2020年1月8日水曜日

「怒りの獣神」ライガーの引退によせて

僕が子供だった80年代にはまだゴールデンタイムにプロレスの放送があって、プロレスはそれなりに人気コンテンツでした。でも、残念なことに僕の母はプロレスを嫌悪していて、家ではプロレスを全く見れませんでした。その恨みの反動か、大学生になったあたりで突然プロレスに目覚めて、それ以降はそれなりにプロレス好きになってしまいました。

でもライガーは正直あんまり好きではなかったのです。なぜ好きじゃないか。を説明すると、
A. イチローのように「表面的なストイックさの向こうに幼稚な自己愛が透けて見える」 
B. 「怒りの獣神」の名の通り、「怒り」のような負の力で駆動され(ようとし)ているから
こんなところでしょうか。

Bは橋本真也にも通じるところもあるのですが、橋本真也の場合は「怒り」とは言っても、昭和のヒーローアニメにおける「正義」と直結したような、もっと幼稚で楽天的なものです。ここで、永井豪を経由してライガーと橋本は繋がる(橋本真也はお風呂にマジンガーZの人形を持ち込んで「ぎゅーーん」とか言いながら遊んでいたんだそうです)のですが、それと同時に永井豪という視点から見ると両者は隔てられます。

橋本真也の「勧善懲悪的な正義の怒り」に比べると、ライガーの背負ってる「怒り」というのは、例えば三島由紀夫が大絶賛したという総長賭博のように、義理とか世間とかいろいろな要素に挟まれている大人の怒りです。これまでこのblogで言及してきた言い方をすると、日本人の内的自己のような側面とも言えるでしょう。

この「内的自己=怒り」こそが欧米のプロレスと日本のプロレスを隔てる最も大きな要素であったのではないでしょうか。しかし、昨今のプロレスには良くも悪くもライガーのように「怒り」によって駆動されているレスラーがいないのです。もし僕の言ってることが正しければ、日本のプロレスはこの先「内的自己=怒り」と決別して、欧米のプロレスに漸近することになるはずですが、さて、どうでしょうかね。

ライガーは最後まで「怒りの獣神」でありつづけました。これを30年も続けるのはそりゃたいへんでしょう。別に自分が怒りたくなくても怒り続けてることを自らに課してきたわけですから。ライガーの引退によって、我々日本人はまた一歩昭和から解放されましたが、それと同時に昭和がまた一歩遠のいたような気がします。しかし、一番解放されたのは誰よりもライガー本人だったのではないでしょうか?

こんな風にライガーの引退を機に色々と考えていたら、僕自身も「ライガー=昭和の怒り=内的自己」から少し自由になれたような気がしました。今まであんまり好きじゃなかったけど、永らくお疲れ様でした。

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