2015年1月3日土曜日

ヨルタモリは能に見える

30歳になったときに「そこから40になるまでびっくりするくらい早いよ」と職場のおじさんに言われたのですが。これ、本当にその通りで、気がついたら四捨五入して余裕で40歳になってしまうような年頃になりました。こうやっておじさんへの道を着々と歩んでいると、新しい何かを自分に取り入れるのがどんどん面倒になってくる反面、これじゃいかんという危機感も相まって、新しい何かに出会うとすごくうれしく思えるようにもなりました。
そんなこんなで、昨年新たに自分の興味の対象に「能」が加わったときにはなんだかすごくうれしかったのですよ。興味を持ったきっかけは例によって内田樹先生です。内田先生はフランス現代思想と合気道に加えて趣味として能をやっていて、能に関する講演や著作活動もしています。その影響で去年は何度が能楽堂まで実際に見に行ったのですが、そしたらこれが面白かったんですよ。あれはオーケストラなんかと一緒でテレビではなくライブの場で見るべきだと思います。

能の何がいいのかと聞かれると明快な答えはなかなか見つからないのですが、いろんな人に言われているように能は「祈りの芸能」なのです。あらゆる芸能は源流に遡ると大なり小なり宗教儀式という性格を持つのですが、中でも能は宗教儀式という側面をそのまま色濃く残している芸能なのです。だから、能を見に行くというのはお芝居を見に行くのと神社に参拝に行くのを混ぜたような不思議な感覚なのです。
そんなこんなで能や能に関する本ばっかり見てたら日本人のつくる物は妖怪ウオッチまで含めてなんでも能に見えてしまうようになりました。例えば、「千と千尋の神隠し」はあからさまに能の影響が見て取れます。川の神様(顔が能の神の面そのもの)を浄化する浴室の壁には老松が描かれていて能舞台を意識していますし、なにより話の構造自体が「ワキ(千尋)が異界へ引き込まれる→そこでシテ(川の神様、ハク、カオナシ)の苦しみを、ただ聞いて寄り添ってあげることによって浄化する」という、典型的な能の曲の構造になっています。

で、ようやく本題のヨルタモリなんですが。これも見事なまでに能の構造をしているように見えるのです。ざっくり番組について少し説明しますと、舞台は宮沢りえがママを務めている東京の架空のバーです。そこでゲストとタモリ扮する架空のキャラクターによるトークを基本として番組は進行するのですが。30分の番組の進行を時系列をおって記述するとだいたいこういう構成になっています。

  1. 宮沢りえとゲスト出演者とのトークで始まる
  2. しばらくするとタモリ扮する架空のキャラクターが登場する
  3. トークを繰り広げた後にタモリ扮する架空のキャラクターがトイレに行く
  4. トイレに行ってる間はタモリが別のキャラクターに扮する架空のテレビ番組が流れる
  5. 架空のテレビ番組が終わるとタモリ扮するキャラクターがトイレから戻ってくる
  6. しばらくトークして、タモリ扮するキャラクターがお金を払わずに帰っていく
能でいうと、宮沢りえ=ワキ、タモリ=シテです。
タモリが架空のキャラに扮して登場して、さらに途中で別のキャラクターになって架空のテレビに出てくるというフラクタル的な虚構の構造は能のシテが途中で正体(妖怪とか神とか)を現すのと同じように見えます。
そして。実は宮沢りえも暗黙のうちに「芸能人:宮沢りえ」と「架空のバーのママ」の間を行き来するのです(これは能のワキには普通見られないのですが)。宮沢りえが上記の1の場面では「芸能人:宮沢りえ」として昔話をしていることが多いのですが、タモリ扮する架空のキャラクターが出てくるといつの間にやら「架空のバーのママ」のキャラになります。その後また「芸能人:宮沢りえ」との間を暗黙のうちに行ったり来たりするのですね。
能の面白いところの一つは、同じ演者のキャラクターがいつの間にやら変わっていたり、時間がいつの間にやら何十年も後になってたり、場所が全然違う場所になってたりと、時空間が能舞台の上で変容していくところだと思うのですが。こういう観点からするとヨルタモリはとても能と共通する印象を受けるのです。


蛇足ですが「時空間の変容」という観点からすると、「ハウルの動く城」もとても能に近い印象を受けます。ソフィーが少女と老婆の間を行き来することや、城の中のいくつかの扉が全く違う世界に繋がっていることなんかが能っぽく見えるのですね。「千と千尋」と「ハウルの動く城」は製作時期も確か繋がっていると思うのですが、この二作は宮崎作品の中でも特に能に近い感性を感じるのです。

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