2018年1月1日月曜日

ネトウヨの歴史捏造は「歴史の二次創作」なんじゃないだろうか

僕は中学生の頃はそこそこの熱量のこもったアニオタでした。なので未だにBSやWOWOWなどでやってるアニメをたまに録画しては夜な夜な家族が寝静まった後にこっそり見ています。子供が生まれて以来、時間的余裕が減ってしまいましたが、それでもクールの変わり目には新番組をチェックして面白そうな気配のする作品があればとりあえず1話だけは録画してみます。その後2話以降も継続して見る作品はほとんど無いですが、それでも薄ぼんやりとはアニメの世界との繋がりは未だに残っています。
ここ数年の日本のアニメを見ていて目につくのが「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」が市民権を得て、一つのジャンルとして定着していることです。具体的に自分が思いつく範囲でもこれだけあります。
・艦これ:太平洋戦争当時の日本の戦艦を美少女キャラに擬人化
・クラシカロイド:登場人物のモチーフがクラシックの作曲家
・文豪ストレイドッグス:登場人物のモチーフが過去の文豪
クラシカロイドやストレイドッグスは歴史上の作曲家や文豪のキャラが出てきて、たいてい必殺技は代表作の名前だったりします。例えば、ストレイドッグスに出てくる「芥川」の必殺技は「蜘蛛の糸」です。

こういう作品が出てきた背景は、アニメ界の重鎮の発言からも読み解けると思います。
庵野秀明:「自分たちはコピー世代」
宮崎駿:「庵野より若いのはコピーのコピーだ」
押井守:「アニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
この文脈に沿って言うと、「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」は「コピーのコピーのコピー」のさらに先の段階のように見えるのです。既存の作品と同じような要素(萌えだったり、格闘だったり、ロボットだったり)で構成されたコピーを作るにも、そうそう斬新な設定を考えつくわけでもないので、史実そっちのけで歴史をモチーフとしてだけ利用しているように思えるのです。
更に言うと、消費財としての「コピーのコピーのコピー」のアニメが次々に乱造される背景には「無理矢理にでも新しいものを作らないといけない」という強迫観念のようなものがあるように思います。これはアニメに限った話ではなく日本全体を覆っている病のようなものです。例えばパクチーが流行ったら「パクチーチョコレート」や「パクチーハンバーグ」等々の謎の商品がスーパーの店頭に並んでたりしますよね。僕が最近のアニメをとりあえず1話だけ録画してみても、その後見続けようと思えない原因もこれと同じなんじゃないかと思います。つまり、「これわざわざ新しく作る必要あったの?」と思えてしまうので、その後わざわざ録画してまで見ようという意欲を喚起しないのです。

さてここからようやく本稿の本題なのですが。「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作アニメ」と、ネトウヨによる「南京大虐殺は中国人が作った嘘」とか「慰安婦はただの売春婦だった」といったよくある歴史捏造はほとんどやってることが同じに見えるのです。両者に共通しているのは「史実を自分の都合の良いように改造することに躊躇が無い」ということなのだろうと思います。別の言い方をすると「事実や史実がどうであったかはあんまりどうでもよくて、自分に都合のいいように断片的な情報を再構成することに特に違和感を感じていない」のではないかと想像されます。
最近のNHKの大河ドラマも割とこの傾向が強くなってきていると思います。史実を無視して荒唐無稽な展開(例えば、信長の妻が本能寺で刀を振り回して信長と一緒に戦う)を平気で導入するようになりました。アニメや大河ドラマなどの”創作”であれば特に誰かが不利益を受けないのでしょうが、これと同じことを外交の場に持ち込むとさすがに問題になってしまいます。昨今の少女像や慰安婦問題に対する安倍政権の対応が国際社会から非難を浴びているのは、「都合の悪いことはうやむやにしたい」という歴史捏造/修正の意図があからさまに透けて見えているからなのではないでしょうか。

高校生の頃、僕の友達に同人誌をせっせと描いてるような女の子が何人かいました。彼女らのうち何人かはアニメのキャラクターやミュージシャンをモチーフにして、同性愛的な架空の漫画(所謂「やおい」と称されるものです)を描いてコミケに出しているような人でした。そのうちの一人が「『こんなことあるわけないよなー』って思いながら描くのが、楽しいんだよね」と少し自嘲的に笑いながら言っていたのを今でも覚えています。まだ、CGMなんていう言葉もなければインターネットも一般的ではなかった時代の話です。
現役でこの手の同人活動をやっている人と具体的な接点が無いので何とも言えないですが、少なくとも僕の高校時代の同級生は自分のやっていることが「社会に受け入れられない非現実的なファンタジー」であることにはちゃんと自覚があったと思います。別の言い方をすれば、現実社会と自分の脳内ファンタジーとの間でいくらかの葛藤があった末に「自分の願望は非現実的なファンタジーである」ということを認めて受け入れること、そしてその痛みを共有することが、少なくとも当時の同人ネットワークという社会の成員として認められる上での必須条件だったんだと思います。この点において、僕の高校時代の同級生の女の子は現代のネトウヨよりも大人だったと僕は思います。

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