2025年4月12日土曜日

トランプはアメリカを北朝鮮にしたいのではないだろうか?

これを書いている現在、トランプ政権の関税政策によって世界経済が振り回されている状況です。結局のところ中国以外には関税政策の適用は90日間猶予するということになったのですが、先行きの不安から米ドルは売られて円高に向かっているようです。まぁ、そうなりますよね。トランプという人はアメリカ人の好きな「ヒーローになりたい」のではなく、「トリックスターでありたい」という人なんだろうと思います。

トランプはトリックスター(何をするのかわからない人という形で人々の耳目を集める存在)であり続けるために、この先も同じようなことを続けていくのでしょう。これってどこかで見た事があると思っていたのですが、北朝鮮のミサイル外交とやってることは同じだということに気付きました。北朝鮮のミサイル外交は「何をするかわからないと思われ続ける」ということを自転車操業的に継続することに意味があるのであって、まともな話し合いや外交が通じる相手だと思われてしまっては意味がないわけです。

視点を外交から内政に向けてみると、トランプはアメリカ国内においても自身の政策に批判的な人にかなり苛烈な扱いをしています。ある人は要職から外されたり、ある留学生は在留資格を剥奪されたり…。これも「トランプは北朝鮮のような独裁体制に憧れている」という風に考えれば納得できてしまうのではないでしょうか。北朝鮮を一段抽象度を上げて「儒教文化の王」と考えると、トランプは儒教文化の王になりたがっているとも言えるわけで、そういう意味ではトランプと中国の経済戦争は「自分(トランプ)がなりたい姿」である中国との戦いであるとも考えられると思います。

 だいたい書きたかったことはここまでなのですが、最近北朝鮮のミサイルのニュースってあまり聞かない気がするのはなぜでしょうかね?安倍政権の頃には北朝鮮から頻繁にミサイルが発射されていたのに、岸田政権以降はずいぶんおとなしくなった気がします。ミサイルが頻繁に発射されていたころには、「北朝鮮のミサイルは外敵の脅威を煽りたい安倍政権が北朝鮮にやらせている」 という陰謀論のような話もささやかれていましたが、ここ最近の状況を見ているとそうかもしれないという気さえしてしまいますね。

2025年2月14日金曜日

コミュニケーションというのはコミュニティに付随する物だと思うんだが

 これを書いているのは神戸から山口に向かう新幹線の中です。なんだか字面が”神戸山口組”みたいに見えてしまいますね。たまに大きな海外出張をすることはあっても、国内出張は年に数回数えるくらいしか無いのですが。たまには国内出張を盛大に入れたいと思って、神戸→山口を移動する出張を入れてみたのです。一方で、今日は会社では職場のコミュニケーション促進を図るためのイベントと称して、ちょっとしたお茶とお菓子が出るお茶会が開催されていたようです。

今の組織になってから結構な時間が経ったけど、まぁ、確かに職場でのコミュニケ―ションが円滑であるとはお世辞にも言い難いのは事実です。でも、その原因は別々の部署から専門性や分野が異なる人達を集めてきて一つの部署を作った所にあるのではないかと思います。つまり、組織の建付け(ハード)にそもそもの問題があるのに、それを小手先の手段(ソフト)で改善しようとすることが根本的に間違っているように僕には見えてしまうのです。なのですが、こういう取り組みに対して後ろ向きな発言をすると嫌がられるんですよね。。

「コミュニケーションの改善」という目標はよいのですが、お茶会を開いたくらいで解決できるんだったらチームビルディングなんてそもそも必要ないですよね?安易に「コミュニケーションの改善」と言う人達は、表面的にはコミュニケーションが重要だと思っているようでいて、実際はコミュニケ―ションをナメているように思えてならないのです。そもそも、彼らはコミュニケーションの改善によってコミュニティが強固になると考えているように伺える節があるのですが、たぶんそれは順番が逆なのではないのではないでしょうか?つまり、まず先にコミュニティがあって、コミュニケーションはコミュニティに付随して発生するのではないでしょうか?

