2024年9月22日日曜日

バチェラー/バチェロレッテは「R-既婚者」指定にしてはどうだろうか?

9月も終盤に差し掛かかり、秋刀魚はセールだと一尾130円くらいまで下がってきました。その一方で、まだ猛暑日が出るような天気が続いております。衰えを知らない猛暑と並んで、子供のバチェラー/バチェロレッテ熱が一向に収まる気配を見せません。夏休み前くらいからバチェラー/バチェロレッテにドハマりして毎日のようにバチェラー/バチェロレッテを見続けて、一通り見た後も何度も繰り返し見るというドハマりぶりを見せております。

 おかげで我が家のリビングは子供がいる間ほぼずっとバチェラー/バチェロレッテに占拠されているのですが。正直言うとこれまで子供がハマって見てたものの中でトップクラスで僕は好きになれないのです。エアコン代がかからないように、常時エアコンがかかっているリビングでなるだけ過ごそうとは思うのですが、バチェラー/バチェロレッテがずっと流れているのを見てるとなんかイライラしてくるので、結局耐えかねて他の部屋に移動する…という事を夏の間に何回も繰り返していました。

バチェラー/バチェロレッテは「恋愛リアリティーショー」と公言していることからも分かるように、半ばやらせであることが暗黙の前提にあります。構造としてはプロレスと近い所があって、作り手側も見てる側もやらせであることが共通の認識として成立しているのだと思います。だって、出演者全員があからさまに「向き合う」「真実の愛」「運命の人」などの特定のワーディングを多用して淀みなくインタビューに答えているあたりからして、どう考えても台本を作ってる人がいると思います。出演する側も世の中に顔を売るための踏み台としてこの番組に出演しているようで、芸能人デビューする人、YouTuberになる人…出演後はそれぞれのキャリアを歩んでいらっしゃるようです。

バチェラー/バチェロレッテを見てて何が腹立つかというと。結婚するチャンスはこれまであったのに、ハイスぺを拗らせたまま適齢期を過ぎようとしている人間が、今になって本気で結婚について考えてるように見えて、結婚についての御飯事レベルの空想を垂れ流しているのにイラっとくるのです。例えば、「ウエディングドレスを着てみる」というデートが設定されていた回でバチェラーの男が「結婚した後のことを想像してみようと思って…」と言ってたのですが。こちらから見ると「いや、結婚式はゴールじゃなくてスタート地点だから。結婚生活は結婚式の後に続くものなんだよ。」ってツッコミたくなっちゃうわけですよ。

バチェラー/バチェロレッテは最終的に一人を選んで終わるのですが、その後関係が続かなかったり、結婚しても数年で離婚するパターンが多いようです。あの番組に出てくるバチェラー/バチェロレッテは結婚によって自分が犠牲になるつもりが毛頭なくて、だからこそあの年齢までハイスぺを拗らせているわけですから…まぁ、当然と言えば当然な気もします。勝者としての地位を手に入れたけど、彼らは「相手と折り合ったり、自分がある程度犠牲になってでも人と家庭を築く」という能力は手に入れられなかったわけですね。

本当に結婚したいと思ってるならあんなテレビ番組に出て「真実の愛」とか「運命の人」とか言ってないで、結婚紹介所にでも行くべきだという事は当人達だって分かっていると思います。あの番組を娯楽として見て楽しむのは結構ですが、もしも日本の少子化をなんとかしたいんだったらバチェラー/バチェロレッテは「R-既婚者」に指定にして、未婚者には見せない方が良いと思います。…という結論にするつもりで書き始めたのですが、一周回って「ハイスぺを拗らせ続けるとああなっちゃうよ」という教育的な番組でもあるような気がしてきました。でもなぁ、なんか見てて腹立つんだよな。。

2024年9月7日土曜日

宮田笙子について今更だけどちょっといいかな

9月になりました。発狂しそうなくらい暑かった8月に比べたら暑さも少し和らいできて、過ごし辛い時期のピークが終わっていく過程に入ってきました。スーパーでは秋刀魚が売られ始めましたが、どこでも一尾198円だとまだちょっと買う気になれないかな―?というところです。だいたい、今の秋刀魚は昔の秋刀魚に比べたら可食部が半分くらいになってるんじゃないか?というくらいに小さくてすごく頼りないのです。。

さておき、オリンピックが終わってほとぼりが冷めてきたところで宮田笙子が競技に復帰したというニュースが流れてきました。この件についてはオリンピック前の時期に「ご意見番」を自認する、うすっぺらいメディア論客がアレコレ言ってましたが、オリンピックが始まった途端にウヤムヤになってしまいました。そして、そんな彼らは宮田笙子の協議復帰について何とコメントをするのでしょうかね?

宮田笙子問題の背景には、「大人と子供の境界線」という日本文化に特有の問題があるように思います。つまり、「子供を保護するために作られた法律への違反に対して、大人として責任を取ること要求していた」という事がこの件の本質的な問題なのではないでしょうか?未成年者に酒や煙草を禁じる法律は、本来は「未成年者を保護するために存在する」ものなのに、「ルールはルールだから」と言って宮田笙子に対する処分を正当化するのは「大人として責任を取ることを要求している」ように見えて、なんだそこがかモヤモヤするのです。

「ルールを破ったんだから処分は当然」と言う人達の多くは、だいたい僕の苦手な「クリアカットな結論を言う事が自分の知性の証明だと信じている人達」のように思えたのですが。彼らには、聖書にある「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」という言葉について考えていただきたい。つまり、「そういうアンタは20歳までに一切酒も煙草もやらずに法を守ったんですね?」と問いたいです。他人を糾弾するならば、まず自分がそのルールを守っていることが大前提であって、自分が守りもしなかったルールを守れなかった人間を非難する権利はないと思います。

そもそもの問題として、日本という国では高校生までは管理され過ぎた状態で過ごして、高校卒業後から途端に酒や煙草なども含めて事実上野放しになるようにできています。このギャップが激しすぎるのがそもそもの問題であったところに加えて、海外のサル真似によって実現した「18歳選挙権」という制度を導入したことが更に混迷を深めていると思います。18歳で選挙権を与えるなら、その前の高校生の段階から政治について考えて行動することを教育として促すべきなのに、日本の社会システムは未だに「高校生までは子供として扱う」システムのままなですよね?宮田笙子の件は、この面倒な問題を改めて可視化したと思いますが。

宮田笙子には20歳を超えたら「酒も煙草もガンガンにやるけど他を寄せ付けない圧倒的な実力で他をねじ伏せる」というカッコいい大人になって欲しいと願っています。だから煙草とか酒とか、今更やめなくていいよ。ロサンゼルスオリンピックでは、金メダルを首から下げた宮田笙子が煙草吸いながらビールを飲み干して「いえーい!」ってやってる絵を僕は本気で見たいです。だってそっちの方が断然カッコいいじゃん。