2016年12月3日土曜日

三木谷さん、プロレスから学んでください

楽天が来季からFCバルセロナのユニフォームの胸スポンサーになるんだそうです。楽天および三木谷氏についてはこことかここで言及している通り、僕はあんまり良い印象を持っていません。なので、このニュースを僕は忸怩たる思いで見ていました。僕にとってFCバルセロナの試合を見るのは、帰国以来どんどん遠くなっていくスペインと自分をつなぐ数少ないチャネルの一つなのです。だから僕の忸怩たる思いの主たる理由は「僕とスペインとの間に日本人が土足で踏み込んできた。しかもそれがよりによって三木谷氏だった。」ということなのでしょう。
僕が知る限りのバルセロナ在住の日本人の反応も概ね非常にネガティブでした。EU最低の英語通用度を誇り、グローバル化とか競争とかいうものと真逆の存在であるスペインで長年生活している人からみれば、日本人が欧米の「グローバル企業」の真似事を今更周回遅れでやってるのは一番みっともなく見えるんだろうと思います。一方で、バルセロナの地元の反応は「中東のオイルマネーの匂いがする現在のカタール航空が嫌だから、それよりはよく知らないけどrakutenの方がいいんじゃない?」といった具合に、非常に消極的な理由ではありますが在住日本人よりは好意的な反応が多いそうです。
ちなみに楽天は英語公用語化とかいってイキっているわりには海外進出はほとんど成功していないそうで。スペインに至っては既に2016年6月にスペインから撤退しています。FCバルセロナは世界中が注目しているチームではあるので、勿論スポンサーの広告効果はスペインだけのためのものではないのでしょうが。とはいえスペイン目線で考えると、「ゲーム機のハードを捨ててしまった後にそのハード専用のゲームを買う」というぐらい不可解な行動に見えますね。
ちなみに、楽天の胸スポンサーの話がニュースに出て以来、バルサは1勝3分と大不調に陥っています。。これを書いている現在は「あと数時間でクラシコ(レイアール・マドリとバルサの伝統の一戦)で、ここで負けると今シーズンはかなり厳しくなる」という状況なのですが、これでマドリに負けでもしたらいよいよ楽天に責任取ってほしいです。

散々FCバルセロナの話をしてしまいましたが、実は、本日話題に取り上げたいのはサッカーではなく野球の話なのです。三木谷氏がプロ野球のオーナー会議で外国人枠の撤廃を提案したという話について、色々とモノ申したいことがあるのです。まず三木谷氏の主張はこういうことなんだそうです。「過去に欧州サッカーで撤廃をしたら盛り上がった例がある。世界レベルのリーグをつくり、プロとして最高のプレーをファンに見せるためには日本人も外国人もない」。
もしも、仮に。外国人枠を撤廃した結果、ほとんど外国人だらけになったチームが最高のプレーを見せたとして。そのチームを応援するファンはどこの誰なんでしょう?もはやその時には「ファン」は日本人である必要さえもないのかもしれないですが、現在の日本のプロ野球ファンがそのまま三木谷氏の言葉に出てくる「ファン」になってくれるとは到底思えません。少なくとも現在の日本のプロ野球ファンの大半は地域や郷土への愛着をチームに投影することでファンたりえているわけで、じゃあ外国人だらけのチームに対して何も抵抗なく同じことができるか?というと、それは日本人にはかなり厳しいのではないでしょういか。

三木谷氏の発言に伏流しているマインドは要するにこういうことなんだと思います。「オレ=楽天はグローバル企業として、日本国内に留まらずに世界中の企業と同じ土俵の上で勝負をしている。オレはそのグローバル企業の世界観をプロ野球も含めたあらゆるものに持ち込むのが当然だと思っているけど、何か文句あるか?」「プロ野球はビジネスの観点からするとコンテンツだ。いいコンテンツを作れば世界中のお客さんを相手にビジネスができるはずだ。」。
過去にも、このようなビジネスのマインドをそのままプロ野球に持ち込もうとした人がいました。村上ファンドの村上世彰氏による阪神買収騒動です。村上氏の主張をあまりちゃんと理解できている自信は無いのですが、彼は「ファンが株主になる」といった形で株式会社のフォーマットをそのままプロ野球の球団の運営/経営とファンの関係に援用することを主張していたように思います。あのとき結局どういう顛末で買収にならなかったのかは記憶にないのですが、大半の阪神ファンの反応は非常にネガティブなものでした。原因は村上氏の胡散臭さにもあるのでしょうが、そもそもプロ野球にビジネスの世界観を持ち込まれることに対してかなり強い拒否反応があったのだと思います。

あんまり文句ばっかり言ってても仕方ないので、最後に僕からの代案なのですが。一言でいうとタイトルにもあるように「プロレスから学んでください」です。プロレスはその草創期から外国人レスラーのヒール(悪役)を日本人が倒すというフォーマットを大なり小なり伝統として維持してきました。WBCやサッカーの日本代表を見てもわかるように、「日本vs外国」という構図には日本人は目がありません。だから、このフォーマットをプロ野球に恒常的に持ち込めば良いのです。
例えば、日本のプロ野球の各リーグに一球団だけ外国人だけを集めた強いチームを作るのです。監督は矢沢永吉とか蝶野正洋みたいに普段から無駄に周りを外国人で固めている人がよいでしょう(日本のプロ野球にこういう人材はなかなかいない)。なるだけヒールに適した憎たらしくてスゴいパワーの外国人を集めてくるとヒットすること間違いなしです。
あるいは、日中台韓くらいの東アジア圏でリーグを作って、恒常的にWBCみたいな状態を作るのもよいのではないでしょうか?これも盛り上がることは間違いないと思います。欧州のサッカーは「過去にさんざん戦争をして懲りた反省から、サッカーが都市、国家、民族の代理戦争をやって程々にガス抜きをしている」という側面もありますが、これと同じ効果が東アジアでも期待できそうな気がします。

2016年11月6日日曜日

核家族の元子役の育児

気が付けば2ヶ月以上このblogを放置しておりました。時々思いつくことはあって、ネタ帳にちらほらメモはしているのですが、だいたいそこまでで止まってしまうのです。なぜこうなるかって、まぁ、一言で言うと育児が忙しいのです。このblogは主に土日の夜に書いてることが多いのですが、子供がどんどん外出したがるようになって一回の外出あたりの時間も長くなってきたりすると、夜にわざわざblogを書く気になかなかならないのですね。。
というわけで今回は育児の話なのですが。度々このblogでも言及しているように、日本って育児が大変な国だと思うのですよ。文化的にマザコン国家であるために育児に親がかけるコスト(労力)が高すぎるとか、行政がちっとも育児を本気で支援しようとしないとか、まぁそりゃ色々と理由はあるのですが、今回は「育児に苦労している日本の子育て世代(≒団塊Jr.世代)は、高度経済成長の時代に核家族化を進めたツケを払っているのではないか?」ということについて考えてみます。

僕が育ったのは都会の郊外にある典型的なニュータウンでした。4歳のときにそこに両親がマイホームを買い、高校卒業までの14年くらいニュータウンで育ちました。近所にいくつかは「おじいちゃん、おばあちゃん」が同居している家庭もありましたが、ニュータウンの多くは古い地縁社会から離れて都会に出て結婚し、子供が増えて手狭になってきたところで郊外にマイホームを手に入れた団塊世代で構成されていました。だから、僕が育ったニュータウンでは近所に赤ちゃんが生まれたという話を聞いた記憶がありません。
ニュータウンはあまりに典型的すぎるかもしれませんが、高度経済成長以降の日本は大なり小なり核家族化し、また地縁社会も解体されてしまいました。勿論、嫁姑問題などに煩わされないで済むとか、色々といいことだってあったのでしょう。しかし、育児は完全に個々の家庭の中に隠蔽されてしまい、結果として高度経済成長以前の日本人なら当たり前に持っていたであろう最低限の育児リテラシー(首の座ってない子供の抱っこのしかたとか、おむつを替えるとか)さえも身に付けないまま大人になってしまう人を量産してしまったのではないでしょうか?と、自分を含めた団塊Jr.世代が子育てに苦労しているのを見てて思うのです。

僕に子供が生まれたときに、僕の友達で最初に子供を見に来てくれたのはメキシコ人でした。彼は独身で子供はいないし、普段の彼の立ち振る舞いからするとあんまり子供が好きそうには見えないし、ましてや生まれたての首のすわってない赤ちゃんの扱い方なんて全然わからないだろうと思っていたのですが。いざ我が家に来るなり、手慣れた手つきで子供を抱っこし始めたのです。正直なところびっくりしました。その段階での育児技能に関しては僕よりもたぶん上だったと思います。
なんでそんなに手慣れているのかと聞いてみたら、「だって俺は17人兄弟の末っ子なんだぜ?だから昔から甥っ子や姪っ子の面倒はさんざん見てきたから、これくらいのことは当たり前にできるよ。」と答えました。17人兄弟という、ビッグダディみたいな家庭が彼の世代のメキシコで当たり前なのかは判別しかねるので、彼をメキシコ人独身男性の標準モデルとするには早計なのでしょうが。核家族化する前の日本では、周りに子供が身近にいて、子供の面倒を当たり前のように見て育っていたので、男性でもこの程度の育児リテラシーはあったのではないかと思うのです。

繰り返しになりますが、高度経済成長期以前の日本ではRPGでいうとレベル7程度の最低限の育児リテラシーが独身男性でもあったのではないかと思うのです。しかし、団塊世代が作り上げた核家族の中で育った団塊Jr.世代の大半は親族の子供の面倒を見ることも無ければ、近所の子供の面倒を見る経験も全く無いまま大人になってしまいました。だから、いざ自分に子供ができてみたら本当に全部レベル1から始めることになってしまったのではないかと思うのです。この状況をやや自嘲的に言うと、タイトルにあるように僕も含めた団塊Jr.世代の育児は「核家族の元子役の育児」なのではないかと思います。みんなレベル1から始めることになる上に、「ちょっと見てて」ができる地縁社会なんてとうの昔に無くなっているので、そりゃ大変なわけですよ。
「じゃぁどうすればいいの?」と言われると、そう簡単にクリアカットな答えなんて返せないのですが。少なくとも「マザコン国家」である日本では、欧米とは子供や育児に対する文化的背景が全く違うということを勘定に入れて議論するべきだと思いますよ。よく、「フランスでは育児休暇が3年で…」とか言う人いますけど、ああやって個別の課題について外国との差異を論じるだけでは「木を見て森を見ていない」のではないかと思います。日本では子供の夜泣きや甘えに親が根気よく付き合う分だけ育児のコストが欧米より遥かに高いと思います。別の言い方をすると、欧米人の育児には「一人で生きていけるようにしてあげる」というコンセプトが徹底していますが、日本人はそのように教育されません。

少子化の話を突き詰めると最後は社会のあらゆる問題を論じることになってしまうのでキリが無いのですが。育休や保育園などの表面的な対策をいくらやったところで、「経済=金のために人が生きている」という国ではなく「人が幸せに生きるために社会や国家がある」という国にならない限り、少子化傾向そのものはこの先も避けようがないのではないでしょうか?

