2018年5月4日金曜日

英語を「勉強」しようとするのは問題の反復生産でしかないんじゃないだろうか

GWに入りました。今年は子供を連れて車で実家に帰ろうかとも思っていたのですが、渋滞情報を調べたらエゲツないことになっていて迷いが生じたところに、さらに子供がやや風邪気味になりまして。結局、「どうせ1泊くらいなんだったら、無理してGWに帰らなくてもいいじゃん」という結論に落ち着きつつあります。
そんなこんなで、ぼんやり寝正月ならぬ寝GWをだらだらと満喫しております。どうやら僕にも風邪が感染ってしまったようで、今日はとうとう一日寝倒して終わりました。まぁ、休みのときしかできない過ごし方と言えばその通りなんですけど、なんだかちょっともったいないような気もします。

さて。そんなGWなので、せめて普段このblogに書こうと思っていたネタをいくつか書こうと思います。今回は職場の30歳くらいの後輩の話です。この人は都の西北のスーパーフリーな感じの一流大学をご卒業なさっておりまして。この人を見ていると、ゆとり世代にありがちな「自分の利益よりもとりあえず周囲との調和を最優先する」というマインドに加えて、彼の大学の卒業生に特有の「勉強熱心に見えるのはダサいから嫌=勉強した自慢より勉強しなかった自慢の方を好む」という気質がなんとなく感じられるのです。
そんな彼が最近ずっと昼休みに大学受験時代の単語帳を眺めているのです。しかも、そのとき彼は必ずイヤホンを耳に装着しているのです。そこから彼が放っているであろうメッセージは簡単に言うと「気になるかもしれないけどイジらないでください」なのですが。残念ながらその程度のメタメッセージに屈する僕ではないので当然ちょいちょい声かけてイジりにいってしまい、彼はそれにやや迷惑そうに応じてきたりするのですが。。この一連のやりとりについて思うことを書き連ねようと思います。

「今見返すと、『こんなことも忘れてたのか』という発見がいっぱいあるんですよ。」と彼は言いました。まぁ、そりゃそうなんでしょう。仕事でちょいちょいしか英語を使わないと、日常会話や政治用語なんてどんどん忘れるでしょうからね。彼が受験当時の単語帳を見直している背景には「英語を何とかしたい」という気持ちがあるんだろうし、それ自体は全然良いと思うのです。しかし、30くらいになった彼が今になって英語のために努力するにあたって、大学受験の時の単語帳を見直しているのはどうも本末転倒な気がするのです。
「英語をなんとかしたい」をもう一段掘り下げると、彼がなんとかしたいのは「英語を使ったコミュニケーション」なんじゃないでしょうか。だったら単語を覚えることよりも、もうちょっと実践的なコミュニケーションの練習(例えば職場には外国人が何人かいるので、彼らに話しかけにいってみるとか)をする方がはるかに効果的だと思います。勿論語彙力はあった方がいいに越したことはないですが、実践的なコミュニケーションにおいては知らない単語をパラフレーズ("目薬"という単語が思い出せなかったら、"a liquid for eye"みたいに言い換える)する能力の方がはるかに有用だと思います。そういえば日本人の辞書や語彙力に対する固執については似たような話を昔このblogに書いたのでした。

これは往々にして勉強ができた人が陥りがちなピットフォールだと思うのですが、彼は「勉強することで問題が解決する」という成功体験に固執しすぎなんじゃないかと思うのです。そう考えると、彼が自分の考える「英語の勉強」におけるキャリアハイである「大学受験のときの自分」にいつまでも固執しようとするのも納得がいくのです。しかし、彼が「英語をなんとかしたい」と思うに至った原因が「英語を使ったコミュニケーションは勉強では解決できない」からだと仮定すると、単語帳を眺めているということは問題に対する解決策ではなく問題の原因を反復生産しているだけなのではないでしょうか。
彼を見ていると、昔自分が楽器をやってたときのことを思い出します。僕は自分ひとりで練習してる分にはいいのですが、他の人と一緒に合わせると途端にボロボロになるのでした。合奏は相手がいて成り立つもので、せめて一人で練習するにしてもメトロノームや他のパートの録音に合わせて弾いたり、間違えても止まらずに弾くようにしないと、むやみに一人で練習しても意味が無いどころか逆効果だったりするのです。そして、最高の練習は言うまでもなく人と一緒に合奏することでした。この話は「合奏」を「外国語によるコミュニケーション」に置き換えてもそのまま同じことが言えると思います。

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