2017年12月17日日曜日

2017年のノーベル賞

もう気が付けば7年くらいtwitterをやっています。twitterをやっている人はほとんど同意すると思うのですが、twitterは嗜好ないし志向が近い人同志だけを遠心分離して閉じたコミュニケーションを生成する傾向が強いツールだと思うのです。例えば、ここ数年の僕のTLを見てると選挙の前には「さすがにそろそろ安倍政権は大敗してリベラル派が盛り返すだろう」と期待してしまうのですが、実際にテレビなどの日本のメディアを通して選挙の結果を見るとtwitterとのギャップにがっかりすることになります。
今回のノーベル賞に対する反応も日本のテレビメディアと僕のTLではものすごい温度差がありました。これを書いている現在は、2017年のノーベル賞の授賞式典が終わった後です。この記事が読まれるのが何年も後になる可能性も考慮して一応説明しておきますと、この年のノーベル平和賞にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)、ノーベル文学賞にカズオ・イシグロが選ばれました。この両者のノーベル賞受賞に対して、僕のtwitterのTLは立憲民主党ができたとき以来久しぶりの「明るいニュース」に沸き立っているように見えました。一方でテレビを中心とする日本メディアの反応はかつて見たことのないくらい「薄っぺらく乗っかってる」ように見えました。
例えば、日本国籍を放棄してアメリカに渡った中村修二(青色ダイオードの発明者)のような人でさえ、ノーベル賞を受賞した際には日本のメディアは「日本人がノーベル賞受賞」と言って、今回よりもっとはしゃいでいたように思います。当の中村氏は日本の社会に対して散々批判した上で日本を見限ってアメリカに行ったのですが、それでもお構いなしに日本のメディアははしゃいでるように見えました。それに比べると今回の日本メディアの反応はどこかぎこちなさを禁じ得ませんでした。

まず、カズオ・イシグロについて。彼は見た目はかなり日本人に見えますし、名前は日本人らしい名前ですが、それ以外は国籍から生育環境、言語まで含めてほぼイギリス人と言ってよいでしょう。とりあえずカズオ・イシグロについては日本のメディアもある程度は乗っかってはいるみたいです。が、その多くはカズオ・イシグロの日本に対する好意的なコメントを切り貼りして垂れ流しているだけに見えます。
彼に対する日本人の微温的な態度は、例えて言うなら「外国のオリンピック代表に日系人がいた」というのと似たような話なんだと思います。見た目は日本人っぽいのでちょっと気になるけど、積極的に感情移入して応援するかというとそうでもない…例えばフィギュアスケートの長洲未来(両親は日本人だけどアメリカ代表)は丁度カズオ・イシグロと同じようなポジションにいると思います。
一方では、カズオ・イシグロと真逆のポジションにはオコエ・瑠偉、サニブラウン・ハキーム、ケンブリッジ・飛鳥、ベッキー、マーク・パンサー(もっと他にも例があるはずなんだけどな。。)などがいます。彼らの見た目や名前は普通の日本人とは異質ですが、生育環境や言語については普通の日本人と言ってよいでしょう。どっちかと言われたら、カズオ・イシグロよりはこちらのカテゴリに対しては日本人は距離感が近く感じるんだと思います。これはおそらく、彼らが「日本語が喋れて日本人と同じ文化背景を共有できているように思える」からなんだろうと思います。

そして。ICANですが。ICANについては日本のテレビはほぼスルーしているようです。ICANの授賞式でのサーロー・節子さんのスピーチは非常に素晴らしいものでしたが、NHKは授賞式のスピーチを放映しなかったそうです。日本生まれの人が世界に向けてあんな立派なスピーチをしたのだから、こういう時こそ乗っかって「日本スゴイ」ではしゃげばいいと思うのですけどね。残念ながらICANの受賞はカズオ・イシグロより扱いが悪いようです。
日本のテレビメディアがICANの件をほぼスルーしているのは、現政権が核兵器廃絶条約に対して後ろ向きであることが直接の原因ではあるのでしょう。しかし、それを差し引いても、おそらく日本人にとってICANの受賞に万歳三唱ではしゃぐようなことはできなかっただろうと思います。これを一番適切に説明していると思うのは、内田先生の靖国論なのではないかと思うので、今回はこれを下敷きに僕なりの見解を述べることにします。
日本は第二次世界大戦での大敗の後の東京裁判によって、
・被害者としての立場をアメリカに対して主張する権利を放棄して半永久的にアメリカの従属国となる
・侵略国としてアジアの隣国(とりわけ中国と韓国)に対して半永久的に「謝罪」の姿勢を示し続ける
という二つの責務を負わされました。しかし、この二つの責務は重すぎるので、「アメリカに対して被害者としての権利を放棄するから、その代わり、アジア諸国への加害者としての責任は免除してほしい」と、多くの日本人は内心思っていました。ネトウヨが判で押したように対米従属には異論を唱えない(あれだけトランプが酷くても)一方で、慰安婦問題については歴史を捏造したり慰安婦に罵詈雑言を浴びせることに必死になるのは、まさにこの「被害者としての権利を放棄して従属する代わりに加害者としての責任を免除されたい」という本音をそのまま体現しているからでしょう。しかしながら、そう都合よくアジア諸国が簡単に加害責任の追及をやめてくれるなんてことは当然ありませんので、ご存知の通り少女像問題への対応について昨今国際的な非難を浴びているわけです。
こんな状況下で行われたサーロー節子さんのスピーチは、アメリカという父に従属する際に放棄した「被害者としての我々日本人」の立場を世界に向けて発信しました。すべての日本人にとって、アメリカという父によって抑圧されてきた「被害者の立場」を今更引っ張りだされること自体がどうしても重荷なんだと思います。スピーチに対して好意的な印象を持った僕でさえも、「被害者としての立場」を持ち出された事自体には何かしらの重苦しさを禁じえませんでした。そして、これを持ち出される事はネトウヨにとってはより切実な問題なんだろうと思います。なぜなら、「被害者としての権利を放棄する代わりに加害責任を免除されたい」という自身の主張の正当性(と彼らが思っているであろうもの)を担保するものが揺らいでしまうので、困るわけです。実際にtwitterを「ICAN 反日」で検索すると、ネトウヨがICANに対して「ICANは反日」キャンペーンをせっせとやっているのが分かります。

今回のノーベル賞は、二件まとめて考えると現在の日本の在り方について国際社会から問いを投げかけられた形になったのではないかと思います。カズオ・イシグロの受賞は「もし彼が普通に日本の社会システムの中で育っていたとして、ノーベル賞を受賞するほどの世界的な作家になれたか?」という問いを投げかけているように思います。そしてICANの受賞は、「日本人は終わったことにして忘れようとしているけど、まだ戦後は続いている」という事実を日本人に突き付けたのではないでしょうか。

2017年12月3日日曜日

貴乃花親方の抱えていいる病のようなものについて

これを書いている現在は、「日馬富士の引退会見から一日明けたけど、いまだにテレビは執拗にこの問題を報じている」という状況です。この問題にこれだけテレビが血道をあげて騒いでいるのは、国会やモリカケ問題などをマスキングする意図があるんだろうとは思いますが。この件に関しては、ここ数年日本に慢性化している「正義を振りかざしたメディアによるリンチ」に国民全体がある程度同調して乗ってきているようにも見えます。
というのも、今回の件では登場人物全員が「やんわりと悪者」として扱われています。暴行事件の当事者であるモンゴル人力士はもちろんのこと、貴乃花親方の対応にも批判が集まっています。平成の若貴ブーム当時は貴乃花親方は常にワイドショーの常連だったので、貴乃花親方が連日テレビを賑わせている姿には既視感を禁じ得ない人も多いのではないでしょうか。たぶん、当の貴乃花親方自身もある程度その自覚はあるんだろうと思います。
貴乃花親方の立ち振る舞いを見ていると、どうしてもここ数年日本に暗い影を落としている「反知性主義」の典型例のように見えるのですが。貴乃花親方の反知性主義は、その「純度」のようなものにおいて橋下徹とか安倍晋三よりもはるかにタチが悪いんじゃないかと思うのです。例えば、安倍晋三はともかく、少なくとも橋下徹は自分の邪悪さについてある程度は考量できる能力がありそうに見えますが。貴乃花親方は「自分の邪悪さについて検討する」というような習慣とこれまで一度も縁が無かったんじゃないかと思えてしまうのです。つまり、彼は「自分は正義だと信じて疑っていない人」に見える…それをさらに簡単な一言でいうと「でっかい子供」なんだかと思います。

貴乃花親方について考えるにあたって、まず彼が親方になった経緯から振り返ってみましょう。貴乃花は引退後も現役時代の四股名のまま親方になれる”一代年寄”として親方になりました。この一代年寄という制度は特別な功労者にしか与えられない特権で、過去を振り返っても大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花くらいにしか制度適用対象になっていないそうです。なぜこの話を持ち出すかと言うと、この経緯が彼の有り様に大きな影響を与えているように思えてならないのです。
通常、相撲の親方になるには年寄株という「親方になる権利」を手に入れなければなりません。この年寄株と親方としての名前が対応しているので、引退した力士は親方になるにあたって、「ナントカ親方」という名前に変わるわけです。これは昔の人が出世すると立場に応じて名前を改めていたのと同じような話なのですが。立場とともに名前が変わることは、役割に相当した立ち振る舞いをする、つまり"成熟"を促す上で意味があるんだと思います。
貴乃花親方に明らかに欠けているものの一つは、こういうプロセスを経てもたらされるべき”成熟”なのではないでしょうか。もしも彼が親方になるにあたって名前が変わってたら、今回の貴の岩暴行事件に対してもう少しマトモな対応ができたんじゃないかと思います。例によってこのあたりで僕が言いたいことは内田先生の受け売りなので、それについて言及しているサイトから引用してみます。
武士の場合は元服したら名前を換えますし、商人でも屋号のある場合は「第10代なんとかざえもん」というように社会的立場を表す名前になります。
これらの名前はその人の個性や独自性よりはむしろ非個性、代替可能性を示しています。つまり今聞くと大変不思議なことですけれど、「余人を以て換えることができる」というのが伝統的には成人=社会人の条件だったのです。
でも、これは卓見ですね。
「余人を以て換えることのできる人間になる」ことをめざす自己形成って。
これって言い換えると「自己評価と外部評価の乖離がなくなった状態」ということですからね。それが「大人の条件」である、というのはよくできた話です。

