2021年7月11日日曜日

「騎士団長殺し」と佐野元春

村上春樹の「騎士団長殺し」を読了いたしました。この本は1巻だけ古本で100円で売ってたので買ってそのまま家に置いておいたのを奥様がそれを読み始めて最後まで買ってしまったので、僕も後を追うように全部読んでしまったのです。相変わらずの村上ワールド…ではありつつも、この作品ではこれまでの村上作品にはなかった要素がいくつか新しく加わりました。特に新しいと感じたのは「和」です。これは単に「今まで出てこなかったものが新しく加わった」というだけでなく、これまで村上春樹が忌避してきたものに向き合い始めたという意味で非常に新しいと思いました。 

 ここで急に話が飛ぶのですが、佐野元春の話をしたいと思います。僕が知る限り、20世紀に欧米のロックンロールという文化を日本人が受容するときに、どうしても「内的自己vs外的自己」という葛藤が発生しました。例えば日本語でのロックの元祖と言われる「はっぴいえんど」でさえ、その当時は内田裕也に代表される「日本語ロック反対派」に目の敵にされていました。当時の日本語でロックンロールは成立するのか?という当時の論争そのものが「外的自己vs内的自己」のわかりやすい対立構造であったと言えるでしょう。さておき、ロックンロールを日本語の世界に取り込むにあたり、「はっぴいえんど」は松本隆の「ですます調」のフォークみたいな歌詞によって「習合=なじませる」ということを行いました。「はっぴいえんど」以降の多くの日本のロックミュージシャンの営みも、その多くはロックンロールという外的自己に対して「ヤンキー」という内的自己をまぶす形での習合を試みる過程だったと言えるでしょう。しかしそんな中で、80年代前後に一人だけヤンキー要素がゼロの特異点が現れました。それが佐野元春です。彼の音楽はヤンキー要素がほとんど無くて、彼が憧れてきた欧米の世界を日本語で歌っていました。 

 なぜ村上春樹の話だったのに急に佐野元春の話をしたか?というと。「ヤンキー=内的自己要素がほぼ0に近い」という点で両者は共通しているからです。村上春樹の小説にはビール、ウイスキー、ワイン、スパゲッティ、サンドイッチ、クラシック、ジャズなどは出てきますが、日本酒や和食はほぼ出てきません。また、小説の舞台は日本でありながらも、その中に登場するポピュラー音楽は必ずと言っていいくらい洋楽です。これは村上春樹の作品ではかなり徹底されていて、「内的自己=和」を連想させるような要素は徹底的に排除されてきたのです。しかし、「騎士団長殺し」では上田秋成の作品や飛鳥時代のような風貌のキャラクターなど、これまでの村上春樹の作品では徹底して忌避されていいた「和」というテイストが入っています。

だいたい本稿で書きたかったことは以上で終わりなのですが。せっかくなので「騎士団長殺し」のラストから僕が勝手に受け取ったメッセージはこういうことでした。
  • この世界の問題はそう簡単には解決しないのが、未来に希望を託そう
  • 震災と原発事故によって、日本という国は何か重たいものを抱えてしまった
前者については、序盤に免色の子供の話が出てきた段階で「ああこれは最後に子供が生まれて終わるんだろうな」と思いました。そして、主人公は、秋川まりえ、スバルフォレスターの男、顔の無い男などの絵を描きかけで解決しないまま物語を終えます。あえて回収しきらずに終わります。そこにも村上春樹のメッセージが込められているように思いました。
そして、後者については1個前の中編小説である「多崎つくる」から一貫している村上春樹の提言だと思います。最後にとってつけたように現れる震災の話は、原発事故の後処理という日本人が抱えてしまった負債についても踏み込もうとしているように見えました。そのための布石として、「騎士団長殺し」では今まで忌避してきた「和」のテイストを取り入れたのではないかと思います。