僕のTwitterのTLが「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」一色になっています。この件についてまず最初に僕の見解を述べておくと、経緯はどうあれ、津田大介も中止にするなら「この国の『表現の不自由』を白日の下に晒したという点では大成功だった」くらい言えばよかったのに、と思っています。
Twitterは人を所属クラスタごとに遠心分離する装置なので、僕のTwitterは所謂リベラル寄りの方で埋め尽くされています。その多くの内容は、ネトウヨ論客が少女像を「不愉快にさせる」などと攻撃しているのに対してリベラル側が「表現の自由を守れ」と反論している構図で埋め尽くされています。僕は断然リベラル派寄りなのですが、リベラル側も単に「表現の自由」と言うだけではなくて、表現の自由が成立する社会を維持するためには何が必要か?ということについて言及すべきだと思うのです。
そこで表題の「自由というのは、ある程度他人に迷惑をかけて成立するもの」という話になるのですが。これはもうすでに僕がこのblogで何度も言及しているような話です。改めて例を挙げると、スペインで屋内の公共空間での喫煙を禁じる法律の是非について議論していたときに、あるスペイン人は「確かに屋内での煙草は迷惑だとは思う。だけど、彼らの煙草を吸う自由を奪うことはしたくない。」と言いました。「自由」が憲法に記された「理念=きれいごと」ではなく、実生活において本当に自由が保証される社会を実現するためには「お互いに迷惑をかけ合うことができる」レベルの市民的成熟が不可欠なのです。
一方で、我が国のネトウヨ論客は少女像を攻撃する理由を「国民を不愉快にさせる」と言っていますが、これをもう少し分解すると
・自分は世の中の多数派であるという根拠のない確信に満ちている
・日本国民の最上位の行動規範は憲法や法律よりも「迷惑をかけない教」だと思っている
・だから多数派の自分が不愉快で迷惑だと思うものは国民の敵と見做して攻撃してよい
・以上のような思想的な偏りについておそらく自覚がない
といったところでしょうか?政治的見解が異なる人も社会の成員として受け入れるような市民的成熟などという概念自体がおそらく彼らの頭に無いと思います。
最後に岸田秀を引用していくつか付け加えてみますが、まずネトウヨvsリベラルの戦いというのは日本人全体を一つの人格と見立てて精神分析を適用すると、日本人は内的自己vs外的自己に分裂しており、ネトウヨとリベラルの戦いはその代理戦争だと言えるでしょう。そして、この分裂の起源を岸田秀はアメリカという父の問題だと言っています。
また、岸田秀に言わせれば人類というのは「本能の壊れた猿」であり、その壊れた本能を代替するために、人類は「文化」を必要としているのだと説いています。以前、「ろくでなし子」という芸術家の作品が物議を醸したことがありましたが、芸術家というのは基本的に「わざわざいらんことをする人=ろくでなし」だと僕は思います。そもそも、木の上で暮らしてたらいいのに、わざわざ地上に降りて二足歩行を行うという「いらんことをした猿」の子孫が我々人類なのですから、芸術は人類に不可欠だと僕は思います。
2019年8月4日日曜日
チャーシューメンに挑戦するラストチャンスかもしれない
# 例によって、なるだけ構えずに思いついたことをサラサラと書いてみるシリーズです。
長かった梅雨もすっかり明けて、本格的に暑くなってきました。あと一週間で夏休みに入ろうというところです。これだけ暑くなったというのに、ここ数日僕の頭の中ではこの天気とは真逆のラーメンについてずっと考えているのです。というのも、「人生経験としてチャーシューメンを食べてみるならそろそろラストチャンスなんじゃないか?」ということについてずっと考えてしまうのです。
そもそもラーメンという食べ物自体、お世辞にも体にいいとは思えません。つまりラーメンのおいしさの何割かは背徳の味だと言ってもよいでしょう。僕はそんな部分も含めてラーメン大好き人間なんですが、ラーメン屋では基本的に普通のラーメンを注文します。ワンタンメンは好きなのでメニューにあればたまに頼むことはあります。でも、チャーシューメンは頼んだことが一度もありません。
