2022年10月16日日曜日

ゼレンスキーとひろゆき、北方領土と沖縄

久しぶりに結構な時間このblogを放置していました。色々とややこしくて忙しいときに、よりによってコロナにかかったり…とかやってるうちに夏が終わってしまったのです。サラリーマン人生でも結構な正念場だったのだと思いますが、あんまり何度もやりたくないです。

さて。これを書いている現在、クリミア半島ではロシアとクリミア半島をつなぐ橋で爆発事件が起き、一方国内ではひろゆきの座り込み揶揄が炎上している、という状況です。この両者は全然関係が無いように見えますが、ゼレンスキーの「北方領土はロシアの占領下にある」という発言を見たときに、僕の頭の中で両者が繋がってみえてきたのです。

以前このblogでも言及したように、日本のネトウヨ層は「北方領土」について微温的な反応しか示しません。そして、北方領土はアメリカに占拠された南方領土と対を成す概念であり、結局は「アメリカという父」という日本人が直視したくない問題につながっています。ゼレンスキーは北方領土を持ち出せば日本人の共感を得られると考えて発言したのかもしれませんが、彼が日本人の抱えている「アメリカという父」という病についてちゃんと理解しているのかはかなり疑わしいのではないかと思います。

例によって内田樹先生の言葉ですが、内田先生は「『アメリカの属国である=自分たちの事を自分達で決められない』ということは、日本人の市民としての成熟を妨げている」と以前おっしゃってました。これは、「自分達の事をどうせ自分達で決められないなら、自分が意思を持って行動するよりも、意思を持って行動する人を揶揄して楽しんだ方がよい=冷笑のエンターテイメント化」という文脈でひろゆきにつながっているのではないでしょうか?

ひろゆきに限らず、ホリエモンでも橋下徹でもいいですが、彼らは自分の理念や理想を語ることよりも自分とイデオロギーを異にする「敵」を見つけて、罵倒、攻撃、冷笑することの方にエネルギーを注ぎます。彼らの存在をエンターテイメントとして享受する層も同様に「アメリカという父」の産物の一つなのではないかと思います。

日本の衰退が円安や物価上昇などの形で生活の隅々に感じられる昨今では、政治だけでなく生活や人生までもが自分達の意志でコントロールすることが難しくなりつつあります。ここから先、罵倒や冷笑をエンターテイメントとして消費する日本人は簡単にいなくはならないだろうとは思いますが、そろそろ山本太郎のように弱者の救済を訴える人を支持する人が増えてくるのではないかと思います。残念ながら、もう冷笑している場合じゃないくらいのところまでこの国の衰退は誰の目にも明らかなので。。

2022年7月15日金曜日

日本が存在する限り、たぶんカルトは無くならない

安倍晋三が撃たれて亡くなった事件から、一週間経ちました。正直に申し上げると、この10年の間に「誰か安倍晋三を暗殺してくれないかな」と思ったことは何度もありました。しかし、それを実行する人が「宗教がらみの怨恨」という動機で事件を起こすことは全く想像していませんでした。この件についての速報をテレビ中継が伝えているのを見ているとき、僕はオウムの地下鉄サリン事件の時のことを思い出していました。まだ報道の初期段階で、統一教会はおろか「特定の宗教団体」の話も一切出ていなかったのに、伝わってくる空気が四半世紀前のオウムの事件とすごく似ているように感じたのです。

あれから一週間経ってようやく自分の中でも諸々が整理されてきた気がします。おそらく、問題の根底にあるのは、日本人の作る社会は規模の大小や程度の差こそあれど、必ずどこかしらカルトのようなものになってしまうということなのではないかと思います。小さなところではオウムや統一教会などの宗教団体、もっと大きな規模になると戦前の大日本帝国や現代の「日本スゴイ」など、規模の大小はあれども「奇矯なイデオロギーやリーダーに対する忠誠を信者が競い合い、敵対勢力を面罵することで徳を積める」という構造はどれも同じなのではないでしょうか。そして、今回の件で明らかになったのは、自民党は日本会議や統一教会など複数のカルトとの共依存関係によって形成されたカルト複合体であり、彼らの利権のためのこの国はどんどん食いつぶされようとしているということです。

