2024年12月31日火曜日

岸和田市長と長渕剛

 気が付いたら今年も年の瀬になりました。10月に仕事のピークが来て、それが落ち着いたと思ったら11月上旬は海外出張していて、そんなこんなであっという間に年末を迎えてしまいました。今年はこれまでのサラリーマン人生の中でも例を見ないくらい忙しい一年でした。もう体力的に下降線をたどっているのに、ここから忙しくなるなんてすごく間違ってる気がするのですけどね。

この期間にも色々このblogに書こうと思ってたことはあるのですが、一番最近の岸和田市長の件だけ年内に触れておこうと思います。この岸和田市長は単に不倫していたというだけではなくて、不倫相手との関係にどうやら問題があったらしく、その当時の関係をめぐって謝罪や和解金の支払いがあった…ということなのだそうです。それをめぐって議会での不信任決議などの諸々の騒動に展開しています。

僕は別に公職に就く人間がプライベートで不倫してようが別に構わないと思っています。公的な職責を全うできる能力さえされば、プライベートで私人として何をやっていたとしても仕事とは別ですから。なのですが、不倫相手の女性とのトラブルが発生してしまうと、これは公人としての資質を問われても仕方ないのかなと思います。議会の反応を見ていると、こういうトラブルをきっかけにこれまで溜まった不満が噴出しただけであって、そもそも本人の資質に何かしら問題があったのかもしれないですね。

この件に関連して、市長はとうとう妻を伴って記者会見を行うという行動に出ました。この人が問われているのは「市長=公人」としての責任能力だと思うのですが。この人は妻を伴って記者会見することで「私人=家庭内での問題」に話をすり替えにかかっているように見えるのです。公人としての責任の所在を問われた末に、本来私人であるはずの妻を記者会見の場に引っ張り出してきたのは、単に「妻を的外れな方向に政治利用しているだけ」と思われても仕方がないのではないでしょうか?

書きたかったことは以上なのですが、50年近く生きていると大抵の事は「昔見たアレだ」という納得の仕方をついついしてしまうのです。大昔にワイドショー花盛りし頃に見た長渕剛の不倫に関するコメントです。国生さゆりとの不倫についてマスコミに問い詰められた長渕と妻の志穂美悦子はこんなコメントをしていました。

 口火を切った長渕は、2人だけで会ったことを認めた上で、

「オレたちのようにモノを作る人間にはね、あなた方の言う常識だとかモラルなんてのは、通用しねえんだよ。オレたちの夫婦関係はうまくいってるんだし、なんら支障ないんだから」

 すると、隣にいた志穂美もにこやかに、

「私はやっぱり(彼の)情熱が好きで結婚したんですから、なんていうのか、自由奔放にさせてあげることで、いい仕事が出来ると思っているし、ですから、全然平気!」と答え、続けて、「私も、けっこうゾクゾクしたりするから、いいんじゃないの」とフォローしたのだった。

僕はこういう長渕剛の長渕剛っぷりを決してカッコいいとは思えない方ですが、今回の岸和田市長の件に比べたらまだ長渕の方がマシな気がしました。

2024年9月22日日曜日

バチェラー/バチェロレッテは「R-既婚者」指定にしてはどうだろうか?

9月も終盤に差し掛かかり、秋刀魚はセールだと一尾130円くらいまで下がってきました。その一方で、まだ猛暑日が出るような天気が続いております。衰えを知らない猛暑と並んで、子供のバチェラー/バチェロレッテ熱が一向に収まる気配を見せません。夏休み前くらいからバチェラー/バチェロレッテにドハマりして毎日のようにバチェラー/バチェロレッテを見続けて、一通り見た後も何度も繰り返し見るというドハマりぶりを見せております。

 おかげで我が家のリビングは子供がいる間ほぼずっとバチェラー/バチェロレッテに占拠されているのですが。正直言うとこれまで子供がハマって見てたものの中でトップクラスで僕は好きになれないのです。エアコン代がかからないように、常時エアコンがかかっているリビングでなるだけ過ごそうとは思うのですが、バチェラー/バチェロレッテがずっと流れているのを見てるとなんかイライラしてくるので、結局耐えかねて他の部屋に移動する…という事を夏の間に何回も繰り返していました。

