2019年8月4日日曜日

自由というのはある程度他人に迷惑をかけて成立しているんだけどな

僕のTwitterのTLが「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」一色になっています。この件についてまず最初に僕の見解を述べておくと、経緯はどうあれ、津田大介も中止にするなら「この国の『表現の不自由』を白日の下に晒したという点では大成功だった」くらい言えばよかったのに、と思っています。
Twitterは人を所属クラスタごとに遠心分離する装置なので、僕のTwitterは所謂リベラル寄りの方で埋め尽くされています。その多くの内容は、ネトウヨ論客が少女像を「不愉快にさせる」などと攻撃しているのに対してリベラル側が「表現の自由を守れ」と反論している構図で埋め尽くされています。僕は断然リベラル派寄りなのですが、リベラル側も単に「表現の自由」と言うだけではなくて、表現の自由が成立する社会を維持するためには何が必要か?ということについて言及すべきだと思うのです。

そこで表題の「自由というのは、ある程度他人に迷惑をかけて成立するもの」という話になるのですが。これはもうすでに僕がこのblogで何度も言及しているような話です。改めて例を挙げると、スペインで屋内の公共空間での喫煙を禁じる法律の是非について議論していたときに、あるスペイン人は「確かに屋内での煙草は迷惑だとは思う。だけど、彼らの煙草を吸う自由を奪うことはしたくない。」と言いました。「自由」が憲法に記された「理念=きれいごと」ではなく、実生活において本当に自由が保証される社会を実現するためには「お互いに迷惑をかけ合うことができる」レベルの市民的成熟が不可欠なのです。

一方で、我が国のネトウヨ論客は少女像を攻撃する理由を「国民を不愉快にさせる」と言っていますが、これをもう少し分解すると
・自分は世の中の多数派であるという根拠のない確信に満ちている
・日本国民の最上位の行動規範は憲法や法律よりも「迷惑をかけない教」だと思っている
・だから多数派の自分が不愉快で迷惑だと思うものは国民の敵と見做して攻撃してよい
・以上のような思想的な偏りについておそらく自覚がない
といったところでしょうか?政治的見解が異なる人も社会の成員として受け入れるような市民的成熟などという概念自体がおそらく彼らの頭に無いと思います。

最後に岸田秀を引用していくつか付け加えてみますが、まずネトウヨvsリベラルの戦いというのは日本人全体を一つの人格と見立てて精神分析を適用すると、日本人は内的自己vs外的自己に分裂しており、ネトウヨとリベラルの戦いはその代理戦争だと言えるでしょう。そして、この分裂の起源を岸田秀はアメリカという父の問題だと言っています。
また、岸田秀に言わせれば人類というのは「本能の壊れた猿」であり、その壊れた本能を代替するために、人類は「文化」を必要としているのだと説いています。以前、「ろくでなし子」という芸術家の作品が物議を醸したことがありましたが、芸術家というのは基本的に「わざわざいらんことをする人=ろくでなし」だと僕は思います。そもそも、木の上で暮らしてたらいいのに、わざわざ地上に降りて二足歩行を行うという「いらんことをした猿」の子孫が我々人類なのですから、芸術は人類に不可欠だと僕は思います。

チャーシューメンに挑戦するラストチャンスかもしれない

# 例によって、なるだけ構えずに思いついたことをサラサラと書いてみるシリーズです。

長かった梅雨もすっかり明けて、本格的に暑くなってきました。あと一週間で夏休みに入ろうというところです。これだけ暑くなったというのに、ここ数日僕の頭の中ではこの天気とは真逆のラーメンについてずっと考えているのです。というのも、「人生経験としてチャーシューメンを食べてみるならそろそろラストチャンスなんじゃないか?」ということについてずっと考えてしまうのです。

そもそもラーメンという食べ物自体、お世辞にも体にいいとは思えません。つまりラーメンのおいしさの何割かは背徳の味だと言ってもよいでしょう。僕はそんな部分も含めてラーメン大好き人間なんですが、ラーメン屋では基本的に普通のラーメンを注文します。ワンタンメンは好きなのでメニューにあればたまに頼むことはあります。でも、チャーシューメンは頼んだことが一度もありません。

ラーメン屋でわざわざチャーシューメンを注文するには相応のポテンシャルが要求されるような気がするのです。チャーシューメンはなんだが、「お母さんに怒られそう」というか、ラーメン屋のメニューの中でも突出して背徳感が高いのです。ラーメンの食べ歩きblogを見ると「基本的にチャーシューメンを注文します」とか書いてあったりするのですが、こういう人は背徳への耐性が強いのか、若しくは自分の欲望に正直なのか、どっちにしても僕にはない資質を持っているように見えます。

しかし、40歳を超えたあたりからだんだんと胃腸や食欲が衰えていくのを感じる今日この頃、時々考えるのです。死ぬ前に人生を振り返った時にチャーシューメンを食べた経験がある人生とない人生のどっちがいいか?そう言われたら、そりゃチャーシューメンを食べた経験があった人生のほうがいいような気はします。

一方で、来るべきチャーシューメンを食べる機会があったとしても、それをおいしく食べれる能力を自分の体は失いつつあるんじゃないか?という危惧があります。これは正直に言うと単なる危惧です。本当にそうなのかわかりません。なにせ僕はチャーシューメンを食べたこと無いですから。。しかし、もしこの危惧が正しい、つまり、自分の消化能力とチャーシューメンの乖離は今後どんどん開いていく一方に向かうのであるとするならば、「もうチャーシューメンを食べるなら今しかない」というシンプルな結論になるのです。

チャーシューメンの問題は「お金持ちになったらおいしいステーキを食べてみたい」とか「一生に一度テレビに出てくるような銀座の寿司屋で寿司を食べてみたい」などとは近いようでちょっと違います。ラーメン屋はどこにでもあるし、チャーシューメンはラーメンより数百円払いさえすれば食べられるはずなんです。でも、問題は僕にとってはチャーシューメンを注文するという行為にはその数百円以上に高いハードルが横たわっているのです。

この「40歳を超えての遅咲きのチャーシューメンデビュー」についてここ数日真剣に考えています。問題はどこで食べるか、なのです。ラーメン屋はどこにでもあると言いつつも、最初で最後になるかもしれないチャーシューメンともなると、せっかく食べるならチャーシューがおいしいところで食べたいな。。