2014年8月24日日曜日

今更ですが進撃の巨人の話を


今回はかなり今更ですが進撃の巨人の話をします。と言っても、僕は原作の漫画は読んだことがなくて、去年アニメを見ただけの関わり方しかしていません。漫画はアニメよりだいぶ先に進んでいるらしいので、もしも最新の漫画の展開からすると見当違いなことを書いちゃう可能性はありますが、その際は平にご容赦を。というのも、あの作品は世の中に数少ない「漫画よりアニメで見たほうが面白い」作品なので、アニメでしか見る気が起きないのです(この逆のパターンは佃煮にして売れるくらいたくさんあるんですけどね)。
さて。進撃の巨人ですが。去年は社会現象と言われるまでに大ヒットして、主題歌は紅白にまで出ちゃいましたね。すっかりクールジャパンのキラーコンテンツの一つに仲間入りした感があります。確かにバルセロナの漫画フェスティバルでも進撃の巨人のコスプレは大人気だったらしいですし、半年くらい前に出張でバルセロナに行った時には中心街の大きな書店の一区画に特設コーナーがあって、そこで進撃の巨人のDVDをずっと垂れ流していました。

進撃の巨人についてはいろんな人がいろんなところで言及しているのですが、なんであそこまであの作品が世界中の人をひきつけるのかについては、街場の漫画論の文庫版に収録されている内田先生と高橋源一郎の指摘が一番妥当だと僕は思います。
「生まれたときから不条理なルールを一方的に押し付けられてきて、どうすればこんな世界を変えられるのかよくわからないけど、とりあえずその場その場をしのいで生きていくしかない」という状況は日本だけでなく世界中のあらゆる国で同じような状況なんじゃないのかなと思います。少なくともスペインやギリシャはリーマンショック以降そういう状況だと思います。

僕が付け加えるとすると、進撃の巨人は我々人類の遺伝子に刻まれていている「大型動物に捕食される恐怖」に訴える物があるのではないかと思うのです。人類の祖先であった小型哺乳類は大型動物に捕食される危険に常にさらされてきたわけですから、その記憶は我々に引き継がれていていも不思議ではないでしょう。
フロイドは、乱暴に言えば「なんでもかんでもとにかく人間の心的活動は性欲に起因している」という彼の主張の根拠として、性=生物として種の存続は人類の祖先にとって最優先事項であったため、人類にもそのまま遺伝して引き継がれているからだと言ってます。僕はこの説明はあまりに強引過ぎて賛同できないですが、このロジックだけを援用すると、同じように生き残るために必要な「エサを探して食べる」「エサとして食べられることを避ける」ということもたぶん大なり小なり我々の遺伝子には刻まれていると思います。まぁ、そのくらいは言ってもいいんじゃないですかね。
上記のうち、性欲と食欲については"欲"と名のつく通り今日ではAVやグルメなどのエンターテイメントとして昇華されていたり、一方ではカウンターとして宗教などの"禁欲"の対象ともなっています。しかし、「エサとして食べられることへの恐怖」をエンターテイメントとして見せた物ってあんまり無いですよね?いやまぁ、"ジョーズ"とか言い出したら前例はあるにはあるでしょうけど。

さらにもう1個、付け加えると。進撃の巨人はストーリーが緻密に練られていて、見事なまでにここまで張った伏線をちゃんと全部回収していますよね?今まで浦沢直樹(MONSTER, 20世紀少年)やエヴァンゲリオンなど、謎や伏線を散々張り巡らした挙句に「えー、で、結局終わり方それなの?」というのを散々僕らは眼にしてきたわけですが。進撃の巨人はもう連載が終了した漫画で言うとナウシカ、からくりサーカスぐらい、ちゃんときれいに伏線を回収して納得させてくれそうな気がするのです。
この、「スッキリ終わらせてくれそうな期待感」に関しては、進撃の巨人はONE PIECEに匹敵すると思います。だから我々はどこか前向きに安心してドキドキできるのです。逆の言い方をすると、これらの作者には「辻褄があっててスッキリちゃんと終わらせなければいけない」という現代的な空気を感じ取れてしまうのです。だから、珍遊記みたいに途中で連載を投げ出して終わったり、ドラゴンボールみたいに強さのインフレを続けた挙句に「絶体絶命になったところでスーパーサイヤ人として目覚める」なんていう子供だましみたいな展開にはまずならないという安心感があるのです。
ちなみに、張り散らかした伏線が全く回収されないまま終わってしまう漫画を読みたければ、車田正美先生の「男坂」をお勧めします。伏線を張るだけ張り散らかしたところで何一つ回収しないまま見事に打ち切りになっています。しかし、30年のブランクを経て最近続編の執筆が始まったそうです。読みたいような、読みたくないような。。

0 件のコメント:

コメントを投稿