2016年8月18日木曜日

サッカーとバレーボール

やっとこさ岸田秀の話を書いたので、オリンピック開幕以降ずっと気になっていたサッカーとバレーボールについての話を書こうと思います。本稿を書いている現在、リオデジャネイロオリンピックは過去に例を見ないくらい日本がメダルを獲得しています。こうなってくると、日本のテレビの中継も必然的にメダルが取れそうな競技(水泳、柔道、卓球、体操、レスリングなど)にどうしても注力されがちな気配があります。
この是非はさておき、そんな中でも男子サッカーと女子バレーボールだけは何か浮いて見えるのです。というのも、お世辞にもメダルが期待できるわけでもなさそうなのに、その割にはメディア(にある程度ドライブされている国民)の注目度が高い気がするのです。オリンピック以外(ワールドカップなど)でもこれらの競技に対して日本人は定常的に何かしらの病のようなものを帯びた情熱を傾けている気がするのですが、それについて思いついたことを書き連ねてみようと思います。

■男子サッカー
まず歴史的背景から考えてみますと。日本のサッカーは実質的に93年のJリーグから始まりました。この時期の日本はバブルが弾けた直後で、「バブルが弾けた」とみんな口をそろえて言っていたものの、庶民の生活にはまだその影響が明確には実感されていないような時代でした。また一方で、Jリーグ誕生までは国民的スポーツのポジションはアメリカからやってきた野球がほぼ独占状態している状態が長く続いていました。
こういった時代背景を鑑みた上で、前回の岸田秀の「日本はペリーによって強姦されて以来、内的自己と外的自己とに精神分裂したままである」という視点で考えると。Jリーグというのは「アメリカ以外の外国と関わるためのチャンネルを持つ」、別の言い方をすると「 アメリカ以外の外国を持つ」ことで、ペリーショック~敗戦に至るまでのアメリカに対するコンプレックスを解消する試みだったのではないのでしょうか。
Jリーグは、少なくともその初期の頃には、「地域密着型のクラブ組織の対抗による国内リーグ」という箱庭でのコンペティションと同時に、「日本代表が世界と戦う」という構図を両立させてきました。これはたとえて言うなら、普段のTV放送ではケンカばかりでお世辞にも仲良いとはいえないのに、大長編ドラえもんになると途端にチームワークがよくなるような、あの感じを両輪で回しているようなイメージでした。
ところが、偶然か必然かはさておき、発足のタイミングがちょうど日本の経済が傾きはじめた時期と重なったためにそれまで経済成長に注がれていた「内向きナショナリズム = 内的自己」の発露の対象としてJリーグはすっかり磐石のポジションを獲得してしまいました。結果として、国内リーグの試合よりも「日本代表vs外国のチーム」の方が「国民的関心」を集めてしまったのではないでしょうか。たぶん、ナカタ以降の「海外で活躍する日本人プレイヤー」への熱狂もこの文脈の延長上にあるんじゃないかとおもいます。
野球もWBCのような国際大会をやっている昨今では当たり前のように思えるかもしれませんが、Jリーグ以前は「日本代表vs外国のチーム」という絵はオリンピックを除いてほとんど無いに等しかったのです。だから、サッカー日本代表は当時はそれなりに新鮮だったんだと思います。Jリーグ以前にもメジャーリーグ代表vs日本のプロ野球代表みたいな試合はあるにはあったのですが、その雰囲気はシーズンオフに行われる親善試合とかエキシビジョンマッチのようなもので、今のWBCとは大きく異なるものでした。
最近ではオリンピックやWBCなどサッカー以外の競技でもサッカー日本代表のあのユニフォームを着た人が客席にちらほら見受けられます。「サムライブルー」という名称が示すとおり、最早あのユニフォームは単なる男子サッカー日本代表のユニフォームではなく、「日本人の内的自己のシンボル」としてすっかり定着したのではないでしょうか。男子サッカーの日本代表が勝ったり負けたりすると渋谷で暴れる人達がいますが、あれは男子サッカーだけが日本人の内的自己と結びついていることを示していると思います。だってほら、オリンピックで体操や柔道の選手が金メダル取っても、同じサッカーのなでしこJAPANが勝っても、誰も渋谷では暴れたりはしないですよね?
なでしこJAPANに言及したついでに少し脱線すると、「ナントカJAPAN」というあまりセンスを感じないテンプレもたぶんJリーグ発足当時の「オフトJAPAN」が始まりだと思います。あそこでサッカーの日本代表に外国人の監督(オフト)が就任したところから、「ニッポン」ではなく世界に向けた「JAPAN」という自意識に日本人は目覚めたのだと思います。外的自己のフリをした内的自己のセルフ接待という意味で、「クールジャパン」や「おもてなし」に連なる系譜の出発点はここにあるように僕には思えてなりません。
今回のオリンピックのサッカー日本代表は、「冷静に考えて他国にチームと比べたらお世辞にも強いとは言えないのは分かってる。でも、そういう冷静な判断とは別に、何だか分からないけどみんな気になっている。」という点で、その昔の「決定力不足」とか言われてた頃の日本代表を思い出させて、少しホッとするような懐かしい気分になりました。ラモスとか井原とかがいた、あの頃の日本代表ってそんな感じだったように思います。
たとえば今やってるリオデジェネイロオリンピックではネイマール擁するブラジル相手にどう考えても勝ち目なんてまずあるわけもなく、実際にオリンピック前の親善試合でブラジル相手にボロ負けしたのですが。あの試合の前には「かつてアトランタオリンピックでブラジルに勝った、あのときの奇跡をもう一度」という前煽りのVTRをメディアが散々流していました。あれには「神国ニッポンに神風よもう一度」と言っていた戦前の日本に似た、病のようなものを感じずにはいられませんでした。

■女子バレー
ワールドカップだとかグラチャンだとか、とにかくほぼ毎年のようにバレーボールの国際大会が日本で開催されます。しかも、必ずと言っていいくらい試合前にジャニーズが唄ってて、(最近はやってるのか知らないけど)赤坂泰彦がヘンテコなMCで選手を紹介するなど、国際大会とは思えないくらい民放の好き放題ぶりが炸裂しています。こんなヒドい有様でもバレーボールの国際大会が毎年のように日本で開催される理由は「日本以外の国ではバレーボールはマイナー過ぎてお金が集まらない」からなんだそうです。いきなり脱線しますが、これはサッカーのクラブW杯が「安全な中立国 である日本 : 日本人は特定のチームに対する妨害などは行わない」でずっと開催されていたいたことと、おそらく間逆の関係にあります。
しかし、だからといって「バレーボールの日本代表のファンで、日本で開催される国際大会の度に必ず応援に行く」という人の話は、まぁそりゃいるにはいるんでしょうが、聞いたことありますか?少なくとも僕はないです。サッカーのワールドカップを応援するために会社休んで航空券勝ってブラジルまで応援に行った人の話は聞いたことあるのに不思議だと思いませんか?これは、「ラジオの電リクにわざわざ電話する人が本当にどれだけいるのか?」という問題と一緒で、バレーボールを熱心に応援している日本人というのは実はほとんど居ないのではないかと僕は思ってます。
これについての僕なりの仮説としては「日本人にとって東京オリンピックでの女子バレーボールの金メダルは特別な成功体験だったので、それをいつまでも捨てることができない」からなのではないかと思います。サッカーと違って、自分が生まれる前の話なので当時の日本人にとって東京オリンピックでの女子バレーボールの金メダルがどのようなインパクトを与えたのかは、ある程度事後的な想像になってしまうのですが。おそらく、「なでしこJAPANの金メダル」とか「女子ソフトボールの金メダル」などの昨今の事例よりも更に大きくて特別なインパクトを与えたのだろうと思います。
東京オリンピックのメダル受賞者のリストを見ると、女子で金メダルを受賞しているのはバレーボールだけです。そもそも、この当時は女子のレスリングや柔道などは存在しなかったので女子が出場する種目自体が現代のオリンピックに比べて少なかったようです。そして、この女子唯一の金メダルを獲得した「東洋の魔女」こと日本代表チームについてネットで検索すると判で押したように鬼の大松監督、猛練習という逸話ばかりが出てきます。僕も子供の頃にテレビのドキュメンタリーで2,3回くらいこの話を見たような気がします。「猛練習、努力、根性」という日本人好みの逸話は、その後のアタックNo.1などの女子バレーボール漫画にもそのまま受け継がれていますが、果たして当時の日本人を熱狂させた理由は単にこのスポ根美談だけなのでしょうか?
ここでさらに仮説なのですが、当時の日本人がそこまで熱狂した理由は、「東洋の魔女が旧日本軍を供養した」からなのではないかと思うのです。上記のリンクにあるように東京オリンピック女子バレーボールの大松監督は旧日本軍の兵士でした。しかも、旧日本軍の作戦行動の中でも狂気と言っていいほどの無謀な作戦によって多数の日本兵が餓死した、かの悪名名高い「インパール作戦」の生存者です。彼によって戦前の日本を彷彿とさせる精神論の下にシゴかれた「東洋の魔女」達は旧日本軍の怨念を背負っていた存在だったのではないでしょうか。そんな彼女達が外国チームに勝利してついには金メダルを獲得したことは旧日本軍に対する供養になったんだと思います。そして、それを見ていた高度経済成長期の日本国民も同様に「ガダルカナルの日本兵はもっと苦しかったはず」と自らに鞭打ってがむしゃらに働いていたわけですから、日本国民は彼女達の姿に自らを重ね合わせていたのではないでしょうか?
以上、あくまで自分が生まれる前の話なのでどこか自分でも確信が持てない仮説でしかないのですが。しかし、こう考えると女子バレーに対する日本人の「持続的な微熱感」が少し理解できるような気がするのです。日本人にとって女子バレーボールは旧日本軍の「供養碑」であり、旧日本軍の戦没者を供養するための能である高校野球と同様に無くてはならない存在なのではないでしょうか。


