2020年12月30日水曜日

煉獄さんは反知性主義と戦って落命したのではないだろうか?

 年末になりました。今年も例によってこのblogに書こうと思って書かず仕舞いだったことを可能な限り年末年始にしたためてみようかと思います。で、しかしながら、またしても鬼滅の話です。すいません。念のため申し上げておくと、僕はこれを書いている現在、TVで放映された内容以上にちゃんと鬼滅を見ていません。なので、漫画はもちろん読んでないし、みんな泣いたという映画もYouTubeで流れる断片以上には見ていない状態です。しかし、映画の話の筋については、煉獄さんが猗窩座に「鬼にならないか?」と誘われて断って、最後煉獄さんは落命する・・・という程度の粗筋は理解しているつもりで書いています。

鬼滅については「儒教的価値観の復権」という切り口で色々評論されているのをしばしば目にすることがあります。確かに、この作品は鬼殺隊のお館様への「忠」、炭治郎の兄弟への思いやり=「悌」、炭治郎のが倒した鬼に見せる惻隠の情=「仁」など、これまでの少年漫画では有り得ないくらいに儒教的なエッセンスが散りばめられています。一方で、この儒教的価値観の極北にあるのが、ここ数年日本のみならず世界で猛威を奮ってきた「反知性主義」なのではないかと思います。トランプや橋下徹、安倍晋三などの反知性主義者は「目先の勝ち負けに固執する」「弱者に対して配慮したがらない」「自分と政治信条の異なる人の利益を考える気がない」といった点において、儒教的価値観とは非常に相性が悪く見えるのです。

つまり、彼ら反知性主義者は「鬼」そのものなのではないかと思うのです。自分より弱い者の面倒を見たり、意見の異なる他人と折り合おうとしない方が、自己利益の追求だけ考えたら効率的なのです。でも、それを放棄したら、子供も育てられないし、社会を形成することもできない。つまり、人間ではなくなるのです。実際に鬼滅の鬼は子供を成すこともないし、単独でしか行動しない(鬼が群れて自分を襲ってくるのを鬼舞辻無惨が恐れたからだという説明が有りました)という設定になっています。

トランプが選挙に負け、安倍政権がやっと終わる、という形で2010年代に猛威を奮った反知性主義はようやく一時期の勢いを失い始めました。鬼滅の刃という作品はそういう世相に呼応して必然的に出てきたのではないでしょうか?そして、今回の映画の中で煉獄さんは反知性主義に対してNoを突きつけるべきだという強烈なメッセージを日本人に残して落命していったように見えます。その甲斐あってなのか、少しずつではありますが自民党政権に対して忖度する空気も変わってきているように思います。

あと10年くらい経った頃に、煉獄さんは反知性主義に対して反旗を翻した国民的英雄として感謝される日が来る・・・なんてことは無いかもしれませんが、この先の未来がそのような世界になってくれることを願わずにはいられません。