2017年7月9日日曜日

反知性主義と「うまいこと言う能力」

久しぶりに更新しようと思ったら、蝉が鳴き始めてすっかり夏らしくなってしまいました。これを書いている7月上旬の政局は、「都議会選で自民党が歴史的敗北」「この結果を受けて、内閣支持率も急落」「失言で足を引っ張った稲田や安倍などへの批判は高まるものの誰も責任を取る気配はない」という状況です。勝ったのが小池とはいうのはさておき、選挙の結果を「前よりはマシになった」と思って眺めていられるのは4年前にこのblogを書き始めてから初めてといっていいくらいだと思います。
個人的には「AKBと安倍政権と林修先生は本来なら耐用年数を超過していてとっくに飽きられていて然るべきなのに、代わりになるものが出てこないから消去法的に生き残っている」と思っているので。今回の都議会選から潮目が変わって、日本人が安倍政権に愛想を尽かせ始めたのだれば、それはとりあえず歓迎すべきだと思っています。もちろん「勝ったのが小池か…」というのはあるにはあるんですが、それでも現時点では安倍よりはまだマシだとは思います。

折しもこのように政局の潮目が変わり始めた気配がしてきた時期に、たまたま「反知性主義」について橋本治が非常に的確に説明している本を読んたので、まずはその本の話をさせていただきます。「反知性主義」というキーワードは、日本では橋下徹が台頭してきた辺りから聞くようになった言葉ですが、その後の安倍政権~トランプの大統領当選といった具合に、日本のみならず世界的な潮流となっています。
橋本治は自著の中で、反知性主義が世界的に台頭するに至る背景を「中流層の貧困化/下流化」として説明しています。「一億総中流」という言葉に象徴されるように、戦後の日本は大多数の庶民が中流層に属する(という幻想を共有した)国を作り上げました。しかしこの社会はバブルの崩壊や経済のグローバル化に伴ってだんだん維持するのが困難になりました。中流層というのは「自分達は下流層よりは何かしら優越している立場である」という根拠の不明瞭な思い込みによって自身の社会的立場を位置づけています。この中流層が貧困化し始めると「根拠の無い優越」が「崩された」と感じ、ほぼ無条件にまず「不機嫌になる」と橋本治は言っています。
これは日本に限らず全世界的に反知性主義が台頭してきたことに対するかなり的を射た説明なのではないかと思います。状況はアメリカでもイギリスでも似たようなもので、中流層が貧困化/下流化して「不機嫌になっていく」中で反知性主義が台頭していった結果、プアホワイトの支持を得たトランプが大統領になったり、移民によって追い詰められた下流層の支持によってイギリスはEUから離脱することになりました。

で、ここからようやく「自分がオリジナルに言わんとすること」の話になるのですが。日本において反知性主義が最初に関西から台頭したことには、それなりに必然性があったのではないか?と思うのです。まず、上述したように反知性主義は「中流が沈下して不機嫌になっていく」ことと繋がっているのですが。東京一極集中で徐々に下降の一途をたどっていく中で関西には不機嫌な空気が少しずつ蔓延していたのではないかと思います。そしてさらに、反知性主義と関西の相性が良いもう一つの理由に「お笑い文化」があるのではないかと思います。
僕は高校卒業まで関西で育ったので、なんとなくの皮膚感覚として思うのですが。関西では「面白いことを言う」「うまいこと言う」という能力は日本の他の地域よりも高く揚称される傾向があります。たとえば女子にモテるための条件として「カッコいい」「運動ができる」などは全国共通ですが、関西ではルックスが多少悪かったり運動が特にできなかったりしても、面白いことが言えればそれなりにモテたりするのです。
このような風土と反知性主義はそもそも相性がいいのではないでしょうか?実際のところ関西のお笑い芸人は排外主義や反知性主義に近い政治スタンスを持っている人が多いようです。僕が記憶している範囲だけでもこんな調子です。
小藪の教育勅語肯定発言
ブラマヨ(吉田)の長谷川豊擁護発言
笑い飯(哲夫)の慰安婦問題についての発言
ただし、これらはすべて吉本の芸人でして。関西の芸人の中でも唯一鶴瓶だけは安倍政権に対して批判的なコメントをしているのですが、鶴瓶は吉本ではなく松竹芸能所属です。鶴瓶が表立って安倍政権を批判できたのは、その辺りの事務所のカラーも関係があるのかもしれません。
もちろんお笑い芸人の中には鶴瓶以外にもネトウヨ的な政治信条に批判的な人もいるのかもしれませんが。上記のようにお笑い芸人が橋下徹のような発言を繰り返す背景には、彼らの思考様式そのものが「複雑な問題の一部分だけを取り上げて議論をすり替えたりしてうまいこと言う」ことだけに特化されているという、ある種の職業病のようなものが透けて見えるような気がするのです。そして、こういうお笑い芸人の作り出す「笑い」を文化の中心に据えている関西にはこのような反知性主義的な思考に同調しやすい土壌があったのではないでしょうか。

そもそも政治がなぜ必要かというと。いろいろな人の立場や利害があって社会が複雑だからこそ「そんなに悪くはない最適解に着地させて解決させる」ために政治はあるのではないでしょうか。言い換えると、世の中がはそんなに単純でないからこそ政治が必要なわけであり、そう考えると、政治家に必要な資質は本来「複雑で簡単に答えが出ない問題について議論して解決していく能力」であるべきだと思うのですが。反知性主義はこういう姿勢を放棄して「いかにクリアカットで歯切れのいいことを言うか」にだけ能力を最適化しているように思えるのです。
その昔「プロレスラーは政治を目指す」で申し上げたように、一昔前までの政治家には「青雲の志を持ちつつ悪いこともできる」という清濁併せ持つ能力を求められていて、その点では「真剣勝負と演技」という矛盾した要素を止揚することが職業上不可欠なプロレスラーはまさに政治家に向いている…と僕は思っていました。しかし、反知性主義が猛威を振るっている昨今の状況を見ていると、もはや政治にはこのようなセンスさえも必要とされなくなったのではないかと思えてくるのです。
というのも、最近の安倍総理や菅官房長官を見てると、もうこの国の政治家は「うまいこと言えればいい」というのも通り過ぎて、「うまいこと言おうとする気さえもなくなっている」ように見えるのです。つまり、「うまいこと言う努力さえも放棄して国民に対してナメた態度を取っていられる上限を競うチキンレースに興じる」という、いわば「末期反知性主義」的な段階にさしかかっているのではないかと思うのです。まぁ、いくらなんでもさすがに今回の都議会選挙ではこのような姿勢に対して国民から「No」を突き付けられたのですが。「末期反知性主義」からこの先、日本はどう変わっていくのでしょうかね?

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