大相撲の世界は未だに一般常識からかけ離れた不条理や不合理が横行していて、叩けばいくらでも埃が出てくる。勿論それらは”良い”わけではない。だからといって、いきなり改革しようとすることは大相撲自体を壊しかねない。大相撲というシステムを改革するためには、「性急な改革を叫びたいのを自制しつつ、現存するシステムと折り合いながらどうダメな部分を変えていくかを考える」という手順を踏む必要があるんだろうと思うのですが。貴乃花親方はこういう姿勢を徹底的に拒否しています。相撲協会との話し合いを一切拒絶して、「診断書」や「警察への被害届」など「相撲界の外側の一般社会の規範」によってのみ自分の立場を正当化しようとしています。
これは「僕ちゃんの正義の中に閉じこもりたがる子供」の態度そのものだと思います。「大相撲の伝統」というのは良くも悪くも一般社会の常識と乖離していることと不可分であり、大相撲を監督する立場に立つ「親方」には、異界のルールの範囲内で異界を統べることがまず必要なのだと思うのですが。今回の貴乃花親方の対応を見ていると、彼にはその資質が無い、というより、そもそも異界のルールに最初から付き合う気がないように見えるのです。

時津風部屋での暴行死亡事件以降、朝青龍の暴行事件や八百長騒動など、今回と同じようなレベルでの騒動が度々発生してきましたが。このような騒動が起こる度に安易に「一般社会の常識」の観点から大相撲を批判することは、結果として大相撲を国技たらしめている「強さの幻想」をどんどん損なっているように思います。これを繰り返していくと、大相撲は「単なる普通のスポーツ」に少しずつ漸近していくのではないでしょうか。
やや脱線しますが、力士の髷は「人ならざる者」であることの象徴であり、それ故に彼らは常人の世界観から逸脱した「強さ」という幻想を背負っているわけです。例えば、朝青龍が「腰の骨が折れている」と言って休場している間にモンゴルでサッカーをやっていて問題になったことがありましたが。「朝青龍は腰の骨が折れていてもサッカーができるほど強い」くらいに考える方が、彼らの背負っている幻想に対しては誠意のある態度なんじゃないかと僕は思います。貴の岩の件に関しても「力士は強いんだから、ビール瓶で殴られたくらい大丈夫」と、やせ我慢でもいいから言って見せるのが相撲の親方としてあるべき姿なのではないでしょうか。

貴乃花親方の今回の件に関する一連の立ち振る舞いは、フロイド的な観点からは「『大相撲という父』に対する父殺し」という風に読めると思うのですが。これについて書こうとしたらまとまりがなくなってしまったのでまたの機会に。。
最後に故・ナンシー関の昔のコラムから引用しておきます。
まるで大河ドラマのように進んでいく「花田家物語」である。しかし、どうもこの「物語」は違うのではないか、という気がしないだろうか。世間が、好意的に読んであげすぎるような気がする。二人の初土俵の時、こっそり柱の陰からおかみさんが見守るのはいいんだけど、おかみさんのすぐ後ろにテレビがいる。おかみさんナメの土俵とか撮っているし。あと「仲よし兄弟」もいい話だけど、新婚の兄の構えた同じマンションの真下に弟も引っ越してくるって、ものすごくへんである。仲よし、で済む話か?あそこの家、へんだ。
確かに今にして思えばへんだった。。この牧歌的な時代の後、貴乃花親方は謎の整体師に洗脳されたり、「若乃花の相撲には基本がない」と言いだしたり、徐々にダークサイドへ落ちていきました。そしてついに今回の事件で完全にヒール(悪役)のポジションに辿り着きました。「花田家物語」という大河ドラマは、若貴フィーバー当時には誰も予測しなかった展開を迎えています。

2017年11月11日土曜日

なぜグルメ番組はタレントの食レポを必要とするか?

小さい子供がいるということは、親の行動にも色々な制約がついてまわるものでして。たとえば、我が家では昔は冬場に週2回くらいの頻度で夕食のメニューが鍋でした。しかし、子供が生まれて以来、危ないので鍋をやる機会がめっきりなくなってしまいました。また、食べ物つながりで言うと、外食でカウンターしかないラーメン屋とかに行くのはまず無理ですし、子供が食べれないエスニック料理とかも行く機会がありません。
そんなこんなで、たまに出張先で自分ひとりでラーメン屋に入ったりすると、もうそれだけでもちょっと楽しかったりするものでして。先日も出張に行った先でGoogleで適当に検索してラーメン屋に入ってみたのですが。そこの店はよくある「壁一面に芸能人のサインや写真が並んでいる店」でした。そして、店の一番目立つところに地元のテレビ局がやっているグルメ情報番組が取材に来たときの写真が飾られていました。

たぶん全国どこいっても同じなんだと思いますが、ローカルのテレビ局ってグルメ番組に力を入れてますよね。理由は自明で、東京のキー局が垂れ流してくる東京のグルメ情報よりも、身近に行ける地元のグルメ情報の方が地元の人にとっては価値があるからなんでしょう。そういった地域情報こそがローカル局の存在意義であるとさえ言えるかもしれません。
で、このローカル局のグルメ番組の食レポ担当のタレントなんですが。売り出し中の若手だったり、昔そこそこ売れたけど落ち目になったベテランだったりと、まぁ色々なんですが。さすがにローカルのテレビ局なので売れっ子の芸能人は出てきません。そして、だいたいがお笑い芸人です。想像するに、お笑い芸人は食レポの合間にネタを盛り込んだりして尺を持たせてくれるのでテレビ局としても都合が良いのかもしれないですね。
ただし、食レポ担当のお笑い芸人も毎回目新しいことをやるのは難しいので、たいていテンプレート化された定番ネタを再利用するスタイルが多いのです。見てるこっちも正直なところそんなに面白くも無いし何度も見飽きたテンプレを繰り返されると見ててイラっときたりもするのですが。でもこのお笑い芸人による食レポというのは、何年かおきに芸人が変わるものの、ここ10年くらいは磐石のフォーマットとして定着した感があります。

で、ようやく本題なのですが。なぜテレビのグルメ番組は食レポ担当のタレントが必要なんでしょうかね?考えようによっては美味しそうな食べ物だけ映しておけば十分のような気がするのですが。やっぱり食レポのタレントが実際に食べる絵を流さないとグルメ番組というのは成立しない。たとえ合間に見飽きたテンプレのネタを挟まれることになっても、それでもなお、グルメ番組はやはり食レポを必要とする。これってよくよく考えれば不思議なことですよね。
僕が知る限りでこれに対して一番妥当な説明はラカンの「欲望は、他者の欲望である。」なんじゃないかと思うのです。ここでラカンの言ってることのうちのひとつは、「我々は自分にオリジナルな欲望というものを持つことができない」ということで。ベタな具体例を出すと、他人の持ってるものが欲しくなったり、他人の食べてるものが美味しそうにみえる…といったことをこの言葉は指摘しています。グルメ番組は美味しそうな物を食べてみせる食レポ担当の芸能人無しに成立しないのは、たぶんラカンのこの説明が適用される事例のひとつなんでしょう。

しかし、上記のラカンの言葉は単純に「他人のものが欲しくなる」ということだけを言っているわけではなくて、さらに深いところで「人間は自分だけにオリジナルな欲望の理由を持つことができない」ということに言及しています。これについてはちょっと複雑なので上記の斎藤環のテキストを引用してみます。「なぜ自分はこれが好きなのかをどうやって説明するか?」という文脈で、このようなことが書かれています
説明を放棄するか、他人の欲望をもってくるか、そのものの特徴を語るか。でも実は、特徴を語る人も、つまるところは他人の欲望を持ってきているわけで。スペックの比較って、そういうことでしょう? こういう価値判断の評価って、つまりは欲望のモノサシとして、みんなに共有されているわけです。その典型が「価格」、すなわち貨幣価値ね。こっちはこっちで、ややこしい議論がいっぱいあるわけだけれど。つまり、どんな人でも自分の欲望を説明するには、他人の尺度を持ってくるしかないのだ。ということは、要するに、誰にも自分の欲望について、「自分だけの理由」を説明することは不可能、ってこと

この説明が適用されるべき具体例として「クイズ番組はなぜ回答者が必要なのか」について考えてみることにします。地デジ以降のテレビは双方向化されているので、クイズ番組は回答者の芸能人を排除して、テレビの前の視聴者の参加だけで番組を成立させられそうな気もするのですが。それだけで一時間の尺を持たせられるようなテレビ番組が現実には存在しないですよね。
故ナンシー関はクイズ番組が成立する原則を「正解の絶対快楽性」と言ってましたが、その快楽はテレビの画面内の回答者との相対的な比較に裏打ちされて成立しているんだと思います。つまり、「あの人が正解できなかった問題を正解した」とか「あの人でも正解できる問題を正解できなかった」といったことを繰り返して、「テレビの中の回答者」という他者との相対的な関係があるからこそ、視聴者は自分が正解したときに快楽を得られるのではないでしょうか。
だから全問正解するクイズ王みたいな人ばっかり画面に並べてもクイズ番組としてはたぶん何一つ面白くないんだろうと思います。そしてこれは、スベったりほとんど正解しない回答者(野々村真とか井森美幸のポジション)がなぜクイズ番組に不可欠であるかという理由でもあると思います。

