2025年11月24日月曜日

この先の日本は琉球王朝から学ぶべきではないだろうか?

これを書いている現在、台湾に関する 高市早苗の問題発言から10日近く経過しようとしています。日本政府は官僚を派遣したり色々と手は打っているものの高市早苗が発言について謝罪や撤回をする様子はなく、中国は海産物の輸入禁止などのカードを段階的に切って日本へのプレッシャーを着実に高めている…という状況です。率直に言うと高市早苗のオウンゴールによって日本のみならず台湾までいい迷惑を被った結果となりました。

高市は支持基盤がネトウヨ層である手前、中国に対して謝罪などのアクションは取りたくないのでしょうが。中国相手に「時間が経てばウヤムヤになる」ということはまず期待できないと思います。おそらく中国は高市の辞任か謝罪のどちらかを選ばない限りは段階的にカードを切り続けてくることになると思います。高市を支持する日本のネトウヨ層も、「ファンタジーの満足」だけではなく「メリット/デメリット」とのトレードオフについていよいよ考えざるを得なくなるだろうと思います。

このblogで何度が紹介している岸田修の「内的自己・外的自己」モデルで考えると、高市政権の支持基盤は「内的自己」によって駆動されていると言えるわけですが。いよいよ「内的自己」と「外的自己」の折り合いをつけざるを得ない局面にとうとう追い込まれたはじめたのではないでしょうか?というのも、高市のオウンゴールは最終的に「アメリカという父」に加えて、新たに「中国という父」に対して日本が隷属する形でしか決着することができないからです。

この先日本は二つの父に隷属する国になっていくだろうと思います。このような状況をうまくやりくりするには、内的自己ではなく外的自己(=外的環境に適応していく)が優位にならざるを得ないと思います。かつての琉球王朝は中国と日本との二重朝貢を巧みに行うことで弱小ながらもある程度の独立を保つことができていました。アメリカと中国という二つの父に挟まれることになってしまった日本のこの先のロールモデルとして、「外的自己」優位のしたたかな国家運営を行っていた琉球王朝から学ぶことは多いのではないかと思います。

2025年10月1日水曜日

猿の惑星と排外主義

これを書いている現在、2025年9月の最終日です。明日から10月が始まります。マー君が200勝をなんとか達成し、中川翔子が双子の男の子を出産し、大谷翔平はホームラン王にあと一本で届かず、そして明日から3000品目以上のアレやコレが値上げされるそうです。そんな中、自民党という一政党の内輪の選挙がまるで国政選挙のような勢いで連日報道されています。

これまでの歴史を振り返ると、自民党という政党は様々な人がいて、派閥などの複雑な力学が働いている中でも「利権」という共通の利害によって同じ屋根の下に収まっている時代が長く続いていました。これにはいい所も悪い所もあったとは思いますが、第二次安倍政権以降にこのような派閥の力学が無効化されたことが招いた災厄を考えれば、内部で程々にケンカしているくらいが自民党という組織のパフォーマンスが「一番マシな状態」だと考える事もできるかもしれません。

そんな総裁選の顔ぶれの中でも、ネトウヨ層から一番人気の高市早苗の「外国人が奈良の鹿を蹴り上げる」発言についてなのですが。。これが事実に基づいた発言であるかどうかはさておき、そうやって物事の一側面だけを取り上げることや、人間ではなく「奈良公園の鹿」という煽情的な話に持っていくところなども含めて、この人は政党や国のリーダーになるにはかなり問題があるのではないかと疑念を持たざるを得ないと思います。

昨今の日本の排外主義においては、これまでの中韓に加えて新たにクルド人が攻撃対象として注目されるようになりました。彼らに何も問題が無いとは思わないですが、彼らが日本に来るに至る背景、彼らがいないと解体などの現場が回らない日本、などのさまざまな理由が背景にはあるわけです。外国人排斥を訴える人の多くはこういう大局的な事情はさておき「奈良公園の鹿」のように煽情的な事案を引き合いに出してクルド人などの特定の外国人を排斥しにかかっているように思います。勝手な決めつけかもしれませんが、こういうのに乗せられる人達が「在日アメリカ軍」の特殊な「在日特権」を糾弾しているのを見た記憶が無いです。

「猿の惑星」という映画は、かつて栄華を誇った人類文明が没落して、人間が猿に支配される世界を描いたSFの名作です。「猿の惑星」に登場する猿の中には、人間を隣人として扱おうとする猿もいれば、人間を徹底的に見下して家畜同然に扱う猿も登場します。これはこの映画がつくられた当時のアメリカの人種差別を遠回しに表現していると思うのですが、現代における外国人排斥/受容という二極分化の問題は半世紀前から存在する問題とさほど変わらないことを物語っているようにも思います。