バチェラー/バチェロレッテは「恋愛リアリティーショー」と公言していることからも分かるように、半ばやらせであることが暗黙の前提にあります。構造としてはプロレスと近い所があって、作り手側も見てる側もやらせであることが共通の認識として成立しているのだと思います。だって、出演者全員があからさまに「向き合う」「真実の愛」「運命の人」などの特定のワーディングを多用して淀みなくインタビューに答えているあたりからして、どう考えても台本を作ってる人がいると思います。出演する側も世の中に顔を売るための踏み台としてこの番組に出演しているようで、芸能人デビューする人、YouTuberになる人…出演後はそれぞれのキャリアを歩んでいらっしゃるようです。

バチェラー/バチェロレッテを見てて何が腹立つかというと。結婚するチャンスはこれまであったのに、ハイスぺを拗らせたまま適齢期を過ぎようとしている人間が、今になって本気で結婚について考えてるように見えて、結婚についての御飯事レベルの空想を垂れ流しているのにイラっとくるのです。例えば、「ウエディングドレスを着てみる」というデートが設定されていた回でバチェラーの男が「結婚した後のことを想像してみようと思って…」と言ってたのですが。こちらから見ると「いや、結婚式はゴールじゃなくてスタート地点だから。結婚生活は結婚式の後に続くものなんだよ。」ってツッコミたくなっちゃうわけですよ。

バチェラー/バチェロレッテは最終的に一人を選んで終わるのですが、その後関係が続かなかったり、結婚しても数年で離婚するパターンが多いようです。あの番組に出てくるバチェラー/バチェロレッテは結婚によって自分が犠牲になるつもりが毛頭なくて、だからこそあの年齢までハイスぺを拗らせているわけですから…まぁ、当然と言えば当然な気もします。勝者としての地位を手に入れたけど、彼らは「相手と折り合ったり、自分がある程度犠牲になってでも人と家庭を築く」という能力は手に入れられなかったわけですね。

本当に結婚したいと思ってるならあんなテレビ番組に出て「真実の愛」とか「運命の人」とか言ってないで、結婚紹介所にでも行くべきだという事は当人達だって分かっていると思います。あの番組を娯楽として見て楽しむのは結構ですが、もしも日本の少子化をなんとかしたいんだったらバチェラー/バチェロレッテは「R-既婚者」に指定にして、未婚者には見せない方が良いと思います。…という結論にするつもりで書き始めたのですが、一周回って「ハイスぺを拗らせ続けるとああなっちゃうよ」という教育的な番組でもあるような気がしてきました。でもなぁ、なんか見てて腹立つんだよな。。

2024年9月7日土曜日

宮田笙子について今更だけどちょっといいかな

9月になりました。発狂しそうなくらい暑かった8月に比べたら暑さも少し和らいできて、過ごし辛い時期のピークが終わっていく過程に入ってきました。スーパーでは秋刀魚が売られ始めましたが、どこでも一尾198円だとまだちょっと買う気になれないかな―?というところです。だいたい、今の秋刀魚は昔の秋刀魚に比べたら可食部が半分くらいになってるんじゃないか?というくらいに小さくてすごく頼りないのです。。

さておき、オリンピックが終わってほとぼりが冷めてきたところで宮田笙子が競技に復帰したというニュースが流れてきました。この件についてはオリンピック前の時期に「ご意見番」を自認する、うすっぺらいメディア論客がアレコレ言ってましたが、オリンピックが始まった途端にウヤムヤになってしまいました。そして、そんな彼らは宮田笙子の協議復帰について何とコメントをするのでしょうかね?

宮田笙子問題の背景には、「大人と子供の境界線」という日本文化に特有の問題があるように思います。つまり、「子供を保護するために作られた法律への違反に対して、大人として責任を取ること要求していた」という事がこの件の本質的な問題なのではないでしょうか?未成年者に酒や煙草を禁じる法律は、本来は「未成年者を保護するために存在する」ものなのに、「ルールはルールだから」と言って宮田笙子に対する処分を正当化するのは「大人として責任を取ることを要求している」ように見えて、なんだそこがかモヤモヤするのです。

「ルールを破ったんだから処分は当然」と言う人達の多くは、だいたい僕の苦手な「クリアカットな結論を言う事が自分の知性の証明だと信じている人達」のように思えたのですが。彼らには、聖書にある「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」という言葉について考えていただきたい。つまり、「そういうアンタは20歳までに一切酒も煙草もやらずに法を守ったんですね?」と問いたいです。他人を糾弾するならば、まず自分がそのルールを守っていることが大前提であって、自分が守りもしなかったルールを守れなかった人間を非難する権利はないと思います。

