2019年7月20日土曜日

京都アニメーション放火事件とオウム

7月も下旬だというのに、いつまでも梅雨が終わりません。天気はずっと悪いままな上に、会社でも色々とあって、常にイライラ、悶々とした日々を過ごしております。こういう時に気分転換をするのがヘタな方だという自覚はあるのですが、そんなときに京都アニメーションの放火事件が起きました。ニュースで伝えられている話からすると、犯人はほぼ僕と同年代です。

このニュースを見たとき、不思議と疚しさ、罪悪感のようなものを感じました。自分の鬱々とした感情が放火と繋がっているような気がしたのです。そしてその次に思い出したのは、村上春樹の「アンダーグラウンド」という本についてでした。あの本は大昔に人から借りたものの、長すぎて途中で読むのをやめてしまったのですが。村上春樹があんな長い本を執筆するに至った経緯には「オウム事件についての共犯意識」があったのは間違いないと思います。

「アンダーグラウンド」以後の村上春樹の著作には、「直接自分が手を下していない殺人に対する共犯意識」が度々描かれています。例えば、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では「シロ=ユズ」を殺したのは自分ではないのか?という罪悪感に登場人物は苦悩します。「海辺のカフカ」でも、縁もゆかりもないはずの遠く離れた老人と少年の繋がりを描く中で、「老人が人を殺すと、遠く離れた少年は自分の手が血まみれになって目覚める…」という描写があります。

件の放火のニュースを見て、なんかこれはいかんぞ。という気分になったので、鬱々として気分を少しでも昇華するために最近思っていることをblogにしたためようという気分になりました。この投稿も普段に比べたら分量少な目だし、もうちょっと広げたり練ったりすると面白くなる可能性もいくらかあるのですが、そんなことよりもどんどん書いて吐き出したい。というわけで、今からどんどん連投します。

そうでもしないと、自分が次の放火犯になってしまうような気がしてならないのです。

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