四半世紀前のオウム事件の後、それまで基本的にノンフィクションなんて出したこともなかった村上春樹は突然オウム事件を扱った「アンダーグラウンド」を書き、その後にもカルトの教祖が暗殺される「1Q84」という小説を書きました。特に「アンダーグラウンド」が出た当時はいろいろ賛否の声がありましたが、今回の事件によって村上春樹がこれらを書かざるを得なかった理由が何となくわかるような気がしてきました。オウム事件は、閉鎖的な「カルト組織=ムラ社会」が形成されてしまうことは我々日本人の宿痾であるということを突き付けたのではないでしょうか?当時高校生だった僕には明確にそれを意識することはできなかったのですが、今にして思えば、あのオウム事件によって我々日本人は「閉鎖的なカルト組織=ムラ社会しか作れない」という自分たちの血にまつわる負の側面について内省することを迫られてしまったのだと思います。そして、 おそらく村上春樹はそれを無視できなかったのではないでしょうか。

ここからは話がかなり飛躍しますが、三島由紀夫が理想としていた天皇の在り方こそが「カルト=村社会」組織の理想形なのではないかと思います。この理想形での天皇は当然ながら神でなくてはいけないので、その真似事を人間がいくらやったところで、そんなものは偽の天皇でしかないのです。だから三島は象徴天皇に対しては大反対だったのだと思います。安倍晋三だって、亡くなった今となって振り返ってみれば、出来損ないの偽の天皇だったと言うことができるでしょうし、だからこそ殺されるしかなかったのかもしれません。いずれにせよ、一見接点があまりなさそうな三島由紀夫と村上春樹はこの文脈においてつながると思います。

2022年6月19日日曜日

超サイヤ人とバブル

 ドラゴンボール超スーパーヒーローという映画が公開されているようです。タイトルの言語としてのインフレ感("超"の後に"スーパー"がついてる)もさることながら、未だにドラゴンボールの映画が作られているということにも驚きを禁じ得ないです。鬼滅でも呪術廻戦でもONE PIECEでもなんでもあるのに、ドラゴンボールはまだ必要とされているようです。バトル漫画には「成長」という概念があるので、30年前のジャンプ連載当時は「強さのインフレ」という問題と常に戦いながら自転車操業的な再生産を続けていたのですが。30年経った今、ドラゴンボールは最早その問題さえも克服して、サザエさんやちびまるこちゃん、ルパン3世などと同じように永遠に再生産され続けるサイクルに入っているのかもしれないですね。

そこまで日本国民に引っかかり続けるドラゴンボールですが、テレビ放映のタイトルが「ドラゴンボール」から「ドラゴンボールZ」に変わったのはJOJO第三部の連載開始時期とほぼ同じ1989年の春です。wikipediaによると「Z」は「究極」「最強」のような意味があったそうですが、「Z」ってつけてしまったらその後さらに続けるときにどうなるかなんて、当時の大人は考えなかったのでしょうかね?単に言葉尻をとらえているのではなく、鬼滅とJOJO第三部で言及したように、中身は同じなのにタイトルにZを付けたらパワーアップ「したことになる」というような、バブル末期からずっと日本人がすがり続けている「虚力」による「成長した感」の自転車操業の始まりがここに見て取れます。そしてこれが30年経った現在の「超スーパー」のような形容詞のインフレにつながっているのではないでしょうか。

テレビ放映にZがついたのはサイヤ人が出てきたところからですが、この辺りからドラゴンボールには「最初は冒険漫画だったのに、悟空を大人にしてバトル漫画にしてしまったらウケちゃったので、設定を更に後付けして無理矢理延命している感」が漂っていました。そして、界王様の元で修行した成果をもってしてもフリーザに敵わないという絶望的な状況にまで散々引っ張っておいて、最後は「超サイヤ人になりました」で帳尻を合わせて終わらせるという展開には、「いくらなんでも子供じみてて無理があるだろう!」と思ったのを今でも覚えています。でも、当時の読者はこれをそのまま受け入れていたのです。今にして思えば、都合のいい話も前向きに受け入れれば「神話」になるということの好例だと思います。

