2023年12月31日日曜日

過去の栄光を振り返ることの方が日本人にとってリアリティがあるのではないか?

気が付けば2023年も最後の日となりました。先日冬休みになったと思ったのに、もう31日になってしまったので、せめて今年最後の悪あがきにこのblogに一筆したためようと思います。2023年を振り返ってみると…あんまり後ろ向きな事ばかり言いたくないのですが、今年は日本の劣化と没落がいよいよ目に見える形になって表れた年だったのではないかと思います。ダイハツ、宝塚、ジャニーズ、ビッグモーター、自民党…数々の不祥事が明らかになっただけでなく、急な円安が進んだ影響で物価の高騰が庶民の生活を直撃しました。

そんなご時世に丁度合わせたかのように「葬送のフリーレン」の放映が今年の秋から始まりました。この作品は長寿のエルフである魔法使いフリーレンが、亡くなった勇者ヒンメル達との過去の冒険の足跡をたどりながら「人の心を知る」ための新たな冒険を始める…という話です。これまでの少年漫画だったら、魔王を倒すための現在進行形の冒険物語なのですが、フリーレンは魔王を倒したかつての旅の思い出を振り返る旅をしています。

この「過去の栄光の日々を振り返る」という作業こそが、今の日本人にとって最もリアリティがあることなのではないかなと思うのです。少し脱線しますが、何年か前からアニメやラノベでは異世界転生モノの作品が人気を集めていて、今も毎シーズン必ず一つは転生モノのアニメが作られています。これが結構長い間続いているのは、今の日本人にとって「転生する」ということにリアリティがあるからだとずっと思っていたのですが。。フリーレンは日本人にとってのリアリティが「(斜陽化する現実から脱出するための)転生」から「(斜陽を真正面から認めて)過去の栄光を振り返ること」に移行しつつあることを示唆しているように見えるのです。

東京オリンピックが総括されずにウヤムヤに終わったまま、今も大阪万博や札幌オリンピック(こっちはやめる方向らしいですが)などの「過去の栄光」の再生産に日本の政治家は躍起になっています。ここには建設業界や広告業界等との利権の問題もあるのでしょうが、単にそれだけというわけでもないのではないかと僕は思います。「クールジャパン」がウヤムヤでどこかに行ってしまった今となっては、日本人には世界(=外向き)に向けて誇れる(と思える)自国の存在意義が見えないのではないでしょうか?だから、日本人は内向きに「過去の栄光」を反復再生産しようとする事くらいしかやる事がないのだと思います。

なんだか救いの無い話になってしまいましたが、フリーレンに救いがあると思えるのは、エルフであるフリーレンには「名誉」とか「お金」といった人間らしい欲がほとんど無い事です。魔法を使えばお金を稼ぐ方法はいくらでもあるはずなのに、フリーレンはそういう事には関心がありません。そして、フリーレンの旅の目的は「魔法の収集」と「死んだ仲間にもう一度会う事」だけです。フリーレンは斜陽国日本の若者に対して「世間の価値基準にとらわれずに、自分の好きな事と、自分の大切な人との繋がりを大事にする」というロールモデルを提供しているように見えるのです。そこには何か希望があると思いたいです。

2023年12月2日土曜日

進撃の巨人の完結に寄せて

このblogに進撃の巨人について書いたのは、もう10年も前になります。あれから10年間、何度となく続きが気になって仕方がなかったのですが、それでも漫画を読まずにアニメでだけ見るという事を続けてきました。漫画を買うお金や買った後のスペースの問題もさることながら、どうせアニメで見るんだったらそれまで漫画は読まないという大人のスタンスを10年間続けたのです。この10年間、エレンも僕も頑張りました。終わってみての感想がどうこうというよりも、長く続いたものが終わったという喪失感のようなものの方が大きかったです。

まず、最初に言うべきこととしては、当初の予定通り伏線をしっかり回収して「終わり切った」ということです。どれだけ最初にストーリーを考えているのかよくわからないですが、かなり最初からストーリーをちゃんと設計されていた作品だったのでしょう。原作の漫画はちゃんと読んだことないのですが、時系列が頻繁に入れ替わったりしていて、地ならしのシーンも割と早い段階で断片的に描かれたらしいです。行き当たりばったりで話を作っていたらさすがにこんなことはできないと思います。

そして、アニメの最終話は狙いすましたようにパレスチナ情勢とリンクする時期に公開されたと思います。現在のパレスチナ情勢は、(1)かつてナチスを含めて世界中で迫害されてきたユダヤ人がイスラエルを建国し、(2)今度はユダヤ人がパレスチナ人を迫害する…という歴史によってもらされました。かつてユダヤ人がかつてやられた迫害をそのままパレスチナ人にやり返しているようにも見えますね。

話は戻って進撃の巨人ですが。この作品におけるマーレ人とエルディア人の関係はナチスのユダヤ人迫害をモデルにしているらしいです。その結果として、エレンは地ならしで人類の8割を踏みつぶしてでも、エルディア人が国際社会から攻撃されずに存続できる世界を作ろうとします。これは(1)のイスラエルの建国になぞらえることができるのではないでしょうか?しかし、実際にはその計画は成就せずに、パラディ島も最終的には対外強硬派が勢力を伸ばして、(2)のような排外主義に向かうのをアルミン達が説得しようとする…というところで話は終わりました。

その先のエンディングでは、エレンの眠るパラディ島にも最終的には文明が発達し、最後はその文明も戦火によって壊滅する…という非常にペシミスティックなエピローグが展開されます。これには、未来少年コナンや風の谷のナウシカにおける宮崎駿の文明観に近い物を感じました。そもそも、巨人が炎の中を歩き回る「地ならし」は、絵面だけ見ると「火の七日間」そのものですよね。

物語の終盤でマーレ軍の司令官が地ならしに立ち向かう兵士に向けてこのように語りかけます。この言葉を発した司令官とアルミン達エルディア人が最終的に和解するところには少しだけ救いがあるようにも思いました。

この責任は我々すべての大人たちにある。
我々が至らぬ問題のすべてを悪魔の島へ吐き捨ててきたその結果あの怪物が生まれ憎悪を返しに来た。 
もしも再び未来を見ることが叶うなら二度と同じ過ちは犯さないと誓う。再び明日が来るのなら・・・。
 皆もどうか誓ってほしい。憎しみ合う時代との決別を互いを思いやる世界の幕開けを。
ここで私達の怪物との別れを・・・と。

