2018年5月5日土曜日

イチローの「事実上の引退」は即身仏と同じに見える

風邪が治りきらないままぼんやりGWを過ごしていると、イチローの事実上の引退のニュースが入ってきました。しかし、言ってることがなんとも不可解なのです。

「イチローは引退ではない」と今後についてあらゆる可能性を否定しなかった。
少なくとも今季中はプレーしないこととなったが、同GMによれば試合前にはこれまで通りに他の選手たちと練習するという。遠征にも同行予定。前例のない形での特別アドバイザー契約になるが、球団側が何よりも重視したのはチーム内でのイチローの存在感と必要性だった。

例えば「今シーズンは怪我の影響でコンディションを落としているけど、それが治れば来シーズンはプレーできる可能性がある」といった理由が添えられていればまだ納得もできるのですけどね。しかし、この次の一行を見て急に理解できた気がしました。

「彼は我々のクラブハウスで、ダライ・ラマのような存在だ」

「クラブハウスのダライ・ラマ」という言葉はものすごいパンチがありますね。これまで聞いたことがある中でも「ナイトクラブのクセナキス」とか「群馬のシャブババア」に匹敵するくらいの破壊力があるのですが。ともあれ、言いえて妙だと思います。


この「クラブハウスのダライ・ラマ」という一行を見て僕が納得した理由は、このフレーズから仏教の即身仏を連想したからです。即身仏というのは仏教の高僧などがお経を唱えたりしながらミイラになるという、究極の修行法みたいなやつです。聞きかじりであんまり簡単に宗教を批判すべきではないのでしょうが、どうもこの即身仏というのは仏教のコンセプトと乖離しているような気がするのです。
仏教のメインテーマの一つは「いかに執着を捨てるか」ということにあると思うのですが。それに対して即身仏はどうも「修行しながら死にたい」と言ってるように見えるのです。なんだかこれって、修行によって功徳を積むという行為にいつまでも執着しているように感じるのです。しかも、自分の姿をミイラという形に残そうとするなんて、自らの肉体や生命にいつまでも執着して、死後も影響を保持したがっているようにさえ見えるのです。


話をイチローに戻します。彼は「自身のキャリアの終焉」という断裂を受け入ることを拒んで、「終焉をこれまでのキャリアの延長であるかのように偽装する」ことを選んだように見えるのです。これは上述したように僕が即身仏に対して感じる欺瞞と全く同じ構造を持っています。特に、「試合には出ないけどこれまで通りに練習はやる」という辺りは、即身仏が「死を修行という形に偽装する」のとそのまま対応しているように思います。
プロスポーツ選手の引退については、「やめないままでいること」がやめられない中山やカズとか、現役時代の四股名のまま親方になった貴乃花親方の抱える幼児性など、これまでも色々とこのblogで考察してきたトピックです。これと絡めてここから色々話を展開しようかと思ったのですが、それをやるとこの文章の収まりがどうにも悪くなって今日はここまでにします。「適切なタイミングで終焉を受け入れるべきだ」という論旨の文章の構造が論旨に反してしまうわけにはいかないので。。

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