そもそもの問題として、日本という国では高校生までは管理され過ぎた状態で過ごして、高校卒業後から途端に酒や煙草なども含めて事実上野放しになるようにできています。このギャップが激しすぎるのがそもそもの問題であったところに加えて、海外のサル真似によって実現した「18歳選挙権」という制度を導入したことが更に混迷を深めていると思います。18歳で選挙権を与えるなら、その前の高校生の段階から政治について考えて行動することを教育として促すべきなのに、日本の社会システムは未だに「高校生までは子供として扱う」システムのままなですよね?宮田笙子の件は、この面倒な問題を改めて可視化したと思いますが。

宮田笙子には20歳を超えたら「酒も煙草もガンガンにやるけど他を寄せ付けない圧倒的な実力で他をねじ伏せる」というカッコいい大人になって欲しいと願っています。だから煙草とか酒とか、今更やめなくていいよ。ロサンゼルスオリンピックでは、金メダルを首から下げた宮田笙子が煙草吸いながらビールを飲み干して「いえーい!」ってやってる絵を僕は本気で見たいです。だってそっちの方が断然カッコいいじゃん。

2024年8月16日金曜日

Sonny Boyと夏休み

これを書いている現在は8月16日です。例年通り、大して何もしてないのにあと数日で夏休みが終わってしまうという焦燥感を味わっているところです。「夏休みになったらアレもコレもできるんじゃないかなー?」と思っていたことの1/3もできずに夏休みはいつも終わっていきますよね。このblogもその1つで、いつも長期休暇の時に1-2本は何か投稿してきたので、さすがに何か1本くらいは書こうと思ってパソコンに向かってはみたものの、気が付いたらぼんやりネットを眺めていました。そしたら、8月16日はSonny Boyというアニメの作中で少年少女達が異世界へ迷い込んだ日だということがTwitter改めXに書いてありました。

そこで今回は、Sonny Boyというアニメについて書いてみようと思います。この作品、決してメジャーな作品ではないのですが、ぜひ一度見ていただきたい作品です。そして、一度でも見たらなぜブレイクしないのかもよく理解できると思います。というのも、全体的にこの作品は「よくわからない」のです。しかし、この「よくわからなさ」に心地良さを感じられる人には絶大なインパクトを残すのです。

以前、NHKでシン・エヴァンゲリオン劇場版の製作過程のドキュメンタリーをやっていたときに庵野監督が「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」と言っていました。確かにここ数年は「鬼滅の刃」や「進撃の巨人」のように、話の展開は波乱万丈でも、ちゃんと伏線を回収しきって終わってくれそうな安心感のある作品が人気を博しています。僕もこれらの作品は面白いと思うのですが、そういう作品ばっかりというのもなんだか寂しいんですよね。

SonnyBoyは2021年の夏に公開された作品です。単なる偶然かもしれませんが、エヴァンゲリオンの最後の劇場作品も2021年に公開されました。僕はこれらの作品に出てくる少年少女達に比べるとすっかり歳をとってしまいましたが、それでもまだ20-30年くらいは生きると思うので、こういう「よくわからないけど面白い物」がある一定の頻度で作られるような社会であり続けて欲しいと願っています。


=== 以下、SonnyBoyについての感想です。作品を見ている前提で書いてあります。 ===


■少年少女達は衣食住には困らない

彼らが学校ごと飛ばされた先の異世界では、少なくとも学校の中にいる限りにおいては8月16日が延々繰り返されます。通常この手の作品だと最初に食料の奪い合いなどが始まるのですが、この作品に出てくる少年少女達は衣食住にはまったく不自由しないどころか、携帯の電波まで普通に使えます。「8月16日=終戦記念日の翌日」という設定には「衣食住には困らなくなったけど、アメリカという影の支配者の管理下で変わらない日常をずっと生き続けている戦後の日本人」が投影されているように思えました。


■音楽や心理描写がほとんど無い

通常、アニメ作品には劇中で音楽がかなりの頻度で使われているのですが、この作品では音楽はほとんど使われず、ここぞという場面だけで音楽が使われるのです。また、この作品では登場人物の内面の心理描写(=独り言)もなければ、設定の説明のためのナレーションも全くありません。これらの特徴は、この作品の「余白が多い感じ」を生み出す上でとても重要なポイントだと思います。