「猿の惑星」が我々に与えるもう一つの示唆は、「かつて栄華を誇った人類が猿に家畜として支配される」という「盛者必衰の理」だと思います。今の日本における排外主義の台頭を「猿の惑星」と重ねてみてみると、我々日本人は「猿の惑星」に登場する猿の側(支配する側)にいるようでいて、実は人間の側(没落して支配される側)に着実に歩みを進めているような気がしてならないのです。

2025年8月17日日曜日

高校野球と敗戦について:2025

 忙しい中ようやく夏休みになって一息…と思いきや、「夏休みになったらやろう」ということになっていた家庭内のアレやコレを片付けているうちに夏休みが終わろうとしています。ちなみに夏休みが終わると今度は会社で「夏休み明けにやろう」ということにしていたことが待っています。さて。そんな夏休みですが、よりによってこんな時に高校野球なんて放送してくれちゃうので、ぽんやり見えるだけであっという間に時間が過ぎていくのです。

今年は野球そのものよりも広陵の不祥事の騒動の方が大きく取り沙汰されてしまいました。「高校野球は第二次世界大戦の戦没者を慰霊するために上演される能である」という事はこのblogでも何度も取り上げてきたことなのですが、「上下関係の濫用による理不尽な暴力」というのも、まさに旧日本軍の再現だと言えるのではないでしょうか。一部報道によると、寮で禁止されているカップラーメンを食べたことで上級生から暴力を受けた挙句に被害者の生徒は転校することになった…ということなんだそうですが。ストレスフルな閉鎖社会においては、ほんの些細な事が引き金になって暴力がエスカレートする…というのは連合赤軍のリンチ殺人事件などの前例を引くまでもなくよくある話ですね。

広陵の件で問題だと思うのは、ネット越しに安全な場所から広陵を叩くキャンペーンに熱中する人達が大量発生した事です。ベッキーのゲス不倫のあたりからだと思うのですが、安全に叩いてもOKな案件に群がってリンチに加わりたがる人達が今回も多大量に発生しました。彼らは広陵で暴力事件を起こした上級生と同じことをしているだけなのではないのでしょうか?つまり、「上級生という優越的な立場=自分は攻撃されない安全な立場」から「自分は正義だと信じて」暴力をふるっている点で、広陵を攻撃する有象無象のネット弁士達は自分の批判対称に漸近していっているように見えるのです。

今年から暑さ対策として午後を避けてナイターにしたり、クーリングタイムを設けたりと色々と試行錯誤していて、来年からはDH制の導入、さらには7回制にする…などの議論もされているようです。でも、そこまでしなくても「負けたら終わりの大会」を「夏に開催する」というのをやめればいいと思うのですけどね。例えばダルビッシュが提言しているように、地域でのリーグ戦の形にした方が良いのではないかと思います。が、そういう本質的な解決には取り組まずに夏の甲子園にこだわり続けるのは、高校野球が第二次世界大戦と繋がっているところに本質的な原因があるように思います。

2025年8月16日土曜日

ダンダダンを見ていると日本の行く末に少し期待が持てる気がする

 これを書いているのは、日本が終戦から80年という節目を迎えた翌日です。久しぶりに4か月くらいの長期にわたってこのblogを放置してまいりました。理由はまぁ、一言でいえば忙しかったからなのですが。忙しいという事は時間の余裕もさることながら、「余計なことをする」という事への精神的なゆとりも奪ってしまうのを最近すごく痛感しています。わずかなゆとり時間となると、どうしてもアマプラでアニメ見たりとか楽な方を優先してしまうので、どうしてもこのblogは後回しになってしまうのです。

 そんなこんなでアニメだけは忙しくても見ています。今回話題に挙げるダンダダンは2025年の夏アニメとして第2期を放送している最中なのですが、この作品は日本という国の有り様を切実に体現していつつも、その先の未来にちょっと期待を持たせてくれるように感じるのです。まず、この作品は「宇宙人」と「オカルト」という二つの要素が登場するのですが、これら二つはそれぞれ岸田秀が言うところの「外的自己」と「内的自己」にそれぞれ対応しています。 この物語は、宇宙人だけを信じる少年とオカルトだけを信じる少女が互いに信じていないものを受け入れることから始まるのですが、これはまさに外的自己と内的自己の分裂の解消を志向しているように見えます。

物語が進んでいく過程では、それまで敵だった霊的存在や宇宙人の一部が味方になっていく一方で、完全な悪として描かれている霊的存在や宇宙人はやはり依然として悪のままです。無節操にすべてが味方になっていくわけでもなくて、悪はやはり悪のままでありつつも、それでも味方はなんとなく増えていきながら話が展開してくわけです。この辺りの線引きにはジャンプが長らく培ってきた伝統を受け継いでいるように思います。簡単に言うと、フリーザは最後まで悪者でしかなかったけど、ベジータはなんだかんだで悟空の味方になりましたよね?この線引きはダンダダンでも同じです。