サッカーとバレーボール、どっちにも共通していえることは団体競技だということです。これはなにも日本だけに限った話ではなく、アメリカ人にとっての野球やカナダ人にとってのアイスホッケーなんかもそうです。国民的な思い入れを背負うスポーツは必ず個人競技ではなく団体競技であるということは、人類普遍なのでしょうかね。書き終えてから気付きましたが、体操や卓球の団体種目は厳密な意味での団体競技ではないとすると、東京オリンピックで団体競技でメダルを獲得したのがバレーボール(女子:金、男子:銅)だけだったということもバレーボールに対する日本人の「持続的な微熱感」の理由なのかもしれません。

2016年8月17日水曜日

岸田秀の日本論:内的自己と外的自己

かなり更新が滞っておりましたが、気が付いたら夏休みになりました。今年の夏休みはテレビをつけたら昼は高校野球、夜はオリンピックをやっているので、もし子供にテレビのチャンネル権を独占されていなかったら、一日テレビの前で廃人になって過ごしていたことでしょう。
さて、ここのところなぜ更新が滞っていたかというと、自分にとって"それなりに人生変わる"ほどの影響を受ける作家と出会って、それについてこのblogに書こうと思って次々とその人の本を読んでたら、すっかりとっちらかって何をかいていいのだか分からなくなってしまったのです。とはいえ、夏休みで時間もできたことだしぼちぼちそれについて書いてみようと思って思い腰を上げた次第です。

というわけで今回は岸田秀という作家について思うところをとりあえず書いてみようかと思います。岸田秀はフロイドの精神分析のコンセプトを日本という国家そのものに対して適用する試みによって80年前後の所謂「ニューアカデミズム」がブームだった時代に脚光を浴びた人物です。岸田秀の思想、主張の概略は「分かりやすく説明する名人」である内田先生のblogをご参照ください。そこまで内田先生に乗っかるのかと思われるかもしれませんが、重要なエッセンスをコンパクトかつ的確にまとめている記事が内田先生のblogくらいしかネット上に見つからなかったのです。。
一応自分の言葉で岸田秀の一番有名な著作である「日本近代を精神分析する」の趣旨を言い直してみると、日本という国は「長年の鎖国によって数百年に渡って平和に自閉してきたところを、ペリーによって強姦されたことで精神分裂状態に陥った」のだそうです。このとき日本人は「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」と「内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」に分裂しました。幕末における「開国派」と「攘夷派」の対立構造はそのままこの外的自己と内的自己の関係に符合しています。

この岸田秀の「内的自己と外的自己への精神分裂」という観点から見ると、三島由紀夫の自決、吉田松陰の無謀で過激な行動、真珠湾攻撃から始まる対米戦争はすべて「内的自己の暴走」という一言で説明されます。また、「日本近代を精神分析する」が著された70年代半ばの日本ではまだ顕在化していなかったのでしょうが「ヤンキー」も、内的自己の顕在化の一つであると言えるでしょう。
そして、「日本近代を精神分析する」には「抑圧された日本人の内的自己は、戦後においては経済成長に表現の道を見出した」とあります。つまり戦後の日本は、内的自己と外的自己に分裂したままでありながらも、内的自己が経済成長によって程度満足されたおかげで、精神分裂の症状がそれなりに緩和されてきた平和な時間が長く続いていたということです。しかし、「抑圧された物は必ずいつかは回帰する」と同著で預言されている通り、バブル崩壊以降経済が失速した日本では内的自己がナショナリズムの台頭という別の形(というよりもこちらが本来の形なのですが)で顕在化して今に至っています。

この他にも、岸田秀の「内的自己と外的自己への分裂」というモデルが現代の日本の有り様を適切に説明できる事例は枚挙に暇がありません。たとえば昨今の「おもてなし」「クールジャパン」やテレビの「日本スゴい番組」は「外国からの目を気にする = 外的自己」のフリをした内的自己へのセルフ接待だと言えるのではないでしょうか。
こういった事例は未だに日本人が「内的自己と外気自己」の分裂状態の中にあって、そこから抜け出せないどころかむしろ症状が悪化していることを示しているように思えてなりません。特に3.11の震災のときから、明らかに日本は致命的に何かが変わりました。何がどう変わったのかうまく説明できる的確な言葉がずっと見つからなかったのですが、岸田秀を援用して考えると、3.11の震災は日本人を「内的自己の暴走」へと駆り立てたのではないでしょうか?それが現在のように安倍政権が暴走しているにも関わらずここまで支持されていることにも繋がっているとすると、「内的自己と外気自己」モデルはペリー来航から現在までの日本の歴史を的確に総括出来てしまうと思います。

昨今のナショナリズムの台頭に「日本は戦前へと回帰している」と警鐘を鳴らす人に対して、右寄りの人は判で押したように一笑に付すような態度に出る人が多いように思うのですが。日本がペリーの来航以来ずっと精神分裂状態であると仮定した上でこれまでの歴史を俯瞰すると、問題の根幹は戦前と同じ「内的自己の暴走」だと言えます。これを踏まえた上で考えると、「日本の右傾向化が再び太平洋戦争と同じ規模の災厄をもたらす可能性がある」という危機感を持つのは極めて合理的だと僕は思いますよ。

岸田秀は他にも色々面白い事を言ってるのですが、書き始めると収集がつかなくなるので今日はとりあえずこのへんで。。

2016年6月26日日曜日

ナンシー関とヤワラさん

下記の投稿の後にヤワラさんはまさかの「やっぱり参院選には出馬しない」宣言をしました。。

ナンシー関が亡くなったのはちょうど今のような梅雨の時期でした。2002年、当時まだ学生だった僕はナンシー関の訃報にかなりの衝撃を受けたのを今でも憶えています。あれから干支一回り以上の時間が経って、気がついたら僕自身が彼女の享年と同じくらいの歳になってしまいました。それだけ時間が経っておじさんになってしまった今でも、ナンシー関は人生で影響を受けた作家のトップ5には入るんじゃないかと思います。
消しゴム版画家・コラムニストとしての彼女の業績については僕がくどくど申し上げるよりもネット上にいくらでも情報があるので検索していただければと思います。よく体型やコメントの鋭さなどからマツコ・デラックスにたとえられることもあるけど、まぁなんとなくの雰囲気として近いところはあるでしょうか。テレビの画面を通して見える日本の「トホホ、マヌケ、ヘンテコ」を誰よりも的確に拾い上げて言語化するセンスは、80年代~90年代の日本の社会風俗の資料として後世に語り継がれる価値があると思います。

ナンシー関が川島なお美や神田うの等と並んで欠かさずウオッチしてはネタに取り上げていた物件の一つに「ヤワラさん」こと、谷(田村)亮子がありました(たとえばこことかここ)。ナンシー関はヤワラさんの一見穏当な口ぶりの中に潜んでいる傲慢さを的確に指摘していた上で「10年後、ヤワラちゃんは選挙に出ていると思う。」という予言を残して亡くなりました。そして、その何年か後に実際にヤワラさんは小沢一郎に担がれて選挙に出て参議院議員となりました。
そんなヤワラさんが先日記者会見を開いて「次回の選挙は生活の党からではなく自民党から出馬する」と宣言しました。マスコミが舛添要一を全力で叩いている時期だった上にマスコミと蜜月の自民党への移籍ということもあって、世の中的には大して騒がれなかったんですが。これは日本の政治では今まで有り得なかった一線を越えてしまった事件なのではないかと思います。しかもそれをやっちまったのが「ヤワラさん」となると、ナンシー関に影響を受けた一人としてどうしても黙っちゃいられないのです。なんだろ、この力の入り方。

これまで政治の世界というのは「政策・理念・イデオロギー」をそれぞれの政党が掲げて、所属議員は政党が掲げている方針に順じた政治理念を持っている…というのが少なくともタテマエとしてありました。政党に投票する比例代表なんてこの前提がないと成立しないわけですよね。このタテマエに即して考えると、理念のかけ離れた「生活の党→自民党」という移籍は有り得ないわけです。
「移籍」という言葉をつかってみましたが、実際にヤワラさんの口ぶりからはFA宣言した野球選手が「複数のオファーの中から一番高く評価していただいた球団を選びました」と言ってるような印象を受けました。そして、おそらくご本人の意識もこれと大差ないのでしょう。つまり、ヤワラさんにとって自身の政治家としての存在意義は自分が「ヤワラちゃん」であることによってのみ担保されているので、政治理念の整合性とか政党なんていう物は最初から気にもかけていないわけです(この点において議員としてのヤワラさんはアントニオ猪木とほとんど変わらない)。かくして、ヤワラさんはナンシー関が生前指摘していた持ち前の「傲慢さ」によって、政治における「理念」を完全に無視して政党を移籍して見せました。ここまで開き直られると、「八紘一宇」とか言って吼えてた三原じゅん子の方がまだマシなんじゃないかとさえ思えてきます(あの人が振り回す「八紘一宇」という言葉からはヤンキーの特攻服の刺繍のようなテイストだけしか伝わってこなかったのですが)。