そして、超サイヤ人の出現は1991年3月で、これはバブル経済の崩壊とほぼ同じタイミングです。単なる偶然だと言えばそれまでかもしれませんが、僕にはドラゴンボールとバブル経済はつながっていて、だからこそ今も日本人に引っかかり続けているように思えてならないのです。鬼滅とJOJO第三部の下りで言及したように、JOJO3部以降の異能力バトル漫画はバブル崩壊以降の日本人の願望充足的な側面があったように思いますが。ドラゴンボールに至っては話がもう少し複雑で、バブル全盛期に作品がブレイクして、やめるにやめられないので設定の後付けによる延命を自転車操業的に続けました。この過程自体がバブル経済が膨張したメカニズムと相似形を成していて、だからこそ日本人は「バブルを総括しないまま虚力による成長という物語にすがりつづける」ことを自己肯定するためにドラゴンボールという神話を再生産し続ける必要があるのではないかと思うのです。

ドラゴンボールについては、ほかにも興味深いところが多々あると思います。例えば、元々西遊記をモチーフにした冒険漫画だったのに、冒険→バトルに向かうにつれて、アジア感が無くなって西欧感が強くなっていったことなんて、「脱亜入欧」の物語とも読み取れますよね。。とか言ってると話がとっちらかるので、今日はこのあたりにしておきます。お付き合いいただきましてありがとうございました。

2022年5月28日土曜日

糖尿と神

 なんとなくそうなんだろうなとはずっと思っていたのですが、意を決して糖尿病のクリニックを受診したところ、「初期の糖尿病」と診断されました。母が糖尿病だし、以前から健康診断でもちょいちょい指摘を受けてはいたのでなんとなくはわかっていたのですが。いざはっきり宣告されるとそれなりにショックでした。その後1か月は食生活や運動などに気を付けて、結果的に数値上は「初期の糖尿病」→「糖尿病予備軍」まで改善しました。が、ある程度気を付けて生活し続けないとまたもとに戻ってしまうのだそうです。

以前外国人と飲みに行ったときに、帰りにアイスをくれると言われたのですが。糖尿が心配なのでいらないと言ったところ、「えー、でも別に君そんなに太ってないじゃん。」 と言われたことがありました。欧米人はインスリンの分泌能力が高いので、見た目にわかるくらいかなり太らないと糖尿病にまで到達しないのです。が、我々日本人は欧米人に比べて元々インスリンの分泌能力が高くないので、僕程度の「ちょっとぽっちゃりしたおじさん」でも糖尿病になってしまうわけです。海外だと100kgを余裕で超えたようなレベルで太ってる人をよく見かけますが、考えようによっては、彼らはそれでも生きていけるくらい体が頑丈なのかもしれないですね。

一方変わって、会社の話をします。会社のそこそこエラい立場の人が全体に向けたメッセージで「他責はよくない、自分ができることを考えよう」というような趣旨のことを言ってるのを最近2回見ました。この2回はいずれも違う人です。これが彼らの経験を通して得た人生訓で、ご本人にとってはそれが今の地位に至る成功のコツだったと思っているのかもしれない。でもそれをわざわざ社員に向かって言う必要があるのでしょうかね?その人のキャラクターや話の文脈にもよりますが、言い方は丁寧なようで、結局「とにかく文句言わずに働け」と言ってるのと変わらない気がするのです。社員から出る不満の原因をたどっていくと、そのうちのいくつかは会社の制度や体制の問題にいきつくはずで、それは「自分ができること」として解決に取り組むのがエラい立場の人であるべきだと思うのですけどね。