職場のコミュニケーションという文脈で良く出てくる「タバコ部屋コミュニケーション」を例に挙げて考えてみましょう。タバコ部屋というのは、「タバコを吸う」という非常に具体的な目的を共有した人達のコミュニティなのです。別にコミュニケーションしたくてタバコ部屋に集まるのではなく、タバコを吸うためにそこに人が集まってコミュニティが形成された結果として、気が付いたらコミュニケーションが深まっていく…というようなものなのではないでしょうか?だから、「タバコ部屋コミュニケーション」をコミュニケーションの部分だけ取り出して再現しようとするのは本末転倒なんですよね。

一応大人なので代案を提案しておきます。会社の中で時には職制がコミュニティとして体を成さない状態になることはどうしても不可避的に発生してしまいます。そこは仕方ないので、所属組織意外の重層的な人のつながりを作るように努力したほうがまだ意味があるのではないかと思います。例えば、他部署で同じような専門性を持った人と仲良くするとか、趣味が近い人と仲良くするとか…重層的な関係が社内にあれば、もし職制が残念でもまだ会社の中に居場所はつくれるのではないでしょうか?

2025年1月26日日曜日

ようやく日本のテレビと芸能界が「終わりの始まり」に達したけど…

これを書いている現在、中居君の女性トラブルの問題からフジテレビの静止画記者会見へと飛び火して、中居君は芸能界を引退し、フジテレビはスポンサーがどんどん撤退している…という状況です。世間の非常識が常識としてまかり通ってきた芸能界も、とうとう「コンプライアンス」の審級に晒される時が来たのでしょう。そのこと自体はどちらかと言うと前向きに捉えるべきだと思うのですが、その一方で、そんなにこの国の有り様が大きく変わったようにも思えないのです。なぜなら、中居君やフジテレビはずっと「守られている側」にいて、そこから急に雪崩を打ったように「攻撃される側」に変わっただけで、その潮目を分けているのが日本の社会を覆っている「なんとなくの空気」であることは以前と何も変わらないよう見えるからです。

今回の件からは、数年前にジャニーズの性被害問題が取り沙汰されたときと同じような印象を受けました。ジャニーズの性被害問題については、我々一般市民でも大昔から噂としては聞いたことのあるくらいの「公然の秘密」でした。でも、「芸能界=世間の常識が通用しない世界」にはコンプライアンスの力学はずっと働かずに、「なんとなく黙殺されている」状態が長年に渡って続いてきたわけです。そこからジャーニー喜多川が亡くなり、海外のメディアに取り上げられたことから、急に潮目が変わったようにジャニーズ事務所は世間から攻撃され、あれほどの栄華を誇った帝国はあっという間に瓦解しました。

ちょっと前まで「守られている側」にいたのに、ある時から急に「攻撃される側」に転落するというのは日本の「いじめ」の構図によくある話だと思います。市民の成熟度が急に上がって個々人が声を上げた結果として中居君やフジが叩かれているのではなく、大半の日本人は「なんとなくの雰囲気」につられて「守られている側」から「攻撃される側」に転落した人達を叩いているだけなのではないでしょうか?そもそも中居君やフジテレビ以上に、自民党やその関係者など、もっと叩くべき対象はあると思うのですが。そこはウヤムヤになったままですよね。。

ここまで後ろ向きな事ばかり書いてしまいましたが、今回の件は見方によっては前向きに捉えられるところもあると思います。今回の件で希望が持てる要素があるとしたら、この国の「空気」を長年に渡ってリードしてきたテレビというメディアが瓦解しはじめて、攻撃される側に回ったということです。若い人はさておき、ジジババに対するテレビの影響力はものすごく高いです。今回の件でフジ以外のテレビ局はここぞとばかりにフジを叩いていますが、あれはフジのオウンゴールというよりは、テレビというメディア全体の「終わりの始まり」を告げているように思います。

僕だって後ろ向きな事や文句ばっかり言ってたくもないので。。せめてここから日本全体の潮目が変わって少しでも良い方向に向かってくれることを期待します。

SixTONESはなんと読むか?