2017年10月15日日曜日

北朝鮮に対して軍事力は何の抑止力にもならない

衆議院選挙の投票日の一週間前となりました。あんまり悲観的なことは言いたくないのですが、自民を中心に改憲勢力が優勢という予測が立っているそうです。相次ぐ不祥事に「丁寧に説明する」とか言ってたくせに一切の説明責任から逃げるように解散した安倍政権に投票できるセンスが僕には全く理解できないのですが。
twitterを見てたら津田大介がこういうことを言ってるのを見つけました。
知人の奥さん(アラサー)は「今回は自民党入れる。北朝鮮恐いから」と。知人が「むしろ、北朝鮮情勢悪化させるのでは?」と諭したところ「野党なら何もやらない。それよりかはマシ」という理由みたい。そういう理由で自民を支持する人は結構多いんだろう。結局テレビが最強のアシストしてるんだよね。
全員が全員というわけではないんでしょうが、自民党に投票する人ってたぶんこういう人達なんでしょうね。たぶんこういう人の方がこの国では僕より幸せに生きていけるんだろうなと思います。とはいえ、ちょっとさすがにそれはナイーブ過ぎないですか?と思うので、選挙の結果が出る前にこれについて思うところを書き連ねておきたいと思います。

結論から申し上げると、日本は北朝鮮情勢に対して与えられる影響はごく僅かなんじゃないかと思います。しかも、この「僅か」に含まれるのは経済制裁や対話などの外交的な努力であって、日本の軍事力を増強することはおそらく何の意味も成さないと思います。
だいたい北朝鮮は世界一の軍事大国であるアメリカ相手に徴発を行っている国なのです。その立場について真剣に想像してみてください。北朝鮮だって、アメリカがその気になれば自国を一瞬で焦土にできることくらいは重々承知の上でやっているわけです。ここで日本が今更軍事力を少々増強したところで、アメリカに比べたらどんぐりの背比べレベルの差分でしかないですよね?それが北朝鮮に対して何か意味のある抑止力になると思いますか?
件の津田大介のtweetに登場する人は「軍事的なオプションをチラつかせれば北朝鮮への抑止力になると思いたい」のでしょうが。ここまで述べたように軍事力の増強は北朝鮮に対して何ら効果的な対策にはなりません。そして、僅かながら意味がありそうな外交について安倍政権はトランプに追従して対話を拒否する姿勢を見せています。つまるところ、安倍政権は状況を悪化させているだけではないか?という津田大介の指摘は妥当だと思います。

よく、「9条があるから日本は北朝鮮にナメられるんだ」とか、「北朝鮮に対する抑止力となるために、日本も核武装すべきだ」とか言う人がいらっしゃるのですが。彼らの言ってることは「北朝鮮が合理的な思考に基づいて立ち振る舞いを決定すること」が大前提になっています。ここに重大なピットフォールがあるのではないでしょうか?
北朝鮮は、少なくとも表面的な態度としては、狂人として振舞うことを自身に課しています。この狂人としての立ち振る舞いの鮮度を劣化させずに、程々の緊張を保ち続けることでこれまで彼らは生きながらえてきました。だって、「北朝鮮は何をしでかすか分からない」と相手に思い込ませ続けないと挑発には価値が無いですからね。
以上より、仮に9条が無くなろうが日本が核武装しようが、それが北朝鮮の態度を軟化させることに貢献するとは期待できないんじゃないでしょうか?狂人として振舞うことを自身に課している以上、一度でもマトモな対応をしてしまうとこれまでの努力が無駄になってしまいます。だから、北朝鮮は日本が軍備を増強したら間違いなく挑発行為をエスカレートさせる方向に舵を切るでしょう。というより、彼らだってそうせざるを得ないのです。

以上申し上げたことは「ちょっと考えれば自明なこと」だと思います。しかし、残念ながら日本では自分はマイノリティなんであろうこともなんとなく分かります。なんでこうなるかというと、残念ながら「この国では自分の頭で考える気の無い人がマジョリティになってしまった」からなんだろうと思います。
北朝鮮関連のニュースになると、日本のテレビでは判で押したように「ロケット、軍事パレード、拍手するカリアゲの将軍様、勇ましくニュースを読み上げるチマチョゴリのニュースキャスター」だけが出てきますが。こういった安倍政権とマスコミによる北朝鮮についての印象操作は「北朝鮮=核実験、ミサイル=何を考えているか分からない怖い人達」という図式だけを刷り込んで、「もうとにかく訳のわからない狂人が恐いから、とりあえず軍備を増強しよう」という方向に日本人のマジョリティを誘導してしまったように見えます。
この辺りの手腕は、さすがナチスの手法に学んだだけのことはあるなと思います。が、主権者たる国民の知的水準を見下してナメてかかるのは民主主義国家の政治家としての彼ら自身の存在意義を自ら毀損しているように僕には見えます。

北朝鮮の脅威を煽って自民党が軍事力に対するフリーハンドを得た先に本当に実現したいのは、アメリカのパシリとして中東などのテロ拠点や紛争地帯に不必要な介入を行い、特に恨みがあるわけでもない人達を殺傷することで。これをやってしまうと日本はアメリカの対テロ戦争のような泥沼に巻き込まれ、日本の一般市民がテロの脅威に晒されることなるでしょう。結果的に、自民党に軍事力へのフリーハンドを許すことは、北朝鮮の脅威に対しては有効な対策にならないだけでなく、日本の一般市民をテロに巻き込まれる危険に晒すだけで何のメリットも無いのではないでしょうか?
戦後70年にわたって、日本には自衛隊という実質的な軍隊組織はあれども外国人を殺傷することは一度たりともありませんでした。そうやって「外国の恨みを買うことがなかった」ということの価値がどうも過小評価されているような気がしてならないのです。




2017年10月14日土曜日

枝野さんと立憲民主党は往年の前田日明とUWFに見える

ご存知の通り、この一カ月くらいで政局は目まぐるしく変化しました。民主党の分裂は結果として自民党を利する結果になったのではないかという指摘もあるのですが、良識派(リベラルという言い方よりはこっちのほうがまだ妥当な気がするのです)が躊躇なく投票できる立憲民主党という党ができたのはよかったんじゃないかと思います。
これまでの民主党って、昔の自民党のようにリベラルから保守、タカ派からハト派まで「いろんな人がいる政党」だったのですが。中には前原の一派のようにほとんど自民党とポリシーに大差ない人もいたりしたわけで、おかげでどうしても党としてのイデオロギーがあやふやになってしまっていた感はあります。

立憲民主党の結成以来、僕のtwitterのTLは連日立憲民主党祭りのような状況になっています。twitterは良くも悪くも自分とポリシーの近い人の情報ばかりを遠心分離して取り出してしまいがちなメディアなのですが、それを差し引いても立憲民主党に対する良識派の期待はかなり高いように思うのです。例えば、内田樹先生はtwitterで立憲民主党への個人献金を行ったと表明しました。
「まっとうな政治」というキーワードにも現れているように、良識派の人々の立憲民主党への期待の背景には「やっと諸手を挙げて応援できる政党ができた」ということがあるんだと思います。立憲民主党ができる前の状況だと「もうこれだったらいっそのこと共産党に入れるか」と思っていた層にとっては、立憲民主党は待望していた理想的な党にみえるのではないでしょうか。

さて。そんな立憲民主党と枝野さんに対する良識派層の反応を見てると、僕はどうしてもUWFと前田日明のことを思い出さずにはいられないのです。そのうちプチ鹿島辺りが取り上げてくれるだろうと思ってしばらくウォッチしていたのですが、誰も言及しないようなので自分でblogに書いてみることにします。これを読んでる方でこの辺のプロレス史に明るくい方はたぶんいないと思うので改めて書いてみると。。
UWFというのはプロレス団体です。UWF結成当時のプロレス界は猪木(新日)と馬場(全日)という「同質であるようで決定的に相容れない二人」による二極が拮抗した状態が長らく続いていました。そこから新日の一部から分離したUWFという団体が誕生しました(この経緯だけでも所説色々あるのですが気になる方はネットで検索してみてください)。このUWFという団体はそれまでのプロレスとは異なり、現在の総合格闘技に近いようなスタイルを標榜して一大ムーブメントを起こしました。この団体を率いていたのが、カリスマエースだった前田日明です。

中島らもはUWFができた当時、「やっと大人の見れるプロレスができたと狂喜乱舞した」のだそうですが。立憲民主党に大して寄せられている期待には、このときの中島らもと同じような熱量を感じるのです。つまり、「やっと諸手を挙げて応援できるまともな政党がえきた」と。
プロレス団体としてのUWFは色々な困難に直面し、その後内輪モメや離散集合を繰り返すことになりましたが、UWFがあったおかげで今日の日本の格闘技があると言っても過言ではないくらい絶大な影響を後世に残しました。立憲民主党が今回の選挙でどのような結果となるかはわかりませんが、この先に繋がる何かの始まりとなってくれることを期待します。

枝野さんがテレビに登場するときには前田日明の入場テーマだった「ダンバイン飛ぶ」や「キャプチュード」を流してくれないかな…。


2017年8月11日金曜日

子供番組と科学

このblogを開始してから気が付いたら4年ちょっと経過しました。開設当初にこのblogを始めたことを3-4人の友達に連絡した記憶があるのですが、基本的にそれ以外の誰かに自分からこのblogの存在を広めたことはないですし、SNSからこのblogへリンクを張ったりしたこともありません。昔からインターネット上の孤島みたいな誰も来ない場所に一人で思いついたことを書き連ねるのが好きなのです。もしかしたらgoogleか何かで検索して偶然このblogに辿り着いて、以後定期的にこのblogをチェックしてる人もいるのかもしれませんが。もしいたとしても僕のポリシーをなんとなく理解して、穏やかに今後も見守ってていただけているのでしょう。
そんなこんなで気が付いたら今回が100回目の投稿となりました。僕は20世紀末のweb1.0時代の空気を苦笑いしながらときどき回顧したい方なので、キリ番(なつかC)ではほんの少しだけはしゃいでおきたいのです。4年ちょっとで100回ということは、一年で24回なので、平均して一カ月に2回の更新頻度ということになります。開設当初は猛烈な勢いで色々なことを書いていたのですが、その後徐々にペースダウンして、子供が生まれてからはさらにペースが落ちて2カ月以上ほったらかしてるときもあったのですが。それでもここまで続いてきて、最近は再びペースが少しだけ上がりつつあります。