とはいえ。何でもかんでもヤワラさんの個人的資質だとするのはちょっとやりすぎな気がするので少しだけ弁護してみます。というのも、彼女を育てた日本の柔道の有り方と「多数派でいたい=勝ち組でいたい」という日本人のマジョリティの感覚は同じ方向を向いていて、だからこそヤワラさんの「移籍」は非難されないのではないかと思うのです。
「多数派でいたい日本人」と[「ヤワラさんを含めた柔道のオリンピック代表選手」の両者に共通しているのは全く「負けしろ」が無いということです。オリンピックに出場する日本の柔道の選手は「日本のお家芸、柔道」「勝って当たり前」というプレッシャーに晒されていて、負けることが最初から許されていません。この「負けしろ」の無さたるや、高校野球や旧日本軍とほとんど同じレベルだと思います。もう一方の「多数派でいたい日本人」についてはほとんど説明不要だと思いますが、彼ら「少数派、負け組」にならないように立ち振る舞うことを最優先する理由は自分に「負けしろ」が無いことが分かっているからなのではないでしょうか。

2016年6月1日水曜日

アメリカという父

オバマ大統領の広島での演説を見た一週間後にこれを書いています。オバマの演説は原爆で犠牲になった人々が現代に生きるアメリカ人の彼と同じような人類的な営為を生きていたこと、そんな人達を何万人も一瞬で吹き飛ばした原爆があまりにも危険であることについて言及し、その上で原爆をなくすのは「今すぐにはできないけど努力を続けることが必要」という言葉で結ばれていました。こうやって要約だけ書いてみてもほぼ何も伝わらないですが、動画で見ると彼のスピーチは非常に洗練されていて見てる人に深い印象を残したことが分かるかと思います。
さて。オバマの後にわが国の首相も演説していたのですけど、彼が何をしゃべっていたのか記憶に残っている人がいるのでしょうか?僕は途中まで首相の演説をみていたのですが、オバマにくらべてあまりに中身が無さ過ぎて耐えられなくなって途中でチャンネルを変えました。改めてネットで首相の演説の全文を読み返してみたら、オバマとは対照的に文字だけで読むとテレビの中継よりはまだマシに見えます。というのも、文字だけ読んでる限りでは、日本の官僚が得意とする当たり障りの無い作文に現首相が好みそうな「とこしえの哀悼」「あまたのみ霊」などの「美しい国ニッポン」的な安いポエムを散らしただけに見えるからです。しかし、テレビの中継で現首相の演説を見ていたら「首相も作文担当の官僚も、この演説を誰に聞いてもらいたいとか、何を伝えたいとか、そいういう意識が最初から何も無い。何よりも、そのことが問題だという意識がそもそもない。」ということだけしか伝わってこないのです。それで耐えられずに途中でチャンネルを変えてしまったわけです。

結論として言いたいことを先に申し上げると、この広島での演説によって「アメリカという父」、ひらたくいうと日本はアメリカの従属国であるという事実を改めて思い知らされました。外交、国防などのあらゆる面で従属国としてアメリカの意思決定に従うのが戦後70年にわたって規定路線として引き継がれてきたことのすべてがあの演説に凝縮されていたと思います。
この「アメリカという父」は日本人が戦後永らくトラウマとして引きずっているために、その事について考えることに対して我々日本人は強い抑圧を自らに課しています。内田先生の指摘にもあるように、特に右寄りの人は「アメリカという父」に対して強い抑圧があり、彼らの中国や韓国に対する攻撃的な態度は抑圧に対する反動若しくは症状として顕在化しているように見えます。
例えば右寄りの日本人には特攻隊に代表される太平洋戦争の戦没者を美化したがる人が結構な数いるように見受けられますが、不思議なことにその戦没者を殺傷したアメリカを非難する人はほとんどいません。中国や韓国を非難する時には舌鋒鋭くなり、「靖国」や「英霊」と声高に連呼するのに、その靖国に祀られている英霊を殺したアメリカを全く非難しない。このことは「アメリカという父」の存在に対する日本国民の強い抑圧を示す一つの例だと思います。

オバマの広島訪問と演説について日本語でネットを検索した限りでは「オバマのスピーチには感動した」「アメリカに謝罪は必要ない」と、おしなべて好意的なリアクションが多かったみたいです。これらのリアクションに通低しているのは「アメリカという父との(捻じれているけど)絆を再確認できて承認欲求が満たされた」という安堵のようなものだと思います。
一方、広島、長崎、沖縄方面を中心に「オバマは謝罪すべきだった」「日本政府は謝罪を要求すべきだった」といった声も少数派とはいえあったようです。謝罪しない理由については、インディアンコンプレックスに端を発する「正義のアメリカ」とか、色々理由はあるのでしょうが。アメリカとしては「父として、子供に謝るという選択肢は有りえなかった」のではないでしょうか。

昨年、台湾で学生によって国会が占拠されるという事件が起きました。これは台湾の政治に対して中国の影響が強くなっていることを憂慮した学生達が行動を起こしたのですが。この件について内田先生が当時このようなコメントをしていました:「台湾のように政治に対する自己決定権があれば市民の政治に対する意識は成熟する。しかし、日本はアメリカの従属国なので政治についての自己決定権が無い。そのことが市民の政治的成熟を妨げている。」
広島でのオバマの演説をオリンピックだとしたら、安倍晋三の演説はインターハイくらいの差がありました。でもこれは単に安倍晋三の個人的資質の問題だけではなく、アメリカと日本における市民の政治的成熟度の差がそのまま反映されていたのではないでしょうか?もしも日本人が政治についてもう少しまともな自己決定権を持っていれば、さすがにもうちょっとマシな人が首相を務める国になると思いますよ。

2016年5月3日火曜日

日本のヒーローはマンダラ的な宇宙を描きながら増殖する

ここ最近、一歳の子供がアンパンマンにハマっています。子供用のグッズって何かしらアンパンマンの絵が入ってることが多いですよね?うちの子供の場合も、アンパンマンのキャラが描かれたお風呂用の柄杓をやたら気に入ってしまったのをキッカケに、あれよあれよという間に気がついたらアンパンマンが大好きになってしまいました。
かくして、子供と一緒にアンパンマンをテレビで見てみたら、青いドキンちゃんみたいなキャラが増えていることに気づきました。「コキンちゃん」という名前で、ネットで調べて見たらコキンちゃんは「ドキンちゃんの妹分」なんだそうです。でも「妹分」であって血縁上の妹ではないんだそうです。大昔に「バタコさんとジャムおじさんは血縁関係に無い」というのを知ったときにもちょっと意外に思ったのですが、それと同じルールがドキンちゃんとコキンちゃんにも適用されているようなのです。
あそこまでアンパンマン側もバイキンマン側もファミリー化しているにもかかわらず徹底的に血縁関係が排除されているのは、飛躍しすぎかもしれませんがポル・ポトを連想させます。ポル・ポト政権下のカンボジアでは「親子」を廃止するために5歳以上の子供は強制的に親から隔離されたそうです。あらゆる階級を廃絶してフラットな原始共産主義へと改革する一環だったそうですが、ポルポト政権の是非はさておき、このユートピア観はアンパンマンの世界観に何かしら通じるものを感じます。

アンパンマンに限らず仮面ライダーやスーパー戦隊シリーズ、プリキュア(もっと言うとAKBやジャニーズ)まで、とにかく日本のヒーロー物はマンダラ的な宇宙を描きながらキャラが増殖していくのです。これらの元祖はどうやらウルトラマンのようなのですが、こちらもファミリーでありながらウルトラの父母の実子はタロウのみだったりします。エースは孤児だったとか、セブンはウルトラの母方の親戚だとか、こういった設定はプレモダンな地縁社会、若しくはヤクザにおける「家」の概念を想起させます。
アンパンマンにしてもウルトラマンにしても、共同体のモデルは違えどもヒーローがファミリーを形成しながら増殖していくという点は共通していて、ここにはおそらくマンダラ的な宇宙観を持った日本人の宗教感覚がそのまま反映されているように思えるのです。別の言い方をすると、一神教の世界観だとヒーローが次々増えていくことが起きないのです。例えばスパイダーマンやスーパーマン、バットマンなどのアメリカンヒーローを考えてみてください。日本のヒーロー物のように次々とキャラが増えていくようなことはないですよね?

日本のスーパー戦隊シリーズは一作品ごとにタイトルからキャラクターまですべてリセットされますが、スーパー戦隊シリーズを海外ローカライズした「パワーレンジャー」では作品間の切れ目が無くすべてが1つながりの世界だという設定になっています。タイトルも一貫して「パワーレンジャー」です。例えば式年遷宮のようにリセットが大好きな日本人にとっては作品ごとに全部リセットされるのは別におかしなことではないのでしょうが、この感覚が欧米人にはどうしても受け入れられないんだろうと思います。5人の戦隊ヒーローがいて、生身で戦った後に巨大ロボットに乗り込んで戦う…というプロットが共通である以上、それらは1つながりの物語であるべきだと。だからこそわざわざ設定を後付けしてまで「パワーレンジャー」という一神教的な世界観に馴染む形にアレンジしたんだと思います。
一方で、日本のテレビ黎明期には月光仮面のようにアメリカンヒーローをそのまま導入したような事例もあったようです。wikipediaによると月光仮面の当初のコンセプトは「和製スーパーマン」だったそうです。このテレビ黎明期の「和製アメリカンヒーロー」は単にネタに困ってアメリカのヒーローの真似をしたというだけではなく、「アメリカを肯定的に受け入れなければならない」という日本人の集合的無意識が反映されているように僕には見えます。

以上でだいたい書きたかったことがまとまってしまったのですが、最後に「変わり行くアメリカンヒーロー」について少々。ここまでの下りでは「アメリカンヒーロー」というのは
・助手や相棒程度はいるが、基本的にピンで行動する
・誤解されたり非難されたりすることもあるけど、みんなのために一人で戦う
・つまり孤独
という、「世界の警察」としてのアメリカ合衆国のメンタリティを代弁するようなキャラクターを前提にしてきましたが。最近のアメリカンヒーローはMarvelの「アベンジャーズ」のように「ヒーロー連合」のような形態をとりはじめました。これは今までには無かったことです。そしてMarvelの最新作「civil war」では、とうとうキャプテンアメリカ組とアイアンマン組に分かれてヒーローが対決するそうです。そして、時を同じくして「バットマン vs スーパーマン」という映画も日本で公開されています。
日本のヒーローは今後もマンダラ的な宇宙を描き続けると思いますが、アメリカのヒーロー事情はアメリカという国の衰えとそれに伴う内省を代弁するように徐々に様変わりし始めているように見えます。「ヒーロー連合」は絵が豪華になる反面、一回それに手を出してしまうと今後アイアンマンやバットマン単品の映画を作ってもどこか寂しい絵になりはしないかと思ったりもするのですけどね。