ラーメン屋でわざわざチャーシューメンを注文するには相応のポテンシャルが要求されるような気がするのです。チャーシューメンはなんだが、「お母さんに怒られそう」というか、ラーメン屋のメニューの中でも突出して背徳感が高いのです。ラーメンの食べ歩きblogを見ると「基本的にチャーシューメンを注文します」とか書いてあったりするのですが、こういう人は背徳への耐性が強いのか、若しくは自分の欲望に正直なのか、どっちにしても僕にはない資質を持っているように見えます。
しかし、40歳を超えたあたりからだんだんと胃腸や食欲が衰えていくのを感じる今日この頃、時々考えるのです。死ぬ前に人生を振り返った時にチャーシューメンを食べた経験がある人生とない人生のどっちがいいか?そう言われたら、そりゃチャーシューメンを食べた経験があった人生のほうがいいような気はします。
一方で、来るべきチャーシューメンを食べる機会があったとしても、それをおいしく食べれる能力を自分の体は失いつつあるんじゃないか?という危惧があります。これは正直に言うと単なる危惧です。本当にそうなのかわかりません。なにせ僕はチャーシューメンを食べたこと無いですから。。しかし、もしこの危惧が正しい、つまり、自分の消化能力とチャーシューメンの乖離は今後どんどん開いていく一方に向かうのであるとするならば、「もうチャーシューメンを食べるなら今しかない」というシンプルな結論になるのです。
チャーシューメンの問題は「お金持ちになったらおいしいステーキを食べてみたい」とか「一生に一度テレビに出てくるような銀座の寿司屋で寿司を食べてみたい」などとは近いようでちょっと違います。ラーメン屋はどこにでもあるし、チャーシューメンはラーメンより数百円払いさえすれば食べられるはずなんです。でも、問題は僕にとってはチャーシューメンを注文するという行為にはその数百円以上に高いハードルが横たわっているのです。
この「40歳を超えての遅咲きのチャーシューメンデビュー」についてここ数日真剣に考えています。問題はどこで食べるか、なのです。ラーメン屋はどこにでもあると言いつつも、最初で最後になるかもしれないチャーシューメンともなると、せっかく食べるならチャーシューがおいしいところで食べたいな。。
長かった梅雨もすっかり明けて、本格的に暑くなってきました。あと一週間で夏休みに入ろうというところです。これだけ暑くなったというのに、ここ数日僕の頭の中ではこの天気とは真逆のラーメンについてずっと考えているのです。というのも、「人生経験としてチャーシューメンを食べてみるならそろそろラストチャンスなんじゃないか?」ということについてずっと考えてしまうのです。
そもそもラーメンという食べ物自体、お世辞にも体にいいとは思えません。つまりラーメンのおいしさの何割かは背徳の味だと言ってもよいでしょう。僕はそんな部分も含めてラーメン大好き人間なんですが、ラーメン屋では基本的に普通のラーメンを注文します。ワンタンメンは好きなのでメニューにあればたまに頼むことはあります。でも、チャーシューメンは頼んだことが一度もありません。
ラーメン屋でわざわざチャーシューメンを注文するには相応のポテンシャルが要求されるような気がするのです。チャーシューメンはなんだが、「お母さんに怒られそう」というか、ラーメン屋のメニューの中でも突出して背徳感が高いのです。ラーメンの食べ歩きblogを見ると「基本的にチャーシューメンを注文します」とか書いてあったりするのですが、こういう人は背徳への耐性が強いのか、若しくは自分の欲望に正直なのか、どっちにしても僕にはない資質を持っているように見えます。
しかし、40歳を超えたあたりからだんだんと胃腸や食欲が衰えていくのを感じる今日この頃、時々考えるのです。死ぬ前に人生を振り返った時にチャーシューメンを食べた経験がある人生とない人生のどっちがいいか?そう言われたら、そりゃチャーシューメンを食べた経験があった人生のほうがいいような気はします。
一方で、来るべきチャーシューメンを食べる機会があったとしても、それをおいしく食べれる能力を自分の体は失いつつあるんじゃないか?という危惧があります。これは正直に言うと単なる危惧です。本当にそうなのかわかりません。なにせ僕はチャーシューメンを食べたこと無いですから。。しかし、もしこの危惧が正しい、つまり、自分の消化能力とチャーシューメンの乖離は今後どんどん開いていく一方に向かうのであるとするならば、「もうチャーシューメンを食べるなら今しかない」というシンプルな結論になるのです。