2023年11月19日日曜日

「君たちはどう生きるか」について、今更ながら少々

 2か月このblogを放置していました。というのも、10月中旬からものすごく忙しくなったのです。3週連続で週末新幹線に乗って大阪や東京に行ったり、父の容態が怪しくなって実家に帰ったり…「君たちはどう生きるか」も10月上旬くらいに観たのですが、それについて何かを書き留めることもできないままでした。たぶん見た直後で記憶がフレッシュなうちに書いていたら本稿のクオリティはもっと高かっただろう…と思いつつも、どうしても放置するわけにもいかない気がするので覚えている限りのことを書き連ねてみようと思います。

前評判では「意味がわからない」という人が多かったそうですが、まぁ、そういう反応も出るだろうなと思います。これまでの多くの宮崎作品と違って、この作品は子供でも楽しめるエンターテイメントとして成立させることを最初から放棄しています。でもその分だけ、「見る人それぞれの見え方がある」という映画になっているのではないかと思います。そして、「君たちはどう生きるか」という戦後民主主義のバイブルをそのまま映画のタイトルに据えていることからも伺えるように、本作は戦後民主主義を大きなテーマにしているように見えました。

僕には、主人公の大叔父が戦後民主主義という制度を象徴しているように見えました。インコ=ネトウヨがどんどん勢力を増している中で、それでもなんとか世界を維持しようとする大叔父。そして、その力はそもそも「ある日突然空から降ってきた隕石」によってもたらされたものです。これは戦後民主主義が自分達で努力して獲得したものではなく、敗戦によってアメリカという外界から突然我々日本人に降ってきたものである…ということに対応しているように見えました。そして、戦後民主主義という「突然降ってきた制度」の下で、なんとか日本が安寧に運営されるように努力しつづけた上皇陛下と大叔父が重なって見えました。

ネットで探した限りでは、「大叔父は後継者が現れないジブリでいつまでも頑張り続ける宮崎駿本人を象徴しているように見える」という人もいました。それもわかる気がします。「風立ちぬ」の主人公もそうですけど、ここ最近の宮崎駿の作品は「自分の分身」を作品に登場させることを厭わなくなりました。「ポニョ」に出てきた老人達だって宮崎駿自身の「老い」を象徴しているようにも見えましたしね。「君たちはどういきるか」は、こういう風に見る人によって色々な見え方がする映画なのだと思います。

物語の最後の方に主人公がアオサギを「友達」と呼ぶシーンがありました。アオサギは自己中心的なところがあって一筋縄ではいかないキャラクターですが、こういう相手も「友達」として手を取り合って社会を形成していく覚悟がこの先を生きる日本人に必要だと言っているように思えました。戦後長く続いたアメリカ一強の世界が転換点を迎えつつある時代には、外国=アオサギと友達になる覚悟が必要…と言ってるのかもしれないですね。

他にも「母(的なもの)からの自立」ということも、この作品の大きなテーマだと思います。物語の最後の方に大叔父に向けて主人公が「友達」という言葉を使った時にはアオサギだけでなくヒミやキリコも対象に含まれていました。母の断片を投影したようなヒミやキリコと「母子関係」ではなく「友達」として接すると宣言することも、この作品の重要なポイントなのだろうと思います。

2023年9月17日日曜日

ゴミを拾う前に、相手のフリースローでブーイングするのをやめさせた方がいいと思う

ここ最近はラグビーのワールドカップが日本全体で大きな話題となっています。おかげで、ちょっと前まで沖縄で開催されていたバスケのワールドカップはすっかり記憶の彼方に追いやられてしまった感がありますが、バスケのワールドカップも結構日本中が湧いてましたよね。ワールドカップの決勝トーナメントには進めなかったけど、アジア1位になったことで悲願のオリンピック初出場を獲得したのでした。

 それはそれでよいのですが、最後にアジア1位をつかみ取ったカーボベルデとの試合で、カーボベルデの選手がフリースローをするたびに会場全体からブーイングが飛んでいたのがどうしても気になりました。途中まで楽勝ムードだったのに最後になって日本のシュートが入らず、点差がどんどん縮まっていく中で観客のフラストレーションも高まったいたのだとは思いますが。しかし、ホスト国としてこれはみっともないと思います。

バスケとか沖縄とか、特定の社会集団の民度が特別低いというわけではないと思うのです。しかし、外国で開催されるサッカーのワールドカップでは必ず日本人サポーターがゴミを拾ってブリっ子活動を展開していることと比較すると、この落差はどうなんでしょうね?

これを説明するモデルとして、日本人論の伝家の宝刀である「ウチとソト」が妥当なのではないかと思います。サッカーの試合だって、ソト=ワールドカップの会場ではゴミを拾ったりしてみせる一方で、ウチ=日本国内では渋谷の交差点で若者が暴れているわけですよね?これが日本で開催されてしまうと、ソトがなくなって全部ウチになってしまった…というのがバスケのワールドカップでのブーイングなのではないかと思います。

以前、 なぜ日本人のグローバル化は外にしか向かわないのか という投稿をしたことがありました。外向きにはクールジャパン(もはや懐かしい…)などと言ってはしゃいでる一方で、日本国内にいる外国人に対して日本人は極めて冷淡だという事をここでは論じていたのですが。今にして考えれば、これもバスケのワールドカップで露呈した日本の「ウチとソト」と同様の話だったのだと思います。

 ワールドカップの会場でゴミを拾うのは結構ですが、それよりもフリースローでブーイングをしていた日本人を何とかする方が先なんじゃないかな?と僕は思いますが。

2023年8月24日木曜日

隠蔽される被害者

 これを書いている2023年8月24日は、夏の高校野球の決勝戦が行われた翌日です。この年の高校野球では、慶応高校の快進撃が続いた末にとうとう優勝しました。土浦日大や浜松開誠館、慶応などの坊主刈り強制ではない学校の活躍を僕はすごく好意的に捉えていました。しかし、準決勝くらいからなんだかこれは違うのではないか?という気がしていました。慶応が勝ち上がるにつれて、メディアの持ち上げ方が何か常軌を逸しているのがどうも気になってしまったのです。

慶応の話から急に変わりますが、今日は福島の原発の汚染水が海洋放出された日です。しかし、報道ステーションの最初のトピックは「大谷翔平靭帯断裂」で、これについて15分くらいの時間を使った後にようやく汚染水の海洋放出についての話になりました。いくら大谷翔平が国民的関心を集めているとはいえ、ニュースとしての重要度はどう考えても原発の汚染水の海洋放出であるべきでしょう。しかし、日本のメディアにとっては大谷選手の方が重要事項なのでしょう。

話を慶応に戻します。僕が途中から慶応の野球部を素直に応援できなくなった理由は、彼らが大谷翔平と同じような文脈でメディアで扱われていたことにあるような気がするのです。慶応高校も大谷翔平も、弱者や被害者を隠蔽してフタをするためのコンテンツとして消費されているような気がしてならないのです。数年前から日本のメディアが狂ったように大谷翔平の一挙手一投足を追いかけ続ける背景には、日本という国の急速な劣化や衰退を見たくないという日本国民の「集合的無意識」のようなものが働いているようにも思います。

