2017年12月17日日曜日

2017年のノーベル賞

もう気が付けば7年くらいtwitterをやっています。twitterをやっている人はほとんど同意すると思うのですが、twitterは嗜好ないし志向が近い人同志だけを遠心分離して閉じたコミュニケーションを生成する傾向が強いツールだと思うのです。例えば、ここ数年の僕のTLを見てると選挙の前には「さすがにそろそろ安倍政権は大敗してリベラル派が盛り返すだろう」と期待してしまうのですが、実際にテレビなどの日本のメディアを通して選挙の結果を見るとtwitterとのギャップにがっかりすることになります。
今回のノーベル賞に対する反応も日本のテレビメディアと僕のTLではものすごい温度差がありました。これを書いている現在は、2017年のノーベル賞の授賞式典が終わった後です。この記事が読まれるのが何年も後になる可能性も考慮して一応説明しておきますと、この年のノーベル平和賞にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)、ノーベル文学賞にカズオ・イシグロが選ばれました。この両者のノーベル賞受賞に対して、僕のtwitterのTLは立憲民主党ができたとき以来久しぶりの「明るいニュース」に沸き立っているように見えました。一方でテレビを中心とする日本メディアの反応はかつて見たことのないくらい「薄っぺらく乗っかってる」ように見えました。
例えば、日本国籍を放棄してアメリカに渡った中村修二(青色ダイオードの発明者)のような人でさえ、ノーベル賞を受賞した際には日本のメディアは「日本人がノーベル賞受賞」と言って、今回よりもっとはしゃいでいたように思います。当の中村氏は日本の社会に対して散々批判した上で日本を見限ってアメリカに行ったのですが、それでもお構いなしに日本のメディアははしゃいでるように見えました。それに比べると今回の日本メディアの反応はどこかぎこちなさを禁じ得ませんでした。

まず、カズオ・イシグロについて。彼は見た目はかなり日本人に見えますし、名前は日本人らしい名前ですが、それ以外は国籍から生育環境、言語まで含めてほぼイギリス人と言ってよいでしょう。とりあえずカズオ・イシグロについては日本のメディアもある程度は乗っかってはいるみたいです。が、その多くはカズオ・イシグロの日本に対する好意的なコメントを切り貼りして垂れ流しているだけに見えます。
彼に対する日本人の微温的な態度は、例えて言うなら「外国のオリンピック代表に日系人がいた」というのと似たような話なんだと思います。見た目は日本人っぽいのでちょっと気になるけど、積極的に感情移入して応援するかというとそうでもない…例えばフィギュアスケートの長洲未来(両親は日本人だけどアメリカ代表)は丁度カズオ・イシグロと同じようなポジションにいると思います。
一方では、カズオ・イシグロと真逆のポジションにはオコエ・瑠偉、サニブラウン・ハキーム、ケンブリッジ・飛鳥、ベッキー、マーク・パンサー(もっと他にも例があるはずなんだけどな。。)などがいます。彼らの見た目や名前は普通の日本人とは異質ですが、生育環境や言語については普通の日本人と言ってよいでしょう。どっちかと言われたら、カズオ・イシグロよりはこちらのカテゴリに対しては日本人は距離感が近く感じるんだと思います。これはおそらく、彼らが「日本語が喋れて日本人と同じ文化背景を共有できているように思える」からなんだろうと思います。

そして。ICANですが。ICANについては日本のテレビはほぼスルーしているようです。ICANの授賞式でのサーロー・節子さんのスピーチは非常に素晴らしいものでしたが、NHKは授賞式のスピーチを放映しなかったそうです。日本生まれの人が世界に向けてあんな立派なスピーチをしたのだから、こういう時こそ乗っかって「日本スゴイ」ではしゃげばいいと思うのですけどね。残念ながらICANの受賞はカズオ・イシグロより扱いが悪いようです。
日本のテレビメディアがICANの件をほぼスルーしているのは、現政権が核兵器廃絶条約に対して後ろ向きであることが直接の原因ではあるのでしょう。しかし、それを差し引いても、おそらく日本人にとってICANの受賞に万歳三唱ではしゃぐようなことはできなかっただろうと思います。これを一番適切に説明していると思うのは、内田先生の靖国論なのではないかと思うので、今回はこれを下敷きに僕なりの見解を述べることにします。
日本は第二次世界大戦での大敗の後の東京裁判によって、
・被害者としての立場をアメリカに対して主張する権利を放棄して半永久的にアメリカの従属国となる
・侵略国としてアジアの隣国(とりわけ中国と韓国)に対して半永久的に「謝罪」の姿勢を示し続ける
という二つの責務を負わされました。しかし、この二つの責務は重すぎるので、「アメリカに対して被害者としての権利を放棄するから、その代わり、アジア諸国への加害者としての責任は免除してほしい」と、多くの日本人は内心思っていました。ネトウヨが判で押したように対米従属には異論を唱えない(あれだけトランプが酷くても)一方で、慰安婦問題については歴史を捏造したり慰安婦に罵詈雑言を浴びせることに必死になるのは、まさにこの「被害者としての権利を放棄して従属する代わりに加害者としての責任を免除されたい」という本音をそのまま体現しているからでしょう。しかしながら、そう都合よくアジア諸国が簡単に加害責任の追及をやめてくれるなんてことは当然ありませんので、ご存知の通り少女像問題への対応について昨今国際的な非難を浴びているわけです。
こんな状況下で行われたサーロー節子さんのスピーチは、アメリカという父に従属する際に放棄した「被害者としての我々日本人」の立場を世界に向けて発信しました。すべての日本人にとって、アメリカという父によって抑圧されてきた「被害者の立場」を今更引っ張りだされること自体がどうしても重荷なんだと思います。スピーチに対して好意的な印象を持った僕でさえも、「被害者としての立場」を持ち出された事自体には何かしらの重苦しさを禁じえませんでした。そして、これを持ち出される事はネトウヨにとってはより切実な問題なんだろうと思います。なぜなら、「被害者としての権利を放棄する代わりに加害責任を免除されたい」という自身の主張の正当性(と彼らが思っているであろうもの)を担保するものが揺らいでしまうので、困るわけです。実際にtwitterを「ICAN 反日」で検索すると、ネトウヨがICANに対して「ICANは反日」キャンペーンをせっせとやっているのが分かります。

今回のノーベル賞は、二件まとめて考えると現在の日本の在り方について国際社会から問いを投げかけられた形になったのではないかと思います。カズオ・イシグロの受賞は「もし彼が普通に日本の社会システムの中で育っていたとして、ノーベル賞を受賞するほどの世界的な作家になれたか?」という問いを投げかけているように思います。そしてICANの受賞は、「日本人は終わったことにして忘れようとしているけど、まだ戦後は続いている」という事実を日本人に突き付けたのではないでしょうか。

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