2017年1月1日日曜日

カジノと原発と清貧のJリーグ

本当は21016年中になんとか書こうと思ってたことを、2017年の正月休みに書いています

2016年もクラブW杯が日本で開催されました。このクラブW杯というイベントは世界中のサッカーファンが注目するイベントなのですが、なぜかこのイベントに対する日本人の姿勢はどこか冷淡なのです。「おもてなし」とか言って東京オリンピック等にはしゃぎたがる人達もこのイベントに対してはあまり反応してる気配がありません。この、クラブW杯に対する日本人の「あー、好きな人にはたぶん一大イベントなんだろうねー。自分にはあんまり関係ないけど。」という微温的な反応には、その昔大物の外タレがコンサートのために来日した時のような空気を感じて、なんだか少し懐かしいような気さえします。
ともあれこのクラブW杯はかなり長い間日本で開催されています。元々は欧州と南米のチャンピオンが世界一を競う大会だったらしいのですが、ホーム&アウェイ方式でやると熱狂的なサポーターによって敵方の選手に対する妨害があまりにひどくて問題になったそうです。で、協議の末「サッカーにあまり関心のない安全な中立国でのワンマッチ勝負」という方式を取ることとなり、結果的に欧州にも南米にも遠くて安全でお金がある日本が選ばれたのが始まりなのだそうです。僕はこの「ジャイアンに都合よくつかわれるスネ夫」みたいな日本のポジションは割と好きなのですが、「おもてなし」好きの皆様がクラブW杯に関心が薄いのはもしかしたらその辺りがお気に召さないのかもしれません。
これを岸田秀の「内的自己、外的自己モデル」で考えると、クラブW杯は「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」だけの問題であるのに対して、オリンピックや「おもてなし」は外的自己のフリをした「 内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」のセルフ接待であって、この違いがクラブW杯に対する日本人の微温的な反応につながっているのではないかと思います。


さてそんなクラブW杯ですが。2016年の決勝戦はかつて例を見ないほどの盛り上がり?を見せました。というのも、開催国枠で出場した鹿島アントラーズが南米王者を下してまさかの決勝進出となり、欧州王者のレイアール・マドリと決勝戦で戦うことになったのです。もうこの時点で鹿島は大金星と言ってもいいくらいなのですが、なんとその決勝戦で一時はレイアール・マドリに対して一点差でリードするという大健闘を見せたのです。最終的には負けちゃいましたが、延長戦までマドリを苦しめるような展開はほぼ誰も予測していなかったと言ってよいでしょう。
この試合で鹿島の大健闘の原動力となったのは2ゴールを挙げた柴崎岳というMFの選手でした。そして、世界中の目が向けられてる場で活躍した選手には当然欧州のサッカーからもお声がかかるようになるのですが。柴崎についての海外メディアの反応は「この新たなスターのお値段はたったの200万ユーロ」というものでした。これ、確かに安いです。この10倍とはいかなくても5倍くらいのお値段はついてもいいと思うのですが、Jリーグってやっぱり欧州のサッカーと比べると経済的な規模感が全然違います。Jリーグは創立当初こそストイコビッチやジーコなど(旬を過ぎていたとはいえ)ビッグネームを呼んでましたが、最近はめっきりこういう大物外国人選手がいなくなりました。
一方でお隣の中国では欧州のトップ選手の爆買いがどんどんエスカレートしていて、バブル経済のような状況を呈しています。この中国の状況と比べると、日本のJリーグは「清貧のリーグ」という言葉がぴったり当てはまるように思います。Jリーグはその設立当初より欧州のクラブ組織に倣って地域密着型のクラブを地域と作り上げていくということを目指してきました。そして、それはある程度成功したと思います。でも、その結果として日本に出来上がったものは「みんな均一に清貧のリーグ」であって、欧州のようにビッグクラブと弱小クラブとで資本力(≒街の規模)の格差がそのまま露骨に戦力に反映されるようなことにはなりませんでした。

さてここでカジノの話になるのですが。サッカーなどのプロスポーツで飛び交うお金のスケールはその国の富裕層のスケール感とほぼ比例しているのではないかと思うのです。こうやって考えると、Jリーグに見て取れる日本人の「清貧」ぶりと海外の超富裕層が豪遊するための「カジノ」は絶望的に噛み合わないのではないかと思うのです。例えば中国にはすでにカジノで豪遊するような富裕層が結構いるようですが、日本にはそういうスケールの金持ちってそんなにいないんじゃないでしょうか。日本にカジノができなかったのは法律の問題もさることながら、「カジノで豪遊するような超富裕層」が日本にはそんなにいないので国内にそこまで需要がなかった上に、大半の庶民である「清貧の日本人」にはカジノのスケール観が全く理解できなかったからなのではないでしょうか?言い換えると、「カジノは日本には必要もなかった上に、そもそもカジノの世界観が理解できないので作れなかった」のではないかと思います。
安倍政権や維新はこのカジノ構想に対して殊更執着し続けた挙句に国会での議論の時間を般若心経で埋める?という謎の行動に出てまでカジノ法案を成立させたのですが。現在のところ構想されているカジノの話はやっぱり内田先生の言うようにでかいパチンコ屋程度で、プライベートジェットやクルーザーでカジノに乗り付ける超富裕層の世界観から遠くかけ離れたものになっています。例えば、日本人の考えるカジノの構想には「カジノのあるエリアに電車を引いて地域の振興を」といったバラマキ型ハコモノ地域振興の発想がそのまま盛り込まれていたりするのですが、カジノの客である超富裕層が電車に乗ってくるとは到底考えられないです。また、ギャンブル依存症への懸念に対しては「ギャンブル依存症への対策もセットにする」とか言ってたりするのですが、ギャンブル依存症の末に身を持ち崩しても「自業自得」と言われて済むレベルの富裕層しか相手にしないのが本当のカジノなのではないでしょういか?


Jリーグ→カジノと来て、どうしてもこの流れで触れておきたいので原発の話をします。というのも、カジノと原発は日本人には致命的に理解できないという点が共通しているのです。こうやって考えると、カジノは「もんじゅ」のように、さんざん税金をつぎ込んだ挙句にほぼ何ももたらさないままに終わる可能性が極めて高いのではないかと思います。さらにカジノと原発という話の流れで言うと、3.11であそこまで大失敗したにもかかわらず、地震国である日本でどんどん原発を稼働させようとするのは、ギャンブル依存症とほとんど変わらないのではないかと僕は思います。
第二次安倍政権後の自民党のポスターに「日本を取り戻す」というスローガンが書かれていましたが(あれって今も現役なのでしょうか?)、あれこそまさに「負けを取り返したと納得するまで続けてしまう」というギャンブルから抜け出せない人のマインドをそのまま体現しているのではないかと思います。脱線ついでに言うと、あのポスターは「誰から取り返すのか?」「何を取り返すのか?」という肝心のところをうやむやにしたまま、被害者意識だけを煽って、リスクの高い原発を再稼働というギャンブルに参加することについて国民的合意を形成しようとしているように見えました。
あんまり日本の文句ばっかり言ってるのは僕も辛いので少し希望の持てる話をして終わろうと思いますが、僕は清貧のJリーグにこそ日本の進むべき道を示しているように思います。欧州のビッグクラブと比べたら慎ましやかなものかもしれませんが、地域に根ざした地道なクラブ組織=ローカリズムは世界のグローバル化の次に来るべきものを先取りしているようにも思えます。そして、Jリーグだって時にはクラブW杯における鹿島のように世界レベルに匹敵するパフォーマンスを見せることだってあります。これくらいで日本はちょうど良いんじゃないかな。

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