ここ数年、日本のテレビは地上波で「火垂るの墓」を流すのをやめました。そして、学校で唯一読める漫画だった「はだしのゲン」も日本の学校から姿を消そうとしています。これらはいずれも、無能な政治家によって破滅的な戦争を継続した結果として犠牲になった被害者達を描いた作品です。しかし今の日本人はこういった被害者の姿を病的に忌避したがるようになりました。汚染水の海洋放出で不利益を被る漁業関係者もさることながら、そもそも廃炉作業が遅々として進まない福島の原発自体も「被害者」だと言えるでしょう。でも、日本のメディアは徹底して被害者の姿を隠蔽しようとしています。

なぜこうなってしまったのか?という事について僕なりに考えてみました。おそらく日本人は東日本大震災以降ずっとみんな「自分たちは被害者であり加害者でもある」という意識を背負ってしまったのではないかと思います。この事実をから目を背けるために、大谷翔平のような「勝者」だけを見つめる作業に耽溺し続けているのではないでしょうか?高校野球の慶応フィーバーにも似たような雰囲気を感じてしまい、そこからは慶応を応援する気分にどうもなれなくなってしまったのでした。

念のため申し上げておきますと、慶応高校野球部のスタンスには僕は賛成です。問題なのはメディアの持ち上げ方なのです。これは関西でいうところの「阪神タイガースは好きだけど阪神ファンは嫌い」みたいな話だと思ってください。。

2023年8月20日日曜日

少子化対策のモデルとしてフランスは無理筋でしょう

夏休み最終日です。アレもコレもやろうと思ってたけど…まぁいつも通りほとんど何も生産的なことをやらずにぼんやり過ごしただけの夏休みでした。せめてこのblogに1個くらいは投稿しておこうと思います。

自民党女性局の観光旅行としか見えない視察旅行については、色々と非難の声が上がったのは皆さんご存知のことかと思います。これ自体の是非はさておき、日本が本気で少子化対策をするなら、フランスの制度を猿真似しようとするのは無理筋だと思います。

まず、フランスという国は旧植民地出身者も含めた他民族国家なのです。6月にフランスで暴動が起きましたが、あの事件の背景は単純な「移民との格差」という話ではなく、アフリカなどの旧植民地にルーツを持つ人の2-3世代目の人々の不満が背景にあります。彼らは移民ではなくフランス人として生まれているのですが、郊外に設けられた貧しい社会階層向けの区画に押し込められて、文化資本や社会的上昇の機会も十分に与えらないまま育ってきた人達です。

つまり、移民が社会から不当に扱われながらも名目上フランス人になることを第二次大戦の後からずっと続けてきて、移民や移民ルーツの人々によってフランスの人口は見かけ上は支えられているわけです。しかし、日本がそこまで移民を受け入れることができるのでしょうかね?技能実習生という奴隷制度を引き合いに出すまでもなく、日本の現政権は移民や難民の受け入れに対してとても消極的です。

そして、婚姻という制度や婚外子についても日本よりはるかにフレキシブルです。フランスでは同性婚、PACS契約など婚姻についての制度が非常に柔軟です。結婚していないのに子供が何人もいる人だって普通にいます。これに対して、日本の現政権は夫婦別姓や同性婚に対して否定的ですよね。

更に言うと、宗教観の違いというのもあると思います。カトリックでは中絶に対して否定的な文化がありますし、一神教の世界観では「子供を生かすかどうかは神が決める」という感覚が大なり小なりあるようです。だから、難民キャンプでもどんどん子供が生まれたりするそうです。日本で同じことができますかね?例えば日本では高校生が妊娠しても学校は助けてあげるどころか退学させて知らんふりしたりしますよね?

他にも色々思うことはあるのですが、あとは大昔にblogに書いた通りです。フランスと日本では文化的に違いすぎるし、なによりフランスの出生率は現政権が嫌がる移民(多民族国家化)やフレキシブルな婚姻によって支えられている側面があります。日本の少子化を本気でなんとかしたいのだとしても、モデルケースとしてフランスは無いのではないかと思います。

最早少子化は「解決すべき問題」と考えるのではなく、国土に対して人口を適切化するプロセスだと前向きに捉えた方がよいと思います。大きく見れば世界人口は増加の一途をたどっているのですから、そこにブレーキをかける方向に向かっているのは社会貢献と考えてもよいのではないでしょうかね。

2023年8月18日金曜日

高校野球と敗戦について:2023

夏休みも半ばを過ぎました。夏休みになったら本も読もう、楽器を触ってみよう、仕事に関係する勉強も少ししてみよう…とか思っていたのですが。今年もいつも通り気が付いたら高校野球を見ながらぼんやり過ごしています。「高校野球は第二次世界大戦の戦没者を慰霊するために上演される能である」という事は以前からこの時期になるとこのblogで申し上げていることです。しかし、2023年の高校野球を見ていると、そろそろここから脱却できるのではないか?という希望が少し見えてきました。

今年は慶応、花巻東、浜松開誠館、土浦日大などの坊主刈り強制ではない学校が活躍しています。これを書いている現在では、ベスト8には上記3校が残っています。ベスト8のうち3校が坊主刈り強制ではないということは、髪型は野球の成績とは関係ないという事を証明しているのではないでしょうか?

これらの学校は単に髪型が自由なだけではなく、それに伴って高校球児達の立ち振る舞いもかなり違っています。これを書いている現在では浜松開誠館は敗退していますが、負けてもどこかカラっとしていました。慶応に至ってはエンジョイ・ベースボールやthinking baseballといったスローガンを掲げているあたりも含めて、これまでの高校球児とはかなり異質だと思います。

高校野球の伝統校の大半は、いまだにこれらの対極に位置しています。これは単に髪型の問題だけではなく、生徒の人生の自己決定権まで含めた問題だと思います。例えば、大阪桐蔭は監督が生徒の卒業後の進路(プロ、大学、社会人)についてまでかなりの決定権を持っているらしいです。高校野球の間ずっと大人(=監督)の意のままに私生活まで含めて管理されることに慣れてきたんだから、そりゃ自分で進路を決める事なんてできないでしょうね。でも、建前上は高校野球は「教育」なのですから。3年間大人の言いなりになるだけで、卒業後の進路も自分で決められないような人間を輩出するのが教育として妥当なのでしょうかね?