2016年4月17日日曜日

ラテン系は本当にいい加減か? (その2)

このblogのごくごく初期にラテン系は本当にいい加減か?という文章を書きました。この文章の趣旨を一言で言うと、「お互いにいい加減でも社会が成り立つのはラテン系の人々が他人を許す能力が高いからで、日本人が過剰にキッチリしあいたがるのは他人を許す能力が低いからだ」ということでした。
しかしながら、昨今の日本を見ていると僕には日本人の方が「いい加減」に見えることの方が多いのです。たとえば福島で原発があれだけの事故を起こしたにも関わらず原発を再稼動させた上に、熊本で地震が起きても近隣の原発を止めようとはしませんでした。なぜこうなるかについては、前回の投稿で内田先生を引用したように原発=一神教の神との付き合い方が日本人には分からないので、日本人は「怖いものほどぞんざいに扱って安心したがる」からではないかと思います。こういう日本人の原発への接し方は僕から見ればとにかく「いい加減」に見えます。
また、自民党は選挙の際に「TPP反対」とか言うだけ言って、選挙が終わったらあっさりTPP推進に回りましたが、これに対して「いい加減なことを言うな」とか「もう自民党は信用ならない」と非難の声を上げてる人は少数派ですよね?
長い目で見たらいつか大きな地震が来るのは分かっていながら都会に高層ビルを林立させられるのも僕には正直なところ理解できないです。あれだけ高層ビルが立ち並んでいると、本当に大地震がきたら大変なことになりそうなのは誰でも理解できると思うのですが。たぶんあそこで働いている人達は地震が来てビルが倒壊するとか、そういう可能性について「真剣に考えない」というソリューションを集団的に採用しているんだと思います。そうでもなかったら、たぶん怖くてあんなところで働く気にはなれないだろう思います。


こういう日本人の「いい加減さ」の事例は枚挙にいとまがありません。どんな国のどんな文化にも悪いところはあるので、「だから日本はダメだ」とか短絡的に言うつもりは全く無いのですが。おそらく日本人の大半はこういう日本社会の有り様を「いい加減」だと言われたらある程度は納得するんでしょうが、かといってそれが致命的に問題だとは思っていないのではないでしょうか?
「文化」という言葉の定義の一つに「ある社会集団にとっては当たり前でも、それ以外には当たり前でないこと」というのがあります。この語義に鑑みると、良いか悪いかはさておきこの種の「いい加減さ」は日本の文化の一部なのでしょう。内田先生の言い方を借りると「民族的奇習」と言ってもよいかもしれません。
なぜ日本人が時間や納期などにキッチリしたがる半面、政治や社会のあり方といった「お上」のやることに対してここまで「いい加減」なのかをクリアカットに説明することはできないのですが、何度も申し上げているように「多数派でいたい人が多数派」であることや、「恥の文化=絶対的な善悪ではなく、他社との相対的な関係が判断基準」といったことは背景にあるのではないかと思います。

話をラテン系に戻します。
確かにラテン系は日本人に比べて開始時間にはルーズです。でも、彼らは終わる時間には厳格です。日本人とラテン系の違いは、「開始時間と終わる時間のどっちにプライオリティを置くか」の違いでしかなくて、この両者には優劣は無いと思います。優劣は無いといいつつも、個人的にはそれだったら、他人を許す能力が高く、おおらかでギスギスしない社会を作れるラテン系の方がよいと思います。
そして、これはラテン系だけでなく欧米ではどこでもそうだと思いますが、政治や社会について明確な意見を個々人が持つことは当たり前というか、市民として最低限の勤めだと思われています。彼らの感覚からいうと、職場でお昼ご飯たべながらでも普通に政治の話をしますし、意見が違えばそこで議論を戦わせたりするのも当たり前なのです。あんまり人のこと言えないんですが、日本人ってこういう局面で面と向かって政治の話をしたりするのが苦手な人って多いですよね?でも、そういう態度でいると欧米人からは「ちゃんと自分の意見を言えない=いい加減な人」と思われるんじゃないでしょうか。
以上より、ラテン系(とりあえず西欧のラテン国家の人を想定)と日本人では「いい加減」さが発揮される対象がそもそも異なるのはないでしょうか?例えば日本人だと「(開始)時間にルーズ」とか「ルールを守らない」といったことを「いい加減」だと考えますが、ラテン系からすると「論理的に考えようとしない」「安易に他人と同調したがる」「自分の意見をちゃんと表明しない」といった日本人の特徴が「いい加減」に見えるのではないかと思うのです。


さらに言うと、この問題を更に厄介にしているのは「いい加減」という日本語がそもそも「いい加減」だということなのです。日本語の「いい加減」という言葉はぱっと思いつく範囲で
  • 非論理的 : illogical 
  • 時間にルーズ : not punctual
  • ルールを守らない : not keeping rule
などなどを包含する多義的な言葉ですが。隣に英語を添えてみたように、それぞれが意味することは英語だと別々の言葉があてられています。つまり、『いい加減』という日本語の語義そのものが再帰的に『いい加減』であることが話をややこしくしているのではないでしょうか?
もしも日本人が「ラテン系はいい加減だ」ということを外国人に説明して理解してもらおうとしても、相手の外国人が余程日本語が堪能な人でない限り日本語の「いい加減」の概念が伝わらないので、問題点の共有という一番最初のステップにさえ到達しない可能性があるのではないかと思います。

原発と一神教文化

3・11の記憶が少しずつ過去のものになりつつあるところに熊本の地震が来ました。この地震は日本が地震国であることを改めて日本国民に思い出させたのではないでしょうか。これを書いているのは最初の大きな地震から3日後ですが、今も余震は続いています。余震がまだ続く可能性があるのだからこんなときくらいはとりあえず原発を止めてしまうべきだと思うのですが、阿倍政権にはそのつもりは全く無いようです。むしろ、「地震が起きても問題なかった、だから原発は安全だ」という実績作りのために意図的に原発を動かし続けているように見えます。
Twitterを見てる限りでは、今回の地震によってここ最近の「なし崩し再稼動」で下火になっていた反原発派がかなりアクティブになったように見えます。反原発派曰く、川内や伊方原などの原発は中央構造線という大きな断層の上にあるので、今回のような地震が原発を直撃した際に無事で済むわけが無いんだそうです。断層の件はさておいても、これだけ地震や津波などの自然災害が多くて、3・11で一回失敗したんだから日本では原発はやめるべきだと僕は思います。

地震のニュースの度にメディアがさらっと「原発に異常なし」を繰り返しているのは、原発が不安であることにある程度は配慮する反面、一方では原発について騒ぎ立てるなという無言の自粛を求めるているように見えます。このように「原発を怖がっている反面、その裏返しとして楽観的な態度を見せて強がっていたがる」というのは阿倍政権や原発推進派に共通しているように思います。
原発を再稼動させるにあたっても、リスクや安全対策、非常時の対応についてもう少しちゃんと考えたり説明したりする態度があればよいのですが。残念ながら阿倍政権の態度は一貫して「都合の悪いことについては考えない」と言ってるだけにしか見えないです。そもそも、日本人の考える安全対策や地震/火災などへの避難マニュアルは平時に考えられた精緻な机上の空論になりがちで、本当に災害が起きたときに次々と仮定に反する事態が起きるとあっさりシステムクラッシュしてしまいます。実際に3・11のときは電源喪失などの想定外の事態によって原発がメルトダウンしてしまいました。

このように日本人の原発との関わり方を見ていると、原発を稼動させることの是非以前に原発という危険極まりない物を扱う上で重要な資質を日本人は欠いているのではないかと思わずにはいられないのですが。なぜこうなるのかについては、内田先生が3・11直後にこれ以上に無いくらい的確な文章を残しています。この「『原発=一神教における神』との付き合い方が日本人には分からない」というのは原発と日本人の問題についての説明の中で一番納得感があると思います。ここから先を僕がくどくど書いても劣化コピーにしかならないので、内田先生の文章をそのまま貼り付けて今回は終わりにします。