■あちら側の世界で恒久的に人の姿を保てない

学校の外に出た少年少女達は、あちら側の世界の色々な様相を見て回ることになりますが…犬になってしまった人、毎日同じ労働をひたすら繰り返す人、本当に死んでしまう人、世界の一部として取り込まれてしまう人…あちら側の世界では学校の外(=アメリカに管理されない世界)に出てしまうと、結局は人間の姿を保ったまま人間らしく生き続けることができないのです。そのことを理解した瑞穂と長良は最終的に元の世界に戻ることを選びます。しかし、戻った先の世界は決して彼らが期待していたような都合のよい世界ではなかったわけです。これはエヴァンゲリオンのTV放送直後の映画作品『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の最後のアスカのセリフ「気持ち悪い」を思い出しますね。とはいえ、Sonny Boyの終わり方はエヴァンゲリオンに比べたらまだどこかに救いがあると思います。

2024年6月30日日曜日

村上隆とキャラと空也(2)

 忙しすぎるあまりに、自分で自分の首を絞めるのをわかっているようなものなのに土日に出張を入れて京都に行ってきた話の続きです。

 村上隆の展覧会の後に、六波羅蜜寺という寺にふらっと立ち寄りました。ホテルに預けていた荷物を取りに行ったら、帰りの新幹線までまだ時間があるので、何があるのかも全く知らないままホテルの近所にあった六波羅蜜寺に行ってみた…とか、その程度のノリで行ってみたのです。すると、そこには入館料が別途必要な博物館のようなコーナーがあって、その中に空也上人像があったのです。あの教科書に載っていた、口から阿弥陀様が並んで出てくる空也上人像です。実寸の3/4くらいの微妙なサイズの空也上人像に僕は惹きつけられてしまいました。

 なぜ空也上人像にこれほどまでにグッと来てしまったのか、その後もずっと考えてしまいました。自分なりの結論としては、おそらく空也上人像は日本ではあまりお目にかからない「人」の「哀切」を写実的に描いていることに衝撃を受けたのだと思います。日本では「像≒仏像」と言っていいくらい、人の像というものは大変希少です。もしあったとしても空也上人像のように哀切をたたえた表情の像はほとんどお目にかかりません。

「苦」や「哀切」の表情を浮かべた空也上人の像は、苦しみの表情を湛えながら全人類の罪を贖うキリストの像にどこか似ているように思いました。単に見た目の問題だけではなく、市井の人々が救われるための教えを説いて回って「市聖」と呼ばれた空也は、「神の愛」を説いて回ったキリストと重なります。空也をその後の鎌倉新仏教の祖とするならば、一神教的な性格を持った鎌倉新仏教の祖である空也がキリストに見えたのは、偶然ではないと思います。

その一方で我が国の像≒仏像についてですが。みうらじゅんに言わせれば、仏像は全部「外タレ」だそうです。ここでやっと村上隆の話につながるのですが、これは村上隆の文脈での「キャラクター」そのものなのではないかと思います。 仏像は喜怒哀楽の表情が実に豊かですが、大昔から日本人はこのようなキャラクターを通して、人間の感情を迂回して表現してきたのではないでしょうか?こんなことを千年以上に渡って続けてきたのですから、日本人がどうしても「キャラクター」に依存してしまうのもなんだか納得できるように思いました。

村上隆とキャラと空也(1)

 4月からの体制変更やアレやコレの余波で、相変わらず息をつく暇がないくらい毎日が忙しいです。正直言うと、今貰ってる給料に対して割に合わないくらいの忙しさになってきました。下っ端とはいえ一応管理職なので、一般社員よりはちょっとだけ給料がよいのですが。。その差分と仕事量を考えると、これは割に合わないのではないか?と思うようになってきました。

さておき、これだけ忙しくなってしまうと、その反動で土日に出張を入れてでも気分転換したくなってしまうのです。一応申し上げておきますと、我が社は管理職の休出に対して代休取得を義務付ける制度がございません。なので、土日に休出したところで代休をとることも無いまま月曜日また出社することになります。。 それでもどこかに行かないとやってられない気分になってしまったのです。

 そんなわけで、二週間前に京都へ果敢な土日出張に行ってまいりました。出張そのものはさておき、そのついでに色々と見て回る中で、村上隆の展覧会にも行ってしまいました。村上隆の立ち位置についてはいくらでもネットを参照すれば情報が取れるのでわざわざ僕が説明する必要もないのですが、毀誉褒貶の激しい、物議を醸すタイプの人ですね。個人的には、美術方面にそれなりの心得がある人と会話していて村上隆についてポジティブなコメントをしている人に会った記憶がありません。