2月に福岡出張の予定が入ったので宿を探してみたら、なんかものすごく高いのばっかり出てくるのです。最低でも一泊2万円くらいする。いくらインバウンド需要などでホテルが値上がりしているとはいえ、これはさすがにあり得ない。と思って調べてみたら、SixTONESのドームコンサートがあるんだそうです。昔から福岡はドームでアイドルのコンサートがあるたびにホテルが高騰する街でした。いつだったか、大学受験の日にアイドルのコンサートが重なって受験生が宿をとれなくなって問題になったこともありました。

この件について会社で何も考えずに「”シックストーンズ”のコンサートのせいで福岡の宿が取れなくてさー」と言ったら、若手に「いや、それ、”ストーンズ”って読むんですよ。。」と言われてしまいました。いやー、きた、とうとう。おっさん病。TRFの読み方がわからずに「トリュフ」って読むおっさんみたいなことを自分がやってしまう日がついにきました。輝かしい中年の階段をまた一歩踏みしめてしまいましたね。

でもね。やっぱり納得いかないのです。。だって、アルファベットは表音文字ですよね?表音文字である以上は、規則に則った読み方をすべきなのではないでしょうか?例えば外国人が「SixTONES」を声に出して読んだら、確実に”シックストーンズ”になると思います。表音文字を使いながらも、「"ix"は小文字で書いてあるから発音しない」という勝手なルールを一方的に受け手に押し付けるのは、かなり無理があるのではないでしょうか?

少なくともSixTONESは海外のマーケットまでは視野に入れてないのだろうと思います。海外マーケットを視野に入れているなら、こんな読みにくい名前の付け方は絶対しないだろうと思います。SixTONESの名前からは、日本という閉じたマーケットから出られない日本アイドルの現在地が見て取れるのではないでしょうか。でも、そんなことばっかりやってると海外のマーケットまで意識している韓国アイドルとの差は更に開いていく一方なのではないかと思うのですが。。

2024年12月31日火曜日

岸和田市長と長渕剛

 気が付いたら今年も年の瀬になりました。10月に仕事のピークが来て、それが落ち着いたと思ったら11月上旬は海外出張していて、そんなこんなであっという間に年末を迎えてしまいました。今年はこれまでのサラリーマン人生の中でも例を見ないくらい忙しい一年でした。もう体力的に下降線をたどっているのに、ここから忙しくなるなんてすごく間違ってる気がするのですけどね。

この期間にも色々このblogに書こうと思ってたことはあるのですが、一番最近の岸和田市長の件だけ年内に触れておこうと思います。この岸和田市長は単に不倫していたというだけではなくて、不倫相手との関係にどうやら問題があったらしく、その当時の関係をめぐって謝罪や和解金の支払いがあった…ということなのだそうです。それをめぐって議会での不信任決議などの諸々の騒動に展開しています。

僕は別に公職に就く人間がプライベートで不倫してようが別に構わないと思っています。公的な職責を全うできる能力さえされば、プライベートで私人として何をやっていたとしても仕事とは別ですから。なのですが、不倫相手の女性とのトラブルが発生してしまうと、これは公人としての資質を問われても仕方ないのかなと思います。議会の反応を見ていると、こういうトラブルをきっかけにこれまで溜まった不満が噴出しただけであって、そもそも本人の資質に何かしら問題があったのかもしれないですね。

この件に関連して、市長はとうとう妻を伴って記者会見を行うという行動に出ました。この人が問われているのは「市長=公人」としての責任能力だと思うのですが。この人は妻を伴って記者会見することで「私人=家庭内での問題」に話をすり替えにかかっているように見えるのです。公人としての責任の所在を問われた末に、本来私人であるはずの妻を記者会見の場に引っ張り出してきたのは、単に「妻を的外れな方向に政治利用しているだけ」と思われても仕方がないのではないでしょうか?