「他責はよくない、自分ができることを考えよう」という人は、愛国心を子供に強要したがる政治家や、「置かれた場所で咲きなさい」といった言葉を自己正当化のために使うブラック企業のワンマン社長と同じなのではないかと思うのです。彼らに共通しているのは、「自分の都合のいいように振舞う事」を相手に要求していること、そして、「社会的に権力がある自分は、人の内面に干渉する正当な権利を有している」と思っているであろうということです。この「他人の内面に干渉する」ということについては、キリスト教などの一神教の世界観だともうちょっと慎重なのではないかと思います。例えば、「置かれた場所で咲きなさい」というのはアメリカの神学者の詩のタイトルで、原文では"Bloom where God has planted you."なのだそうです。そう、つまりこれは「世界のすべてをコントロールしている神」の存在を前提にした上での言葉なのです。一神教的な神の概念を理解できない人が背景もわからないまま振り回していいものではないと思います。

例えば、「神は死んだ」というニーチェの有名な言葉も、一神教的な意味での神の概念が理解できないと欧米人と同じ目線でこの言葉を理解することは難しいのだろうと思います。 欧米人と日本人では、インスリンの出方も違えば、文化的バックグラウンドもこんなに違うわけです。どちらがいいとかいう問題ではなく、こういった文化的背景の違いをちゃんと認識するのがdiversity(多様性)なのではないかと僕は思います。「他責はよくない、自分ができることを考えよう」と言ったエラい人達は、これを外国人に向かって言ったときに外国人がどう思うか想像できているとは思えないです。あまり前向きな感じの話で終われなくてすいませんが、こうやってネットの片隅に書き残すことくらいしか、「自分ができること」が思いつかないのですよ。。

2022年4月18日月曜日

コンスタンチン君とウクライナ

 子供の新学期がやっと始まってくれたので、春休み期間中の半強制テレワーク生活からも解放されました。が、終わってみたら今度は「毎日会社に行く」のがとても面倒になってきました。というわけで、雨降ってる日なども含めて、週に1,2日くらいはテレワークを継続しています。一人で家にいると昼ご飯の時も自分で好きなようにテレビのチャンネルを合わせられるので、とりあえずお昼時にはテレビをつけてはみるのですが。お昼のワイドショー?のような番組のクオリティが残念過ぎて、いくつかザッピングして結局NHKに落ち着くか、諦めてテレビを消してしまうか、どちらかになってしまうのです。

さて。その日本の民放ですが。ひと昔の「北朝鮮ー金正恩」のポジションが完全に「ロシアープーチン」に置き換わった感があります。そして、ちょっと今までにない展開として、ウクライナ難民を日本政府が受け入れることを大々的にテレビが報道していることです。これまで日本という国はミャンマーやアフタニスタンの難民受け入れに消極的だったり、ウィシュマさん事件のように外国人の人権に対して意識が低かったりしてきたわけです。そもそも、難民と移民の区別もつかないような人がちょっと前まで首相だったくらいですからね。

以前指摘したように、この国は「外国人が日本で暮らす」という内側の国際化には冷淡でした。しかし、ウクライナ難民に対する日本人の反応はどちらかというと「おもてなし」や「クールジャパン」のように内的自己と外的自己が同じ方向に向かっているように見えるのです。改めて強調しておきますが、ウクライナ難民の受け入れ自体はよいと思いますよ。でも、この先の日本が緒方貞子さんなどが訴えてきたように、「人道」ひいては「人権」に対する深い意識をもって難民を受け入れ続ける国になっていくとはどうも思えないのです。どちらかと言うと前回指摘したように、オリンピックの代替品として一過性のウクライナ難民ブームが起きているだけのように見えるのです。

このウクライナ難民に対しての日本人の熱意の傾け方はどこかで見たことがあるなと思っていたのですが、さっき車を運転したいたときに思い付きました。懐かしのコンスタンチン君です。もう30年以上前の話ですが、ソ連崩壊直前に大やけどを負ったソ連(当時)の子供が日本の病院に搬送されてきて、一命をとりとめるという事がありました。この時の日本にはコンスタンチン君フィーバーが巻き起こりました。バブルでお金も余っていたのもあって、すごい額の募金がコンスタンチン君のために集まりました。が、その後コンスタンチン君と同様にソ連から重篤な症状の子供が来た時には、コンスタンチン君の時のようなフィーバーにはならなかったそうです。