 今回の展覧会では、洛中洛外図や風神雷神図など、日本の伝統美術の名作をモチーフにした作品が多く展示されていました。村上隆は若かりし頃に日本画家を目指して挫折したらしいのですが、その古傷に向き合おうとしているにも見えて、どちらかというと「都合のいい搾取」というよりは「内省」というニュアンスを感じ取りました。

そして今回展覧会を見て一番印象に残ったのは、展覧会の解説の中の以下の文章でした。村上は、日本のキャラクター文化が発展し、世界を席巻した理由は、敗戦国の悲哀を抱えた日本人の魂の震えが共感を呼んでいるのだと言います。村上のキャラクターもまた、世界が疫病や戦争などで不穏に変化していく兆しをとらえ、形象化した現代の「もののけ」たちなのかもしれません。

 これには結構納得がいきました。村上隆のキャラクターは単にかわいらしいだけでなく、残酷さ、攻撃性、哀切などのネガティブな要素も兼ね備えているように思います。村上隆はかつてアメリカで「リトルボーイ」という展覧会を開催したこともありました。キャラクターやオタク文化を芸術の文脈で扱ってきた村上隆にとって、自身の作風が「敗戦国としての日本」や「アメリカの属国としての日本」に繋がっていることはどうしても避けて通れなかったのだろうと思います。

 ただし、「キャラクター」を単に「敗戦」にだけ帰結させるのはちょっと違うような気もするのです。古来より日本人はネガティブな感情を直接表現するのではなく、婉曲的にしか表現することができなかったのではないでしょうか?だからこそ、そのための回路として妖怪やキャラクターなどが日本には大昔から存在したのではないかと思います。

 というわけで、村上隆に対する印象が思ったより良くなった…と思って帰ろうとしたら、最後の物販コーナーでキャラのグッズがすごく高い値段で売られてるのを見て、「いや、やっぱりちょっとこれはなー。。」と思ってしまいました。中学の時に古文の授業で習った徒然草の「この木なからましかば」のような気分とともに、会場を後にしました。

 村上隆について書いてるだけで長くなったので、空也の話は分けて書きます。

2024年4月21日日曜日

安易な1on1はどうなんだろう?

 4月になりました。桜は咲いて、桜餅も食べれて、菜の花、筍、ホタルイカ、新玉ねぎ、新じゃが…と春の味覚が楽しい季節です。なのですが。今年の春は会社の組織が4月から大きく変わって、それに伴って課長や部長がそれぞれ旗を振って社員との1on1が雨後の筍のような勢いで乱立しています。元から経営層のエラい人が社員と対話する機会を作るために定期的に1on1を実施していたのですが、それに加えて4月から部長との1on1や課長との1on1などが加わって、1on1だらけのわんわん王国のような職場になってしまいました。

 1on1という手段自体を悪いとは言わないのですが、安易に濫用するのはどうかなー?と思うのです。そもそも1on1というのは「実施する側」と「受ける側」という権力の非対称性が不可避的に発生して、受ける側がそれを受け入れないことには成立しません。場合によっては単なるマウンティングになってしまう可能性も十分あると思います。なので、実施する側は気分いいわけですよ。でも、受ける側は沈黙が発生したら気まずいから間が持たないときのために資料作ってきたり、話題を考えたりとか色々準備することになるのですよ。

1on1が効果的であるかどうかは目的次第だと思います。例えば、ぼんやりと「コミュニケーションの促進」などを掲げるのであれば、1on1はあんまり役に立たないのではないかと思います。というのも、ほっといても上司に会話してくる人には1on1なんて必要ないし、上司とコミュニケーションがうまく取れてない人は密室に二人で閉じ込められたからといって本当に思っていることを話してくれるとは考えにくいからです。ぼんやりとした「コミュニケーションの促進」のためには、普段からちょっとずつ立ち話レベルで声をかけるとか、そんなことをやった方がはるかに有効だと思います。

大事なことは普段から部下とコミュニケーションする努力を積み重ねるかどうかであって、そういう努力をしないで定期的に1on1だけやっても部下の本音を引き出すなんていう事は難しいのではないかな?と思うのですが。1on1って、やってる側は満足そうなんですよね。。これも1on1の欠点の一つなのですが、実施する側は満足そうな反面、その手ごたえが周りの人には何も伝わらないのです。

