2018年8月14日火曜日

よりによってアメフトとチアリーディングというのが…

今僕が住んでいる街の公立学校の教育システムにはヨソ者である僕から見ると謎な点がいくつかありまして。その中でもダントツに謎なのが中学・高校で何かしらの部活動への参加が義務であるということです。このシステムについて、地元の公立学校で育ったうちの奥様は「当時は日本全国でそうなってると思ってた」みたいです。しかし、僕が育った関西の街では部活動は義務でもなんでもありませんでした。たぶんこちらの方が日本全体でみると普通なんだろうと思います。
僕が行ってた関西の公立中学校なんてニュータウンのマンモス学校だったので男女合わせて400人以上の同級生がいました。学年に200人程度いる男子のうち、バスケ部やテニス部に40人ずつくらいが入部して、その大半は数ヶ月でやめていきます。日本のどこの学校も大なり小なりこんなもんなんじゃないかと思います。もしも部活動が義務だったら、一学年だけで40人もいるテニス部が練習できる環境を提供するなんてまず無理ですからね。
話を今住んでる街に戻します。しかしながら、この街の公立学校も数年後にはとうとう部活動への参加が義務ではなくなるそうです。昨今の「教師と生徒の双方ともに、部活動の負担を適正化すべき」という風潮からすると当然の流れだと思います。まだうちの子供は幼稚園児ですが、子供が中学に上がる前に公教育システムが一つでもまともになってくれたのは歓迎したいです。

そもそも部活動という概念自体が日本という国のガラパゴス的奇習なのではないでしょうか。経験上、"部活"というのは、"同期"などと並んで外国人に説明するのが非常に難しい概念なのです。日本以外の国では学校は基本的に授業を受けるためだけに行く場所なので、生徒が課外活動に多大なエネルギーを費やす文化がありません。
更に謎なのは、部活動をやってる当人達が本気で楽しんでやっているかというと必ずしもそうでもないということです。もちろん中には楽しんでやってる人もいるんでしょうが、練習でシゴかれたり顧問や上級生に小突き回されるのを積極的に楽しめる人はほとんど少数派でしょう。でもなんでそれを続けられるかと言うと、「みんなと一緒だから」なんじゃないでしょうか。つまり、日本の部活動は「理不尽なシステムにみんなで一緒に抑圧されること」に慣れるためにあるのではないかと思います。

さて、ようやく本題です。アメフトのタックル問題についてはもう散々騒がれたので皆さんご存知のことかと思いますが、ここにきて同じ日大のチアリーディングからもパワハラ不祥事が騒がれてきました。これらの一連の日大の運動部の不祥事に登場する「ワルモノ」達は、いずれも上述した「部活」的な世界のヒエラルキーの頂点に君臨して、絶大な権力を振ってきたんだろうなということはなんとなくイメージがつきます。
これを書いている2018年の夏休みの段階では、アメフトについてはもう散々騒がれた後で世の中はひとしきり飽きちゃった感さえあります。なので今更この件について言及するにあたって、他の人があんまり言ってなさそうなことを言ってみることにします。このような日本の「部活」システムの不調が「アメフト」と「チアリーディング」というアメリカ由来の競技において顕在化したのは相応の必然性があったのではないでしょうか?つまり、アメリカ由来の競技に対して、アメリカ人の世界観の対極にある日本人の「部活」システムを適用したけど、うまくいかずにシステムクラッシュした…というように見えるのです。

そして、一連の不祥事が起きた場が日大という学校だったことにも必然性があったのではないかと思うのです。wikipediaをひいてみたところ、日大の建学の起源についてこのような記述がありました。当時、明治政府は欧米の列強と条約改正交渉を進めるために新しい法律の整備を急いでいた。1889年2月11日、明治憲法の公布をきっかけに、欧米諸国の法律だけではなく、古典的な意味合いから日本独自の法律を教える学校を建設する必要性が高まっていった。これに対応するように、同年10月4日、皇典講究所の校舎を借り受ける形で、現法学部の前身にあたる日本法律学校を設立したことに始まる
言ってることが分かるような分からないような話ですが。つまり、「欧米列強にまともな近代国家として認められるために法治国家としての体裁を作る必要があった」「一方で欧米の『法』の概念そのままでは日本人には馴染みにくいので馴染ませる方法を模索したかった」ということなんじゃないでしょうか。このblogで何度も言ってることですが、これは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルが指摘している日本人の有り様そのものです。

蛇足ですが、タックル問題が起きたときの試合の相手がキリスト教系の関学であったことも偶然ではないような気がします。「部活」とその背景にある日本人の内的自己は、アメフトというアメリカ人の発明した競技を通じて、アメリカ人のキリスト教徒が作った関学に復讐しようとしたとも取れるのです。
たまたまなのかもしれませんが、関学のようなキリスト教の大学では日大のように悪質な事件を起こす人が長年トップに居座り続けて絶大な権力をふるうようなことは起きにくいんじゃないかと思います。ガバナンスの根底に「神の愛」という宗教的な規範があることは日大のような「やりすぎ」に対する抑止力に成り得るのではないでしょうか。

こうやって書いてると、子供をこの先私立の学校に入れることがあるとしても、できればキリスト教系のところの方がいいんじゃないかという気がしてきました。僕としてはお金のかからない公立の学校でうまいことやっていけてくれるのが一番有難いんですけどね。。

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