数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるかという問題に対しての一つの「答え」であった。
人知人力をはるかに超える巨大な力と「折り合う」ためには、ただ巨大な力を畏れ、慄くだけでは足りない。
信仰する側が、「絶えざる自己超克」という苦役をおのれに課すことではじめて、一神教の宗教意識は成り立つ。
おのれの理解も共感も絶した存在に向けて、おのれの知性の射程を限界まで延長し、霊的容量を限界まで押し広げるという「自己超越」の構えそのものを「信仰」のかたちに採用することによって、人類はその宗教性と科学性の爆発的な進化を成し遂げたのである。
爾来、一神教文化圏においては「主」を祀る仕方について膨大な経験知が蓄積されてきた。
原子力は20世紀に登場した「荒ぶる神」である。
そうである以上、欧米における原子力テクノロジーは、ユダヤ=キリスト教の祭儀と本質的な同型的な持つはずである。
神殿をつくり、神官をはべらせ、儀礼を行い、聖典を整える。
そう考えてヨーロッパの原発を思い浮かべると、これらがどれも「神殿」を模してつくられたものであることがわかる。
中央に「神殿」があり、「神官」たちの働く場所がそれを同心円的に囲んでいる。
その周囲何十キロかは恐るべき「神域」であるから、一般人は「神威」を畏れて、眼を伏せ、肌を覆い、禁忌に触れないための備えをせずには近づくことが許されない。
それは爆発的なエネルギーを人々にもたらすけれど、神意は計りがたく、いつ雷撃や噴火を以て人々を罰するか知れない・・・
原子力にかかわるときに、ヨーロッパの人々はおそらく一神教的なマナーを総動員して、「現代に荒ぶる神」に拝跪した。
そうではないかと思う。
それに対して、日本人はこれにどう対応したか。
最初それは広島長崎への原爆投下というかたちで日本人を襲った。
でも、それは「神の火」ではなく、「アメリカの火」であった。
だから、日本人は「神」ではなく、アメリカを拝跪することによって、原子力の怒りを鎮めることができるのではないかと考えた。
それが日米安保条約に日本人が託した霊的機能だったと私は思う。
神そのものではなく、世界内存在であるところの「その代理人」「その媒介者」「そのエージェント」に「とりなし」を求める。
代理人におべっかを使い、土下座し、袖の下を握らせることで、「外来の恐るべきもの」の圭角を削ろうとする。
これはきわめて日本人的なソリューションのように私には思われる。
神仏習合以来、日本人は外来の「恐るべきもの」を手近にある「具体的な存在者」と同一視したり、混同したり、アマルガムを作ったりして、「現実になじませる」という手法を採ってきた。
一神教圏で人々が「恐るべきもの」を隔離し、不可蝕のものとして敬するというかたちで身を守るのに対し、日本人は「恐るべきもの」を「あまり畏れなくていいもの」と化学的に結合させ、こてこてと装飾し、なじみのデザインで彩色し、「恐るべきものだか、あまり恐れなくもいいものだか、よくわかんない」状態のものに仕上げてしまうというかたちで自分を守る。
日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。
なんでも金の話にする人間というのがいるけれど、あれは別に人並み外れて強欲なのではなく(そういう面もあるが)、むしろ人並み外れて「恐怖心が強い」人間なのではないかと思う。
出版社系の週刊誌の基本は「人間は色と欲でしか動かない」というシンプルな人間観だが、それは彼らがそう信じているということよりもむしろ、そう「信じたい」という無意識の欲望を映し出していると考えた方がいい。
彼らは「よくわからない人間」が怖いのだ。
どういうロジックで行動するのか見えない人間に対して恐怖を感じると、彼らは「それもこれも、結局は金が欲しいからなんだよ」という(自分でもあまり信じていない)説明で心を落ち着かせるのである。
その手を日本人は原子力相手に使った。
「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」
そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。
なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。ははは。ただの金儲けの道具なんだ、原子力って。
全員がそういう語り口を採用したのである。
政治家も、官僚も、もちろん電力会社の経営者も、原発を誘致した地方政治家も、地元の土建屋も、補償金をもらった人々も、みんな「あれはただの金儲けの道具なんだよ」と自分に言い聞かせることによって、原子力に対する自分自身の中にある底知れぬ恐怖をごまかしたのである。
一神教文化圏の人々は荒ぶる神を巨大な神殿に祀り、それを「畏れ、隔離する」というかたちで「テクニカルなリスクヘッジ」を試みた。
日本の人々は荒ぶる神を金儲けの道具にまで堕落させ、その在所を安っぽいベニヤの書き割りで囲って、「あんなもん、怖くもなんともないよ」と言い募ることで、「心のリスクヘッジ」を試みた。
福島原発のふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を受けたのではないかと思う。
その施設の老朽ぶりや、コストの安さや、安全設備の手抜きに心底驚愕したのではないかと思う。
どうして原子力のような危険なものを、こんなふうに「雑に」扱うのだろう・・・と海外の原子力研究者は頭を抱えたはずである。
そこまでして「コストカット」したかったのか?日本人は命より金が大事なのか?
もちろんそうではない。話は逆なのだ。
あまりに怖かったので、「あれは金儲けの道具にすぎない」という嘘を採用したのである。
原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する恐怖心をそうやってごまかそうとしたからなのである。「こんなものいくら粗雑に扱っても抵抗しやしねんだよ」と蹴ったり、唾を吐きかけたりして、「強がって」みせていたのである。
私はそう思う。
そうでも思わないと、あの粗雑な設備や安全管理のすさまじい手抜きを説明することができない。
原発は人間の欲望に奉仕する道具だ。
そういう話型にすべてを落とし込むことによって、私たち日本人は原子力を「頽落し果てて、人間に頤使されるほどに力を失った神」にみせかけようとしてきたのである。
もちろん、そうではなかった。
だから、私たちはいま「罰が当たった」という言葉に深く頷いてしまうのである。
自分たちがこれまで「瀆聖」のふるまいをしてきたことを、私たちは実は知っていたからである。

2016年4月3日日曜日

「おかあさんといっしょ」はいつまで続くか

4月になりました。新しい生活のスタートとなった人もたくさんいらっしゃるんでしょうが、僕は何も変わらずのままです。昨日は4/1なので組織名称の改変や役職呼称が代わっただけとかいうしょーもない理由だけで辞令をもらう人がいたのですが、そんな彼等でさえちょっとうらやましく思えてしまい、「エイプリルフールでもいいから辞令でないかなー」とつぶやいてしまいました。
一方で、4月1日でNHKの教育番組にはとてもインパクトの大きい人事異動がありました。子育て世代のお父さんお母さんならほぼ全員お世話になっている「おかあさんといっしょ」が大幅にリニューアルされることになったのです。人形劇コーナーが完全リニューアルになる上に、なによりも歌のおねえさんが交代することになったのです。歴代最長の8年に渡って歌のおねえさんを担当してきた「たくみおねえさん」の卒業については、発表されたと同時に「たくみロス」という言葉も聞かれるほどの反響がありました。
かくいう僕も「たくみロス」気味の一人でして。あの男性女性問わず「ほとんど敵を作らない=誰でも好きになてしまう」能力たるや一時期の山口智子とか能年玲奈とか(あと漫画のキャラを含めていいなら朝倉南)、そのクラスだと思います。

たくみおねえさんのことを書いているといつまでも書き続けられる気がするのですが、それはさておき、ここ半年ほど子供と一緒にNHKの教育番組を見てて気になったことが一つあります。NHKの子供向け番組の世界は「老人、おにいさん/おねえさん、子供、妖精、動物」だけで構成されていて、ほぼ徹底して「親」が欠落しています。つまり、「親」は現実の親だけであってテレビの中の世界には「親」を登場させないというコンセプトがどの番組にも共通しているように見えるのです。
強いて例外を挙げるなら「みいつけた!」という番組だけは登場キャラクターだけで家庭生活を営んでいるような雰囲気があるのですが、そこで親に該当するポジションのキャラクター「サボさん」はときどき頭に花が咲いてオカマみたいになるというキャラクター設定になっています。深読みしすぎかもしれませんが、性別の概念を希薄にすることで現実のお父さんやお母さんとかぶることを回避しているんじゃないかと僕には思えます。
ところが、3月末で終了した「おかあさんといっしょ」の人形劇コーナー「ポコポッテイト」の最終回までの数話では「着ぐるみキャラ”ムテ吉”の(今まで存在さえ言及されなかった)お父さんとお母さんが帰ってくる」という話の展開だったのです。本当に親が出てくるのか結構ハラハラしながら見てたのですが、結局は「親が乗っているであろう船に手を振ってるシーン」までで終わりました。やっぱり親を登場させるのはハードルが高かったようです(最終話のためだけに親の着ぐるみつくるのも勿体無いというのもあるんでしょうが、それだけではないと思います。)。ともあれ、「ムテ吉の両親はムテ吉を残して宝探しに行ったままずっと帰ってきていない」という荒唐無稽な設定を後付けしてまで親の概念をわざわざ持ち込んだことにはちょっと驚きました。しかしながら、ギリギリのところまで引っ張った末にやっぱり親は画面には登場しませんでした。

NHKの教育番組は僕が子供の頃に比べたらやたらと番組の数は増えましたが、その中でもやっぱり「おかあさんといっしょ」は他の番組に比べたら別格です。wikipediaによると、「おかあさんといっしょ」は1960年頃から50年以上に渡って存続している看板番組なんだそうです。「おかあさんといっしょ」のスタート当時はまだ専業主婦が当たり前の時代だったので、子供とお母さんが一緒に見ることを前提にできたのだと思います。かくして、「おかあさんといっしょ」という番組は作り手が意図的に画面から欠損させた「お母さん」をその名前に冠してスタートしたのでしょう。ここから出発したせいもあってか、その後のNHKの子供向け番組も一貫して「親」が欠損した世界をつくり続けているんだと思います。
しかし、今の時代では「おかあさんといっしょ」を母親と一緒に見れる子供は少数派になりつつあるんじゃないでしょうか?共働きの家庭の子供の大半はおかあさんといっしょが放映される時間帯には保育園にいるんでしょうし、もしも一緒に家にいたとしても母親は何かと忙しくて子供と一緒にテレビを見るゆとりが無かったりするのではないでしょうか(我が家では子供向け番組を録画しておいて、家事で忙しくて手が離せないとき=「おかあさんといっしょにいれないとき」に子供に見せています)。もっと言うと父子家庭だってあるわけですから「おかあさんといっしょ」という番組名がこのご時勢には不適切だとか怒り出す人もいるんじゃないでしょうかね(2013年から「おとうさんといっしょ」という番組が日曜日だけですが放映されてはいますが、「マイノリティやポリティカルコレクトに対して配慮していますよ」という中途半端なポーズは逆に格差を浮き彫りにするという好例になっています)。

半世紀以上前に「おかあさんといっしょ」がスタートした当時のNHKの教育番組のコンセプトはさすがに時代にそぐわなくなりつつあるのは誰の目にも明らかです。「サボさんの登場(2009)」→「おとうさんといっしょ開始(2013)」→「最終回間際に突然持ち込まれるムテ吉の両親の存在(2016)」という一連の流れは、「おかあさんと一緒に見る前提で『親』は意図的に画面から排除された世界」に作ってる側も限界を感じ始めている兆候のようにも見えます。
そしてちょっと飛躍しますが、これは高度経済成長期の頃の制度設計をひきずったままのわが国の育児政策の有り様と相似形を成しています。「待機児童ゼロ」とか「女性が輝く」とか口先では言いながらも結局は保育園は足りないし、保育士は激務の割には待遇が悪かったりと、行政は働く女性のためのインフラ整備にはまともに取り組もうとはしなかったわけですが。こちらはとうとう先日ある限界を迎えて保育園落ちた日本死ねに端を発して国民が声を上げ始めました。
保育園の問題の切実さに比べたら教育番組の有り様なんて大したプライオリティではないので不用意に同列に比較するべきでは無いのは勿論ですが。とはいえ、漫画やアニメは時として作り手が意識していないところで世相を反映してしまうもので、教育番組もその例外ではありません。だからこそ、「おかあさんといっしょ」という名前の番組がいつまで「親が欠損した世界」のまま存続するのか、この先わが子が成長して教育番組から卒業した後でもこっそりチェックしようと思います。