2024年3月10日日曜日

MASHLEに見るジャンプの方向性

 鳥山明、TARAKOの訃報が相次いで流れて来たところです。鳥山明については、以前申し上げた通りで、バトル漫画としてのドラゴンボールを日本人は今もって反復生産し続けることを続けています。きっとこれは作者が亡くなった後もずっと続くのでしょうね。TARAKOについては、もしも「ちびまるこちゃん」がなければ、もっと普通に長生きしたのではないか?という気がどうしてもしてしまいますね。

平成のレジェンドから一転しますが、今日はアニメのMASHLEの話です。最近この作品をアマプラで見れる範囲で全部見たのですが、この作品は鬼滅の刃よりさらに次の段階に進んだジャンプ漫画なのではないかと思いました。しかし、「次の段階」というのが、過去への回帰のようで、現代的なようで、結局は王道を行っているところもあって。。段階は次になったけど、その方向性が一口に「こっち」とは言えないのです。

 まず最大の特徴は、「魔法が使えるのが当たり前の世界において、主人公は例外的に魔法が使えない」ということです。これはJOJO3部と鬼滅の刃の下りで言及したように、JOJO3部以降の「異能力バトル漫画」路線に対して、それ以前のジャンプ漫画にあった「身体性」へ回帰しようとする流れに乗っているように見えました。この点においては、「鬼=異能力」と「人間=身体性」の対立を通して鬼滅が志向していた方向性の延長上にこの作品はあるように見えます。

次にこの漫画でユニークな点は「努力・友情・勝利」というジャンプが掲げて来たテーマに対して「努力」が無いことです。主人公は幼少期からの筋トレによって、魔法が全く使えないにも関わらず魔法使いに勝てる程の肉体を有しています。物語の開始時点から最強で、特訓したり新しい技を身に付けたりして強くなるという描写が全くありません。これはジャンプ漫画としてかなり画期的なのではないかと思います。もちろん、友情と勝利はちゃんとあるんですけどね。。

「現代的」という意味では、 主人公の少年が戦う理由は「じいちゃんと平和に暮らしたい」という極々個人的な動機でしかありません。世界を救いたいとか、自分が強くなりたいとか、そういう欲が主人公にはないのです。ここについてはフリーレンにも通じるものがあると思います。

その一方で、MASHLEには少年漫画の伝統に則っている要素も見えたりします。例えば、主人公が「イノセントでどこか抜けている」というところは、悟空、ルフィ、ゴンなどの系譜につながっていると言えるでしょう。また、物語のどこかで「父」が登場することも、少年漫画の王道だと思います。

 

まとめると、MASHLEを見ているとこんなことを思うわけです。

  • 「身体性」という観点では昭和のジャンプへ回帰しようとしているようにも見える
  • 「努力」というジャンプの3大テーマのうち一つを放棄しているところは新しいのでは?
  •  「主人公が自分の価値観に忠実で世俗的な欲がない」という現代的な要素もある
  • 一方で、少年漫画の王道の要素も見て取れる

さて、ジャンプはこれからどこへ向かうのでしょうかね。。

2024年3月3日日曜日

アメリカ村のショップ店員と意識高いコンサル

いつか降ってくるかもしれないと内心覚悟していたのですが、例年開催されている社内イベントの実行委員を仰せつかりました。残念ながら、実行委員になったところで手当てが出るわけではありません。定額働かせ放題のザコ管理職に、更に仕事が増える…ということになります。はぁ。。

さて。このイベントの実行委員の仕事は「コンセプトを考える」ということから始まります。で、その作業を楽にするために今年は外部のコンサルを入れる…ということになったのですが。。このコンサルが絵に書いたような「意識高い」人達なのです。やたらカタカナがいっぱい入ったパワポを作って来て、自己啓発本みたいな薄っぺらい前向きさで自信に満々に語り始めるのです。沢山喋るんですが、要は言ってることは「私たちと同じ意識の高さについてきてください、そして一緒にワクワクしましょう!」ということのようです。

残念ながら実行委員になったところで手当てが出るわけでもないので、集められた人達は僕と同じように後ろ向きな人の方が多いでしょう。少なくとも、いきなりワクワクなんてしてるわけないです。そういう人達をまとめるのが大変だからコンサルを入れることにしたはずなのに、結果的に意識高いコンサルに振り回されるだけで「自分達でやった方がはるかにマシだった」という結果になりそうな予感しかしないわけです。

