2018年5月6日日曜日

アニメソングの世界は老人に老いることを許さない

風邪をひいたうえに結局どこにも行かなかったGWが終わろうとしているのですが。いまだに風邪が治りきりません。GWが終わるのは仕方ないとして、せめて風邪とともに去ってほしいです。そんなこんなでぱっとしないGWなので、せめて普段このblogに書こうと思って手が付けられずにいた話を一つ書いてみようと思います。「日本のアニメ」についてはたびたびこのblogで取り上げる定番アイテムになっていますが、今日は「アニメソング」についての話です。
いつ頃からなのかは覚えていないですが、NHKでアニメソングの歌謡ショーのような番組をやっていたり、アニメソングのフェスのライブ映像を流したりしているのをたびたび見かけることが度々あります。それを見つけたからといってそんなに熱心に見るわけではないのですが、だいたいアニメソングの歌手が何人か出てきて歌って、最後は全員で「マジンガーZ」を歌って終わるようなパターンで必ず構成されているような印象があります。

これを見ていてどうもひっかかるのは、老いも若きもすべて含めて「アニメソング界」という一つのジャンルが存在することについての合意形成が成されているように見えるのです。とはいっても、日本のアニメは半世紀以上の歴史があるわけで、この半世紀にわたってずっとリアルタイムでアニメを見続けている人なんてほとんどいないでしょう。
アニメソングのイベントに集う若者の大半はマジンガーZなんてまともに見たことないだろうと思います。彼らが実際にリアルタイムで接しているのはたとえば水樹奈々みたいな最近のアニソン歌手なんだろうと思います。それでも彼らは「アニメソング」というジャンルのイベントが新旧とりまぜて紅白歌合戦みたいなラインナップになっていることに異議を唱えない。これって不思議なことだと思いませんか?

これについては色々な説明や解釈が可能だと思うのですが、僕の見解を少々述べてみます。アニメソング、というよりもアニメというメディアは「メディアそのものに対する帰属意識」によって成立しているのではないでしょうか。一口にアニメと言ったって、ラブコメ、美少女、子供向け、ロボット、戦闘、果ては将棋や囲碁まで色々なジャンルがあります。仮に自分が見ているのがロボットアニメだけだったとしても、ラブコメや将棋のアニメを見る人に対しても同胞として遇することがアニメ界の住人に要求されるわけです。
これと同じ原理を時間方向に展開して適用できるからこそ、アニメソングのイベントに集う若者は自分の世代と明らかにズレているマジンガーZの歌で一緒に盛り上がることができるんだろうと思います。かくして時間の概念を排除してジャンルとしての一体感を獲得している半面、アニメソングというジャンルは時間という概念を忌避したエバーグリーンな世界を作り上げているように思うのです。

この代償を一番引き受けているのはアニメソング界のレジェンドともいうべき老人たちなんじゃないでしょうか。例えば、アニキこと水木一郎(70)ささきいさお(75)堀江美都子(61)などは未だにこの手のアニメソング関連のイベントに登場しては現役で歌っています。彼らは年齢的にはもはや老人の域に達しているのですが、彼らの外見は年齢不相応に若作りなのです。彼らを見ていると、彼らはアニメソングというジャンルによって「老いる」ということを許されていないように見えて、なんだか気の毒になるのです。
アニメソングの世界がこのままいつまでも老いることを許さないままエバーグリーンな世界を維持するのか、それとも別の道へ進むのか…やや不謹慎ですが、アニメソング界のレジェンドが亡くなる頃くらいにその答えを見ることになるのではないかと思います。声優であれば、例えば山田康雄が亡くなったときに栗田貫一がモノマネでルパンを再現したように「そっくりさんがシレっと後を継ぐ」という方法もありました。しかし、歌手ともなるとそうもいかないんじゃないでしょうか。超具体的に言うと、「水木一郎が亡くなった後に代わりにマジンガーZを歌える人材は現れるのか?」という難問に直面するだろうと思います。どうするんだろ?VOCALOIDってわけにもいかないだろうしなぁ。。

