2023年8月18日金曜日

高校野球と敗戦について:2023

夏休みも半ばを過ぎました。夏休みになったら本も読もう、楽器を触ってみよう、仕事に関係する勉強も少ししてみよう…とか思っていたのですが。今年もいつも通り気が付いたら高校野球を見ながらぼんやり過ごしています。「高校野球は第二次世界大戦の戦没者を慰霊するために上演される能である」という事は以前からこの時期になるとこのblogで申し上げていることです。しかし、2023年の高校野球を見ていると、そろそろここから脱却できるのではないか?という希望が少し見えてきました。

今年は慶応、花巻東、浜松開誠館、土浦日大などの坊主刈り強制ではない学校が活躍しています。これを書いている現在では、ベスト8には上記3校が残っています。ベスト8のうち3校が坊主刈り強制ではないということは、髪型は野球の成績とは関係ないという事を証明しているのではないでしょうか?

これらの学校は単に髪型が自由なだけではなく、それに伴って高校球児達の立ち振る舞いもかなり違っています。これを書いている現在では浜松開誠館は敗退していますが、負けてもどこかカラっとしていました。慶応に至ってはエンジョイ・ベースボールやthinking baseballといったスローガンを掲げているあたりも含めて、これまでの高校球児とはかなり異質だと思います。

高校野球の伝統校の大半は、いまだにこれらの対極に位置しています。これは単に髪型の問題だけではなく、生徒の人生の自己決定権まで含めた問題だと思います。例えば、大阪桐蔭は監督が生徒の卒業後の進路(プロ、大学、社会人)についてまでかなりの決定権を持っているらしいです。高校野球の間ずっと大人(=監督)の意のままに私生活まで含めて管理されることに慣れてきたんだから、そりゃ自分で進路を決める事なんてできないでしょうね。でも、建前上は高校野球は「教育」なのですから。3年間大人の言いなりになるだけで、卒業後の進路も自分で決められないような人間を輩出するのが教育として妥当なのでしょうかね?

これまでの高校野球は「第二次世界大戦の戦没者=負ける側」を再生産することに主眼を置いて設計されたシステムでした。しかし、上述した学校の球児達は、このサイクルから解脱して勝ち負けから離れたところで、ある程度能動的に野球を楽しんでいるような印象を受けます。髪型というのは表面的な話でしかなくて、本質的に重要なのはそこではないかと思います。かなり飛躍しますが、彼らの姿には日本という国そのものが重なって見えるのです。国=システムのために人がいるのではなく、自分達が生きるために国=システムが存在するという関係を彼らは野球を通して築き始めているように見えるのです。

慶応の前監督のインタビューを読んでいると、それくらいやらないと高校生はわざわざ野球を選ばなくなって先細りしていくということを皮膚感覚として理解しているんだろうともと思います。これは日本の社会に置き換えても本当にその通りで、このままいくと優秀な若者は日本に留まって社会(≒権力のある老人)のために安く働かされることをわざわざ選ばなくなっていくと思います。こういった世相の変化に対して感度が一番低そうだった高校野球でさえここまで変わらざるを得なくなってきたという事について、僕は「ピンチをチャンスに変える」ための絶好の機会として前向きに期待したいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