2020年1月27日月曜日

「誤解を与える表現」という言葉は絶対に謝罪につかうべきではない

日本のそこそこの大きさの会社でサラリーマンをやってると、どうしても組織間の利害調整というのは避けて通れない問題になります。だから管理職という仕事が必要になったりするのですが。まぁ、下々の立場から見ると社内の利害調整や政治ごっこでエネルギーを消耗しているのは会社の内部損失でしかなくて、管理職なんていうものは必要悪でしかないように思えるのですが。それを当の管理職をやってる方々の前で言うと烈火のごとく怒りだすので、20代ならまだしも、さすがに40代ともなると表立ってはそういうことを言えなくなってきます。
世界が上手く回らないからお金をもらえるという意味では、セロテープの台やクリップなどを作ってる人と日本の管理職は同じような仕事のように思えるのです。もし世界中の文房具がちゃんと循環すればおそらくセロテープの台やクリップは新しく作る必要なんてないですよね?もしも僕が総理大臣になったら、こういう風に「世の中が上手く回らないことで利益を得ている人」の給与は生産的な活動に寄与している労働者より安く設定したいです。

さておき。40代ともなると、一口に会社員といっても立場は色々です。入社同期の間でも管理職になって出世街道まっしぐらの人もいれば、この先一生ヒラ社員がほぼ確定している人まで、会社員人生はそれなりに明暗が分かれています。そんな中、同期でも出世街道まっしぐらの二人の管理職の同期が、先の見えない目下ヒラ社員の僕に仕事を頼みたいと言ってきました。同期がそれなりに会社を動かせるいい時代になってきたので、その中で一緒にいい仕事ができるならと思って、彼らの話は前向きに聞いていたのですが。

ある日呼ばれて会議室に行ってみると、要するにこういうことを言われました。
・技術的な実現可能性を度外視した「ドラえもんの道具のような技術」を実現してほしい
・これを来年のいついつまでに実現できなかったら今進めてる企画がストップする
・スペック的に君しかやれる人がいない
・でも僕の上司に話をしたら、その仕事は部門としては受けられないと言う
・だからこっそりやってくれないか

これはさすがに引き受けられるわけがないです。第一に、サラリーマンとしては上長の知らないところで勝手に何かをやるのは極めてリスクが高いのです。もし仮に彼らの無理難題を実現できたとしてもそれは「勝手にやってた」扱いになって、成果を正当に評価してもらえない可能性が高くなりますし、これで失敗したときなんてもっと不利な立場に追い込まれるでしょう。

更に、彼らの要求は技術的観点からは「僕に頼むよりドラえもんを探した方がよっぽど建設的な努力だと思うよ」と言った方が妥当なレベルなことが含まれていました。言ってることの全部が実現できないと本当に困るとは彼らも思って無いのかもしれないけど、自分が要求していることの実現可能性について自分の頭で考える責任を放棄して好き放題言ってくるような素人とは一緒に仕事できないです。こっちだってまがりなりにもプロなので。まだ「素人レベルの思い付きですいませんが、こんなことできないかな…って考えているんですけど…」くらいの言い方だったら相手にできるんですけどね。

そんなこんなで、結局同期の彼らには「ちゃんと筋を通して表口からちゃんと頼んでこないんであれば、君たちの相手はできない。それにしても君達の言ってることはあまりに自分たちの都合だけ一方的に主張してるように見えるんだが。本当に仕事頼みたいなら同期とはいえ最低限の礼は尽くすべきだろ?」という内容の返事しました。それに対して同期の彼らは各論について「アレとコレについては事実誤認だ」などの言い訳をしてきたんですが、その中で「誤解を与える表現があったのは認めますし、それについては謝罪します」という一文があったのです。この言い方、本当に気分が悪いです。

まず、「誤解」という言葉を使ってる時点で「オレの思ってることが正しいのに、お前の理解が間違っている」と言ってるように見えます。しかも「与える」という言い方が上から目線で気分が悪い。正しく意図を伝えられなかったのは完全にそちらのミスなので、素直に「私の言い方が悪かったです。すいません。」と誤った方がはるかに誠意が伝わると思うのですけどね。

つまり、「誤解を与える表現」という言い方は、「謝罪」という意図そのものに対して再帰的に「誤解を与える表現」になってしまうのです。人に謝るときにわざわざこんな言い方をするのは「オレは形だけ謝ってるけど本当は自分が悪いなんて思っていないからな」という意図を含ませたい場合を除いて、何のメリットもありません。実際にこの「誤解を与える表現」というワーディングは自民党の政治家の常套句になってきましたが、彼らはみんな判で押したように「形だけ謝っている」のです(最近では、もはや謝るのもやめて「謝らなければ責任は問われない」という意味不明の対応に出るようになってきましたが)。

このような悪意のある言葉は非常に高い感染力を持っています。「誤解を与える表現」という言葉を使って釈明してきた同期の彼も、たぶん本音では自分が悪いなんて思っていないんじゃないかと思います。そうでもなければ、わざわざこんな言い方しないでしょ。こうやって自民党の政治家のマインドを一般市民が内面化させた結果を、よりによって会社の同期から直接突き付けられててしまいました。