たぶん、件のコンサルはどこに行っても同じようなことをやっているんだろうと思います。彼らがどれだけ自覚的にそれをやっているのかはわからないですが、これが彼らにとっては一番合理的なんだろうと思います。だって、クライアントの抱えている個別の事情を理解したり汲んだりして個別対応するよりも、どこへ行っても同じように一方的に自分たちの流儀を押し付けた方がコストがかからなくて楽ですからね。

自信満々で語り続けるコンサルの姿にどこか既視感があるなと思ってずっと考えていたのですが、昨日思い出しました。アメリカ村のショップ店員です。今はどうか知りませんが、90年代のアメリカ村の服屋に行くと、いきなり客に向かって「彼、このシャツで決まりちゃうん?」と言ってくる失礼なショップ店員がどこの店にもいたのです。こちらが何を探しているか、どんな服の好みか…なんていうことをいちいち会話せずに、一方的に上から目線でオシャレを啓蒙するのが一番コストがかからなくて楽なんでしょうね。

人の話を聞かないで一方的に自分の都合だけ押し付けにかかるのが一番コスパがいいんでしょうが。こういう人達と関わることに関して、たぶん人並み以上に僕は苦手です。他の実行委員は「こちらの事情を話したら分かってくれるんじゃないの?」という牧歌的な人もいるんですが。僕は基本的に「人は分かり合えない」と思っています。分かり合えない同士が一緒に何かやるとなると、お互いにコミュニケーションが必要なのですが、件のコンサルにはその姿勢がそもそも無いんですよね。少なくとも、この状況でワクワクするなんて僕には無理ですよ。。

2024年2月28日水曜日

必要悪とは?

4月に管理職になってから、とりあえず1年が経過しようとしています。しかし、管理職とは言っても僕の場合は、実態としては「定額働かせ放題」に近いです。実務としてやることは変わらないどころかむしろ増えて、そこにマネジメント的な仕事も乗っかってきました。だけど、残業代は出ないのでどんなに働いたところで給料は定額です。

そんな一方で、管理職になったのと同じくらいの時期から医療機関と一緒に協業をする仕事に関わることになりました。いやー、やっぱり医療ってすごいですよね。一歩間違えば人の命が簡単に吹き飛ぶような世界を生きているので、彼らの負ってる責任というのは僕たちサラリーマンとは違うな―、と思うわけです。

人の生死にかかわる責任を伴うんだから、そこで責任を負っている医療従事者は相応の見返りがあっていいと僕は思います。一般企業の管理職も一応責任は負ってることにはなっているけど、失敗したところで誰も責任を取らない。というより、取れない。サラリーマンの世界の責任というのは「事後に責任を取ることができない」という暗黙の了解があって、責任という概念は「責任を問われるような状況に追い込まれないように立ち振る舞う=予防」という文脈においてしか意味を成さないのです。

でもそれって、結果責任という観点では何も責任を取ってるようには見えないんですよね。。若い頃は、そうやって(結果)責任を取らないおじさん達がいい給料(と言うほど実は良くもないんだけど)をもらってるのを苦々しい思い出見てきました。それに比べたら、医療従事者の世界はまだマトモそうだなと思ったりもするわけです。

医療従事者に対して色々と引け目を感じる一方で、医療と管理職に共通していることも発見しました。医療も管理職も「必要悪」なのです。みんな健康なら医療なんていらないし、ほっといても組織が回るならば管理職もいりません。どちらも、本来必要ないことが理想のはずの職業なのです。でも必要だから存在する職業なのです。

いつも思うのですが、例えばセロテープの台とかクリップなどの文房具は不要になった物がちゃんと循環して必要な人の所にに届けられるならば、新規に生産しなくてもそれなりに社会は維持できると思うのです。だけど、実際はそんなに社会がうまく回っていないからこそセロテープの台やクリップは新たに生産され続ける必要があるわけです。そして、そうやって社会がうまく循環していないことから利益を引き出している人達が世の中にはいるわけです。

文房具の話に脱線してしまいましたが、こうやって考えると「本来必要ないことが社会として理想であるもの=必要悪」というのは世の中に結構ありますよね。例えば、軍事力なんてその最たるものだと思います。必要悪という立場を生きていくには、その疚しさを引き受けることと、なるだけ人に何かしら奉仕したり還元したりする意識が大事なんじゃないかと最近は思うようになってきました。

