2014年8月29日金曜日

Apple信者と本を読まない映画ファン

あのー。色々溜まってきたのでApple信者の文句を書きまーす。
といっても先にお断りしておきますが、デザイナーとかミュージシャンとかプログラマーとか学者とか、そういう何かしら創造的な仕事をなさっている方々はコンピューターを商売道具として使っているので、Apple信者でも全然いいんじゃないかと僕は思います。
僕がどうかと思っているApple信者というのは、
・Apple製品にただ使われてるだけの人(=創造的な仕事にコンピュータを使ってない人)
・ガジェット好きの延長でApple信者をやってる人(=昔はSONY信者だった人)
こういう人達です。ほら、身近に一人くらいいません?ジョブズの思想がどうとかいう理屈をやたら語って、新しいApple製品が出るとすぐに買う(でもそれを何に使っているのかよく分かんない)人。

こういうApple信者という方々と話してて感じる違和感について考えてみたのですが。彼らが「ジョブズの思想」「Apple製品の素晴らしさ」なんかの話を得意げに語っているときに感じる、どうしようもないくらい僕と根本的にねじれているような感覚というのは、「本を読まない映画ファン」が映画について語っているときに受ける印象とすごく似ているのです。
もうちょと別の言い方をすると、あらゆる物事に対する度量衡が人それぞれ異なるかもしれないという可能性に対する配慮、まぁ、平たく言うとデリカシーが無いように感じるのです。この「躊躇の無さ」というか、自分は世の中の中心に立っているという根拠のよく分からない確信みたいなのが大前提になっているのって、Apple信者と「本を読まない映画ファン」に共通しているのですね。
単に彼らをKYだとかバカだとかって言ってるわけではなく、純粋にそういう可能性について考えるという習慣を彼らは最初から持ち合わせていないだけのように見えるのです。

みんながみんなそうってことは無いと思いますが、Apple信者の人って仕事と一切関係の無い本を純粋に娯楽として読むような習慣がなさそうな人が多いように思えるのですね(彼らのバイブルであるジョブズの自伝とかAppleを褒めちぎるだけの本は除外して)。まぁ、本っていっても色々あるので何でも読めばいいってもんでも無いんでしょうけど、本を読むことの効用であり楽しさの一つに「他人の思考に一時的にでも同調する」ということがあると思うのです。こういうことを繰り返していると、例えば武道や芸能の達人と稽古を一緒に続けるとだんだん動きが達人に近づいてくるのと同じように、頭のいい人の思考フォームを獲得できるようになるわけです。
読書を娯楽として楽しめる人って、たぶん一度くらいは本を通して今まで自分になかった他人の思考フォームに同調して感銘を受けたことがあるんじゃないかと思うのです。そして、様々な先賢の思考フォームに同調する経験を通して、他人の思考フォームが自分とどのくらい違っているか慮る習慣や、特定の人の言ってる事だけを過度に狂信しないバランス感覚を涵養するのではないかと思うのです。
「本を読むことでしかそれができない」わけでもなければ、「なんでも本を読みさえすればそうなる」というわけでも勿論無いとは思いますが、おしなべてそのような傾向はあるんじゃないかと思いますよ。

森毅先生の名言botにこういうのがありました。
美学がなくなっている。学生が本を読まなくなったというのも美学の問題だと思う。大学生になったからと難しい本を読みだしてもどうせわからんに決まっている。わからん本なんか読んでもむだというのでは美学にならぬ。むだを承知で読むところに美学があるのだ。効率優先合理主義では美学は生まれない。
この森先生の発言がいつ頃の物かはわかりませんが、この「本を読まない学生」が後にApple信者になったんじゃないかと思うのです。信者になれば、美学も含めて全部Apple様からコピペできますから、それは最も効率的で楽な方法なのです。

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