2022年3月21日月曜日

Everybody wants to rule the world

スマホでSNSに投稿したメッセージが世界中を駆け回るような時代に、まさかの戦争が起きてしまいました。この戦争によって、キューバ危機以来50年以上ぶりくらいで、一つ間違えば核戦争で人類全体が絶滅するかもしれないという危機を迎えています。「まさかそこまでしないだろう」と誰もが思っていた一線を、プーチンはやすやすと超えてしまいました。

このような非常事態を受けてわが日本にも少しだけ変化の兆しが見えてきているように思います。というのも、今まで一枚岩に見えていた反知性主義陣営にも小さな断裂が見えはじめたのです。具体的に列挙してみると、

  • A. 橋下徹やテリー伊藤のように安易にウクライナに降伏を呼びかける人
  • B. 安倍晋三のように、核武装論を唱える人
  • C. ゼレンスキーが真珠湾に言及したことに反応してウクライナ支援に異議を唱える人

簡単にウクライナに対して降伏せよと言うAの彼らには、「勝ち負け」という単純な基準にしか関心がないのでしょう。橋下徹なんてまさにそういう人ですよね。しかし、これとCとは矛盾してしまうんどえす。Aの人たちの価値基準に従えば、第二次大戦で日本がアメリカ相手に勝ち目があるわけもない戦いに打って出たことは愚行以外の何物でもないし、だまし討ちのような形で戦争を始めたのに結果ボロ負けしたことなどは恥以外の何ものでもないことになります。でもCの人達はそれに納得したくないわけですよね?

その一方で、上記A-Cの反知性主義者達に共通しているのは「自論に対して異議を唱える人や利害が異なる人がどのように反応するかを考慮していない」ということです。例えばウクライナに降伏せよと主張する彼らは、仮にウクライナが全面降伏した後にロシアがウクライナにどのような苛烈な扱いをするかを想像できていないですよね?だからこそウクライナ人は安易に降伏せずにほどほどにマシな停戦合意に持ち込むために戦っているわけです。Bの安倍晋三のような核武装論者も、日本が仮に核を持とうとした場合、周辺諸国との間に緊張をもたらすことまで本気でシミュレーションしているようには思えないです。

 たとえて言うなら、彼ら反知性主義者は「ゲームでしか麻雀をやったことがない人」のように見えるのです。ゲームの麻雀ではいくらでも他のプレイヤー(実際の人ではない)を待たせて考えることもできますし、なにより負けたところで掛け金も何も失うものがありません。しかし、本物の麻雀では流れを悪くしないように配慮しなくてはいけないので周りを待たせて長時間ゆっくり考えることはできませんし、負けたらいくばくかの掛け金も持っていかれるわけです。

 このような独善的な自己愛に耽溺している反知性主義者達は、プーチンとよく似ているように見えます。一部報道では、プーチンは発狂まではしていないものの、長い独裁体制で視野狭窄になっていて、ウクライナや国際社会の反応を十分にシミュレートできていないまま今回の軍事行動に踏み切ったのではないかと言われています。これがどこまで事実なのかはさておき、仮にそれが正しいとするなら、プーチンの起こした軍事行動について、日本のテレビではプーチンの劣化コピーみたいな人達が意気揚々とコメントしていることになるわけです。

 プーチンおよび日本の反知性主義者は、岸田秀の「内的自己/外的自己モデル」に照らして考えると内的自己そのものであるように思えます。日本のテレビはこのような反知性主義者をどんどんテレビの画面に映し出していますが、その一方でここ最近の日本社会には「各国と連帯してウクライナ支援しよう」という空気が主流になってきているように見えます。これは、岸田秀のモデルで言うところの外的自己にあたると言ってよいでしょう。このように国際社会のチームワークの一翼を担うこと(=外的自己の充足)に対しては、日本人はオリンピック以来の高揚感を感じているようにも見えるのです。結果的に、シリアやミャンマーの難民には何もしなかったのに、ウクライナの難民だけはものすごい勢いで受け入れようとしていますよね?

