2024年9月7日土曜日

宮田笙子について今更だけどちょっといいかな

9月になりました。発狂しそうなくらい暑かった8月に比べたら暑さも少し和らいできて、過ごし辛い時期のピークが終わっていく過程に入ってきました。スーパーでは秋刀魚が売られ始めましたが、どこでも一尾198円だとまだちょっと買う気になれないかな―?というところです。だいたい、今の秋刀魚は昔の秋刀魚に比べたら可食部が半分くらいになってるんじゃないか?というくらいに小さくてすごく頼りないのです。。

さておき、オリンピックが終わってほとぼりが冷めてきたところで宮田笙子が競技に復帰したというニュースが流れてきました。この件についてはオリンピック前の時期に「ご意見番」を自認する、うすっぺらいメディア論客がアレコレ言ってましたが、オリンピックが始まった途端にウヤムヤになってしまいました。そして、そんな彼らは宮田笙子の協議復帰について何とコメントをするのでしょうかね?

宮田笙子問題の背景には、「大人と子供の境界線」という日本文化に特有の問題があるように思います。つまり、「子供を保護するために作られた法律への違反に対して、大人として責任を取ること要求していた」という事がこの件の本質的な問題なのではないでしょうか?未成年者に酒や煙草を禁じる法律は、本来は「未成年者を保護するために存在する」ものなのに、「ルールはルールだから」と言って宮田笙子に対する処分を正当化するのは「大人として責任を取ることを要求している」ように見えて、なんだそこがかモヤモヤするのです。

「ルールを破ったんだから処分は当然」と言う人達の多くは、だいたい僕の苦手な「クリアカットな結論を言う事が自分の知性の証明だと信じている人達」のように思えたのですが。彼らに対しては、聖書にある「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」という言葉を贈りたいです。つまり、「そういうアンタは20歳までに一切酒も煙草もやらずに法を守ったんですね?」と問いたいです。他人を糾弾するならば、まず自分がそのルールを守っていることが大前提であって、自分が守りもしなかったルールを守れなかった人間を非難する権利はないと思います。

そもそもの問題として、日本という国では高校生までは管理され過ぎた状態で過ごして、高校卒業後から途端に酒や煙草なども含めて事実上野放しになるようにできています。このギャップが激しすぎるのがそもそもの問題であったところに加えて、海外のサル真似によって実現した「18歳選挙権」という制度を導入したことが更に混迷を深めていると思います。18歳で選挙権を与えるなら、その前の高校生の段階から政治について考えて行動することを教育として促すべきなのに、日本の社会システムは未だに「高校生までは子供として扱う」システムのままなのではないでしょうか?

宮田笙子の件は、この面倒な問題を改めて表面化したと思いますが。その一方で、この問題の背景にある「大人とは何か?」という本質的な問題について、今の日本にはちゃんと答えられる大人がいないのではないかと思います。一応これでも社会を形成する大人の一人だという自覚はあるので、そこについては少しだけ申し訳ない気がしていますが。宮田笙子には20歳を超えたら「酒も煙草もガンガンにやるけど他を寄せ付けない圧倒的な実力で他をねじ伏せる」というカッコいい大人になって欲しいと願っています。だから煙草とか酒とか、今更やめなくていいよ。ロサンゼルスオリンピックでは、金メダルを首から下げた宮田笙子が煙草吸いながらビールを飲み干して「いえーい!」ってやってる絵を僕は本気で見たいです。だってそっちの方が断然カッコいいじゃん。

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