2019年11月24日日曜日

大学入試にスピーキングを取り入れたくらいでは問題は解決しない

大学入試への民間試験導入問題について、大臣による「身の丈」発言の後もどんどんお粗末な利権構造だけが明るみに出てくる…という状況でこれを書いています。この件について、だいぶ今更感はありますが、思ったことをいくつかしたためてみようと思います。

 テストで点を取るための「お勉強」として取り組むから、日本人は英語ができない
「勉強=やらされるもの」という枠組みの中のアイテムの一つだからこそ日本人は「英語ができる」ようにならないのではないでしょうか。大学入試を変えれば「英語ができる人」が増えるというのは、あまりにナイーブで牧歌的だと言わざるを得ないです。問題への対策をしているようで、問題の原因を反復生産しているだけ、という日本型エリートがやりがちな話のような気がどうしてもするのです。

大学は就職予備校ではないので、大学入試では大学で必要な資質だけ問えばよい
「英語ができる人」を増やしたいのはわかった。では、なぜその解決を大学入試に求める必要があるのでしょうか?例えば数学でも物理でもそうなんですが、大学入試で問われているのは大学での研究を行う上で必要な基礎的な知識です。英語だって大学での研究を行う上で必要な基礎的な技能だけを入試で評価すればよいだけなのです。大学での研究においては、まず文献を「読む」ことが必要なわけで、スピーキングの能力なんて学部レベルでは後回しでよいのです。スピーキングの能力が要求されるのはせいぜい修士以降ではないでしょうか。本当に「英語ができる」必要があるなら、ダブルスクールなり留学なり、手段はいくらでもあります。全部大学入試に求めようとするのがそもそもおかしいです。

そもそも外国語でのコミュニケーション能力をテストで計量するには限界がある
じゃぁ逆に、スピーキングさえできれば日本人は「英語ができる」ようになるのでしょうか?「四技能」という言葉遣いの背景には「英語ができる=技能」というマインドが裏書されているように思うのですが、ここで問われている技能は例えていうならPCのタイピングソフトと一緒です。PCを道具として使いこなせる人ならタイピングソフトである程度のスコアは取れるのでしょうが、逆にタイピングソフトをだけ極めてハイスコアを出せるようになったところで、PCを創造的、生産的に使えるようにはなりません。コミュニケーションにおいては表面的な言語の運用能力よりも「何を話すかの方がはるかに重要」だと思います。
誤解の無いように言っておきますが、僕は「四技能=汎用的な能力」が不要だと言ってるのではなく、「それらの技能をどう活用できるか、そして苦手なところを他の技能でどう補えるか」に本当の価値があると思います。そしてそれはテストの点数のような数値基準に落とし込むのはそもそも無理があるのではないでしょうか。

みんなが英語ができる必要は全くない
英語について「全員が同じように努力すべき」であり、「全員を同じような基準で評価すべき」だと考えるからおかしな話になるのではないでしょうか。もし本当に「英語ができる」人を増やしたいなら、英語を大学受験から一切廃止した方がたぶん効果があると思います。日本人全体の英語の平均レベルは今より落ちるかもしれませんが、一部の語学に意欲のある人のレベルは今より上がるので、「英語ができる人」の絶対数は増えるはずです。
言語学者の鈴木孝男は「皆が英語を勉強するのはやめて、ごく少数の「防人」に英語学習と対外交渉はまかせて、あとは鎖国してしまう。国民を挙げた英語習得はうまくいったとして二流、三流のアメリカ人となるだけで、日本固有の美点長所が無くなってしまう。」という鎖国・防人モデルを提案していました。これはかなりの極論ですが、おおむね僕もこれに賛成です。村上春樹も同じようなこと言ってたような気がしますが、外国語なんてやりたい人が勝手に学べばよいのです。みんなが「英語ができる」必要なんてありません。

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