さて。前回「科学的思考と受験エリート」という話を書いたのですが、今回もその続きの話をさせてください。というのも、SNS上で関わりのある30歳くらいの人が「日本人がテクノロジーに対してどこか否定的なのは、宮崎駿がテクノロジーをネガティブに描いているからだ」と言ってるのを見て、「それはちょっと違うんじゃないか?」「それは表層でしかなくて、その背景を考えようよ」「何でも簡単に誰か、何かのせいにしたがるのってどうなんでしょうね?」とか思うことはいっぱいあるんですけど直接は言えない…ので。もし彼に何も遠慮せずに言えるとしたら言ってやりたいことをしたためてみようと思います。
まず宮崎駿の話から言うと、宮崎駿は「テクノロジーの塊である飛行機が大好きな一方でアミニズム的な自然観も大好きで、その両者の間で常に葛藤している」のだと思います。これは宮崎駿個人の問題ではなく、我々日本人が普遍的に抱えている問題で、例えばドラえもんについても全く同じことが言えます。ドラえもんはテクノロジーが行きついた先の未来を「ピカピカの服を着た人たちが暮らす便利で豊かな理想の世界」として描いていている一方で、だいたいの話は「ドラえもんの道具に味を占めたのび太が調子に乗った挙句に痛い目に遭う」という話型になっています。

前回の投稿でも言及しましたが、キリスト教を文化的背景とする欧米人にはこういう葛藤はおそらく無いんだと思います。前回の最後でおさるのジョージの歌詞を引用しましたが、おさるのジョージはドラえもんや宮崎アニメとは違い、徹底して「科学的なチャレンジは善」なのです。だから、ドラえもんにおける「のび太が道具の味を占めて調子に乗る→痛い目に遭う」のようなシーンは見たことがありません。ジョージは時々色々なアイデアを思いついて実行します。時にはそれが失敗して周りの人に迷惑をかけることもあるのですが、黄色い帽子のおじさんは決してそのことでジョージを怒ったりはしないのです。
同じように「科学的であることは善」が徹底しているという傾向は欧米人が作った別の子供番組「ミッキーマウスクラブハウス」にも見て取れます。この番組はミッキーと仲間たちが適切な道具を選びながら問題を解決していく形で話が進むのですが。話の最後で必ず歌うマウスケダンスという歌は「とっても楽しい一日 みんなで力合わせて 問題を解決したね」から始まります。「問題に対して適切な解決策(道具)を選んで問題を解決する」という科学的なフォーううムがここでも徹底的に肯定されているように見受けられます。

以上より。キリスト教文化圏だと「科学」は全肯定される半面、日本人はどうしても「科学、テクノロジーが大好き」と「それをどこか否定したい気持ち」の間で揺れているのです。なぜこうなるか?というと、いくらでも説明のしようはあるだろうとは思うのですが、過去のblogの投稿から説明してみると、養老孟司の「脳化」というキーワードとか岸田秀の「内的自己・外的自己モデル」辺りが妥当なんじゃないかと思います。
養老孟司曰く、江戸時代という長い平和な時代が続いたことによって日本人は「脳化」したそうです。脳は予測と統御を司る器官であり、例えば「都市」というのは典型的な脳の産物なんだそうです。ドラえもんの道具や、作中の「ピカピカの服を着た人たちが暮らす未来の世界」などはまさに脳的な快楽の典型だと思います。一方で脳は予測不可能な自然を忌避します。結果として我々日本人は常に脳と自然とのせめぎ合いの間で揺れていて、その葛藤が宮崎駿の作品やドラえもんには描かれているのではないでしょうか?
一方で別の見方をすると、西洋科学はペリーの来航→開国の時代にやってきた外来文化なので、これに対応するのは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルでは外的自己の担当になります。岸田秀曰く、ペリーによって半ば強引に開国されたときに日本人は「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」と「内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」に分裂したんだそうです。このモデルで考えると、外的自己としては西洋科学を器用に受け入れた半面、内的自己としては日本固有のアミニズム的な自然観にノスタルジーを禁じ得ない、という日本人像が形成されることになります。そして、宮崎駿の作品やドラえもんはこの対立のもたらす葛藤を描いていると言うことができるでしょう。

2017年7月17日月曜日

軽自動車とミニバンにだけヤンキーやファンシーが炸裂する理由

気が付けばもう半年近く前の話になってしまうのですが。4年半前に日本に帰国した際に買ったプジョー1007が壊れました。最初は「なんか加速が悪いかな?」くらいで、乗り終えた後に車を降りたらクラッチ板の焼けるような匂いがしたのでたぶん自動クラッチ周りの何かに問題があるんだろうなとは思っていたのですが。どんどん状況が悪化するのでディーラーに持って行ったときはすでに手遅れで、ディーラーの説明によると「1007はモーターショーに出展したコンセプトカーをそのまま製品にしてしまったようなところがあって、7万キロを超えたあたりから色々とトラブルが出始めるので…」と言われました。結局修理代金が30万円を超えると言われてたところで諦めて廃車となりました。
このプジョー1007は帰国直後にまだスペイン人気分でいる僕と奥様にはとてもしっくり来る選択肢ではあったのです。確か、最初はフィアットのニューパンダを買おうと思ってたんですが、奥様が1007にほぼ一目惚れしたために半ば勢いで選んじゃったのでした。まぁ、「ハイオク指定車だった」とか「前列のシートにリクライニング機能がついてない」とか「オートマとはいってもクラッチを自動化する装置をつけただけ」など、買ってから「あれ?」というのもあるにはあったのですが、それを補って余りあるくらい愛着の持てる車ではありました。

このプジョーがお亡くなりになったので、とりあえず通勤に使える車をなるだけ早く手に入れなくてはいけなくなりました。当初は家族4人くらいで乗っても全然問題ないくらいの車(フリードとかシエンタとか)を考えていたのですが、この車格のファミリーカーはあまり買い替えることが無いせいもあってか、中古ではあまり玉数が少ない上に買うとなると5-6万キロ走ってる物件でも100万円近くしてしまうのです。というわけでこの路線は早々に諦めて、セカンドカーとして僕が通勤に使ったりする程度の車を探すことにしました。
そもそも僕は車に対してそんなにこだわりがある方ではないのです。もちろん見た目や走りはある程度良いほうがいいですが、基本的に車に対しては「ちゃんと走れればなんでもいいや」程度のこだわりしかないのですね。だから、何百万もする車を新車で買ったりする気にはなれないのでいつもほどほどの状態の中古車しか買わないのです。プジョーを買ったときは子供もいないし日本に帰ってきた直後の勢いもあったのですが、子育て世代のサラリーマンとしては最早車に遊び心みたいなのを求めようという気は全く起きないので、結果としては軽自動車をお買い上げすることになりました。結果として2.5万キロ走行、車検はあと半年弱、という軽自動車をコミコミ50万円で手に入れたのは我ながら比較的よい買い物だったとは思います。

ずいぶん長い前置きになってしまいましたが、そんなこんなで久しぶりに車の情報を探してみて思ったのですが。タイトルにもあるように軽自動車とミニバンにだけ突出してヤンキーやファンシーが炸裂していることに気づいたのです。
まずミニバンですが。この車格の車は例えば「ガイア」「オデッセイ」「ノア」「エリシオン」といった具合に、名前の段階でもうすでにヤンキーセンスが炸裂しています。そして、高速道路で前の車をガンガン煽りながらずっと右車線をものすごい勢いで走っていくのって、この手のミニバンが多いと思います。たぶん中には血の気の多いおっさんヤンキーみたいなのが乗ってるんでしょうね。
一方、今回探した軽自動車ですが。今回このカテゴリの車を探してみて思ったのですが、およそ6割の軽自動車のデザインはヤンキーセンスでできています。そして、このヤンキーセンスの軽自動車を中古で探すとたいてい白か銀か黒のどれかの色しか選択肢がありません。この関連に気付いたあたりから、僕はネットで中古の軽自動車を探すときには色の指定のところで上記の三色を外して探していました。こうすることでヤンキー臭のする車はかなり効率的に除外できることに気づいたのです。しかしながら軽自動車の残り2割は
"lapin"や"mira cocoa"などの女子向けファンシー車で構成されていまして。こちらは色はカラフルなものが多いのですが、なにせデザインがファンシー過ぎて40手前のおじさんが通勤に使う気にはちょっとなれないのですね。
結局僕が買ったのは、軽自動車の中でもヤンキーでもファンシーでもない最後の「オバさん」カテゴリの中からオバさん臭さが少しでもマシそうなものを選んだのでした。でも、「オバさん」は一度買った車を最後まで乗り続けるので、なかなか中古車では玉数が少なくて探すのに苦労しました。

ミニバンと軽自動車というカテゴリーにだけ突出してヤンキーやファンシーといった日本ローカルなセンスが炸裂している理由は、おそらくこれらの車格が日本ローカルであることと関係あるんじゃないでしょうか。欧州に住んでた時の記憶をたどっても、プリウスやマーチやフィットのような車はいくらでも走っていたように思うのですが、軽自動車やミニバンはほとんど見た記憶がありません。軽自動車は日本の税区分でないと存在意義が無いですし、欧州人は子供がいてもスライドドアや三列シートの車を欲しがったりはしないようです。
欧州でミニバンがあまり普及しない理由はいろいろ考えられますが、直感的に言うと日本では車は「車輪がついて動く家」のように思われている気がするのですが、欧州人にとって車とは「エンジンや駆動系の上に人が乗るための空間がついている」という感覚なのではないでしょうか。だから、欧州では”操縦している感”が味わえるMT車が主流であり、居住性や機能性を追及した日本車のようなものを求めていないんだろうと思います。ドイツなんてアウトバーンを200キロで走れないと車として使い物にならないわけですから、日本のミニバンではたぶん使い物にならないでしょう。運転するのが高速で右車線を激走する血の気の多いおっさんヤンキーでもない限りは。。