これまでの高校野球は「第二次世界大戦の戦没者=負ける側」を再生産することに主眼を置いて設計されたシステムでした。しかし、上述した学校の球児達は、このサイクルから解脱して勝ち負けから離れたところで、ある程度能動的に野球を楽しんでいるような印象を受けます。髪型というのは表面的な話でしかなくて、本質的に重要なのはそこではないかと思います。かなり飛躍しますが、彼らの姿には日本という国そのものが重なって見えるのです。国=システムのために人がいるのではなく、自分達が生きるために国=システムが存在するという関係を彼らは野球を通して築き始めているように見えるのです。

慶応の前監督のインタビューを読んでいると、それくらいやらないと高校生はわざわざ野球を選ばなくなって先細りしていくということを皮膚感覚として理解しているんだろうともと思います。これは日本の社会に置き換えても本当にその通りで、このままいくと優秀な若者は日本に留まって社会(≒権力のある老人)のために安く働かされることをわざわざ選ばなくなっていくと思います。こういった世相の変化に対して感度が一番低そうだった高校野球でさえここまで変わらざるを得なくなってきたという事について、僕は「ピンチをチャンスに変える」ための絶好の機会として前向きに期待したいと思います。

2023年8月15日火曜日

テレビに歌番組がやたらと増えた理由

今日は終戦の日だというのに、台風で日本中が止まっています。毎年この時期に試合中に黙祷する高校野球も今日は止まっています。終戦と高校野球については散々このblogで毎年触れているにも関わらず今年も思う事が色々あるのですが、それはまたの機会に置いとくことにして。本日は最近テレビに歌番組がやたらと増えたことについて少し触れたいと思います。

最近やたらと地上波のテレビで歌番組をやっているのを目にします。しかもそこには、最新のヒット曲だけでなく、必ず80-90年代のヒット曲が織り交ぜられているのです。このような形式の歌番組が粗製乱造されるのは、若年層はもうテレビを見ていないからでしょう。今やテレビを見ている主たる層が昭和生まれの40代以降です。僕自身もこの中にカウントされるので、こういう番組を目にするたびに自分がテレビというオワコンメディアのメインターゲットの世代なんだなとしみじみ思います。

最近、テレビ局はどんどんプライドをかなぐり捨ててでもとにかく存続しようとしているように見えます。自民党や維新にすり寄ったり、昼間からテレビショッピング番組が流れていたり。。たぶん日本のテレビは新規のコンテンツを作るよりも、メイン視聴者層の40-50代向けに昔のドラマやバラエティ番組を再放送した方が採算が取れると思います。今のところそこまでプライドを捨てきれてはいないのですが、いずれそうなる日も近いのではないかと思います。

そこで歌番組なのですが。昔のテレビ番組を再放送するのはさすがにプライドが許さないけど、昔のヒット曲を織り交ぜた歌番組を新しく作るならまだいける…ということが、最近テレビで歌番組が増えている原因なのではないかと思います。歌であれば、昔のヒット曲でも改めて収録することで新たなコンテンツを反復生産できますよね。

僕は日本のテレビは昭和生まれ世代が楽しめるような方向にもっていって、緩やかに衰退していけばよいと思います。昔みたいに時代劇とか野球中継とかをもっと増やして、さらに2000年以前のテレビ番組の再放送などを増やしていった方がよいと思います。特に野球中継は昔と同じように夕方にテレビをつけたらどこかの局が野球を放送しているくらいの水準に戻してほしいです。中途半端なコンテンツを乱造するよりは、こっちの方がいいと思うんだけどな。。




2023年7月9日日曜日

山下達郎が「やらかしたつろう」になった件について

音楽プロデューサー松尾潔のTwitterでの発言に端を発した一連の騒動で、山下達郎がラジオを通じて釈明をしたけど、あまりに釈明にもなってなさ過ぎて炎上している…という2023年7月9日にこれを書いています。この件のいきさつについては、たとえ10年以上経っても何かしら掘り起こせるだろうと思うので省略します。もし何のことやらわからないという方がいらっしったら「松尾潔 ジャニーズ 山下達郎」くらいで検索してみてください。僕はこの件は10年経っても語り草になるくらいの事件だと思います。

本件に関する山下達郎の言い分の詳細を検証する前に申し上げておきますが、少しまで僕は山下達郎をどちらかというと好意的に捉えてきた側でした。以前、「騎士団長殺し」と佐野元春という投稿をしたことがありましたが、山下達郎も佐野元春と同様に「ヤンキー性がほぼ皆無である=自分が育った洋楽へのリスペクトをそのまま基本姿勢として貫く人」という文脈に属していると思っていました。山下達郎の場合は所謂「ブラックミュージック」への傾倒もあって、佐野元春ともかなりテイストは違っていましたが、だからこそ「ブラックミュージック」に伏流している「権力から搾取/差別される側の苦悩」に対して同情的な姿勢を期待してるところがありました。

しかしながら。。本件についてのラジオを通しての山下達郎のコメントは、あまりに納得感がなさすぎたと思います。強いて挙げるならこういうことかなと思います。

  • 「ジャニーさんの功績に対する、尊敬の念は、今も変わっていません。」と、業界人視点をチラつかせながら、一方で「音楽業界の片隅にいる私にジャニーズ事務所の内部事情など、まったくあずかり知らぬことです」というダブルスタンダードは説得力に欠けるのではないでしょうか?
  •  本当に業界人ならば、一般庶民である我々でさえ昔からうっすら知っていた程度のことを知らないなんてことはまずないでしょう?
  •  「職人気質」というキャラを持ち出せば、政治的な責任を忌避できるかのように思っているのかもしれないですが、自分にかかった疑惑について公共の電波を使って都合のいいい釈明をしようとする態度そのものが政治的だと言わざるを得ない。

山下達郎のファンという層に対する勝手なイメージなのですが、「自分は世間の流行り廃りに流されない独自の価値観を持っている=自分はアホではない」という意識を持った人が多いのではないかという気がするのですが。もしそうだとしたら、山下達郎の今回のコメントは「細かいところにいちいちツッコまずに全部真に受けてくれるくらい、あなたがアホであることを願っています」と言ってるように僕には見えます。

これはかなり致命的にやらかしているのではないか?と僕は思います。彼が音楽を通して積み上げてきたアレやコレがかなり台無しになってしまったのではないかなと思わざるを得ないです。だからこそ今回の件については「やらかしたつろう」と言われても致し方ないのではないかと思います。

2023年7月2日日曜日

「Majiで引退する5秒前」でもいいんじゃないかな?

