2025年8月17日日曜日

高校野球と敗戦について:2025

 忙しい中ようやく夏休みになって一息…と思いきや、「夏休みになったらやろう」ということになっていた家庭内のアレやコレを片付けているうちに夏休みが終わろうとしています。ちなみに夏休みが終わると今度は会社で「夏休み明けにやろう」ということにしていたことが待っています。さて。そんな夏休みですが、よりによってこんな時に高校野球なんて放送してくれちゃうので、ぽんやり見えるだけであっという間に時間が過ぎていくのです。

今年は野球そのものよりも広陵の不祥事の騒動の方が大きく取り沙汰されてしまいました。「高校野球は第二次世界大戦の戦没者を慰霊するために上演される能である」という事はこのblogでも何度も取り上げてきたことなのですが、「上下関係の濫用による理不尽な暴力」というのも、まさに旧日本軍の再現だと言えるのではないでしょうか。一部報道によると、寮で禁止されているカップラーメンを食べたことで上級生から暴力を受けた挙句に被害者の生徒は転校することになった…ということなんだそうですが。ストレスフルな閉鎖社会においては、ほんの些細な事が引き金になって暴力がエスカレートする…というのは連合赤軍のリンチ殺人事件などの前例を引くまでもなくよくある話ですね。

広陵の件で問題だと思うのは、ネット越しに安全な場所から広陵を叩くキャンペーンに熱中する人達が大量発生した事です。ベッキーのゲス不倫のあたりからだと思うのですが、安全に叩いてもOKな案件に群がってリンチに加わりたがる人達が今回も多大量に発生しました。彼らは広陵で暴力事件を起こした上級生と同じことをしているだけなのではないのでしょうか?つまり、「上級生という優越的な立場=自分は攻撃されない安全な立場」から「自分は正義だと信じて」暴力をふるっている点で、広陵を攻撃する有象無象のネット弁士達は自分の批判対称に漸近していっているように見えるのです。

今年から暑さ対策として午後を避けてナイターにしたり、クーリングタイムを設けたりと色々と試行錯誤していて、来年からはDH制の導入、さらには7回制にする…などの議論もされているようです。でも、そこまでしなくても「負けたら終わりの大会」を「夏に開催する」というのをやめればいいと思うのですけどね。例えばダルビッシュが提言しているように、地域でのリーグ戦の形にした方が良いのではないかと思います。が、そういう本質的な解決には取り組まずに夏の甲子園にこだわり続けるのは、高校野球が第二次世界大戦と繋がっているところに本質的な原因があるように思います。

2025年8月16日土曜日

ダンダダンを見ていると日本の行く末に少し期待が持てる気がする

 これを書いているのは、日本が終戦から80年という節目を迎えた翌日です。久しぶりに4か月くらいの長期にわたってこのblogを放置してまいりました。理由はまぁ、一言でいえば忙しかったからなのですが。忙しいという事は時間の余裕もさることながら、「余計なことをする」という事への精神的なゆとりも奪ってしまうのを最近すごく痛感しています。わずかなゆとり時間となると、どうしてもアマプラでアニメ見たりとか楽な方を優先してしまうので、どうしてもこのblogは後回しになってしまうのです。

 そんなこんなでアニメだけは忙しくても見ています。今回話題に挙げるダンダダンは2025年の夏アニメとして第2期を放送している最中なのですが、この作品は日本という国の有り様を切実に体現していつつも、その先の未来にちょっと期待を持たせてくれるように感じるのです。まず、この作品は「宇宙人」と「オカルト」という二つの要素が登場するのですが、これら二つはそれぞれ岸田秀が言うところの「外的自己」と「内的自己」にそれぞれ対応しています。 この物語は、宇宙人だけを信じる少年とオカルトだけを信じる少女が互いに信じていないものを受け入れることから始まるのですが、これはまさに外的自己と内的自己の分裂の解消を志向しているように見えます。

物語が進んでいく過程では、それまで敵だった霊的存在や宇宙人の一部が味方になっていく一方で、完全な悪として描かれている霊的存在や宇宙人はやはり依然として悪のままです。無節操にすべてが味方になっていくわけでもなくて、悪はやはり悪のままでありつつも、それでも味方はなんとなく増えていきながら話が展開してくわけです。この辺りの線引きにはジャンプが長らく培ってきた伝統を受け継いでいるように思います。簡単に言うと、フリーザは最後まで悪者でしかなかったけど、ベジータはなんだかんだで悟空の味方になりましたよね?この線引きはダンダダンでも同じです。

7月の参議院選挙では参政党という極右政党が躍進を遂げましたが、あれは一歩引いた目で見ると 「外的自己=トランプという外国人にちょっと憧れを感じている」と「内的自己=日本人ファースト、外国人排斥」の分裂がもたらした症状だと捉えることもできるのではないかと思います。つまり、参政党はこの矛盾を解決できない日本人のフラストレーションによって駆動されていて、それに呼応する人達の間で支持を得ているように見えるのです。

参政党に比べるとダンダダンは「可能な範囲での包摂」、今風に言うとdiversity & inclusionのような可能性を提言しているように見えて、そこには何か希望のようなものが持てるように思います。外国人排斥を主張する人達は、昔のジャンプ漫画において過去の敵が仲間になっていったプロセスを改めて噛みしめてみるとよいのではないかと思います。日本にいる外国人のうち特定のカテゴリ(人種、国籍)の人達だけがジャンプ基準でいうところの「仲間になれる余地が0の純粋な悪者」だとは僕は思わないのですけどね。

参政党の躍進と自民党の衰退の結果として、これまででは考えられなかったリベラル支持層からの「石破辞めるな」というキャンペーンが起きていることなんて、それこそ少年ジャンプ的な展開の最たるものだと思うのですが、これについて書いていると長くなるのでまた別の機会にします。