2017年7月9日日曜日

反知性主義と「うまいこと言う能力」

久しぶりに更新しようと思ったら、蝉が鳴き始めてすっかり夏らしくなってしまいました。これを書いている7月上旬の政局は、「都議会選で自民党が歴史的敗北」「この結果を受けて、内閣支持率も急落」「失言で足を引っ張った稲田や安倍などへの批判は高まるものの誰も責任を取る気配はない」という状況です。勝ったのが小池とはいうのはさておき、選挙の結果を「前よりはマシになった」と思って眺めていられるのは4年前にこのblogを書き始めてから初めてといっていいくらいだと思います。
個人的には「AKBと安倍政権と林修先生は本来なら耐用年数を超過していてとっくに飽きられていて然るべきなのに、代わりになるものが出てこないから消去法的に生き残っている」と思っているので。今回の都議会選から潮目が変わって、日本人が安倍政権に愛想を尽かせ始めたのだれば、それはとりあえず歓迎すべきだと思っています。もちろん「勝ったのが小池か…」というのはあるにはあるんですが、それでも現時点では安倍よりはまだマシだとは思います。

折しもこのように政局の潮目が変わり始めた気配がしてきた時期に、たまたま「反知性主義」について橋本治が非常に的確に説明している本を読んたので、まずはその本の話をさせていただきます。「反知性主義」というキーワードは、日本では橋下徹が台頭してきた辺りから聞くようになった言葉ですが、その後の安倍政権~トランプの大統領当選といった具合に、日本のみならず世界的な潮流となっています。
橋本治は自著の中で、反知性主義が世界的に台頭するに至る背景を「中流層の貧困化/下流化」として説明しています。「一億総中流」という言葉に象徴されるように、戦後の日本は大多数の庶民が中流層に属する(という幻想を共有した)国を作り上げました。しかしこの社会はバブルの崩壊や経済のグローバル化に伴ってだんだん維持するのが困難になりました。中流層というのは「自分達は下流層よりは何かしら優越している立場である」という根拠の不明瞭な思い込みによって自身の社会的立場を位置づけています。この中流層が貧困化し始めると「根拠の無い優越」が「崩された」と感じ、ほぼ無条件にまず「不機嫌になる」と橋本治は言っています。
これは日本に限らず全世界的に反知性主義が台頭してきたことに対するかなり的を射た説明なのではないかと思います。状況はアメリカでもイギリスでも似たようなもので、中流層が貧困化/下流化して「不機嫌になっていく」中で反知性主義が台頭していった結果、プアホワイトの支持を得たトランプが大統領になったり、移民によって追い詰められた下流層の支持によってイギリスはEUから離脱することになりました。

で、ここからようやく「自分がオリジナルに言わんとすること」の話になるのですが。日本において反知性主義が最初に関西から台頭したことには、それなりに必然性があったのではないか?と思うのです。まず、上述したように反知性主義は「中流が沈下して不機嫌になっていく」ことと繋がっているのですが。東京一極集中で徐々に下降の一途をたどっていく中で関西には不機嫌な空気が少しずつ蔓延していたのではないかと思います。そしてさらに、反知性主義と関西の相性が良いもう一つの理由に「お笑い文化」があるのではないかと思います。
僕は高校卒業まで関西で育ったので、なんとなくの皮膚感覚として思うのですが。関西では「面白いことを言う」「うまいこと言う」という能力は日本の他の地域よりも高く揚称される傾向があります。たとえば女子にモテるための条件として「カッコいい」「運動ができる」などは全国共通ですが、関西ではルックスが多少悪かったり運動が特にできなかったりしても、面白いことが言えればそれなりにモテたりするのです。
このような風土と反知性主義はそもそも相性がいいのではないでしょうか?実際のところ関西のお笑い芸人は排外主義や反知性主義に近い政治スタンスを持っている人が多いようです。僕が記憶している範囲だけでもこんな調子です。
小藪の教育勅語肯定発言
ブラマヨ(吉田)の長谷川豊擁護発言
笑い飯(哲夫)の慰安婦問題についての発言
ただし、これらはすべて吉本の芸人でして。関西の芸人の中でも唯一鶴瓶だけは安倍政権に対して批判的なコメントをしているのですが、鶴瓶は吉本ではなく松竹芸能所属です。鶴瓶が表立って安倍政権を批判できたのは、その辺りの事務所のカラーも関係があるのかもしれません。
もちろんお笑い芸人の中には鶴瓶以外にもネトウヨ的な政治信条に批判的な人もいるのかもしれませんが。上記のようにお笑い芸人が橋下徹のような発言を繰り返す背景には、彼らの思考様式そのものが「複雑な問題の一部分だけを取り上げて議論をすり替えたりしてうまいこと言う」ことだけに特化されているという、ある種の職業病のようなものが透けて見えるような気がするのです。そして、こういうお笑い芸人の作り出す「笑い」を文化の中心に据えている関西にはこのような反知性主義的な思考に同調しやすい土壌があったのではないでしょうか。

そもそも政治がなぜ必要かというと。いろいろな人の立場や利害があって社会が複雑だからこそ「そんなに悪くはない最適解に着地させて解決させる」ために政治はあるのではないでしょうか。言い換えると、世の中がはそんなに単純でないからこそ政治が必要なわけであり、そう考えると、政治家に必要な資質は本来「複雑で簡単に答えが出ない問題について議論して解決していく能力」であるべきだと思うのですが。反知性主義はこういう姿勢を放棄して「いかにクリアカットで歯切れのいいことを言うか」にだけ能力を最適化しているように思えるのです。
その昔「プロレスラーは政治を目指す」で申し上げたように、一昔前までの政治家には「青雲の志を持ちつつ悪いこともできる」という清濁併せ持つ能力を求められていて、その点では「真剣勝負と演技」という矛盾した要素を止揚することが職業上不可欠なプロレスラーはまさに政治家に向いている…と僕は思っていました。しかし、反知性主義が猛威を振るっている昨今の状況を見ていると、もはや政治にはこのようなセンスさえも必要とされなくなったのではないかと思えてくるのです。
というのも、最近の安倍総理や菅官房長官を見てると、もうこの国の政治家は「うまいこと言えればいい」というのも通り過ぎて、「うまいこと言おうとする気さえもなくなっている」ように見えるのです。つまり、「うまいこと言う努力さえも放棄して国民に対してナメた態度を取っていられる上限を競うチキンレースに興じる」という、いわば「末期反知性主義」的な段階にさしかかっているのではないかと思うのです。まぁ、いくらなんでもさすがに今回の都議会選挙ではこのような姿勢に対して国民から「No」を突き付けられたのですが。「末期反知性主義」からこの先、日本はどう変わっていくのでしょうかね?

2017年5月5日金曜日

挨拶ができないとダメかな?(その2)

どこの会社にでもある話なのですが、4月に人事異動がありまして。結果として人生で初めて女性の課長の下で働くことになりました。他にも組織変更やら何やらで人の出入りがあったために大規模な席替えが行われまして。結果的にヒラ社員最年長の僕は今回の席替えで右が女性の課長、向かいの席も別の課長、斜め前が部長という席に置かれてしまいました。
これまでの社歴を振り返ると、エラい人の近くの席だったことはありました。最高記録は入社して最初に与えられた席で、そのときはいきなり常務の斜め前の席でした。後から考えると、あれはたぶん誰も常務の周りに座りたがらないので空いていた席を僕にあてがわれたのでしょうが、当時の僕はそんなことさえ考える気もなくて、全くビビッてませんでした。今考えても若いって素晴らしいですね。
しかしこの歳になるとビビり方もそれなりに分かってきますし、何よりも周りの席のエラい人があんまり接したことが無かったり、ちょっと苦手だったりする人なので今回の席替え以降は自分の席にいてもホーム感がまるで無いのです。

そんなこんなで、この席になってから常に「なんとなくやりづらい」のはまぁしょうがないとして。毎日どうしても引っかかって気になってしまう事に「挨拶」があるのです。以前、このblogを始めた頃に「挨拶ができないとダメかな?」というテーマで投稿したことがあったのですが、あの頃気になっていた事と同じような違和感を再び毎日感じるようになったのです。
というのも、件の女性上司がわりとパリッとシャキッと毎朝挨拶をしてくる人なのです。考えすぎかもしれませんが、その立ち振る舞いからは「あなた達との関係を作っていく上で、まず最初は挨拶からはじめようと思っています。人間関係はまず挨拶からしか始まらないでしょう?」という空気を読み取ってしまうのです。まぁ、それはそうといえばそうなんですけども。でも、どうしてもこれが引っかかるのです。
勿論口に出して真正面から議論するなんて事はしようとは思わないですし、毎朝パリッとシャキッと挨拶する彼女の姿勢は職場の大半の人にはどちらかといえば好印象を持って迎えられているんだろうと思います。でも、僕は毎朝挨拶される度に何だか違和感を感じてしまうのです。それがなぜかというと、挨拶ができないとダメかな?で問題にしたように、「自分の考える挨拶の仕方やタイミングに対する常識は世界共通で正しいと信じて疑っていない」「挨拶のできる自分は社交的な人間であると当人は信じて疑っていないが、実際は挨拶の仕方という一側面だけで世の中を敵と味方に分けたがっている事に自覚がない」という事なんだと思います。

日本人の挨拶のあり方について考える上で非常に有用な示唆を与える話なので、河合雅雄というサル学の学者さんの本に書いてあった話の受け売りをご紹介してみます。河合氏曰く、挨拶という行動様式は高等猿類の中でも人類やチンパンジーなど一部にしか存在しないんだそうです。その一方で、高等猿類の中にはサルのように挨拶という行動様式が存在しない種族もいるそうです。これがなぜかというと、挨拶というのは「互いの不在の時間を埋めるための行動様式」であるからで、逆に言うと「互いの不在の時間が存在しない社会」には挨拶という行動様式は発生しないんだそうです。
サルの社会は常に群単位で行動するので、もしも2-3日以上に渡って群から外れていると、戻ってきても最早群のメンバーとしては扱ってもらえなくなるんだそうです。だから、そんな超群社会では挨拶なんてそもそも必要が無いのだそうです。一方、チンパンジーには新婚旅行のような習慣もあって、カップルが群から何日も離れて二人だけで生活することが普通にあるそうです。だからこそチンパンジーの社会には人類と同様に挨拶が存在するんだそうです。