2018年5月5日土曜日

イチローの「事実上の引退」は即身仏と同じに見える

風邪が治りきらないままぼんやりGWを過ごしていると、イチローの事実上の引退のニュースが入ってきました。しかし、言ってることがなんとも不可解なのです。

「イチローは引退ではない」と今後についてあらゆる可能性を否定しなかった。
少なくとも今季中はプレーしないこととなったが、同GMによれば試合前にはこれまで通りに他の選手たちと練習するという。遠征にも同行予定。前例のない形での特別アドバイザー契約になるが、球団側が何よりも重視したのはチーム内でのイチローの存在感と必要性だった。

例えば「今シーズンは怪我の影響でコンディションを落としているけど、それが治れば来シーズンはプレーできる可能性がある」といった理由が添えられていればまだ納得もできるのですけどね。しかし、この次の一行を見て急に理解できた気がしました。

「彼は我々のクラブハウスで、ダライ・ラマのような存在だ」

「クラブハウスのダライ・ラマ」という言葉はものすごいパンチがありますね。これまで聞いたことがある中でも「ナイトクラブのクセナキス」とか「群馬のシャブババア」に匹敵するくらいの破壊力があるのですが。ともあれ、言いえて妙だと思います。


この「クラブハウスのダライ・ラマ」という一行を見て僕が納得した理由は、このフレーズから仏教の即身仏を連想したからです。即身仏というのは仏教の高僧などがお経を唱えたりしながらミイラになるという、究極の修行法みたいなやつです。聞きかじりであんまり簡単に宗教を批判すべきではないのでしょうが、どうもこの即身仏というのは仏教のコンセプトと乖離しているような気がするのです。
仏教のメインテーマの一つは「いかに執着を捨てるか」ということにあると思うのですが。それに対して即身仏はどうも「修行しながら死にたい」と言ってるように見えるのです。なんだかこれって、修行によって功徳を積むという行為にいつまでも執着しているように感じるのです。しかも、自分の姿をミイラという形に残そうとするなんて、自らの肉体や生命にいつまでも執着して、死後も影響を保持したがっているようにさえ見えるのです。


話をイチローに戻します。彼は「自身のキャリアの終焉」という断裂を受け入ることを拒んで、「終焉をこれまでのキャリアの延長であるかのように偽装する」ことを選んだように見えるのです。これは上述したように僕が即身仏に対して感じる欺瞞と全く同じ構造を持っています。特に、「試合には出ないけどこれまで通りに練習はやる」という辺りは、即身仏が「死を修行という形に偽装する」のとそのまま対応しているように思います。
プロスポーツ選手の引退については、「やめないままでいること」がやめられない中山やカズとか、現役時代の四股名のまま親方になった貴乃花親方の抱える幼児性など、これまでも色々とこのblogで考察してきたトピックです。これと絡めてここから色々話を展開しようかと思ったのですが、それをやるとこの文章の収まりがどうにも悪くなって今日はここまでにします。「適切なタイミングで終焉を受け入れるべきだ」という論旨の文章の構造が論旨に反してしまうわけにはいかないので。。

2018年5月4日金曜日

英語を「勉強」しようとするのは問題の反復生産でしかないんじゃないだろうか

GWに入りました。今年は子供を連れて車で実家に帰ろうかとも思っていたのですが、渋滞情報を調べたらエゲツないことになっていて迷いが生じたところに、さらに子供がやや風邪気味になりまして。結局、「どうせ1泊くらいなんだったら、無理してGWに帰らなくてもいいじゃん」という結論に落ち着きつつあります。
そんなこんなで、ぼんやり寝正月ならぬ寝GWをだらだらと満喫しております。どうやら僕にも風邪が感染ってしまったようで、今日はとうとう一日寝倒して終わりました。まぁ、休みのときしかできない過ごし方と言えばその通りなんですけど、なんだかちょっともったいないような気もします。