上司から訳のわからんファンタジックなことを言われるのより、やんわり友達や味方だと思っていた人からこういうこと言われる方がこたえるな。おじさんにはおじさんなりの辛さがあるのです。

2020年1月26日日曜日

ポテトチップスと住宅

子供がそこそこの年齢になってくると、子供が食べたがるけど食べさせたくないようなお菓子は自然と自分では買わなくなってきます。その代表例がポテトチップスなどのスナック菓子です。ビールのツマミとしては自分は時々食べたいけど、あんまり子供には食べさせたくはないのです。なので、買うとしても辛くて子供が食べれないやつになることが多いです。そんなポテトチップスなんですが、最近スーパーの店頭でまじまじとカルビーの袋入りのポテトチップスを見たら、なんか小さくなってる気がしたのです。

検索してみたらやっぱりそうでした。僕が育った80年代には90gだったのが今は60gなので、昔に比べたら2/3程度に減ってるようです。一時期はサイズを維持するために1袋が100円以上だった時期もあったような気がしますが、紆余曲折の末に100円で買えるサイズに落ち着いたのでしょう。
ポテトチップスがこういう変遷をたどる理由の一つはおそらく、輸入しにくいということなのでしょう。あんなに空間効率が悪くて割れやすいものは輸入しにくいので、日本で作るしかない。だから、どうしても高くなってしまうのではないでしょうか。

住宅についても全く同じような傾向を感じています。最近中古で家を買うことを考え始めているのですが、最近の住宅は自分が子供の頃の家に比べたら明らかに小さいです。しかも、家としての質もピンからキリまで色々あって、安い建売りの住宅については作りが明らかにチャチなものが多いです。住宅も海外から建材を輸入したりするには限界がある上に建設に携わる人の人件費は当然日本で発生するので、ポテトチップスと同様に「現実的な価格を維持するためには大きさや質をダウンするしかない」のだろうと思います。

YouTubeで僕が子供の頃の80年代のアニメの動画を見てたら、全体的に作りが丁寧なんです。オープニングやエンディングの歌も、「これアニメの主題歌にしては随分よくできてるな」と思ってよく見てみたら、羽田健太郎、久石譲、大野雄二なんかが作曲や編曲に携わっていたりします。これなんて作曲がタケカワユキヒで編曲が久石譲です。また、当時は今みたいにPCでなんでもできる時代ではなかったので、アニメの歌の伴奏も弦楽器、管楽器など含めて色々な楽器の生演奏が使われています。まだこの時代は今ほどアニメの地位は高くなかったのですが、それでも「テレビで放送される物に要求される最低限のクオリティ」の水準が今より断然高かったのだと思います。

これらの事例は、日本という国が衰退局面にあることを示しているように思います。僕は経済についてはもちろん素人なのですが、直感的には日本全体が貧しくなっていくので「安かろう、悪かろう」しか選べないことがだんだん増えていってるんだと思います。そんな中でもそれなりに楽しみながら生きていく方法を見つけることが、これから先の日本を生きていく上で必要なんだろうなと思います。

2020年1月8日水曜日

「怒りの獣神」ライガーの引退によせて

僕が子供だった80年代にはまだゴールデンタイムにプロレスの放送があって、プロレスはそれなりに人気コンテンツでした。でも、残念なことに僕の母はプロレスを嫌悪していて、家ではプロレスを全く見れませんでした。その恨みの反動か、大学生になったあたりで突然プロレスに目覚めて、それ以降はそれなりにプロレス好きになってしまいました。

でもライガーは正直あんまり好きではなかったのです。なぜ好きじゃないか。を説明すると、
A. イチローのように「表面的なストイックさの向こうに幼稚な自己愛が透けて見える」 
B. 「怒りの獣神」の名の通り、「怒り」のような負の力で駆動され(ようとし)ているから
こんなところでしょうか。

Bは橋本真也にも通じるところもあるのですが、橋本真也の場合は「怒り」とは言っても、昭和のヒーローアニメにおける「正義」と直結したような、もっと幼稚で楽天的なものです。ここで、永井豪を経由してライガーと橋本は繋がる(橋本真也はお風呂にマジンガーZの人形を持ち込んで「ぎゅーーん」とか言いながら遊んでいたんだそうです)のですが、それと同時に永井豪という視点から見ると両者は隔てられます。

橋本真也の「勧善懲悪的な正義の怒り」に比べると、ライガーの背負ってる「怒り」というのは、例えば三島由紀夫が大絶賛したという総長賭博のように、義理とか世間とかいろいろな要素に挟まれている大人の怒りです。これまでこのblogで言及してきた言い方をすると、日本人の内的自己のような側面とも言えるでしょう。

この「内的自己=怒り」こそが欧米のプロレスと日本のプロレスを隔てる最も大きな要素であったのではないでしょうか。しかし、昨今のプロレスには良くも悪くもライガーのように「怒り」によって駆動されているレスラーがいないのです。もし僕の言ってることが正しければ、日本のプロレスはこの先「内的自己=怒り」と決別して、欧米のプロレスに漸近することになるはずですが、さて、どうでしょうかね。

ライガーは最後まで「怒りの獣神」でありつづけました。これを30年も続けるのはそりゃたいへんでしょう。別に自分が怒りたくなくても怒り続けてることを自らに課してきたわけですから。ライガーの引退によって、我々日本人はまた一歩昭和から解放されましたが、それと同時に昭和がまた一歩遠のいたような気がします。しかし、一番解放されたのは誰よりもライガー本人だったのではないでしょうか?