2016年3月27日日曜日

日本人は世界で最も「脳化」しているんじゃないだろうか

またもや欧州でテロが発生してしまいました。今回の事件発生の直後にテルマエ・ロマエの作者ヤマザキマリ氏(イタリア在住)が「こちらでは昨日からネットもテレビもラジオもブリュッセルのテロのニュース尽くしですが、日本ではどの程度までの惨事の写真が報道されているのだろう」とtwitterでつぶやいてたのですが、このコメントは大半の日本人にはご本人の意図通りに理解されないだろうなと思ったので、今回はその話をしようと思います。
というのも、海外のニュースだとこの手の悲惨な事件の際には死体や怪我人を写した生々しい映像が当たり前のように出てきます。フランスのテロ事件のときも、海外のメディアではコンサート会場が死体で埋め尽くされている写真が当たり前のように使われていました。ところが、日本のメディアは静止画・動画を問わず基本的にこういった生々しい死体や怪我人の映像を使いません。各国のニュース映像をそのまま使っているNHKの「ワールドニュース」でも、死体が映るときにはモザイクがかかってますが、これはおそらく日本のAVにモザイクがかかっていることに通低する理由からだと思います。

ここまで徹底して日本人が怪我人や死体を忌避することを説明する上で、僕の知る限りでは養老孟司氏の「脳化」という概念が一番適切なんじゃないかと思います。「脳化」についての僕の理解を手短に書くとこういうことです。
・ 人間が作り出すものはすべて脳の産物であり、「都市」はその最たるものである
・ 日本は江戸時代から「都市化=脳化」した
・ 脳は予測と統御を行う器官なのでコントロールができない自然を忌避する
・ 人間の身体も脳にとっては忌避すべき自然の一部である
・ 江戸時代に死体=自然は市街地から徹底的に排除され人の目の着かないところへ追いやられた
スペインに2年住んで日本に帰ってきたときに、この「自然=身体性」についての感覚がスペイン人と日本人では大きく異なっているように感じたのを覚えています。当時の印象を率直に言うと、日本人のあらゆる行動は身体性を忌避した脳的な欲求の追及だけに向けられているように見えたのです。別の言い方をすると、「首から上とスマホだけで生きてるように見える人」が結構な数いるように感じたのでした。こう感じた理由は、スペインでは自己責任で危険を回避する、身を守るということに常に気を配っているのが当たり前だったために、常に身体を意識する必要があったからだと思います。つまるところ、危険が排除されていて安全な社会でなければ「脳化」できないのでしょう。

江戸時代によってもたらされた「脳化」を軸に考えると、その後の日本の歩みも江戸時代に築かれた土台の上に成り立っているように見えます。例えば、日本が開国後に急速に近代化できたのは、江戸時代にすでに日本人は十分に脳化していたおかげで西洋文明をすんなり受け入れることができたからだと言えるのではないでしょうか。また、漫画やアニメがあれだけ発展したのも、「脳化」の恩恵によってもたらされたバーチャルと現実の垣根をあまり意識しない国民性があればこそなのではないかと思います。
ここまで日本人が国民規模で「脳化」されるには上記の通り平和で安全な時間が長く続くことがおそらく不可欠だったんだろうと思います。逆に言うと日本以外の国の人が日本人ほど「脳化」していない理由は、彼らの歴史には日本の江戸時代のように200年以上にも渡る平和な時間がなかったからではないでしょうか。戦争がある程度の頻度で発生するような世界では人間の意識は身体に向かってしまうので「脳化」の方向には向かわないだろうと思います。こう考えると、学生運動やベトナム戦争が終わった70年代後半から漫画やアニメに熱中する所謂「オタク文化」が発展したことも偶然の産物ではないと思います。

こう言ってると何でも「脳化」と説明したくなってくるのですが、勿論日本人の数々の民族的奇習を「脳化」だけで説明するのは無理です。しかしながら、日本人の作り上げた社会を見る視点として「脳化」は非常に的を射ていると思います。

2016年3月15日火曜日

コンプライアンスというのは「罪の文化」の概念だと思う

コンプライアンス(日本語にすると「法令順守」)という言葉を最初に聞いたのは、10年以上前にまだ会社に入りたての頃だったように思います。日本の会社組織ではどこにでもあるんだろうと思うのですが、ある日突然トップダウンで「猫も杓子も」状態で一つのキーワードだけが一人歩きする「祭」状態が始まることがあるのです。当時、エラい人がうわ言のように「コンプライアンス」って言ってたのを僕は今でも覚えています。
今にして思えば、2000年頃に猫も杓子も「とにかくコンプライアンス」とか「とにかくISOを取らなきゃ」って言ってたあたりから日本の会社はダメになりはじめたんじゃないだろうかと思うのですが、日本にたくさん会社があるのにどこも自分の会社と同じなわけないと思いたいし、そもそもこういうことを手放しで他人のせいにするには僕も歳をとりすぎました。おじさんになってくると、自分もこういうシステムの一部として生きながらえていることに、やんわりと共犯意識のようなものがあるのです。

先日、会社全体に対する「コンプライアンスについての意識調査アンケート」なるものが実施されました。このアンケートの中の設問に「あなたはコンプライアンス違反が疑われる場合に、コンプライアンスマニュアルに記載の手続きに則って会社のコンプライアンス委員会に通報すると報復的な扱いを受けると思いますか?」という項目があったのを見て、なんともいたたまれない気分になったので、本日はその話をします。このいたたまれなさの原因は、「一神教原理=絶対的な善悪の審級」に所属するコンプライアンスという概念を結局日本人には全く咀嚼できないことにあるのですが。順を追って話すために、話を2000年頃に戻します。
「コンプライアンス」という言葉が突然現れて、エラいおじさん達がうわ言のように毎日「コンプライアンス、コンプライアンス」と言い出した頃に、コンプライアンスについて社員に教育するためのビデオを社員全員で集まって見たことがありました。このとき見たビデオがまず最初に言ったことは「コンプライアンスに対して取り組まないと会社の株価が下がる」という話でした。このときに、「法令を守るという倫理観の話を金儲けの話に矮小化してしまうのはなんかおかしくないか?」という疑問を感じたのですが、当時の僕はそれに本気で憤るには若すぎたのでした。別の言い方をすると、「こんなみっともないことを言っている会社と自分のあり方とは何の関係も無い」と思えたのでした。若いって素敵ですね。
さておき、そのときに感じた「金の話に矮小化して倫理感の問題を論じるマインド」に対する違和感というのは、後年に内田先生の「原発問題を日本人は金の話にすり替えて安心しようとした」という話を読んだときに、「ああなるほど、これと同じ話だ」と思ったのでした。ちょっと長いけど引用します。

日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。
なんでも金の話にする人間というのがいるけれど、あれは別に人並み外れて強欲なのではなく
(そういう面もあるが)、むしろ人並み外れて「恐怖心が強い」人間なのではないかと思う。
出版社系の週刊誌の基本は「人間は色と欲でしか動かない」というシンプルな人間観だが、
それは彼らがそう信じているということよりもむしろ、そう「信じたい」という無意識の欲望を映
し出していると考えた方がいい。
彼らは「よくわからない人間」が怖いのだ。
どういうロジックで行動するのか見えない人間に対して恐怖を感じると、彼らは「それもこれも、
結局は金が欲しいからなんだよ」という(自分でもあまり信じていない)説明で心を落ち着かせ
るのである。
その手を日本人は原子力相手に使った。
「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」
そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。
なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。
ははは。ただの金儲けの道具なんだ、原子力って。

「コンプライアンス」についてのビデオも結局同じようにコンプライアンスという物を「金儲けの話」に矮小化して納得させようとしてたんだと思います。しかしこれは一方で、「コンプライアンス」の存在意義に鑑みると致命的に本末転倒だったんだと思います。
以前言及した「罪の文化」「恥の文化」の観点から言うと、コンプライアンスという概念は「罪の文化」、もっと言うと「一神教 = 絶対的な善悪の審級」の概念が大前提にあるわけです。コンプライアンスを簡単な一言に置き換えると「悪いことしてはいけませんよ」だけなんですが、その前提として”絶対的な善悪の規範を前提として”という暗黙の但し書きがついているわけです。これを理解しないまま金儲けの話に矮小化させてコンプライアンスを社員に説明することで、「金儲けのためには単に金を稼ぐだけじゃなくてそれなりに社会の目も気にする必要があるからさー。あんまりハデに目立つような悪いことはやっちゃダメだよ。」という「恥の文化=日本人」に理解できる話にすり替えてしまったんだと思います。

こういう文化背景を理解しないままうわべだけコンプライアンスを日本社会に導入した結果、
 ・ コンプライアンスに過剰に配慮した結果としての「事無かれ主義」の横行
 ・ 「悪いことしてもバレなきゃいい」という偽造・隠蔽
という両極端な悪影響が出ただけなのではないでしょうか?たとえば企業不祥事の元祖である雪印事件は、日本にコンプライアンスという言葉が上陸しはじめた2000年の話です。

