2023年8月24日木曜日

隠蔽される被害者

 これを書いている2023年8月24日は、夏の高校野球の決勝戦が行われた翌日です。この年の高校野球では、慶応高校の快進撃が続いた末にとうとう優勝しました。土浦日大や浜松開誠館、慶応などの坊主刈り強制ではない学校の活躍を僕はすごく好意的に捉えていました。しかし、準決勝くらいからなんだかこれは違うのではないか?という気がしていました。慶応が勝ち上がるにつれて、メディアの持ち上げ方が何か常軌を逸しているのがどうも気になってしまったのです。

慶応の話から急に変わりますが、今日は福島の原発の汚染水が海洋放出された日です。しかし、報道ステーションの最初のトピックは「大谷翔平靭帯断裂」で、これについて15分くらいの時間を使った後にようやく汚染水の海洋放出についての話になりました。いくら大谷翔平が国民的関心を集めているとはいえ、ニュースとしての重要度はどう考えても原発の汚染水の海洋放出であるべきでしょう。しかし、日本のメディアにとっては大谷選手の方が重要事項なのでしょう。

話を慶応に戻します。僕が途中から慶応の野球部を素直に応援できなくなった理由は、彼らが大谷翔平と同じような文脈でメディアで扱われていたことにあるような気がするのです。慶応高校も大谷翔平も、弱者や被害者を隠蔽してフタをするためのコンテンツとして消費されているような気がしてならないのです。数年前から日本のメディアが狂ったように大谷翔平の一挙手一投足を追いかけ続ける背景には、日本という国の急速な劣化や衰退を見たくないという日本国民の「集合的無意識」のようなものが働いているようにも思います。

ここ数年、日本のテレビは地上波で「火垂るの墓」を流すのをやめました。そして、学校で唯一読める漫画だった「はだしのゲン」も日本の学校から姿を消そうとしています。これらはいずれも、無能な政治家によって破滅的な戦争を継続した結果として犠牲になった被害者達を描いた作品です。しかし今の日本人はこういった被害者の姿を病的に忌避したがるようになりました。汚染水の海洋放出で不利益を被る漁業関係者もさることながら、そもそも廃炉作業が遅々として進まない福島の原発自体も「被害者」だと言えるでしょう。でも、日本のメディアは徹底して被害者の姿を隠蔽しようとしています。

なぜこうなってしまったのか?という事について僕なりに考えてみました。おそらく日本人は東日本大震災以降ずっとみんな「自分たちは被害者であり加害者でもある」という意識を背負ってしまったのではないかと思います。この事実をから目を背けるために、大谷翔平のような「勝者」だけを見つめる作業に耽溺し続けているのではないでしょうか?高校野球の慶応フィーバーにも似たような雰囲気を感じてしまい、そこからは慶応を応援する気分にどうもなれなくなってしまったのでした。

念のため申し上げておきますと、慶応高校野球部のスタンスには僕は賛成です。問題なのはメディアの持ち上げ方なのです。これは関西でいうところの「阪神タイガースは好きだけど阪神ファンは嫌い」みたいな話だと思ってください。。

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