つまり僕が言いたいことはこういうことです。毎日同じように会社で顔を合わせるような、いわばサルの群のような職場で本当に毎日挨拶する必要があるんでしょうかね?勿論僕だって、久しぶりに会った人や、初めて会う人、他部門や他社の人とは何の違和感もなく挨拶しますよ。だって、時間だけじゃなく、社会的立場や利害関係など、埋めるべきものがお互いの間にありますから。しかし、毎日代わり映えしない面子が顔を合わせる職場で毎日挨拶する必要は本当にあるのでしょうかね?
むしろ、擬似サル山社会である職場で毎日挨拶する事は実態として「毛繕い」や「マウンティング(上下関係を示すために強い方が上になる)」のように、挨拶という行動様式の本義からかけ離れて、会社組織のサル社会的な側面を強調してしまっているのではないか?とさえ僕は思うのです。職場の課長や部長レベルの人たちの中に、毎朝不特定多数に向けて「おはようございます」と繰り返しながら自分の席まで歩いてくる人がいます。ああいう人は挨拶しているようで、実はマウンティングをやってるだけのように僕には見えるのです。彼らの挨拶は「一対多」の「一」のポジションから常に発信されています。言い換えると、全校生徒に向けて壇上から話をする校長先生と同じ立場にいるのと同じなのですが。彼らは毎朝挨拶をすることを通してこの立場を再確認をしているだけのように見えるのです。

おそらくここに書いたようなことは誰に話しても「そんな細かいこと気にせずに、挨拶されたらほどほどに返しておけばいいじゃん。いい大人なんだしさ。」って言われるでしょうし、実際本当にその通りだとは思うのですが。でもどうしても僕には気になるのですよ。。かといって文句ばっかり書いて終わるのも嫌なので、せめてあのマウンティング挨拶をなんとかするにはどうしたら良いか?という提案くらいはここに書き残しておきたいと思います。簡単なことなのですが、「挨拶の後にもう一言何かを話しかける」ということをやりさえすれば良いと思うのです。
まず、これによって自分の席に向かって歩きながら周囲の社員に向かって「おはようございます」と切って捨てながら歩く典型的な「一対多」のマウンティング挨拶は自動的に不可能になります。そして、何でもいいから挨拶の後に何か会話することで、目線の合ったコミュニケーションの糸口が作り出せると思うのです。この、「目線の合ったコミュニケーション」という資質が致命的に欠けていることが、僕が日本人の挨拶に違和感を感じる原因なんだと思います。欧米人、とりあえず自分の身近だったスペイン人を例にとって考えてみたときに、必ず彼らは目を合わせてクラッチが噛み合った挨拶をするのです。
なぜ彼らがクラッチの噛み合った挨拶をするのかというと、「相手と自分はいろいろな事が違っていて当たり前で、お互いに深い断裂があるので、分かり合えることに限界がある」ということが欧米人にとってはコミュニケーションの大前提として共有されているからなんだと思います。といった具合に、例によって今回も最後は「キリスト教文化 vs 儒教文化」という文化的背景の違いに帰結してしまいました。はい。
ともあれ、「挨拶の後に会話を繋げられる」というのは、国際コミュニケーションの場で非常に重要なセンスだと思います。日本人の残念な英会話にありがちな話なのですが、"How are you?"と聞かれたら、体調が良かろうが悪かろうが"fine thank you."と、とりあえず答えてそこから後は何も喋れない人って結構いますよね。例えば調子が悪ければ"not so good."みたいな返し方をすべきですし、そこから「昨日からちょっと風邪気味で…」といった具合に会話の糸口を作るべきなんですけどね。こうなってしまうのは、もちろん単純にボキャブラリが不足しているのもあるんでしょうが。より本質的な原因として、日本人が挨拶を「目線の合った会話の糸口」というよりは「テンプレの交換儀式」としか思っていないからなんじゃないかと思うのです。

2017年4月23日日曜日

そして大相撲は戦後プロレス化への道をたどる

このblogを始めてから、気が付けばもう4年も経ちました。blog開設当時はまだスペインから帰国したばかりだったので、開設当時の投稿を今読み返すと、いろいろありながらも今の自分はすっかり自分は普通の日本人に戻ってしまったなと感じたりします。これは物の考え方だけでなく、日常生活のちょっとした立ち振る舞いにも現れていまして。例えば、今では普通に人前で何の躊躇もなく鼻をすすっちゃうことがあります。また、この前は何も考えずにパンに直接かじりついてました。どちらもスペインではちょっとお行儀の悪いので人前ではまずやらなかったことなんですけどね。
さておき、初期のblogを読み返してみると帰国当時は日本のアレやコレにいちいちイライラしていたのを思い出してしまうのですが。勿論日本の全部が嫌だったわけではなくて、「帰ってきてよかったな」と思えることだってあったのですよ。といっても、その大半は食べ物関係(コンビニでおにぎりが100円で買える、吉牛やはなまるうどんが数百円で食べれて、スーパーで刺身や寿司が数百円で買えて…と、書き出すとキリがないのですが)なんですが、それ以外に「プロ野球と大相撲が普通にテレビで見れる」ということもありました。相撲も野球もずっと日本で暮らしていると「テレビつけたら当たり前のようにやっている」ものだったわけですが、2年間海外暮らしで遠ざかっていたら以前にも増してその当たり前のありがた味を感じるようになったのです。そんなわけで、帰国以降はNHKが夜中にやっている幕内の取り組みを30分のダイジェストにまとめた番組を場所中は毎日必ず録画して見ています。

で、今回は稀勢の里の話になるのですが。先に申し上げておくと、僕は稀勢の里が横綱になったのは「ちょっと早かったんじゃないかと思ってる派」ではあります。というのも、ずっとそれなりに相撲を見ている人からしてみると、稀勢の里は「危なっかしい」「ここ一番の大事なところに限って必ず負ける。しかも、そういう時はいい所がひとつもないまま圧倒されて負ける。」といった具合に、良くも悪くも「ハラハラさせる末っ子」的な存在だったからです。
稀勢の里が横綱になったことではしゃいでる人達は、彼のその「危なっかしさ」を理解していない「にわかファン」が大半なのではないでしょうか?もう若い人には言っても全然伝わらないのでしょうが、稀勢の里に無責任な期待を寄せる人達は、かつての若貴フィーバーの時代に沢山いた「自称相撲ファン」と同じ香りがするのです。
そして横綱・稀勢の里は大阪場所が始まってみたら初日から全く危なげなく順調に十二連勝しました。しかし、勝ち続ければ勝ち続けるほど「そろそろ何かあるんじゃないだろうか?」と僕はハラハラしていました。なので、結果として怪我してしまったときには「ほら、やっぱりね。。」と思ってしまったわけです。

しかしながら、稀勢の里は深刻な怪我を負った後に二連敗したものの、千秋楽で照の富士相手に二連勝して奇跡の逆転優勝を遂げてしまいました。「遂げてしまいました」というのは率直な感想であり、別にひねくれたくて言ってるわけではありません。というのも、ここで優勝してしまったことで稀勢の里はいろんなスイッチを入れてしまったように思えるからです。
プロレスとのアナロジーを持ち出してみますが。そもそも稀勢の里は橋本真也なんかと同じで、学ランと破帽と夕焼けが似合う昭和の番長タイプなのです。我々日本人はどうしてもこのタイプの人間が大好きで、「内的自己=ヤンキー性」を感情移入させる対象になってしまいやすいのです。
また例えが古くてすいませんが、稀勢の里は今回奇跡の逆転優勝を遂げてしまったことで、かつて「黒船」グレイシー一族に勝ったときの桜庭和志のような立場に立ってしまったように見えるのです。そう考えると稀勢の里はこの先、かつての桜庭のように、日本人の「内的自己=ヤンキー性」の無責任な期待に振り回されることになるだろうと思います。最早、稀勢の里の「危なっかしさ」をヒヤヒヤしながらも温かい目で見守るような姿勢では稀勢の里を見れなくなってしまいそうな気がします。

今回の稀勢の里の優勝によって、大相撲は力道山時代のプロレスへと漸近し始めたのだと思います。日本におけるプロレスの開祖である力動山は、「シャープ兄弟などの外国の悪役レスラーをやっつける正義のヒーロー」という構図によって、敗戦国日本のルサンチマンに訴求することで一大ブームを作り上げました。
稀勢の里は今回優勝したことで、力動山や(一時期の)桜庭のポジションに祭り上げられてしまったのではないでしょうか。だいたい、ただでさえ永らくモンゴル人に独占されていた横綱の地位に稀勢の里が昇進して日本人からの期待が高まっていたところに。横綱昇進後最初の場所で12連勝→モンゴル人である日馬富士との取り組みで怪我を負いピンチに→しかし最後は同じくモンゴル人の照の富士相手に奇跡の逆転優勝を遂げる…という一連の流れは、「圧倒的な強さを誇る元が攻めてきたが、最後は神風が吹いて日本が勝った」という歴史の再演になってしまったように思います。
一方で今回の件では、照の富士や日馬富士などのモンゴル人力士は完全にヒールの立場に置かれてしまいました。彼らに対する人種差別発言なヤジが投げつけられたこと、そして、それをマスコミや相撲協会が容認したり黙認したりしたことは、少しだけ問題になったものの結局うやむやになって立ち消えてしまいました。例えばサッカーなどのスポーツであれば人種差別発言を行ったサポーターに対しては出入り禁止などの厳しい処分が科されたりするのですが、おそらく相撲協会はこの先もこの問題に対してはグズグズと曖昧な態度を取り続けることでしょう。「国技大相撲と外国人」というテーマは、永らく曖昧なまま保留し続けたために、今更真正面から向き合うことができないと思います。

プロレスの開祖である力動山は元力士で相撲との愛憎関係を終生引きずっていたそうです(弟子の猪木を相撲部屋に入れようとしたこともあったそうな)。そして、彼は実は日本人ではなく北朝鮮出身でした。逆輸入のような状態で戦後プロレス化しつつある今の相撲界を力動山は天国からどんな思いで見ているのでしょうかね?