前回の続きで、ヒロスエの話です。タイトルが何のことだかわからない人は、「MajiでKoiする5秒前」でGoogleで検索してみてください。

 90年代後半のヒロスエの存在感は群を抜いていました。あそこまで誰もがMajiでKoiしちゃいそうな絶対的なアイドルはヒロスエの後に見たことがないです。あれからヒロスエはパッとしない男と結婚して子供を産んで、また再婚したりしてきましたね。その傍らで、特に演技が上手なわけでもないのにドラマに出て…四半世紀ほどの時間をかけて彼女は絶対的なアイドルから「普通の芸能人」のレベルまで降りてきたのではないかと思います。これは、きっぱり引退した山口百恵とも、いつまでも半端にアイドルでいようとし続けた松田聖子とも違うキャリアパスだと思います。言うなれば、ヒロスエは「人間宣言」をして特別なポジションを自ら降りることを選んだのです。

このヒロスエの四半世紀に渡るキャリアパスについては、日本のテレビも共犯関係にあると思います。今になってヒロスエを未だに四半世紀前の「絶対的な存在」だったことにして騒ぎ立てているのはズルいんじゃないかなー?と僕は思います。政治家の不祥事のマスキングなど、そこまでしなきゃいけない理由が何かしらあるのではないかと勘繰ってしまわざるを得ないですよね。猿之助を今更になって逮捕しているのもその文脈のような気がします。それでも、ヒロスエがこれを期に日本の芸能界から引退して鳥羽シェフと二人で幸せに暮らすなら、それでもいいんじゃないかな?という気がします。それはそれで四半世紀に渡る彼女の「人間宣言」の集大成と捉えることができるのではないでしょうか。

ヒロスエそのものについては以上で終わりなのですが、この件についてキッチュこと松尾貴史が非常にマトモなことを言っていました。
昔は「浮気」と言っていたのがいつの間にか「不倫」という言葉の方が一般的になったけれど、当事者にしかわからない状況や事情があるだろうから他人がその人の倫理についてとやかく言うことではないと思います。そして、秘め事の私信を世間に晒すということの方がよほど倫理に悖ることではないですか。
かつて日本のワイドショーは不倫なども含めて連日芸能人の恋愛などのネタを毎日のようにつつきまわしていました。あれはあれでどうかとも思いますが、当時は芸能人の存在自体がとても特別なものであり、「庶民が芸能人の恋愛をコンテンツとして消費している」という世界でした。

大昔の石田純一の「不倫は文化」発言も、「特別な芸能人」である石田純一の言動として話題になったと言えるでしょう。それなりの騒動にはなりましたが、だからといって石田純一は決定的にテレビから干されるようなことにはならなかったわけです(その後自民党にアンチな姿勢を出したところテレビに干されたのですが)。しかし、いつからでしょうかね?たぶんゲスとベッキーくらいからではないかと思いますが、この国では芸能人の不倫は「いじめコンテンツ」として庶民に消費されるようになりました。

ちなみに件の「不倫は文化」発言の際に、それについてビートたけしがコメントを求められたところ、「最後はカミさんに頭下げて『ごめんなさい』って言うようなもんだと思うけどな…」という趣旨のことを言っていたのを覚えています。今になって思うと、ビートたけしは「不倫」ではなく「浮気」の話をしていたのだと思います。両者の何が違うかと言うと、
浮気:可否を決めるのは当事者だけであり、なんだかんだで最後は許してもらえる
不倫:社会が断罪するものであり、許してもらえない(=いじめコンテンツ化する)
という事だと思います。

この国からはいつの間にやら浮気が姿を消して、不倫だけが残ってしまいました。

2023年6月24日土曜日

沖縄とワグネルとヒロスエ

 これを書いている2023年6月24日はこういう状況です。

  • 6/23に78回目の沖縄戦の「慰霊の日」が開催された
  • 一週間くらい前からヒロスエの不倫騒動、永山絢斗の逮捕などが報道されている
  • 6/24に、ワグネルがロシアから離反してロシア国内の軍事施設を占拠
これらがひとつながりの話として捉えられるのではないか?ということを今日の昼過ぎからずっと考えています。

ロシアの状況を見て、多くの日本国民は「悪の結束なんてこんなもんだよね」と、まるで対岸の火事のように見ているのではないかと思います。でも、僕から言わせれば、おかしな組織が崩壊できる方がはるかにマトモな事のように思えてしまうのです。もしも旧日本軍が2.26事件のクーデターに成功していたりすれば、我が国は破滅的な戦争に突き進むようなこともなかったかもしれません。2.26の成否だけでなく、もしも日本の市民社会が十分に成熟していれば、満州の民間人や原爆の犠牲者、そして毎年6/23の「慰霊の日」に追悼される沖縄の戦没者…多くの民間人を巻き込んだ絶望的な戦争は回避できていたのではないかと思わざるを得ないです。

そして我が国の市民社会は…なのですが。ご存知の通り、岸田Jrの国会議事堂でのアホ騒ぎ、河野太郎のマイナンバーをめぐる無責任な態度…とまぁ、いつもの通りです。これらは昭和の日本だったら間違いなく総理か大臣が辞任するレベルの失態だと思います。しかしながら、我が国の国民にはこれに対してちゃんと怒って見せる風潮がみられません。それどころか、マスコミは政治よりも芸能人の不倫や薬物の問題にばかり目を向ける方向に意図的に国民をリードしようとしているように見えます。僕はあまり陰謀論みたいなものは真に受けたくない方ですが、それでも「国民の目を政治に向けさせないために、泳がせておいた芸能人を薬物関連で逮捕する」という説を信じたくもなってしまいます。

ヒロスエの不倫報道に対するマスコミの熱量の異常さは、国民の目を政治から背けさせるために意図的にやっているのではないかと勘繰りたくなるくらいの勢いを感じています。ヒロスエや鳥羽シェフはCMやテレビ番組を軒並み降板になったりしているそうですが、大の大人が不倫したところで家族以外には特に迷惑かかるわけでもないので、他人がどうこう言う必要があるのでしょうかね?それよりも、青少年に対して長年にわたって組織的な性被害を反復し続けたジャニーズ事務所の方がはるかに問題ではないかと思います。

ヒロスエについては色々思うところがあって書いていたら長くなったので稿を改めます。

2023年5月7日日曜日

一神教 と 迷惑をかけない教

 会社という場所にいると、色々な人がいらっしゃるものです。面白い人、ケチな人、怖い人、喋らない人、時間を守れない人、仕事ができる人、仕事ができない人…。その中にはあまりお近づきになりたくないようなタイプの人も当然いらっしゃるわけです。これまでの経験上申し上げると、職場が問題のない人だけで構成されていたことはほとんど稀だったと思います。ただし、どちらかというとそういう人の実害が自分に及ぶという事はあまり少ない方だったのですが。去年からちょっと困ったタイプの人が僕に向かって文句を言ってくるようになりました。