Everybody wants to rule the worldという曲は冷戦終結が見え始めた1985年くらいに流行った曲です。一説ではこの曲はジョージ・オーウェルの「1984」をモチーフにしているとも言われています。みんなが世界を思い通りにコントロールしたい…でも、そんなことは歴史上ほんの数人しか成しえなかったことです。たとえそれを運よく達成できたとしても、孤独と猜疑心の中を生き続けた末に寂しく死んでいった人がほとんどだったのではないでしょうか。僕にはプーチンがそういう系譜の一人のように思えてなりません。

2022年1月10日月曜日

千と千尋の神隠しは日本社会そのものを描いているように見えた

 あけましでおめでとうございます。今年も読んでる人がいるのかもよくわからないblogを時々は更新していこうと思います。年明け早々にテレビで「千と千尋の神隠し」を放送していたので録画しておいたところ、子供がハマったようで何度も一緒に繰り返し見てしまいました。何度も見てるうちに、「千と千尋」は日本社会の問題点をそのまま描いているように思えて仕方なくなってきました。ネットで検索すると油屋はホワイト企業という記事もあったりもするのですが、たとえネタではあってもそれはこの映画の趣旨からすると違うんじゃないか?と思ったので、そのあたりを順番に書いてみようと思います。

「千と千尋」の舞台となる油屋で働く人々は湯婆婆に本当の名前を奪われて、代わりに源氏名のような名前を与えられて支配されています。そして、従業員はたとえカオナシやクサレ神であっても基本的に「お客様」として丁寧に接することを要求されています。これは、個人としてのアイデンティティを殺して「お客様」に対してマニュアル化されたサービスを提供することを要求される日本の社会をそのまま描いているように見えました。 

 そして、お客様として理不尽な立ち振る舞いをするカオナシもまた従業員と同様に「自分がない」のです。「自分がない」から金を食べ物やサービスと交換する経済活動を通してしか他人と接することができないわけです。これって、日本そのものだと思いませんか?

設定やビジュアル面でも油屋は「八百万の神」「お風呂」「老松」「平安風の装束」など、これでもかというくらいに「和=日本」が強調されています。そして、物語の中盤で名前を取り戻した千尋は油屋から外に出るときに洋服に着替えます。これは、「油屋=日本社会=自分が千である世界」から脱出する道を歩み始めたことを象徴しているように見えました。

では「湯屋=日本社会」から自由になるにはどうするか?「名前=自分」を取り戻しただけでは湯屋からは自由にはなれません。更に、自分を縛り付ける「契約=ルール」を解除することが必要になります。映画の最後で湯婆婆は「豚の中から自分の親を見つけられれば元の世界に戻してやる」と千尋に言い渡します。このゲームのルールは、暗黙のうちに「この中に千尋の親がいるはずだ」という思い込みを与えるようにできています。しかし、これに惑わされない千尋は「この中には自分の親はいない」と、何の躊躇もなく言い当てます。このシーンは、「押し付けられたルール(社会規範)の外に出ない限りはルールから自由になることはできない」ということを示唆しているように思いました。

以上で「千と千尋」について書きたかったことはだいたい終わりなのですが。長らくblogをやっていると、何か書こうと思ってキーボードに向かってみたものの、書いてるうちに自分が昔似たようなことをblogに書いたことを思い出すことがあります。今回も、書いてる途中で「昔似たようなこと書いたよな」と思って検索してみたら、このblogを始めた直後に同じようなことを書いていたじゃないですか。そう、スペインのように「お互いに許し合う社会」では日本人のような病み方はしないですよね。同じラテン系くくりになりますが、ちょうど この前読んだイタリア人の精神科医が日本について書いた記事にも同じような記述がありました。

「会社や学校など世の中の建前に合わせようとするあまり、自分が思ってもいないのに、無理してうわべだけ取り繕おうとする。そうした“感情労働”が心をむしばむのです。