さて。そんなGWなので、せめて普段このblogに書こうと思っていたネタをいくつか書こうと思います。今回は職場の30歳くらいの後輩の話です。この人は都の西北のスーパーフリーな感じの一流大学をご卒業なさっておりまして。この人を見ていると、ゆとり世代にありがちな「自分の利益よりもとりあえず周囲との調和を最優先する」というマインドに加えて、彼の大学の卒業生に特有の「勉強熱心に見えるのはダサいから嫌=勉強した自慢より勉強しなかった自慢の方を好む」という気質がなんとなく感じられるのです。
そんな彼が最近ずっと昼休みに大学受験時代の単語帳を眺めているのです。しかも、そのとき彼は必ずイヤホンを耳に装着しているのです。そこから彼が放っているであろうメッセージは簡単に言うと「気になるかもしれないけどイジらないでください」なのですが。残念ながらその程度のメタメッセージに屈する僕ではないので当然ちょいちょい声かけてイジりにいってしまい、彼はそれにやや迷惑そうに応じてきたりするのですが。。この一連のやりとりについて思うことを書き連ねようと思います。

「今見返すと、『こんなことも忘れてたのか』という発見がいっぱいあるんですよ。」と彼は言いました。まぁ、そりゃそうなんでしょう。仕事でちょいちょいしか英語を使わないと、日常会話や政治用語なんてどんどん忘れるでしょうからね。彼が受験当時の単語帳を見直している背景には「英語を何とかしたい」という気持ちがあるんだろうし、それ自体は全然良いと思うのです。しかし、30くらいになった彼が今になって英語のために努力するにあたって、大学受験の時の単語帳を見直しているのはどうも本末転倒な気がするのです。
「英語をなんとかしたい」をもう一段掘り下げると、彼がなんとかしたいのは「英語を使ったコミュニケーション」なんじゃないでしょうか。だったら単語を覚えることよりも、もうちょっと実践的なコミュニケーションの練習(例えば職場には外国人が何人かいるので、彼らに話しかけにいってみるとか)をする方がはるかに効果的だと思います。勿論語彙力はあった方がいいに越したことはないですが、実践的なコミュニケーションにおいては知らない単語をパラフレーズ("目薬"という単語が思い出せなかったら、"a liquid for eye"みたいに言い換える)する能力の方がはるかに有用だと思います。そういえば日本人の辞書や語彙力に対する固執については似たような話を昔このblogに書いたのでした。

これは往々にして勉強ができた人が陥りがちなピットフォールだと思うのですが、彼は「勉強することで問題が解決する」という成功体験に固執しすぎなんじゃないかと思うのです。そう考えると、彼が自分の考える「英語の勉強」におけるキャリアハイである「大学受験のときの自分」にいつまでも固執しようとするのも納得がいくのです。しかし、彼が「英語をなんとかしたい」と思うに至った原因が「英語を使ったコミュニケーションは勉強では解決できない」からだと仮定すると、単語帳を眺めているということは問題に対する解決策ではなく問題の原因を反復生産しているだけなのではないでしょうか。
彼を見ていると、昔自分が楽器をやってたときのことを思い出します。僕は自分ひとりで練習してる分にはいいのですが、他の人と一緒に合わせると途端にボロボロになるのでした。合奏は相手がいて成り立つもので、せめて一人で練習するにしてもメトロノームや他のパートの録音に合わせて弾いたり、間違えても止まらずに弾くようにしないと、むやみに一人で練習しても意味が無いどころか逆効果だったりするのです。そして、最高の練習は言うまでもなく人と一緒に合奏することでした。この話は「合奏」を「外国語によるコミュニケーション」に置き換えてもそのまま同じことが言えると思います。