彼に言わせると、僕がとにかく「うるさい」のが邪魔なんだそうです。「独り言、くしゃみ、キーボードがガチャガチャたたく音、コップを置く音…」など、具体的に彼が気に入らないポイントを列挙したメールが僕と僕の上司に数か月に一回送られてくるようになりました。まぁ、彼の言ってることは事実ではあるので、とりあえず「すいません」とは謝りはするのですが。。ちなみにこの人は過去に、「喫煙者がエレベーターに乗るとエレベーターが臭くなる。タバコを吸うのは自由にすればいいが、匂いをまき散らすな!」とお怒りになっておられたことがありました。

一応申し上げますと、誰でも知ってるくらい有名な超一流の日本の大学を卒業なさっていて、一人でパソコンに向かってやるような仕事については余人をもって代えがたいほどの能力を発揮される方です。彼は他人に文句を言った後に必ず「他人に迷惑をかけるな」とおっしゃるのですが。僕から見ると、こうやって「迷惑をかけない教」を振り回せる彼の方が、社会を不寛容でギスギスしたものにしていく分だけ、煙草の匂いよりもはるかに迷惑だと思うのですが。彼はそうやって自分が「他人に迷惑をかけている」とは全く思っていないのでしょうね。

「他人に迷惑をかけない」なんていうのはそもそも無理な話で、社会は「迷惑をかけあうこと」でしか成立しないことくらい、いい大人なんだから理解しようよ。。と思いつつも、こういう人って日本に沢山いらっしゃいますよね。正義感が暴走する老人なんかもこのタイプの人だと思います。

なぜこういう人が日本に多いのか考えてみました。人間の理解を超えた神を崇める「一神教」が日本ではあまり普及していないという事は結構大きな原因なのではないかと思います。一神教は神=絶対的存在に対して、人は圧倒的に非力で不完全であるという強烈な前提の上に成り立っています。だから、「どんなに優秀な人であっても、所詮神のように全能ではない」というコンセンサスが一神教文化の社会では共有されているように思います。お互いに不完全で非力だという合意が大前提になっているので、一神教文化の方が迷惑や不利益を許容し合って社会を形成するのが日本人より上手くいきやすいと思います。ただしこれも、「同じ神を信じているコミュニティの中では」という但し書きが付くことがあるので良し悪しもあるのですけどね。。

とりあえずここまでで今回の話は終わりなのですが、ちょっとした後日譚のような話を最後にします。 ここ1年ちょっとの間に、僕の職場のコップが無くなる事件が3回発生しています。先日その3回目が発生したところです。これまでは「もしかしたら、自分がどこかに置き忘れてしまったのかもしれない」と思っていましたが、3回目ともなるとさすがに偶然とは考えにくいです。つまり、誰かが僕のコップを意図的に隠すか捨てるか、そういうことをやっているんだと考えざるを得ないのです。しかしながら、ここまで話題に挙げた件の人物が犯人だとは考えにくいのです。「コップを置く音」とわざわざ明記したメールを僕に送り付けておきながら、そのコップを隠したり捨てたりするようなことを彼がやるとはちょっと考えにくい。とりあえず、3回目が起きた時に出張中だった職場のアイツとアイツは犯人ではないんだろうなという事はわかりましたが。。いろんな人にちょいちょい嫌われている自覚はあるので、この先もこういう事件は続くのでしょうね。はぁ。。

「推しの子」のアイは、「マリア+キリスト」という人類史上最高の偶像だと思う

世の中のブームから1か月遅れくらいになりましたが、子供が見たいと言うので一緒に推しの子を見始めました。まだ4話くらいまでしか見てないですけど、とりあえず今のところ面白いです。原作を読んだことも一切ないので、今後どう展開するのか全然わかっていないですが、初回の90分だけで何回も泣けてしまいました。なんだったら初回だけで終わってもいいくらいの出来でした。これで、「アイ=完璧な存在の喪失」という強烈な体験を見ている側と共有することに作り手は大成功したと思います。

アイというキャラクターは巫女的な素養を持ったスターという意味では、我が国におけるアイドルの典型例だと思います。ただしその巫女性は「誰かを好きになったりすることができない」というアイの抱えている空虚さとトレードオフによって成り立っています。そして、アイは死ぬ間際に、自分の子供達だけでなく、刺した相手も含めて世界全体を愛して亡くなることになります。アイの娘ルビーは自分達の父親についてアクアに聞かれた時に「処女懐胎」という言葉を持ち出しますが、この言い方を借りるならば、アイは出産によってマリアになり、死によってキリストになったと思います。この点において、人類史上最高の偶像となって死んだとも言えるでしょう。

日本では、アイドルは「好きになってもらうのが仕事」の世界です。だから、どんなに売れたとしてもお客様のために奉仕するというキャラクターで居続けることが求められます。だからこそ、「恋愛禁止」などという人権を無視したスローガンを平気で掲げていたり、それを破ったアイドルが頭を丸めて謝罪させられたりすることが実際に起こります。推しの子は見てる側に「こんなのちょっとおかしいよね?」という投げかけをしつつも、それと同時に「推し=偶像を崇める」という行為に耽溺せずにはいられない我々日本人の病も描いているように思いました。

他にもこの作品には
・リアリティのある希望は転生することくらいしかない(転生モノのアニメと同じ系譜)
・家族の間でもお互いに秘密がある(これはSPY FAMILYと同じ系譜)
など、端々に現代日本を象徴するような要素が散りばめられていると思います。これらも含めて、この作品は日本の病カルチャーを理解できる人にしか楽しめないだろうと思います。海外ではちょっと厳しいだろうな。。でも、YOASOBIはたぶん今年の紅白はこの歌で出るのは確実だろうという気が既に5月の段階でしています。

ところで、頭を丸めたAKBの子は去年YouTuberと結婚したのでしたっけ?

2023年4月30日日曜日

海中からヘリコプターを回収して、どうするのか?