書きたかったことは以上なのですが、50年近く生きていると大抵の事は「昔見たアレだ」という納得の仕方をついついしてしまうのです。大昔にワイドショー花盛りし頃に見た長渕剛の不倫に関するコメントです。国生さゆりとの不倫についてマスコミに問い詰められた長渕と妻の志穂美悦子はこんなコメントをしていました。

 口火を切った長渕は、2人だけで会ったことを認めた上で、

「オレたちのようにモノを作る人間にはね、あなた方の言う常識だとかモラルなんてのは、通用しねえんだよ。オレたちの夫婦関係はうまくいってるんだし、なんら支障ないんだから」

 すると、隣にいた志穂美もにこやかに、

「私はやっぱり(彼の)情熱が好きで結婚したんですから、なんていうのか、自由奔放にさせてあげることで、いい仕事が出来ると思っているし、ですから、全然平気!」と答え、続けて、「私も、けっこうゾクゾクしたりするから、いいんじゃないの」とフォローしたのだった。

僕はこういう長渕剛の長渕剛っぷりを決してカッコいいとは思えない方ですが、今回の岸和田市長の件に比べたらまだ長渕の方がマシな気がしました。

2024年9月22日日曜日

バチェラー/バチェロレッテは「R-既婚者」指定にしてはどうだろうか?

9月も終盤に差し掛かかり、秋刀魚はセールだと一尾130円くらいまで下がってきました。その一方で、まだ猛暑日が出るような天気が続いております。衰えを知らない猛暑と並んで、子供のバチェラー/バチェロレッテ熱が一向に収まる気配を見せません。夏休み前くらいからバチェラー/バチェロレッテにドハマりして毎日のようにバチェラー/バチェロレッテを見続けて、一通り見た後も何度も繰り返し見るというドハマりぶりを見せております。

 おかげで我が家のリビングは子供がいる間ほぼずっとバチェラー/バチェロレッテに占拠されているのですが。正直言うとこれまで子供がハマって見てたものの中でトップクラスで僕は好きになれないのです。エアコン代がかからないように、常時エアコンがかかっているリビングでなるだけ過ごそうとは思うのですが、バチェラー/バチェロレッテがずっと流れているのを見てるとなんかイライラしてくるので、結局耐えかねて他の部屋に移動する…という事を夏の間に何回も繰り返していました。

バチェラー/バチェロレッテは「恋愛リアリティーショー」と公言していることからも分かるように、半ばやらせであることが暗黙の前提にあります。構造としてはプロレスと近い所があって、作り手側も見てる側もやらせであることが共通の認識として成立しているのだと思います。だって、出演者全員があからさまに「向き合う」「真実の愛」「運命の人」などの特定のワーディングを多用して淀みなくインタビューに答えているあたりからして、どう考えても台本を作ってる人がいると思います。出演する側も世の中に顔を売るための踏み台としてこの番組に出演しているようで、芸能人デビューする人、YouTuberになる人…出演後はそれぞれのキャリアを歩んでいらっしゃるようです。

バチェラー/バチェロレッテを見てて何が腹立つかというと。結婚するチャンスはこれまであったのに、ハイスぺを拗らせたまま適齢期を過ぎようとしている人間が、今になって本気で結婚について考えてるように見えて、結婚についての御飯事レベルの空想を垂れ流しているのにイラっとくるのです。例えば、「ウエディングドレスを着てみる」というデートが設定されていた回でバチェラーの男が「結婚した後のことを想像してみようと思って…」と言ってたのですが。こちらから見ると「いや、結婚式はゴールじゃなくてスタート地点だから。結婚生活は結婚式の後に続くものなんだよ。」ってツッコミたくなっちゃうわけですよ。

バチェラー/バチェロレッテは最終的に一人を選んで終わるのですが、その後関係が続かなかったり、結婚しても数年で離婚するパターンが多いようです。あの番組に出てくるバチェラー/バチェロレッテは結婚によって自分が犠牲になるつもりが毛頭なくて、だからこそあの年齢までハイスぺを拗らせているわけですから…まぁ、当然と言えば当然な気もします。勝者としての地位を手に入れたけど、彼らは「相手と折り合ったり、自分がある程度犠牲になってでも人と家庭を築く」という能力は手に入れられなかったわけですね。

