2019年10月14日月曜日

なぜ僕は安心してラグビーを応援できるのかというと

ラグビーや
ああラグビーや
ラグビーや

これを書いている現在、スコットランドとの激戦を制して日本がワールドカップの決勝トーナメントに進出した。という状況です。なんで僕がラグビーにここまで入れ込んでいるかと言うと、ラグビーはサッカーや野球の日本代表と違って、何も躊躇することなく応援できるからなのです。他の日本人はどう思ってるのか分からないですが、サッカーや野球の試合に国民全員が「日本ガンバレ!」と言ってるのを見てると、僕はどうしても「これ、いいのかな?なんか戦前の日本ってこんな感じだったんじゃないのかな?」と、どうしても思ってしまうのです。でもラグビーに関しては、この「躊躇」をしなくて済むので安心して熱中できるのです。

なぜ僕はラグビーについてだけは躊躇せずに済むのか。一つの理由は大昔にこのblogで紹介した国際化、多様性にあるような気がします。元々ラグビーはフォワードとバックス(プロレス的な語法を当てはめると、ヘビー級とジュニアヘビー級)が混在していて、それぞれに役割があります。さらに日本代表ではこの多様性が国籍や人種といった方向にも拡張されているので、サッカーや野球と違ってethnocentric (自民族中心主義)な傾向を緩和していると思います。

そしてもう一つの理由は、例によって内的自己/外的自己の話になるのですが。ラグビーは「試合が終わればノーサイド」や「紳士のスポーツ」という日本人には非常に咀嚼が難しい概念をセントラルドグマに据えています。これは言わば「外的自己」として日本人の「内的自己」的な側面を抑制して程よくバランスを取っているように思うのです。ちょっと脱線しますが、この「外的自己」は統治システムの文脈で言うと「民主主義」や「憲法」や「人権」など日本の外側から持ち込まれた物に相当しており、いずれも「内的自己」のネトウヨや自民党からは目の敵にされています。

だいたい以上で僕が言いたかったことは終わりなのですが、最後にこの文脈でどうしても思い出してしまう中学時代の同級生のF君の話をします。硬式のリトルリーグで本格的に野球をやっていたF君は、体も大きくてスポーツ万能で女の子からも人気がありました。3年生の時に彼と同じクラスだったのですが、みんな受験勉強をやっている中で彼だけは早々と野球の強豪校(甲子園常連校)のスポーツ推薦入学が内定していたように思います。誰しもが甲子園で大活躍すると思っていたF君ですが、高校1年生の途中で野球をやめてしまいました。どうも、能力が高すぎて先輩の嫉妬やイジメに遭ってトラブルになり、結果的に野球部を追われてしまったんだそうです。とはいえ彼はスポーツ推薦で学校に入ったわけで…その後、彼は同じ高校でラグビーを始めました。そして持ち前の体格と運動神経を発揮して最終的には大学を経て社会人ラグビーの選手になりました。

もし彼があのまま野球を続けていたら、たぶんプロ野球選手になっていただろうと思います。でも、高校野球=純度の高い内的自己によってスポイルされかけた彼が、内的自己と外的自己が調和したラグビーによって人生を救われた…なんていう話だったらちょっとうれしいですね。まぁ、当のご本人がどう思っているかまでは僕にはわかりませんが。
なんかこうやって書いていると、ラグビーを相撲と並ぶ国技にしてはどうか?と、思い始めました。こうすれば日本人は外的自己と内的自己のバランスを取ることができるのではないだろうか?

0 件のコメント:

コメントを投稿