 またしばらくこのblogを中断しておりました。4月から仕事の内容がだいぶ変わることになって、まぁ、簡単に言うと忙しくなったのです。ようやく一か月たって、GWに入ったことで一息つけるようになったところです。4月の忙しさはちょっぴり体にも堪えてる実感がありまして、今まで腰は特に何ともなかったのに、とうとう「腰痛おじさん」デビューしてしまいました。この先、仕事と老化とのせめぎ合いはリタイアするまで続くんだろうなと思います。

こんな風に何かに追い立てられるような生活してるとどんどん世相に疎くなっていくのですが、そんな中でも「宮古島で墜落した自衛隊のヘリコプター」の件がいつまでもロングラン公演になっている点がどうしても気になるので、今回はこの件について少々思うところを述べたいと思います。この件については、この記事を書いている現在では、「遺体の捜索はひと段落したが、フライトレコーダーのために10億円もの巨費を投じて機体を海中から回収しようとしている」というところです。

この件については、右寄りの方々を中心に「中国と何かがあったはずだ」と決めつけてかかるような人もいるようですね。まぁ、その可能性も無いとは言い切れないですが、仮にそのようなことがあったとして、中国との緊張が走るようなことを日本政府が公表するとは僕には思えないです。その一方で、「操縦ミス」「機体の欠陥」などの可能性も考えられるわけですが、仮にそれが原因だっとしても、それを公表したら自衛隊に対する信頼が揺らぐので、結局ちゃんと公表するとも思えないです。

こうやって考えてみると、フライトレコーダーを回収したところで、ちゃんとした原因が公表される可能性は極めて低いと考えるしかないのではないでしょうか?だったら、10億円があるならもっと困っている人に対して使った方がはるかに合理的なのではないかと僕は思ってしまうのです。しかし、Twitterなどで探してみた限りでは、僕のような人は少数派のようです。この件について、メディアでの報道を通じて「フライトレコーダーも回収するよね?そしてそれをみんなで見守るよね?」という無言の合意形成がなんとなくなされているように思えてならないのです。

以前このblogでも言及した通り、日本人は「悼む」という行為に耽溺したがる傾向があるように思います。亡くなった方に対して失礼な言い方になりますが、東日本大震災のような途方もない規模の話ではなく、今回の件のように「程よい規模感の死者」を悼む行為についてはある一定期間ずっと耽ってしまいがちだと思うのです。10億円あれば物価高や生活苦の中で生きている人の生活を色々助けられるはずです。しかし、今の日本人にとっては生きてる人の苦しみに寄り添うことよりも、亡くなった人を悼む行為に耽ることの方がリアリティがあるのではないかと思えてしまうのです。

2023年2月26日日曜日

事細かな決まり事を一方的に人に押し付けたがる人、責任を回避したがる人

職場の外国人が社内のイベントでプレゼンする案件が同時期に二つ発生しました。このときのイベント主催者側の対応がタイトルにもあるようにあまりに両極端だったので、まずはその話から。有名ブロガーのフミコ・フミヲ氏をちょっとだけ意識して、会話のやり取りまで含めて書いてみます。

 

■プレゼン案件1

事細かにルールが記入された、いかにも「日本のモテない理系」テイスト全開のスライドのテンプレートがイベント主催者から送られてきた。しかも、全部日本語で。。「さすがに外国人にこれだけ送り付けても読めないですよね?このテンプレを全部英語に訳すのも大変でしょうから、最低限必要なエッセンスだけ英語で説明して、『後は程々にやってください』くらいに留めるのがよいのではないでしょうか?」と伝えたのですが。

すると次に、日本語のテンプレを全部そのまま英語に訳したものが送られてきました。フォントサイズのルールなんかも含めて、日本語のテンプレがそのまま機械的に直訳されていました。そもそもアルファベットは漢字みたいに画数多くないから日本語よりフォントを小さくしても視認性は落ちない一方で、英語は日本語ほど圧縮効率がよくないので。日本語と同じフォントサイズのルールを英語に無分別に適用するのは、ちょっと思慮がなさすぎると言わざるを得ないです。

英語/日本語といった言語の違い以前のもっと本質的な問題として、「なぜそれが必要なのか?」をちゃんと説明しないまま、事細かに決まり事を作って他人に押し付けることに対して日本人はデリカシーが無さすぎるのです。欧米人の感覚からすると、ルールというものは必要最低限かつ合理的な理由を伴うべきであり、合理的な説明もないまま意味不明のルールを押し付けるのは暴力とも捉えられかねないと思います。

 

■プレゼン案件2

 このプレゼン案件2は、主催者からの「社内でのイベント告知に使うサムネイルを作ってください」という連絡からはじまりました。そもそも発表者は僕じゃなくて職場の外国人なんだから、本人に直接連絡すればいいのに…と思いつつも。ここで僕に日本語で連絡してくるあたりから考えて、外国人とまともにコミュニケーションできるとは期待できないです。プレゼン案件1の反省を生かしてサムネイルについては僕が全部対応することにしました。

さて。サムネイル。と一口に言っても、実際にどのような媒体にどのような文脈で、どのようなサイズで載るのか…こういうことが分からないとどう構成するかは決められないのです。が、主催者からそういう情報は一切送られて来ません。文句言っても始まらないから、とりあえずテキトーにこんな感じかな?みたいなのを作って送ってみました。すると「まず、全体的に小さすぎます。なるだけ大きな絵一枚程度のシンプルな構成にした方がよいのではないかと思います。サムネイルには説明的な文章は入れても読まれない可能性が高いので、字は入れるとしても字数は極力減らして大きなフォントにした方がよいかと思います。」とのことでした。

じゃぁ最初からそれを説明しようよ…と思いつつも、言われた通りに絵だけのサムネイルを作って送ったら、今度は「この発表は他の案件と違ってタイトルや説明文が全部英語なので、ぱっと見た時の視認性が悪い可能性があります。日本語のタイトルをサムネイルの中に追記してはいかがでしょうか?」という返事が返ってきました。さっき文字入れるのに否定的だったじゃん…と思いつつも、日本語のタイトルを可能な限りデカいフォントで追加した版を作って、「日本語タイトルを追加した版を作成しました。どちらのサムネイルを使うかは主催者側でご判断ください」と送った。ら。「我々は主催者なので特にレギュレーション等は設定していません。発表者側でご判断ください。」と返ってきました。まぁ。要するに。散々あれこれ言って振り回してくるけど、徹底して「こちらでは責任は負いません」というスタンスでいたいんだろうな。

 

■エピローグ

二つのプレゼン案件の対応は両極端だったのですが、こういった社会の末端だけでなく、もっと大きな政治まで含めて、この国全体が「事細かに決まり事を作って一方的に人に押し付けたがる人」と、「責任を回避したがる人」の双極に解離しているように思えてならないのです。

政治の世界での実例を挙げてみると…自民党政権はアメリカから無駄なミサイルを買う金を国民に負担させたり、同性婚や夫婦別姓などの問題では「明治以降に作られたフェイクの伝統への服従」を国民に押し付けようとしています。その一方で、マイナンバーカードについては税金を投じて何が何でも国民に持たせようと必死ですが、どこまでも「国民個々人の自主判断」という形に固執していて、徹底して責任取りたがらないですよね。

こんなことやってると、日本の社会全体の生産性が下がる上に、外国人に相手にされないために国際競争力もどんどん落ちてしまうのではないかと思います。外国人の同僚に対して「日本いい国でしょ?ずっといなよ。」と言う気には僕もちょっとなれないです。ここ数年僕は「この国は衰退期に入っている」という事を気にしてきましたが、ここ最近に至っては、この国は「急激に没落」しはじめているのではないか?という危機感を持ちはじめました。

