2016年3月15日火曜日

コンプライアンスというのは「罪の文化」の概念だと思う

コンプライアンス(日本語にすると「法令順守」)という言葉を最初に聞いたのは、10年以上前にまだ会社に入りたての頃だったように思います。日本の会社組織ではどこにでもあるんだろうと思うのですが、ある日突然トップダウンで「猫も杓子も」状態で一つのキーワードだけが一人歩きする「祭」状態が始まることがあるのです。当時、エラい人がうわ言のように「コンプライアンス」って言ってたのを僕は今でも覚えています。
今にして思えば、2000年頃に猫も杓子も「とにかくコンプライアンス」とか「とにかくISOを取らなきゃ」って言ってたあたりから日本の会社はダメになりはじめたんじゃないだろうかと思うのですが、日本にたくさん会社があるのにどこも自分の会社と同じなわけないと思いたいし、そもそもこういうことを手放しで他人のせいにするには僕も歳をとりすぎました。おじさんになってくると、自分もこういうシステムの一部として生きながらえていることに、やんわりと共犯意識のようなものがあるのです。

先日、会社全体に対する「コンプライアンスについての意識調査アンケート」なるものが実施されました。このアンケートの中の設問に「あなたはコンプライアンス違反が疑われる場合に、コンプライアンスマニュアルに記載の手続きに則って会社のコンプライアンス委員会に通報すると報復的な扱いを受けると思いますか?」という項目があったのを見て、なんともいたたまれない気分になったので、本日はその話をします。このいたたまれなさの原因は、「一神教原理=絶対的な善悪の審級」に所属するコンプライアンスという概念を結局日本人には全く咀嚼できないことにあるのですが。順を追って話すために、話を2000年頃に戻します。
「コンプライアンス」という言葉が突然現れて、エラいおじさん達がうわ言のように毎日「コンプライアンス、コンプライアンス」と言い出した頃に、コンプライアンスについて社員に教育するためのビデオを社員全員で集まって見たことがありました。このとき見たビデオがまず最初に言ったことは「コンプライアンスに対して取り組まないと会社の株価が下がる」という話でした。このときに、「法令を守るという倫理観の話を金儲けの話に矮小化してしまうのはなんかおかしくないか?」という疑問を感じたのですが、当時の僕はそれに本気で憤るには若すぎたのでした。別の言い方をすると、「こんなみっともないことを言っている会社と自分のあり方とは何の関係も無い」と思えたのでした。若いって素敵ですね。
さておき、そのときに感じた「金の話に矮小化して倫理感の問題を論じるマインド」に対する違和感というのは、後年に内田先生の「原発問題を日本人は金の話にすり替えて安心しようとした」という話を読んだときに、「ああなるほど、これと同じ話だ」と思ったのでした。ちょっと長いけど引用します。

日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。
なんでも金の話にする人間というのがいるけれど、あれは別に人並み外れて強欲なのではなく
(そういう面もあるが)、むしろ人並み外れて「恐怖心が強い」人間なのではないかと思う。
出版社系の週刊誌の基本は「人間は色と欲でしか動かない」というシンプルな人間観だが、
それは彼らがそう信じているということよりもむしろ、そう「信じたい」という無意識の欲望を映
し出していると考えた方がいい。
彼らは「よくわからない人間」が怖いのだ。
どういうロジックで行動するのか見えない人間に対して恐怖を感じると、彼らは「それもこれも、
結局は金が欲しいからなんだよ」という(自分でもあまり信じていない)説明で心を落ち着かせ
るのである。
その手を日本人は原子力相手に使った。
「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」
そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。
なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。
ははは。ただの金儲けの道具なんだ、原子力って。

「コンプライアンス」についてのビデオも結局同じようにコンプライアンスという物を「金儲けの話」に矮小化して納得させようとしてたんだと思います。しかしこれは一方で、「コンプライアンス」の存在意義に鑑みると致命的に本末転倒だったんだと思います。
以前言及した「罪の文化」「恥の文化」の観点から言うと、コンプライアンスという概念は「罪の文化」、もっと言うと「一神教 = 絶対的な善悪の審級」の概念が大前提にあるわけです。コンプライアンスを簡単な一言に置き換えると「悪いことしてはいけませんよ」だけなんですが、その前提として”絶対的な善悪の規範を前提として”という暗黙の但し書きがついているわけです。これを理解しないまま金儲けの話に矮小化させてコンプライアンスを社員に説明することで、「金儲けのためには単に金を稼ぐだけじゃなくてそれなりに社会の目も気にする必要があるからさー。あんまりハデに目立つような悪いことはやっちゃダメだよ。」という「恥の文化=日本人」に理解できる話にすり替えてしまったんだと思います。

こういう文化背景を理解しないままうわべだけコンプライアンスを日本社会に導入した結果、
 ・ コンプライアンスに過剰に配慮した結果としての「事無かれ主義」の横行
 ・ 「悪いことしてもバレなきゃいい」という偽造・隠蔽
という両極端な悪影響が出ただけなのではないでしょうか?たとえば企業不祥事の元祖である雪印事件は、日本にコンプライアンスという言葉が上陸しはじめた2000年の話です。

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