2015年12月6日日曜日

目に見えない物に対する感性と妖怪

水木しげる先生がお亡くなりになりました。おそらく説明の必要は無いと思いますが、ゲゲゲの鬼太郎や悪魔くんなどの数々の妖怪漫画を生み出した漫画界の巨匠です。水木しげるの訃報に対する日本人のリアクションは、岡本太郎が亡くなった時といかりや長介が亡くなった時の反応を混ぜたような不思議な空気に包まれていました。
水木しげる本人は超マイペースな方だったらしく、その人となりはたとえば岡本太郎みたいに「芸術家らしい風変わりな人」として日本人には受容されていました。一方で彼の一連の妖怪漫画は日本人にとって、「普段から大好きだとは誰も言わないけど、亡くなった途端にその存在の大きさにみんな初めて気付く=暗黙裡になんとなく普遍的に愛されていた」という点では、いかりや長介の存在に非常に近いと思ったのです。

水木しげるの幸せになるための七か条の最後には「目に見えない世界を信じる」とあります。妖怪という「目に見えない物」だけをほぼ一貫して描き続けてきたのは、彼が本気でそれを信じていたからなのでしょう。そんな彼の妖怪漫画がこれだけ日本人に「暗黙裡になんとなく普遍的に愛されていた」のは、「目に見えない物」に対する日本人のアミニズム的感性と妖怪が深く繋がっているからなんだと思います。
以前妖怪ウォッチの話を書いた際に言及しましたが、大人達が「おもてなし」やクールジャパンなど「ガイジン様(お客様)にウケそうな日本の伝統文化だけをつまみあげる」ことに血道を上げている中で、妖怪ウォッチに熱狂する子供達はそれを一足飛び越えて日本人独自の感性へと回帰しているように僕には思えるのです。なぜって、妖怪ウォッチはアンパンマンなどと同様に日本人のアニミズム的な感受性が無いと受容できないので、外国人にはたぶん理解できないからです。

内田先生も孔子の六芸の話の中で、「目に見えないもの」に対する感受性と開放性がなぜ必要なのかを説いています。武道家(合気道)でもある内田先生は「生き延びるための力の涵養」を目的としている武道の立場から、「現代人は現代社会に適応して生活するために見えないシグナルを受信するセンサーの感度を鈍化させている」と警鐘を鳴らしています。あんまり僕がくどくど書いてもしょうがないので上記のサイトから少しだけ引用します。
「六芸」の第一に挙げられているのが「礼」です。これは礼儀やマナーのことではありません。「鬼神に仕える」作法のことです。「この世ならざるもの」をただしく畏れ、ただしく祀(まつ)り、それがもたらす災いから身を守るための実践的な方法です。それをまず身につける。
現代人はもうこうした感覚を失いつつありますが、人類の歴史数万年のうち、「この世ならざるもの」との付き合いが薄れたのはほんのここ百年ほどのことです。それまで「鬼神に仕える」作法は人が生きる上で最優先で身につけるべきものでした。

「目に見えない物」が本当に存在するかしないかを追求するのは野暮というか、あまり生産的ではないと思います。「目に見えない物」はたとえば数学における虚数のように「あると仮定すると物事がうまくいく」という類のものであり、これは先人から受け継いだ人類の智慧だと思います。
何を信じていいのか分からない時代だからこそ内田先生の言うように「目に見えない物」に対する感度を磨く必要があると思います。妖怪ウオッチを見ている子供達は無意識のうちにそういうことに気付き始めているんだと考えれば、日本もまだまだ捨てたものではないとちょっと期待できるんじゃないでしょうか。
しかし、水木しげるの妖怪漫画がなかったらたぶん妖怪ウオッチも存在しなかったと思います。妖怪漫画というジャンルを開拓するとこから始まって、今日に至るまで「目に見えない物」を描き続けてきた巨匠の仕事は、もしかしたら妖怪ウォッチ世代が大人になった頃くらいに今より高く評価されるかもしれません。

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