながら少々

 2か月このblogを放置していました。というのも、10月中旬からものすごく忙しくなったのです。3週連続で週末新幹線に乗って大阪や東京に行ったり、父の容態が怪しくなって実家に帰ったり…「君たちはどう生きるか」も10月上旬くらいに観たのですが、それについて何かを書き留めることもできないままでした。たぶん見た直後で記憶がフレッシュなうちに書いていたら本稿のクオリティはもっと高かっただろう…と思いつつも、どうしても放置するわけにもいかない気がするので覚えている限りのことを書き連ねてみようと思います。

前評判では「意味がわからない」という人が多かったそうですが、まぁ、そういう反応も出るだろうなと思います。これまでの多くの宮崎作品と違って、この作品は子供でも楽しめるエンターテイメントとして成立させることを最初から放棄しています。でもその分だけ、「見る人それぞれの見え方がある」という映画になっているのではないかと思います。そして、「君たちはどう生きるか」という戦後民主主義のバイブルをそのまま映画のタイトルに据えていることからも伺えるように、本作は戦後民主主義を大きなテーマにしているように見えました。

僕には、主人公の大叔父が戦後民主主義という制度を象徴しているように見えました。インコ=ネトウヨがどんどん勢力を増している中で、それでもなんとか世界を維持しようとする大叔父。そして、その力はそもそも「ある日突然空から降ってきた隕石」によってもたらされたものです。これは戦後民主主義が自分達で努力して獲得したものではなく、敗戦によってアメリカという外界から突然我々日本人に降ってきたものである…ということに対応しているように見えました。そして、戦後民主主義という「突然降ってきた制度」の下で、なんとか日本が安寧に運営されるように努力しつづけた上皇陛下と大叔父が重なって見えました。

ネットで探した限りでは、「大叔父は後継者が現れないジブリでいつまでも頑張り続ける宮崎駿本人を象徴しているように見える」という人もいました。それもわかる気がします。「風立ちぬ」の主人公もそうですけど、ここ最近の宮崎駿の作品は「自分の分身」を作品に登場させることを厭わなくなりました。「ポニョ」に出てきた老人達だって宮崎駿自身の「老い」を象徴しているようにも見えましたしね。「君たちはどういきるか」は、こういう風に見る人によって色々な見え方がする映画なのだと思います。

物語の最後の方に主人公がアオサギを「友達」と呼ぶシーンがありました。アオサギは自己中心的なところがあって一筋縄ではいかないキャラクターですが、こういう相手も「友達」として手を取り合って社会を形成していく覚悟がこの先を生きる日本人に必要だと言っているように思えました。戦後長く続いたアメリカ一強の世界が転換点を迎えつつある時代には、外国=アオサギと友達になる覚悟が必要…と言ってるのかもしれないですね。

他にも「母(的なもの)からの自立」ということも、この作品の大きなテーマだと思います。物語の最後の方に大叔父に向けて主人公が「友達」という言葉を使った時にはアオサギだけでなくヒミやキリコも対象に含まれていました。母の断片を投影したようなヒミやキリコと「母子関係」ではなく「友達」として接すると宣言することも、この作品の重要なポイントなのだろうと思います。