2015年1月1日木曜日

マニュアル本信者とスピリチュアル

だいぶ間が空きました。気がついたらもう年が明けてしまいました。そんなこんなでこのblogもほとんど文句ばっかり書いてる割には気がついたら一年半も続いてしまいました。昔から、一度始めたことを延々と続けることに妙に固執する性癖があるのです。小学生二年生のときには「冬でも半袖半ズボン」をやせ我慢の末に達成し、20代の頃はお正月に注連飾りを車につけてそのまま一年間走り続けたことがありました。というわけでこのblogも案外このまま続くかもしれませんし、突然ぱったりやめちゃうかもしれませんが、ともあれ今年もよろしくお願いします。
さて、例によっていきなり結論から入りますが、今回言いたいことは以前ネタにした「ビジネス書に対する態度がモテるためのマニュアル本信者と変わらない人達」ジェーン・スー女史が言うところの「スピリチュアルにハマる女子」はほとんど一緒なんじゃないかなと思ったという話です。
上記の両者のどっちらも根底にあるのは自身のポテンシャルと「特別な自分になりたい」という願望の間にギャップがあるということです。で、それを埋めるために女子の場合はスピリチュアルにハマり、男子の場合は何かしらのビジネス書などをマニュアル本として信仰する結果につながっているように見えるのです。いずれにせよ、願望と現実のギャップを埋めるための手段が「信仰」になってしまうということはこの両者に共通していると思います。

なんでこうなるかというと、小田嶋隆氏が小保方氏の事件に際して指摘していたいように、この国では「女子力」や「コミュ力」のような「虚力」によって実力が水増しできるというよく分からない信憑があるからなんじゃないかと思うのです。もちろん所詮は虚力なのでいざとなると役に立た無かったり、それだけに頼ってると小保方氏みたいになっちゃうんですけどね。
もうちょっと飛躍した話をすると、「全員が神に愛された特別な人間である」という前提でできているキリスト教文化から中途半端に表面的な教育制度をコピペしてしまったのが問題の出発点なんじゃないかと思うのです。結果として日本の教育って「虐げられる者として収奪される庶民として生きること」と「特別な自分になるための自分探し」という矛盾したテーマを同時に突きつけていて、これが「誰でも特別な自分になれる」という信仰に傾倒する人々を生んでるように思えるのですね。
こんなことにならないためにどうしたらいいかというと、だいぶ説教臭いんだけどやっぱり教養というのはすごく重要なんじゃないかと思います。教養って、それを知っているからといってお金が儲かるとかモテるとかそういう実用的な価値はまるで無いけど、それを知っていることで人生が豊かになるような物だと思います。そういう資質が育てば、虚力によって実力不足を補おうとするのがどれだけカッコ悪いか生理的な反応のレベルで理解できるようになると思います。最近読んだ天才数学者岡潔の本に書いてあった言い方を借りると教養というのは「物の良し悪しがわかる」ということなんだと思います。

しかしながら、自称「未婚のプロ」であるジェーン・スー女史の本を読んでると、まだスピリチュアルにハマる女子のほうがマニュアル本信者の男子よりもマシなんじゃないかと思うのです。だって、スピリチュアルにハマる人はそれが虚力であるということをある程度わかってますが、マニュアル本信者ってマニュアル本によって自分に新たな力が加わったと本気で思ってるみたいですから。
そして、女子のスピリチュアルは身体性を伴うのに対して、マニュアル本信者の男は身体的要素が欠落していてたいてい脳的な快楽の追求だけを志向しているように見えるのですね。またしてもだいぶ飛躍しますが、女子って「自分が子供を生むか」について子供の頃からずっと意識的なわけで、自分が身体性と不可分な関係にあることを生まれながらに理解しているように思えるのです。一方、自分の身の回りの経験からの話でしかないのですが、「特別な自分になりたい」と言ってマニュアル本信者になる男子は子供を持ちたがらない人が多いように思います。
彼等の好きな"純粋に脳的な快楽"の対極にある「自然そのもの = 当たり前の手順で当たり前のように育つ(セックスしたら妊娠して普通にお腹が大きくなって血まみれで生まれてきて、ちっとも言うこときかない) 」として生まれてくる子供が彼等は怖いんじゃないかと思うのです。子供が生まれる=「自分にとって世界で一番大事な存在を人類が累々として積み重ねてきた当たり前の手続きで得る」ということは、自分が人類全体の営為の一部として生きているという実感を得る機会になるんじゃないかと思うのですけどね。

でもこれって、マニュアル本信者が志向する「特別な自分」という自意識と相反する感覚だから彼等は子供を忌避するんじゃないかと思うのです。もしくは、マニュアル本信者は「特別な自分」の実現(どうせできないんだけどね)という物語に夢中で子供なんて邪魔にしかならないと思ってるのかもしれません。でも子供ができるのって「特別な自分」という執着から自由になれるせっかくのチャンスなんじゃないかと思うのですけどね。
別の言い方をすると、子供ができるという経験によってはじめて男性は人類が累々と積み重ねてきた時間方向の営為の連鎖に取り込まれていくのではないかと思うのです。例えて言うなら、(ベタな例え話としてSNS等にように)同時代的に横方向にしか繋がっていなかった人が、子供の誕生によって縦方向に何万年と続く人類の時間の流れに接続されるわけです。女性はこうやって命が連鎖していることを誰に教わるでもなく最初からなんとなく理解しているように思えるのですけどね。

うーん。気がついたら、なんか消耗品として20世紀末に消費されつくした村上龍の本みたいな話になっちゃったぞ。

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