2023年2月12日日曜日

文化政策とフェイクの伝統

今年(2023年)に入ってすぐに、東京国立博物館が予算不足でこのままでは文化財を保護できないという問題が持ち上がりました。そして今度は、東京藝大が予算削減のためにピアノを撤去というニュースが流れてきました。直接の原因はウクライナ戦争以降のエネルギーコストの高騰なのでしょう。ご存じの通り庶民の生活も大きな打撃を受けています。しかし、こんなときこそ文化インフラは世間の浮き沈みとは離れたところで国によって手厚く保護されて然るべきではないかと思います。

 10年もblogをやってると、自分が言いたいことはだいたい昔の自分が言ってるので、今回も言いたいことは昔ここに書いた通りです。クールジャパンに代表されるこの国の文化政策は、「市場原理=お客様にウケるか」が基準になっています。つまるところ、自国の文化についてのポリシーを自分たちでは決められない、市場=お客様にゆだねるということです。だから東博や東京藝大のように市場原理から離れたものにはこの国は冷たいのだろうと思います。

本当は市場原理から離れたところにあるものほど、国が予算を出して保護したりするべきものであるはずなのですけどね。特に、東博なんて日本の国宝級の文化財を多数収蔵しているのですから。日本という国の歴史と伝統を重んじる人であれば、このような状況には異議を唱えて然るべきだと思うのですが。僕の知る限り日本の右翼層がこの件について声を上げているところを見たことがないのです。

斎藤環が指摘していたように、日本のネトウヨ層にとっては客観的な史実としての伝統ではなく「伝統ぽく見えるもの=フェイクの伝統」の方がリアリティをもって受け入れられるのだと思います。例えば夫婦別姓なんてその典型例でしょう。元々日本人の大半は明治維新まで苗字がなかったわけですから、「伝統」の観点から言えば結婚後の姓がどうなろうが構わないはずですよね?

ちょうど最近、岸田首相が同性婚の是非について「社会が変わってしまう」と言って否定的な見解を示したことが問題になっていましたが。そもそも日本は古来より性についてはかなりラディカルな国だったはずです。これも明治以降に作られた「フェイクの伝統」への固執だと思います。

 

2023年1月2日月曜日

チェンソーマンは今までの少年ジャンプの漫画とはちょっと違う気がする

進撃の巨人以降、アニメから見始めて面白いと思っても原作漫画を読まずにアニメで見るのを辛抱強く待ち続けることができるようになりました。お金の問題もさることながら、せっかく後でアニメで見るならそれまで中途半端に原作を読まないでいる…ということができるようになったのです。このリストの中に、鬼滅に続いて2022年秋から放送が始まったチェンソーマンも加わることになりました。

以前このblogでも触れた話ですが、少年ジャンプのバトル漫画はどうしても「父=血」が登場してしまうのです。父の存在は理不尽で凄惨な戦いに少年が巻き込まれる動機になることもあれば、戦いの中で父から受け継いだ特別な能力が開花して少年が強くなったり、時には父が試練を与えて少年を導くこともあります。鬼滅でもBLEACHでも呪術廻戦でも、少年ジャンプのバトル漫画は長く続くと必ずこのパターンになってしまうです。

しかし、チェンソーマンにはこのような役割を果たす「父」が出てこないのです。正確に言えばデンジは父を殺したのか?という文脈で父親は登場するようです(ちゃんと読んでないのですがウェブで調べた限りどうもそういう話のようです)。しかし、デンジは特別な能力を父から受け継いだわけでもなければ、父によって強く鍛えられたわけでもありません。やや脱線しますが、父殺し=エディプスコンプレックスの物語というのも、ドラゴンボール(悟空は孫悟飯をサルになって踏みつぶした)、進撃の巨人(父を食べて巨人の能力を継承)など枚挙に暇がないくらい全人類的に有名な物語ですね。

これをちょっと深読みして考えてみると。日本の若者には「上の世代から何かを受け継ぐ」ことよりも、「上の世代から負の遺産を押し付けられている」という被害者意識の方がリアリティがあるということなのではないでしょうか?無力な父から受け継げるものは何もなく、無力な父はせいぜい殺すくらいしか選択肢がない…所謂「Z世代」及びその下の世代のそのような諦めがチェンソーマンの世界には見てとれるように思うのです。

しかし、チェンソーマンを週刊少年ジャンプで連載していたというのがすごいですね。。お色気シーンもそれなりに多いし、内容的にはヤング誌に掲載されていてもおかしくないと思います。しかし、よく調べてみたら、週刊少年ジャンプからジャンプ+に引っ越しになったそうです。

YouTuberと水木一郎

 気が付いたら年が明けてしまいました。昨年は夏ごろから質・量ともにかつてないレベルで仕事の山場が押し寄せてきたり、しかもお盆にコロナにかかったりで、いろいろ大変でした。今年は去年ほど大変なことにはならないと願いたいです。気が付いたらこのblogは2013年から始めたので、もうじき10周年を迎えることになってしまいます。月日の経つのは早いものですね。。

年末にアニメソング界のレジェンド水木一郎が亡くなりました。以前このblogでアニメソングの世界は「老い」を許さないエバーグリーンな世界であるということを書いたことがあるのですが、とうとうそれが強制終了となる日が来てしまった気がします。これから、マジンガーZの歌は誰かが引き継いで歌うんですかね?それとも、これを機にアニメソング界という世界は世代ごとに分断されるのでしょうか?

またその一方で、年末にYouTube界でも有名なまいぜんシスターズというチャンネルのキャラクターの声が突然変わったことが結構話題になりました。僕も一時期まいぜんシスターズのマイクラ実況を子供が見ていたので、久しぶりに見たら声が突然プロの声優さん?らしき人に変わったのはちょっとショックでした。その後一旦元の声に戻ったり…と、いろいろ迷走しているようです。

どちらの話も、見てる側は一度作り上げられたキャラクターやポジションを反復生産することを求めているのに対して、それに応え続けることが難しいという点は共通しているように思います。まだ芸能界ではそれなりにキャリアをマネジメントする仕組みが確立されているのでしょうが、YouTuberってそういう仕組みさえもまだ確立されていない世界ですからね。YouTuberが心身病んだり、マンネリで煮詰まった末に辞めて行ったりするのもすごくよくわかる気がします。

だからどう、っていう気の利いたオチや結論があるわけでもないのですが。強いて申し上げるのであれば、読んでる人がいるのかもわからないこのblogは誰の期待に応える必要もないので、今後も気楽にネット空間の片隅に思い付いたことを時々書き連ねていきたいと思います。