ここまで書いてみて気づいたのですが、一年前の自分だったらこんな凡庸でつまんない結論の話をblogにわざわざ書こうとは思わなかっただろうと思います。「立場が人を育てる」という言い方はありますが、自分に関して言うと「立場が人をつまらなくしていく」という方向に向かっているような気もするんですよね…。

2024年1月8日月曜日

ラカンの視点から再考する「君たちはどう生きるか」

 冬休みも気が付いたら今日で最終日です。いきなり元日から能登地方で大地震が発生、その後も羽田の事故や北九州の市場の火災など、2024年は波乱の幕開けとなりました。被災地の状況を伝えるニュースを見ていると、自分は家でゴロゴロしているだけでいいんだろうか?という疚しい気持ちにどうしてもなってしまいます。その一方で、自分ができる事ってせいぜい募金することくらいなのですよね。。

 そんなわけでお正月は結局家でゴロゴロしていただけなのですが、唯一やったことと言えば「ゼロから始めるジャック・ラカン」という本を読んだことでした。この本はラカンの入門書としては大変評判になった「疾風怒濤精神分析入門」という本に増補改訂を加えた文庫本です。単行本で読みたかったけど金額と保管スペースを考えて、文庫になるまでひたすら待つ…というのは、進撃の巨人や鬼滅の刃の原作漫画を読むのを我慢してアニメでだけ見る…というのと同じスタンスですね。  

さておき、この本は入門書と言いながらも一般人の僕には十分難解でした。もちろん、ラカンの原著の訳分からなさに比べたら一般人に読めるレベルには十分噛み砕いて書いてあるのは分かるのですが。それでも一般人にはなかなか読み進めるのが難しかったです。二周読んでみたけど、いまだに細部までは理解しきれていないと思います。しかしながら、やっぱり読んでると「なるほど」と思える箇所が多々あるのです。フロイドの本は「なんでも性欲」と自信満々に言い切ろうとしているオラオラ感があるのですが、ラカンの本はもう少し離れた場所から「僕はこう思うんだけどね。まぁ、君が理解できるかは君次第だし、理解できたとしても同意するかも君次第だよ。」と言ってるように思えるのです。

ここからようやく本題なのですが。ここから先はラカンの入門書である「ゼロから始めるジャック・ラカン」を読んだ程度の知識で書いていきます。僕自身ハンパな知識しかないので、ラカンの用語について説明できるほどの技量はないのでそこは一切省略します。そして、もしラカンについて専門的な知識を持った人からこの内容についてコメントをいただけるとうれしいです。

改めてラカンの本を読んだ後に2023年に公開された「君たちはどう生きるか」について考えてみたところ、この映画は全体としてラカンの言うところのエディプス・コンプレックスの過程を描いているように思えました。主人公の少年は亡くなった実母(=「万能の母」)への執着をいつまでも捨てられないままでいます。この作品は他にも何人か女性が登場しますが、(実母と姿形は似ているけど何かが決定的に違う)継母、ヒミ、キリコなどの女性はすべて「欠如を持った母」として主人公の前に現れます。

一方の大叔父ですが、彼は突然降ってきた隕石によってもたらされた力によって、あちら側の世界(象徴界と言ってよいと思います)の王として君臨しています。なのですが、その力はあちら側の世界の中だけに閉じていて、大叔父はそこでの「隕石の力=万能の母」との閉じた関係の中をずっと生きてきました。しかし、その世界もインコなどの「父の名」の浸食によって脅かされています。

物語の終盤で、主人公は「元の世界に戻って、アオサギやヒミやキリコのような友達を作る」と宣言します。これは大叔父の後継者となって「万能の母」と繋がり続けるのを諦める、つまりエディプス期の終焉を意味しているのではないでしょうか?一方で、その直後に大叔父の力の源であった積木はインコの大ボスという「父の名」によって破壊されてしまいます。以上の下りでの主人公と大叔父をまとめて見ると、「父の名」を受け入れることでエディプス期を終了する…というラカンの理論を描いた物語であると言えるのではないでしょうか?

だいたい書きたかったことは以上なのですが、最後にNHKが放送していた「君たちはどう生きるか」のメイキングのドキュメンタリーについて一言触れさせてください。宮崎駿は亡くなった高畑勲をずっと追いかけてきて、映画の制作中も話に出てくるのはずっと高畑のことばかりでした。これはラカン風に言うならば、宮崎にとって高畑は「対象a」だったということなのではないかと思います。