7月の参議院選挙では参政党という極右政党が躍進を遂げましたが、あれは一歩引いた目で見ると 「外的自己=トランプという外国人にちょっと憧れを感じている」と「内的自己=日本人ファースト、外国人排斥」の分裂がもたらした症状だと捉えることもできるのではないかと思います。つまり、参政党はこの矛盾を解決できない日本人のフラストレーションによって駆動されていて、それに呼応する人達の間で支持を得ているように見えるのです。

参政党に比べるとダンダダンは「可能な範囲での包摂」、今風に言うとdiversity & inclusionのような可能性を提言しているように見えて、そこには何か希望のようなものが持てるように思います。外国人排斥を主張する人達は、昔のジャンプ漫画において過去の敵が仲間になっていったプロセスを改めて噛みしめてみるとよいのではないかと思います。日本にいる外国人のうち特定のカテゴリ(人種、国籍)の人達だけがジャンプ基準でいうところの「仲間になれる余地が0の純粋な悪者」だとは僕は思わないのですけどね。

参政党の躍進と自民党の衰退の結果として、これまででは考えられなかったリベラル支持層からの「石破辞めるな」というキャンペーンが起きていることなんて、それこそ少年ジャンプ的な展開の最たるものだと思うのですが、これについて書いていると長くなるのでまた別の機会にします。 

2025年4月20日日曜日

トランプとペリー

これを書いている現在、日米での関税交渉が行われた直後です。交渉から帰ってきた赤沢というパッとしない自民党の政治家の「日本はアメリカの格下」という属国民マインド溢れる発言が物議を醸している状況です。現政権では小林よしのりが言うところの「親米ポチ」に100%振るしかない…のでしょうね。普段「愛国」とか言う人は、こんな時くらいはさすがに「国辱だ!」とか怒ってもよさそうなものなのですが、ネットを見ている限りでは日本の右翼のマジョリティはこの点についてほぼスルーのようです。

Twitter改めXを見てみると、ネトウヨ層は今回のトランプ関税に対してむしろ好意的で、その理由は「中国に対抗していること」にあるようです。日本のネトウヨ層は嫌中・嫌韓にはものすごく感度が高いので、中国に対して対抗姿勢を見せているだけでもトランプは賞賛に値するのでしょう。ネトウヨ層のコメントを見ていると、「日本はアメリカの格下=属国」についてあまり反応している様子はなく、その一方でアメリカが中国に対抗する姿勢を打ち出していることに対しては快哉の声を上げているように見えます。

ネトウヨ層の嫌中・嫌韓(最近ではクルド人なんかもここにはいるのでしょうが)などの排外主義に対する異様なまでの熱意は、「アメリカという父」という問題をマスキングするための症状であると僕はずっと思っていたのですが。今回のトランプ関税に対するネトウヨ層の反応は、精神分析的な文脈で言うところの「アメリカという父」という「無自覚の病の原因(=トラウマ)」によってもたらされた「症状」である「近隣アジア諸国の排斥」が繋がってしまったように思えるのです。このように原因と症状が同じ方向を向いたことによって、「アメリカという父」という日本人のトラウマの物語は新たな局面に差し掛かったのではないかと思えてならないです。

今回のトランプ関税については「ペリーの不平等条約の再現」という文脈でのコメントもネット上には多数みられます。右翼の中からも「このような不平等条約は国辱である」「日本国民の生活を守れ」といってトランプ関税に反対する人が出てきて、ここである一定の支持を集めることを期待したいです。右翼側だと「アメリカという父」からの自律について言及しているのは新右翼の一水会や小林よしのりなどの一部に限られていていますが、こういう人達とれいわ新選組や共産党が手を組んで、幕末の「薩長同盟」のような形で日本の政治体制を改革する…といった展開になってくれないですかね?

勿論、この両者が手を組むのはそんなに簡単に上手くはいかないでしょう。それでも、今の自民党政権が続くよりはまだそっちの方がマシだと期待したいです。「トランプ=ペリーの再来」という黒船が迫っている時だからこそ、明治維新のように日本が大転換を迎えるチャンスになることを願っています。

2025年4月12日土曜日

トランプはアメリカを北朝鮮にしたいのではないだろうか?