本当に結婚したいと思ってるならあんなテレビ番組に出て「真実の愛」とか「運命の人」とか言ってないで、結婚紹介所にでも行くべきだという事は当人達だって分かっていると思います。あの番組を娯楽として見て楽しむのは結構ですが、もしも日本の少子化をなんとかしたいんだったらバチェラー/バチェロレッテは「R-既婚者」に指定にして、未婚者には見せない方が良いと思います。…という結論にするつもりで書き始めたのですが、一周回って「ハイスぺを拗らせ続けるとああなっちゃうよ」という教育的な番組でもあるような気がしてきました。でもなぁ、なんか見てて腹立つんだよな。。

2024年9月7日土曜日

宮田笙子について今更だけどちょっといいかな

9月になりました。発狂しそうなくらい暑かった8月に比べたら暑さも少し和らいできて、過ごし辛い時期のピークが終わっていく過程に入ってきました。スーパーでは秋刀魚が売られ始めましたが、どこでも一尾198円だとまだちょっと買う気になれないかな―?というところです。だいたい、今の秋刀魚は昔の秋刀魚に比べたら可食部が半分くらいになってるんじゃないか?というくらいに小さくてすごく頼りないのです。。

さておき、オリンピックが終わってほとぼりが冷めてきたところで宮田笙子が競技に復帰したというニュースが流れてきました。この件についてはオリンピック前の時期に「ご意見番」を自認する、うすっぺらいメディア論客がアレコレ言ってましたが、オリンピックが始まった途端にウヤムヤになってしまいました。そして、そんな彼らは宮田笙子の協議復帰について何とコメントをするのでしょうかね?

宮田笙子問題の背景には、「大人と子供の境界線」という日本文化に特有の問題があるように思います。つまり、「子供を保護するために作られた法律への違反に対して、大人として責任を取ること要求していた」という事がこの件の本質的な問題なのではないでしょうか?未成年者に酒や煙草を禁じる法律は、本来は「未成年者を保護するために存在する」ものなのに、「ルールはルールだから」と言って宮田笙子に対する処分を正当化するのは「大人として責任を取ることを要求している」ように見えて、なんだそこがかモヤモヤするのです。

「ルールを破ったんだから処分は当然」と言う人達の多くは、だいたい僕の苦手な「クリアカットな結論を言う事が自分の知性の証明だと信じている人達」のように思えたのですが。彼らには、聖書にある「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」という言葉について考えていただきたい。つまり、「そういうアンタは20歳までに一切酒も煙草もやらずに法を守ったんですね?」と問いたいです。他人を糾弾するならば、まず自分がそのルールを守っていることが大前提であって、自分が守りもしなかったルールを守れなかった人間を非難する権利はないと思います。

そもそもの問題として、日本という国では高校生までは管理され過ぎた状態で過ごして、高校卒業後から途端に酒や煙草なども含めて事実上野放しになるようにできています。このギャップが激しすぎるのがそもそもの問題であったところに加えて、海外のサル真似によって実現した「18歳選挙権」という制度を導入したことが更に混迷を深めていると思います。18歳で選挙権を与えるなら、その前の高校生の段階から政治について考えて行動することを教育として促すべきなのに、日本の社会システムは未だに「高校生までは子供として扱う」システムのままなですよね?宮田笙子の件は、この面倒な問題を改めて可視化したと思いますが。

宮田笙子には20歳を超えたら「酒も煙草もガンガンにやるけど他を寄せ付けない圧倒的な実力で他をねじ伏せる」というカッコいい大人になって欲しいと願っています。だから煙草とか酒とか、今更やめなくていいよ。ロサンゼルスオリンピックでは、金メダルを首から下げた宮田笙子が煙草吸いながらビールを飲み干して「いえーい!」ってやってる絵を僕は本気で見たいです。だってそっちの方が断然カッコいいじゃん。