こんな風にライガーの引退を機に色々と考えていたら、僕自身も「ライガー=昭和の怒り=内的自己」から少し自由になれたような気がしました。今まであんまり好きじゃなかったけど、永らくお疲れ様でした。

2020年1月1日水曜日

カルロス・ゴーンは「日本の小ささ」を突き付けて去っていったのではないだろうか?

あけましておめでとうございます。これを書いている現在は2020年です。

なのですが、昨日、つまり昨年末の話をします。年の瀬も迫った大晦日、なんで今頃かいうタイミングで突然降ってきた「カルロス・ゴーン極秘出国」のニュースは、「フジモン離婚」と並んで「しかし、なんでそのタイミングかなー?」という形で2019年に何とも言えない後味を残していったのではないでしょうか。

この件についての日本の報道は「妻が出国の段取りを整えた」とか「楽器のケースに入って出国した」といった表面的な話を取り上げているだけで、本質的な問題については切り込んでいるようには見えません。その姿勢には、うっすらと「都合が悪くなったら結局逃げ出したガイジン」というメッセージが裏書されているような空気だけはあります。

一方で、ネットに目を向けていると、本件については賛否両論に分かれるのですが。この賛否両論の両陣営が全くと言ってよいほど噛み合っていないのです。噛み合ってないというか、左寄りの僕から見ると、右側の論調が結局「日本の入管とか、(彼らの言うところの)パヨクとか、いずれにせよゴーン氏ではない何かを非難する」形にしかなっていないのです。

より具体的な例を挙げて説明すると。左寄りの人がこの件についてコメントすることをまとめると、
・政権に近い側の人間はレイプしようが何しようが逮捕されない
・『桜を見る会』に至っては首相が明らかに詰んでいるのに検察が逮捕に踏み切れない
・このような状況を鑑みるとこの国は、法治国家ではなく人治国家である
・ゴーン氏の逮捕も、日産をめぐる駆け引きの末の国策逮捕的な側面が否定できない
・拘留中の劣悪な待遇も含め、この国には『人権』という概念が明らかに欠けている
・以上より、逃亡は合理的な判断だと言える
だいたいまとめると、こんなところでしょうか。

一方の右側のコメントは
・人質司法というけど、今回は保釈されているんだからそれには該当しない
・入管何やってんだ、ちゃんと仕事しろ
・日本はなんだかんだで甘すぎる。なぜ保釈した?
・レバノンは超人治国家のコネ社会なので、日本政府への引き渡しなんてたぶんしない
・でも、ここでナメられると日本の沽券にかかわるのでレバノンに毅然と立ち向かえ
・それにしてもサヨクが…(本件についてのサヨクの見解に対する悪口)
とかまぁ、言ってはいるけどなんかちょっと分が悪いんじゃないかなと思います。

これらを総じて一言で言うと、カルロス・ゴーンは日本という国の「小ささ」を我々に突き付けて去っていったのではないでしょうか?わかりやすいところから言うと、15億円なんていう保釈金は僕のような庶民からしてみれば大金ですが、世界的な富豪からしてみれば自由の代償としては十分に元が取れちゃうわけですよね?その辺りの勘定があまりに庶民的過ぎたのではないでしょうか。

「レバノン=人治国家のコネ社会」については、ヨソの事をどうこう言えないくらい日本もどんどん人治国家の国になっていて、ゴーン氏の言い分によると彼が日本から逃亡するに至った理由もそこなわけですよね?でも、中東は昔から露骨に「カネとコネ」で社会が成り立っている世界なので。レバノンのヒーローで、世界的な大富豪であるゴーン氏によるレバノン政府への介入なんて、安倍政権よりもはるかにスケールが大きくてエグいんじゃないかと思います。

安倍晋三とカルロス・ゴーンは「短期的な自己利益の追求のためには悪いことだってする」「世の中はカネとコネ」という点では、同じセントラルドグマを共有していると思います。だから、安倍応援団はゴーン氏やレバノン政府を非難できないんじゃないでしょうか。彼らを攻撃することは、自分が応援している安倍晋三や、その国政運営をも否定することになってしまうわけです。結果的に、安倍応援団は本件について入管だったり彼ら言うところのパヨクだったり、そういう人達に対してどこか歯切れの悪い攻撃をするだけになってしまうのではないでしょうか?