2020年10月25日日曜日

斜陽国日本の最後のキラーコンテンツ:池の水を全部抜く

またしてもテレビの話をします。およそ5年ほど前に、日本という国ではネットはテレビに勝てなかったという投稿をしました。この投稿の当時には「多数派でいたい」という人が多数派のこの国において、テレビは最大多数の最大幸福のための娯楽としてインターネットが登場した後も揺るぎない地位な保持していました。しかしここ最近はNetflixなどの動画配信サービスに押されてか、日本という国の国力の衰退を反映しているのか、かつてあれほど栄華を極めたテレビが目に見えて凋落の一途を辿っているように見えます。「悪化乱造」を得にしたかのように、番組の質は下がっていくのに各局とも判で押したように同じような番組ばっかりだし、CMなのか番組なのかわからない通販が増えてきたりと、5年前だったらちょっと想像できないくらいの劣化ぶりですね。

僕自身、Amazon Fire Stick TVを買って以来、家のテレビはほぼNetflixやYouTubeなどのネット動画サービス専用機となっていて、地上波のテレビ番組を見る機会がほとんどなくなりました。かつてはテレビのハードディスクレコーダーの残容量を常に気にしていて、録ったくせに見てもいないデータのせいで残容量が逼迫したときにはそれが原因で奥様とケンカにさえなっていたものでしたが。とうとう、ハードディスクレコーダーの残容量を気にしなくなり始めました。多分もう容量オーバーして溢れてるんだと思いますが、そのまま放置しています。例えとして妥当なのかは分かりませんが、育児放棄してホストクラブなどで好き放題遊んでる母親のような気分をちょっと味わっています。

さて、そんな中でこの前地上波のテレビを見ていたら、池の水を全部抜くという番組をやっていました。これ、最近のテレビ番組では割と当たりの企画のようなのですが、生物の生態系について素人の僕でさえ「こんなことやる必要があるのか?」と思うわけですから、当然その道のプロからは色々と批判されることにはなるわけです。でも、この企画がヒットする理由もすごく分かる気がするのです。この番組では「外来種は駆除、在来種は保護」という極端で単純な二分法によって水棲生物を扱っていますが、このようなシンプルなロジックはネトウヨに代表される排外主義的なマインドに通底しているのです。外来種が捕獲→駆除される様子にカタルシスを感じる人達は、関東大震災の時に朝鮮人を探し出して虐殺することに加担した人達と同じマインドを共有しているのではないかと思います。

「池の水を全部抜く」のもう一方の側面として、日常生活のすぐそばにありながら普段接する機会の無い池に潜んでいる在来種というお宝を「保護」しています。これは、古い蔵や開かずの金庫を開けるテレビ番組と同じで「普段の生活では気にもしていなかったところに隠れているお宝を見つける」というカタルシスを提供していると思います。このフォーマットは「なんでも鑑定団」のような形で四半世紀近く前から存在するのですが、今思えば「なんでも鑑定団」がブレイクしたのはちょうどバブルが弾けたことの具体的な影響を国民が感じ始めた時期でした。伸びしろのなくなったこの国では「向上心を持って努力する」ことよりも「日常生活の中で見落としていた棚ぼた的ラッキー」の方がリアルであることが四半世紀に渡って続いているからこそ、このフォーマットの番組は廃れずに今も残っているんだと思います。

以上まとめると、「池の水を全部抜く」は排外主義と「日常生活の中で見落としている棚ぼた的ラッキー」のコンボでできているので、斜陽国日本の庶民には抜群の訴求力を持ったアタリの企画なんだろうと思います。でも、こんなことしてまで新しいコンテンツを無理矢理作らなくても、テレビは過去に作った優良なコンテンツを再放送してた方がよっぽどマシなのではないか?ということを次回は書いてみたいと思います。

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