2016年6月1日水曜日

アメリカという父

オバマ大統領の広島での演説を見た一週間後にこれを書いています。オバマの演説は原爆で犠牲になった人々が現代に生きるアメリカ人の彼と同じような人類的な営為を生きていたこと、そんな人達を何万人も一瞬で吹き飛ばした原爆があまりにも危険であることについて言及し、その上で原爆をなくすのは「今すぐにはできないけど努力を続けることが必要」という言葉で結ばれていました。こうやって要約だけ書いてみてもほぼ何も伝わらないですが、動画で見ると彼のスピーチは非常に洗練されていて見てる人に深い印象を残したことが分かるかと思います。
さて。オバマの後にわが国の首相も演説していたのですけど、彼が何をしゃべっていたのか記憶に残っている人がいるのでしょうか?僕は途中まで首相の演説をみていたのですが、オバマにくらべてあまりに中身が無さ過ぎて耐えられなくなって途中でチャンネルを変えました。改めてネットで首相の演説の全文を読み返してみたら、オバマとは対照的に文字だけで読むとテレビの中継よりはまだマシに見えます。というのも、文字だけ読んでる限りでは、日本の官僚が得意とする当たり障りの無い作文に現首相が好みそうな「とこしえの哀悼」「あまたのみ霊」などの「美しい国ニッポン」的な安いポエムを散らしただけに見えるからです。しかし、テレビの中継で現首相の演説を見ていたら「首相も作文担当の官僚も、この演説を誰に聞いてもらいたいとか、何を伝えたいとか、そいういう意識が最初から何も無い。何よりも、そのことが問題だという意識がそもそもない。」ということだけしか伝わってこないのです。それで耐えられずに途中でチャンネルを変えてしまったわけです。

結論として言いたいことを先に申し上げると、この広島での演説によって「アメリカという父」、ひらたくいうと日本はアメリカの従属国であるという事実を改めて思い知らされました。外交、国防などのあらゆる面で従属国としてアメリカの意思決定に従うのが戦後70年にわたって規定路線として引き継がれてきたことのすべてがあの演説に凝縮されていたと思います。
この「アメリカという父」は日本人が戦後永らくトラウマとして引きずっているために、その事について考えることに対して我々日本人は強い抑圧を自らに課しています。内田先生の指摘にもあるように、特に右寄りの人は「アメリカという父」に対して強い抑圧があり、彼らの中国や韓国に対する攻撃的な態度は抑圧に対する反動若しくは症状として顕在化しているように見えます。
例えば右寄りの日本人には特攻隊に代表される太平洋戦争の戦没者を美化したがる人が結構な数いるように見受けられますが、不思議なことにその戦没者を殺傷したアメリカを非難する人はほとんどいません。中国や韓国を非難する時には舌鋒鋭くなり、「靖国」や「英霊」と声高に連呼するのに、その靖国に祀られている英霊を殺したアメリカを全く非難しない。このことは「アメリカという父」の存在に対する日本国民の強い抑圧を示す一つの例だと思います。

オバマの広島訪問と演説について日本語でネットを検索した限りでは「オバマのスピーチには感動した」「アメリカに謝罪は必要ない」と、おしなべて好意的なリアクションが多かったみたいです。これらのリアクションに通低しているのは「アメリカという父との(捻じれているけど)絆を再確認できて承認欲求が満たされた」という安堵のようなものだと思います。
一方、広島、長崎、沖縄方面を中心に「オバマは謝罪すべきだった」「日本政府は謝罪を要求すべきだった」といった声も少数派とはいえあったようです。謝罪しない理由については、インディアンコンプレックスに端を発する「正義のアメリカ」とか、色々理由はあるのでしょうが。アメリカとしては「父として、子供に謝るという選択肢は有りえなかった」のではないでしょうか。

昨年、台湾で学生によって国会が占拠されるという事件が起きました。これは台湾の政治に対して中国の影響が強くなっていることを憂慮した学生達が行動を起こしたのですが。この件について内田先生が当時このようなコメントをしていました:「台湾のように政治に対する自己決定権があれば市民の政治に対する意識は成熟する。しかし、日本はアメリカの従属国なので政治についての自己決定権が無い。そのことが市民の政治的成熟を妨げている。」
広島でのオバマの演説をオリンピックだとしたら、安倍晋三の演説はインターハイくらいの差がありました。でもこれは単に安倍晋三の個人的資質の問題だけではなく、アメリカと日本における市民の政治的成熟度の差がそのまま反映されていたのではないでしょうか?もしも日本人が政治についてもう少しまともな自己決定権を持っていれば、さすがにもうちょっとマシな人が首相を務める国になると思いますよ。

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