2016年1月31日日曜日

日本という国ではネットはテレビに勝てなかった

1月中旬頃はSMAPの解散騒動→謝罪コメントに日本中が大騒ぎしていたのですが、最近ようやくひと段落してきました。これを書いている現在はベッキーに再びフォーカスが戻りつつあるのですが、これもSMAPの騒動を鎮静化させるためにマスコミが意図的にジャニーズに気を使ってベッキーを叩いているんじゃないかとちょっと勘ぐりたくなるくらいです。
沈痛な面持ちのSMAPによる謝罪コメントは、「テレビというサル山のボスがSMAPにマウンティングして見せることを通して、日本国民に対して『オマエらの主人はテレビだ。わかったか?』と言っている」ように僕には見えました。つまり、日本人を隷属させてきたテレビというメディアが、その子分であるSMAPをテレビの中で公開処刑して見せることによってその地位を改めて国民に知らしめたように見えたのです。別にこういうことは今に始まったことでもなく、古くは豊臣秀吉が腹心だった千利休を処刑したり、現代でも北朝鮮でNo.2やNo.3が時々粛清されるのと同じような話だと思います。
ベッキーの場合は「体裁上は記者会見だけど、記者との受け答えは無し」でしたが、SMAPの場合は「記者会見でさえなく、テレビ番組の構成を変更して謝罪放送に充てた」という形になりました。つまり、両者とも一方通行なコミュニケーションによってすべてが発信され、特にSMAPの件ではテレビの中だけですべてが進むことで「マウンティング」がより強調されたように見えたわけです。
あんまり上手いたとえではないのですが、SMAPの謝罪会見を見た日本人は「いつも一緒に遊んでいる友達のリーダー格の子(SMAP)が親(テレビ)に怒られている」とか、「部活のキャプテン(SMAP)が顧問の先生(テレビ)に部活全員を代表して怒られている」といった光景を一方的に見せ付けられているような気分になったのではないでしょうか。

インターネットが世の中に普及し始めた頃には、「『最大多数の最大幸福』のためのメディアであるテレビはもはや過去のものとなった。これからはインターネットによってマジョリティとマイノリティの情報資源格差がなくなり、あらゆる個性が平等に情報発信を行える時代になる。」みたいなこと言って鼻息荒くしていた人がたくさんいました。
あれから20年近く経ったわけですが、本当にそうなったんでしょうかね?マイノリティによる情報発信やコミュニティの形成についてはインターネットは確かに一定の貢献をしたのでしょうが、「『多数派でいたい』という人が多数派」であるのこの国では、結局テレビというメディアが相変わらず高い影響力を維持しているのではないでしょうか。おそらく、先進国の中でも日本という国は特にテレビの影響力が高いと思います。


インターネットの存在を抜きにして考えても、日本のテレビはパーソナライズという概念と真逆の道を進んできたと思います。NHK以外の民放はお互いに似たような番組をひたすら作って凌ぎを削り、BSデジタルが登場してチャンネル数が増えても結局どのチャンネルでも似たような旅番組や通販番組が流れています。僕はリーガ・エスパニョーラの試合を見るためだけにWOWOWと契約していますが、WOWOWやスカパーのような有料放送にお金を払ってまでテレビを見るのは未だに日本では少数派です(そのくせNHKにはみんな文句言わずにお金払うんですけどね)。昔からCATVなどによって多様性(diversity)の方向に拡張したアメリカのテレビと比べると、日本のテレビはこの真逆の方向に進んできたのだと思います。
AppleTVという製品があります。おそらくApple製品の中でも、Apple Watchと並んで(ガジェット好き文脈での)Apple信者以外には全く見向きもされない製品なのですが。このApple TVが日本で全くと言っていいくらい受け入れられない原因は、日本人がテレビに求めているのは「多数派のためにつくられた番組を他人と同じように視聴する」ことだからなんだと思います。よって、これと真逆のアメリカ式の「テレビのパーソナル化」の延長上にあるApple TVが受け入られる風土がそもそも日本には無いわけです。


かつて「ネットとテレビの融合」を掲げてホリエモンはフジテレビを買収しようとしましたが、そんな彼も今では”東大卒タレント”枠ですっかり芸能人としてテレビの世界に安住しています。彼がテレビに出てくる度に受ける印象はSMAPの謝罪放送と同様に「テレビによる公開マウンティング」であり、そんな彼をテレビで見ていると「日本では結局ネットはテレビに勝てなかった」としみじみ思うのです。

2016年1月16日土曜日

辞書を捨てよ 正解の外側へ出よう

年末にNHKでスペインの新興政党PODEMOSの特集を見ました。PODEMOSは"私達はできる"という意味で、リーマンショック以降深刻な経済危機が続くスペインの低所得層や若者の支持を背景に急成長した左派政党です。この政党が昨年末の選挙で大躍進を遂げた理由の一つに、パブロ・イグレシアスという(これを書いてる現在で)37歳の党首のカリスマ的な人気があります。
この人は前職は大学の政治学の先生だったのですが、見た目も立ち振る舞いもとにかく政治家らしくないのです。細身の身体に安そうなシャツを着ていて、髪の毛はかなり長くて後ろで束ねています。そして何より、自分の意見をただひたすら主張するのではなく、人の話を聞いたり相手に喋らせた上で少ない言葉数で的確に切り返すのがすごく上手なのです(在西日本人の方がこの辺は詳しく書いてます)。
PODEMOSについては賛否両論あったりするようなので、よく知りもしないで手放しで彼等を絶賛する気にはなれないのですが。少なくともパブロ・イグレシアスは「人と話し合うことができる」という点では政治家としてマトモだと僕は思います。もちろん日本の政治家だけが特別ダメというわけでもないのですが、日本の政治家で彼のように人と話し合える人を見た記憶が無いのです。日本の国会では、それぞれの議員が自身のイデオロギーや政策を一方通行に唱えたり、対立する相手の足を引っ張ろうとしたりしているだけで、生産的な対話や話し合いの場として機能しているようには見えないのです。

物の考え方が違う相手と生産的な対話ができないのは国会議員に限った話ではなく、日本人の作る社会全体の問題で、これについては平田オリザが「ニッポンには対話がない」という、そのまんまのタイトルの本を書いています。この本については以前このblogでも紹介しているので詳しくはそちらをご参照いただくとして、この本を読んだ上でこういった日本人のコミュニケーション力の問題について僕が一つ付け加えるとすると、日本人は「(唯一の)正解」に対する執着が強すぎるので相手と対話したり、柔軟に折り合うのが下手なんじゃないかなと思います。
日本人の正解に対する執着が端的に現れていると思った例を一つご紹介します。国際学会で英語の苦手な日本人が事前に用意した原稿をひたすら機械的に棒読みして発表するのを何度か見たことがあります。原稿を用意しないといけないレベルの語学力ということは、当然発音も滅茶苦茶なわけで、そのレベルの人が聴衆やスクリーンを一切見ずに一心不乱に原稿を機械的に棒読みすると、結局ほとんど何も伝わりません。同じ日本人として気持ちはすごく分かるのですが、おそらく彼等は語学力の壁に対する恐怖心のために、事前に用意した原稿という「正解」との閉じた関係の中に安住したがっているんだと思います。しかし、そもそも学会というのは発表した後に聴衆からコメントをもらったり議論したりするために存在するので、最初から聴衆とのコミュニケーションを拒絶している態度というのは学会発表を行う意義からして本末転倒なんじゃないかと思います。

そして、わが国の首相も「正解」にかなり依存/執着しているようです。普段は国会審議中だろうがどこだろうが、あらゆる場所で事前に用意された原稿を手に演説の練習をしているそうです(ここにもありました)。その結果として、2015年の安倍晋三の発言の中でもダントツでひどかった「国連での『難民と移民の区別が全くできてない記者会見』」という大失態を国際舞台でやらかしました。というのも、どうやら普段日本では記者会見での質問が事前に提出されているんだそうで、つまり、我々国民がテレビを通して見る彼の発言はほとんど事前に原稿が用意されているようなのです。しかし国連ではそれができなかったために、予定外の質問を受けた結果としてあの滅茶苦茶な受け答えになってしまったようなのです。日本のメディアではそう大きく取り上げられませんでしたが、官僚の作文した「正解」が与えられていない素の状態だと難民と移民の区別もつかないような人が首相を務めていることが露呈してしまったという点では大事件だと僕は思います。
やや脱線しますが、これだけ安倍晋三が事前に作られた「正解」に依存しようとする背景には、マスコミの取材や質問に対してほとんどアドリブで全部切り返した小泉純一郎という特殊な才能を持った政治家の存在があるのではないかと思います。ただし、今考えると小泉の受け答えがパブロ・イグレシアスのように理知的で洗練されていたかというと決してそんなことはなく、「言ってることが滅茶苦茶だったり全然話が噛み合ってなくても、なんとなく納得させてしまう能力」=簡単に言うと「愛させる能力」が高かっただけなんじゃないかなと思いますけどね。

話は戻って、本稿のタイトルにもある「辞書」なのですが。日本人って語学力に不安があると海外で電子辞書を持ち歩きたがりますよね?なんて偉そうに言ってますが、僕も初めて海外出張するときにポケットサイズの電子辞書を買いました。でも、その電子辞書は出張中ずっと「お守り」として胸ポケットに入れてただけで、一度も使いませんでした。辞書をお守り代わりに持ち歩くのも、学会発表や記者会見の話と同様に「正解」への執着がもたらす日本人の民族的奇習なのではないでしょうか。
スペイン在住時に語学学校に通っていた時期があったのですが、ここでも語学教室に辞書を持ち込んでいたのは日本人の僕だけ(ほかの生徒は全員欧米人でした)でした。このときは語学学校なので、「お守り」ではなくそれなりに真剣に語学を勉強する上で必要なツールとして僕は持って行ったわけですが、他の欧米人の生徒はそれさえも必要ないと思ってるみたいでした。ある生徒曰く、「辞書があれば便利そうだけど、語学学校なんだからわからない単語はその場で先生に聞けばいいんじゃない?」なんだそうです。なるほど。結果として「電子辞書を持ち歩くハイテク日本人」という、欧米人の思い描く日本人のキャラをまんまと語学学校で演じて差し上げてしまいました。

経済だけとってみればそりゃスペインは日本に比べてガタガタですが、一方では一般市民が気軽に政治について話し合ったりデモに当たり前のように参加したりと、市民社会としては日本よりもはるかに成熟していると思います。だからこそ、国難においてパブロ・イグレシアスみたいなマトモな人も出てきたんじゃないでしょうか。
残念ながら日本だと、対話どころか「口げんかの勝ち負け」にだけこだわる橋下徹みたいな人しか出てこないのですよ。でもこれは彼一人の個人的資質の問題ではなく、「正解」に執着するあまりに生産的な対話ができない我々日本人全体の問題なんじゃないでしょうか。