これを書いている現在、トランプ政権の関税政策によって世界経済が振り回されている状況です。結局のところ中国以外には関税政策の適用は90日間猶予するということになったのですが、先行きの不安から米ドルは売られて円高に向かっているようです。まぁ、そうなりますよね。トランプという人はアメリカ人の好きな「ヒーローになりたい」のではなく、「トリックスターでありたい」という人なんだろうと思います。

トランプはトリックスター(何をするのかわからない人という形で人々の耳目を集める存在)であり続けるために、この先も同じようなことを続けていくのでしょう。これってどこかで見た事があると思っていたのですが、北朝鮮のミサイル外交とやってることは同じだということに気付きました。北朝鮮のミサイル外交は「何をするかわからないと思われ続ける」ということを自転車操業的に継続することに意味があるのであって、まともな話し合いや外交が通じる相手だと思われてしまっては意味がないわけです。

視点を外交から内政に向けてみると、トランプはアメリカ国内においても自身の政策に批判的な人にかなり苛烈な扱いをしています。ある人は要職から外されたり、ある留学生は在留資格を剥奪されたり…。これも「トランプは北朝鮮のような独裁体制に憧れている」という風に考えれば納得できてしまうのではないでしょうか。北朝鮮を一段抽象度を上げて「儒教文化の王」と考えると、トランプは儒教文化の王になりたがっているとも言えるわけで、そういう意味ではトランプと中国の経済戦争は「自分(トランプ)がなりたい姿」である中国との戦いであるとも考えられると思います。

 だいたい書きたかったことはここまでなのですが、最近北朝鮮のミサイルのニュースってあまり聞かない気がするのはなぜでしょうかね?安倍政権の頃には北朝鮮から頻繁にミサイルが発射されていたのに、岸田政権以降はずいぶんおとなしくなった気がします。ミサイルが頻繁に発射されていたころには、「北朝鮮のミサイルは外敵の脅威を煽りたい安倍政権が北朝鮮にやらせている」 という陰謀論のような話もささやかれていましたが、ここ最近の状況を見ているとそうかもしれないという気さえしてしまいますね。

2025年2月14日金曜日

コミュニケーションというのはコミュニティに付随する物だと思うんだが

 これを書いているのは神戸から山口に向かう新幹線の中です。なんだか字面が”神戸山口組”みたいに見えてしまいますね。たまに大きな海外出張をすることはあっても、国内出張は年に数回数えるくらいしか無いのですが。たまには国内出張を盛大に入れたいと思って、神戸→山口を移動する出張を入れてみたのです。一方で、今日は会社では職場のコミュニケーション促進を図るためのイベントと称して、ちょっとしたお茶とお菓子が出るお茶会が開催されていたようです。

今の組織になってから結構な時間が経ったけど、まぁ、確かに職場でのコミュニケ―ションが円滑であるとはお世辞にも言い難いのは事実です。でも、その原因は別々の部署から専門性や分野が異なる人達を集めてきて一つの部署を作った所にあるのではないかと思います。つまり、組織の建付け(ハード)にそもそもの問題があるのに、それを小手先の手段(ソフト)で改善しようとすることが根本的に間違っているように僕には見えてしまうのです。なのですが、こういう取り組みに対して後ろ向きな発言をすると嫌がられるんですよね。。

「コミュニケーションの改善」という目標はよいのですが、お茶会を開いたくらいで解決できるんだったらチームビルディングなんてそもそも必要ないですよね?安易に「コミュニケーションの改善」と言う人達は、表面的にはコミュニケーションが重要だと思っているようでいて、実際はコミュニケ―ションをナメているように思えてならないのです。そもそも、彼らはコミュニケーションの改善によってコミュニティが強固になると考えているように伺える節があるのですが、たぶんそれは順番が逆なのではないのではないでしょうか?つまり、まず先にコミュニティがあって、コミュニケーションはコミュニティに付随して発生するのではないでしょうか?

職場のコミュニケーションという文脈で良く出てくる「タバコ部屋コミュニケーション」を例に挙げて考えてみましょう。タバコ部屋というのは、「タバコを吸う」という非常に具体的な目的を共有した人達のコミュニティなのです。別にコミュニケーションしたくてタバコ部屋に集まるのではなく、タバコを吸うためにそこに人が集まってコミュニティが形成された結果として、気が付いたらコミュニケーションが深まっていく…というようなものなのではないでしょうか?だから、「タバコ部屋コミュニケーション」をコミュニケーションの部分だけ取り出して再現しようとするのは本末転倒なんですよね。

一応大人なので代案を提案しておきます。会社の中で時には職制がコミュニティとして体を成さない状態になることはどうしても不可避的に発生してしまいます。そこは仕方ないので、所属組織意外の重層的な人のつながりを作るように努力したほうがまだ意味があるのではないかと思います。例えば、他部署で同じような専門性を持った人と仲良くするとか、趣味が近い人と仲良くするとか…重層的な関係が社内にあれば、もし職制が残念でもまだ会社の中に居場所はつくれるのではないでしょうか?