2017年3月18日土曜日

世界の中心で「この世界の片隅に」について叫ぶ

気が付いたらすっかり春めいてまいりましたが。このblogを正月以来永らく放置しておりました。別に誰に何を言い訳する必要もないのでしょうが、理由はいろいろありまして。育児が忙しいとか、会社で異動があったりとちょっとバタバタしてたとか、リビングからダイニングテーブルを排除した結果PCに向かうための机と椅子がなくなったのでblogの更新が面倒になったとか、まぁ、いろいろあるにはあるのですよ。
そんな中でも、これはblogに書かずにはいられないような映画に出会ったので、今回はその話をさせていただきます。しかし、「この世界の片隅に」という映画は世間的にはほとんど話題になっていません。おそらく主人公の声を担当している「のん」こと能年玲奈の移籍騒動の影響で、大手のメディアがこの映画について一切スルーしてしまったからでしょう。しかし、それにもかかわらずこの映画は各方面から絶大な支持を受けています。特に、映画業界の方々からは絶賛されています。

いろんな人がいろんな媒体で言ってることの焼き直しになりますが、改めて自分の言葉でこの映画の何が素晴らしいのか説明してみると。戦争や原爆を描いた映画でありながら、見終わった後はものすごく暖かいもので頭の中が塗りつぶされたような気分になるのです。そして、後でこの映画について思い出す度に、この感覚が再現されます。どのシーンがどう、というわけでもなく、この映画について考えるだけでほぼ自動的に何か暖かいもので頭の中が塗りつぶされるのです。
日本人が戦争に関する映画を作ると、どうしても「蛍の墓」や「はだしのゲン」のように「かわいそう」「被害者としての日本人」等々の暗くて重い物を残してしまいます。一方で、戦争とは関係なければ単に「あたたかくて優しい気分になれる映画」もいくらでもあります。しかし、この映画は戦争の中でもあたたかい日常生活を営んでいた家族の姿を中心に据えています。そこがこれまでの日本人の作る戦争映画とは一線を画していて、その結果として、戦争が描かれているにも関わらず最後見終わった後に「あたたかい気分」になれるんじゃないかと思います。

ここで、岸田秀の内的自己・外的自己モデルを持ち出してみます。このモデルの骨子は、日本人はペリーの来航以来、「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」と「内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」に分裂したというものです。岸田秀の説に少々独自解釈を加えてここ100年程度の日本の歴史を総括してみると、内的自己の暴走の末に第二次世界大戦で大敗し、その後「経済=金」によって内的自己を充足させてきたものの、経済成長に限界が見えはじめたところに震災が発生して、これまで押さえられていた内的自己のフタが開いてしまい、その後は安倍政権などに見られる通り「内的自己=ヤンキー性」の暴走が社会のあらゆるところで猛威を振るっている…と、ざっくり言えばこうなると思います。
「蛍の墓」や「はだしのゲン」の例で説明したように、これまでの日本人が作った戦争映画はどうしても「内的自己の慰撫」という側面を持ってしまい、それが見た後に何か重いものを残してしまいます。しかし、「この世界の片隅に」という映画は「内的自己の呪い」を呪鎮した上で、清貧でも楽しく生きていく道を示してるように思えるのです。これは日本人が長く抱えている「内的自己・外的自己の分裂」という病を治癒できる可能性を示しているのではないでしょうか?この映画について事後的に思い出す度に、とにかく「あたたかい何かに頭の中が塗りつぶされるような感覚」というのは、つまるところ、この治癒効果なんだと思います。

「この世界の片隅に」について言いたいことは以上で大体終わりなのですが、最後にどうしても一言、「のん」こと能年玲奈について触れておきたいと思います。今回の映画では広島弁の役でしたが、彼女の出世作の「あまちゃん」も含めて、この人は方言がよく似合います。というより、標準語で話しているとなにかしら違和感があるというか、物足りないようにさえ思います。今回の映画を通して思ったのですが、彼女は日本という国の片隅に暮らす人々の依り代=巫女という稀有な資質を持っているのではないでしょうか。今回の映画で直接実写で役を演じるのではなく声優としてアニメに命を吹き込む作業を行ったことによって、彼女の巫女性がより際立ったように思いました。その資質たるや、もはや長嶋茂雄とか山口百恵とか浅田真央とか、そのレベルだと思います。

2017年1月3日火曜日

日本人は非常時に向き合うことができない

これも2016年中に書こうと思っていたことを2017年の正月に書いています

これを書いているのは博多駅の陥没事故から一か月ちょっと経った2017年の正月です。本当はこの事故が起きた直後にこれについて書きたかったのですよ。でも、アレやコレをどうこうしているうちに気が付いたら年が明けてしまったのです。
さて。この事故から、たったの一週間で復旧したのは確かにスゴいと僕だって思います。でも、その背景には作業員が24時間夜を徹して作業してでも「早く、便利に」のために奉仕することに誰も異議を申し立てないというお国柄があるわけです。このお国柄は、電通などの過労死問題やamazonの無料配達で運輸会社の現場が疲弊している件などと表裏一体の関係にあるのではないでしょうか。イギリスは半年かかったといった「日本スゴイ記事」がありましたが、見方を変えれば日本では労働者がちゃんと保護されていないとか、イギリス人はその程度の不便をみんなで引き受けられる程度に社会が成熟しているとか、そういう風にも考えられるのではないかと僕は思います。

では、「働きすぎ日本人」という表面的な問題からもう一段掘り下げて「なぜそこまでしてまで復旧を急がなければいけないと日本人は思うのか?」ということについて考えてみたのですが。その結論として、タイトルにもあるように「日本人は非常時に向き合うことができない」のではないか?というのが本稿の趣旨です。地下鉄工事の場合は、事故という非常時に対して向き合うことができないから、夜を徹して工事をして一刻も早く「元に戻してなかったことにしたがる」のではないでしょうか?
ちょっと話題が飛びますが、別の具体例として会社の避難訓練の話をします。わが社では年二回避難訓練がありますが、伝令係やケガ人の救護係など、役割構成が規定されたマニュアルに準じて火災や地震などの避難訓練が行われなます。でもこの精緻な役割構成は、災害によってナントカ係の人がケガをして動けなくなるという可能性や出張・休暇でその場に居ないという可能性が全く考慮されていません。本当に災害への対策を考えるなら、せめてナントカ係が負傷で動けない場合に誰が代わりを務めるかということをその場で判断するような訓練をしないと意味を成さないでしょう。でも、そんなリアルな避難訓練を日本人はやろうとしないのです。
日本人は災害を恐れていて、常に災害に対して備えている。ここまでは事実なのです。でも、日本人の災害対策は単一のシナリオに沿って「すべて想定の範囲内で上手くいく」ことだけを前提にして、そのシナリオに過剰適応した準備だけを行って他のオプションや想定外の事態への対応を「考えないようにしてしまう」のではないでしょうか。つまり、日本人は本当の非常時に対して事前準備の段階ですでに向き合うことを放棄しているわけです。そして、いざ非常時になってみたらやっぱり非常時そのものと向き合うことから逃げて「とにかく一刻も早く元に戻して、非常時自体をなかったことにする」ことだけに執着してしまうのではないでしょうか。
少し脱線しますが、これは牧歌的な作戦計画のせいで戦死者のうち約6割は餓死や病死だった旧日本軍や、原発=一神教の神との付き合い方を根本的に間違えた末に原発事故という大災害を招いたといった過去の事例にも通じる日本人の病のようなものだと思います。


「日本人は非常時に向き合うことができない」というのは、改めて整理すると二つの要素に分解できると思います。
・非常時をリアルにシミュレートして柔軟な対応策を二重三重に検討することができない
・いざ非常時になったら、「無かったことにして元通りの生活に戻る」ことにだけ執着する
高橋源一郎は「非常時の言葉 震災の後で」という著書の中で、後者に対する違和感について言及しています。震災という「あの日」が日本人に何をもたらしたのか、非常に鋭い指摘をしています。とても味わいのある文章なので、ちょっと長いけど引用してみます。


「あの日」から、世界のどこかに歪が入ってしまったか、小さな、目に見えないような、ひびがはいってしまったのだ。
その理由のいくつかについては、少し前に書いたような気がする。
おそらく、ぼくたちは、気づいてしまったのだ。ぼくたちが生きている世界は、僕たちがなんとなくそう思ってきた世界より、ずっと、傷が多いことを。多くの欠陥を持っていることを。いや、ほんとうは、薄々、そんな気がしてきたのに、知らないふりをしていたのかもしれない。
いまでも、ぼくたちは、世界がどんな風にできているのか、世界でなにが起きているのかを、正確に知っているわけじゃない。でも、突然、目の前の「壁」にできた、近づいて見ないとわからないほどの、小さなか隙間から、冷たい風が吹いてくるのを感じている。
そして、その風を浴びると、「あの日」の前のように、はしゃぐことができないのである。

別の個所からもう一つ引用してみます。

たとえば「愛国心」というものが国旗に象徴されるなら、人びとは、翩翻とひるがえる旗を見上げながら、愛国の気持ちにうち震えるのである。その時、人びとの視線は、「上」に向かう。そして、そのことによって、昂然たる感覚に、人びとはとらわれる。
リンカーンの直前に演説したエヴァレットは、人びとの視線を「上」に誘導した。エヴァレットの「文章」は、人びとを、熱く高揚させるものだった。
だが、リンカーンは、その直後に現れて、人びとに「足下」を向くようにと呟き、聴衆を落胆させてしまったのだ。
この短い「文章」の中で、リンカーンは、ただ「死者」のことだけをしゃべっている。「死者」はどこにいるのか。彼らは「足下」の大地に、眠っている。そして、「私たち」は、その「死者」の眠る大地に「根を張る」必要があるのだ、と。

「あの日」から、多くの文章が読めないものになったのは、ぼくたちが、「死者」を見たからだ。いや、この目では見なかったかもしれないが、「死者」たちの存在を知ったからだ。僕たちが生きている世界は、ぼくたち生きている者たちだけの世界ではなく、そこに、「死者」たちもいることを、思い出したからだ。
「上」を向く文章は、そのことを忘れさせる。「下」に、「大地」に、「根」のある方に向かう文章だけが、「死者」を、もっと正確にいうなら、「死者」に象徴されるものを思いださせてくれるのである。

2014年にはしゃぎたがる日本人と題して、3.11以後の日本人がとにかく「はしゃぎたがっているように見える」ということを書いたのですが。その当時僕が言わんとしていたことを「上を向く」「下を向く」という言葉で高橋源一郎は的確に言い当てていると思います。例えば「おもてなし」とか「クールジャパン」とか「オリンピック」とか「日本スゴイ」とか、どれも僕には「上を向きたがる=はしゃぎたがる」ように見えるのです。これだけ3.11以降日本人が上ばっかり向きたがる理由は、足下に埋まっている死者、そして未だに日本は「震災後」という「非常時」が続いているという事実と向き合うことから逃げたいからなのではないでしょうか。
「上を向く」「下を向く」という言葉の比喩の通り、博多駅の陥没事故は我々の目を再び地面の下に向けさせました。それに対して日本人は「夜を徹して作業してでも元に戻してなかったことにする」→「一週間で復旧」→「日本スゴイ」と、病的とも言える熱意をもって最速で再び上を向きました。
でも、ずっと上ばかり見ていたがるのではなく、下を向いて死者について思いを馳せたり、未だに放射能が漏れ続ける原発の廃炉について考えてみることも必要ではないでしょうか?そして、来るべき未来の非常時にもちゃんと対応できるように準備をすることこそ日本に必要なのではないかと思います。あんまり希望の持てる結論にならなくてなんだか申し訳ないのですが、このペースで行くと次の非常時には本当に日本という国家が壊滅するくらいのことが起きそうな気がするのです。

2017年1月1日日曜日

カジノと原発と清貧のJリーグ

本当は21016年中になんとか書こうと思ってたことを、2017年の正月休みに書いています

2016年もクラブW杯が日本で開催されました。このクラブW杯というイベントは世界中のサッカーファンが注目するイベントなのですが、なぜかこのイベントに対する日本人の姿勢はどこか冷淡なのです。「おもてなし」とか言って東京オリンピック等にはしゃぎたがる人達もこのイベントに対してはあまり反応してる気配がありません。この、クラブW杯に対する日本人の「あー、好きな人にはたぶん一大イベントなんだろうねー。自分にはあんまり関係ないけど。」という微温的な反応には、その昔大物の外タレがコンサートのために来日した時のような空気を感じて、なんだか少し懐かしいような気さえします。
ともあれこのクラブW杯はかなり長い間日本で開催されています。元々は欧州と南米のチャンピオンが世界一を競う大会だったらしいのですが、ホーム&アウェイ方式でやると熱狂的なサポーターによって敵方の選手に対する妨害があまりにひどくて問題になったそうです。で、協議の末「サッカーにあまり関心のない安全な中立国でのワンマッチ勝負」という方式を取ることとなり、結果的に欧州にも南米にも遠くて安全でお金がある日本が選ばれたのが始まりなのだそうです。僕はこの「ジャイアンに都合よくつかわれるスネ夫」みたいな日本のポジションは割と好きなのですが、「おもてなし」好きの皆様がクラブW杯に関心が薄いのはもしかしたらその辺りがお気に召さないのかもしれません。
これを岸田秀の「内的自己、外的自己モデル」で考えると、クラブW杯は「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」だけの問題であるのに対して、オリンピックや「おもてなし」は外的自己のフリをした「 内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」のセルフ接待であって、この違いがクラブW杯に対する日本人の微温的な反応につながっているのではないかと思います。


さてそんなクラブW杯ですが。2016年の決勝戦はかつて例を見ないほどの盛り上がり?を見せました。というのも、開催国枠で出場した鹿島アントラーズが南米王者を下してまさかの決勝進出となり、欧州王者のレイアール・マドリと決勝戦で戦うことになったのです。もうこの時点で鹿島は大金星と言ってもいいくらいなのですが、なんとその決勝戦で一時はレイアール・マドリに対して一点差でリードするという大健闘を見せたのです。最終的には負けちゃいましたが、延長戦までマドリを苦しめるような展開はほぼ誰も予測していなかったと言ってよいでしょう。
この試合で鹿島の大健闘の原動力となったのは2ゴールを挙げた柴崎岳というMFの選手でした。そして、世界中の目が向けられてる場で活躍した選手には当然欧州のサッカーからもお声がかかるようになるのですが。柴崎についての海外メディアの反応は「この新たなスターのお値段はたったの200万ユーロ」というものでした。これ、確かに安いです。この10倍とはいかなくても5倍くらいのお値段はついてもいいと思うのですが、Jリーグってやっぱり欧州のサッカーと比べると経済的な規模感が全然違います。Jリーグは創立当初こそストイコビッチやジーコなど(旬を過ぎていたとはいえ)ビッグネームを呼んでましたが、最近はめっきりこういう大物外国人選手がいなくなりました。
一方でお隣の中国では欧州のトップ選手の爆買いがどんどんエスカレートしていて、バブル経済のような状況を呈しています。この中国の状況と比べると、日本のJリーグは「清貧のリーグ」という言葉がぴったり当てはまるように思います。Jリーグはその設立当初より欧州のクラブ組織に倣って地域密着型のクラブを地域と作り上げていくということを目指してきました。そして、それはある程度成功したと思います。でも、その結果として日本に出来上がったものは「みんな均一に清貧のリーグ」であって、欧州のようにビッグクラブと弱小クラブとで資本力(≒街の規模)の格差がそのまま露骨に戦力に反映されるようなことにはなりませんでした。

さてここでカジノの話になるのですが。サッカーなどのプロスポーツで飛び交うお金のスケールはその国の富裕層のスケール感とほぼ比例しているのではないかと思うのです。こうやって考えると、Jリーグに見て取れる日本人の「清貧」ぶりと海外の超富裕層が豪遊するための「カジノ」は絶望的に噛み合わないのではないかと思うのです。例えば中国にはすでにカジノで豪遊するような富裕層が結構いるようですが、日本にはそういうスケールの金持ちってそんなにいないんじゃないでしょうか。日本にカジノができなかったのは法律の問題もさることながら、「カジノで豪遊するような超富裕層」が日本にはそんなにいないので国内にそこまで需要がなかった上に、大半の庶民である「清貧の日本人」にはカジノのスケール観が全く理解できなかったからなのではないでしょうか?言い換えると、「カジノは日本には必要もなかった上に、そもそもカジノの世界観が理解できないので作れなかった」のではないかと思います。
安倍政権や維新はこのカジノ構想に対して殊更執着し続けた挙句に国会での議論の時間を般若心経で埋める?という謎の行動に出てまでカジノ法案を成立させたのですが。現在のところ構想されているカジノの話はやっぱり内田先生の言うようにでかいパチンコ屋程度で、プライベートジェットやクルーザーでカジノに乗り付ける超富裕層の世界観から遠くかけ離れたものになっています。例えば、日本人の考えるカジノの構想には「カジノのあるエリアに電車を引いて地域の振興を」といったバラマキ型ハコモノ地域振興の発想がそのまま盛り込まれていたりするのですが、カジノの客である超富裕層が電車に乗ってくるとは到底考えられないです。また、ギャンブル依存症への懸念に対しては「ギャンブル依存症への対策もセットにする」とか言ってたりするのですが、ギャンブル依存症の末に身を持ち崩しても「自業自得」と言われて済むレベルの富裕層しか相手にしないのが本当のカジノなのではないでしょういか?


Jリーグ→カジノと来て、どうしてもこの流れで触れておきたいので原発の話をします。というのも、カジノと原発は日本人には致命的に理解できないという点が共通しているのです。こうやって考えると、カジノは「もんじゅ」のように、さんざん税金をつぎ込んだ挙句にほぼ何ももたらさないままに終わる可能性が極めて高いのではないかと思います。さらにカジノと原発という話の流れで言うと、3.11であそこまで大失敗したにもかかわらず、地震国である日本でどんどん原発を稼働させようとするのは、ギャンブル依存症とほとんど変わらないのではないかと僕は思います。
第二次安倍政権後の自民党のポスターに「日本を取り戻す」というスローガンが書かれていましたが(あれって今も現役なのでしょうか?)、あれこそまさに「負けを取り返したと納得するまで続けてしまう」というギャンブルから抜け出せない人のマインドをそのまま体現しているのではないかと思います。脱線ついでに言うと、あのポスターは「誰から取り返すのか?」「何を取り返すのか?」という肝心のところをうやむやにしたまま、被害者意識だけを煽って、リスクの高い原発を再稼働というギャンブルに参加することについて国民的合意を形成しようとしているように見えました。
あんまり日本の文句ばっかり言ってるのは僕も辛いので少し希望の持てる話をして終わろうと思いますが、僕は清貧のJリーグにこそ日本の進むべき道を示しているように思います。欧州のビッグクラブと比べたら慎ましやかなものかもしれませんが、地域に根ざした地道なクラブ組織=ローカリズムは世界のグローバル化の次に来るべきものを先取りしているようにも思えます。そして、Jリーグだって時にはクラブW杯における鹿島のように世界レベルに匹敵するパフォーマンスを見せることだってあります。これくらいで日本はちょうど良いんじゃないかな。