チャーシューメンの問題は「お金持ちになったらおいしいステーキを食べてみたい」とか「一生に一度テレビに出てくるような銀座の寿司屋で寿司を食べてみたい」などとは近いようでちょっと違います。ラーメン屋はどこにでもあるし、チャーシューメンはラーメンより数百円払いさえすれば食べられるはずなんです。でも、問題は僕にとってはチャーシューメンを注文するという行為にはその数百円以上に高いハードルが横たわっているのです。
この「40歳を超えての遅咲きのチャーシューメンデビュー」についてここ数日真剣に考えています。問題はどこで食べるか、なのです。ラーメン屋はどこにでもあると言いつつも、最初で最後になるかもしれないチャーシューメンともなると、せっかく食べるならチャーシューがおいしいところで食べたいな。。
2019年7月20日土曜日
吉本興業と新自由主義
これを書いている現在、吉本芸人の闇営業事件について宮迫とロンブーの亮が記者会見を行いました。ちょっと予想してなかった展開になりましたが、所属芸人の反社会勢力とのつながりを云々する以前に、当の吉本そのものが反社会勢力のような組織であることが明らかになりました。
ここ数年でテレビがすっかりお笑い芸人だらけになったのは、制作費が昔より安くなってきたためにコストが安いお笑いが重用されるようになったからだそうです。つまり、彼らはテレビに出てはいるけど、我々庶民が思っているほどは給料もらえてないのかもしれません。実際に、闇営業の背景については岡村隆史が言及するように「そうしないと食べていけない芸人も多い」という事情もあるようです。
そもそも、今回の一連の闇営業問題についての吉本の対応があまりにスクエア過ぎて、ちょっとどうなんだろうと思うことが多かったです。「何も変えない」契約なし、ギャラも上げない、移籍の自由もなしという社長のコメントには現場の芸人からも反論が出てました。この会社のコンセプトは非常に単純明快で、自分たちに都合のいいことにだけコンプライアンスなどの倫理規範を持ち出しますが、自分たちの都合の悪いこと(契約書で給与を明示するなど)については一般社会の概念には一切つきあわない。ということのようです。
吉本の社長はこのような姿勢を「吉本は家族的な会社」という言葉で自己肯定しにかかっています。なるほど、「家族」だと言えば「ウチはウチ、ヨソはヨソ」という理屈が通る…と言いたいんでしょうね。でも、家族なんだったら食べていける程度に給料を払うような扶助はするべきなんじゃないでしょうか?これは家族というアナロジーの文脈でいうとDVそのものです。
このような「DV=劣悪な雇用環境下での激しい生存競争の中でも文句言わずに勝ち抜き続けることを要求される」ということは、お笑いだけでなくタクシーやアイドルなど、なり手がいくらでもいる業界ではどんどん常態化していっています。そしてこの風潮は高橋源一郎が以前指摘していたように政治も含めて日本全体を覆いつくしています。
吉本と自民党は、この新自由主義的な世界観を共有していると思います。例えば松本人志なども弱肉強食の競争には非常に肯定的なコメントをしていますよね?(ネットカフェに寝泊まりする人について、「だんだん部屋小さくしていったら?」とか言ってました)。松本人志は安倍晋三とごはんたべてましたし、先日吉本の芸人が安倍晋三と戯れてましたよね?
例えばアメリカは徹底した新自由主義の国ですが、貧富の差があってもお金持ちが貧者に対して寄付することで支えることである程度社会全体が破綻を免れるようにできています。芸人の世界も売れっ子が若手に飲み食いをさせたりすることで扶助するなど、日本における新自由主義の特殊事例として割とうまくいってそうな印象はありました。少なくとも、これまでは。
先日のジャニーズ事務所への指導とセットで考えると、テレビ地上波というメディアで栄華を極めた二大勢力(ジャニーズと吉本)が相次いでその綻びを見せ始めているように見えます。吉本の幹部は「キー局は吉本の株主」と言っていたそうですが、この幹部の発言はテレビ地上波がオワコンに向かっているという可能性を全く考慮できていません。そろそろこの一連のシステムが限界に達して、新しい時代を迎えているのではないでしょうか?
そしてちょうど明日は選挙です。このあたりから世の中が変わってくれないかなぁ。
ここ数年でテレビがすっかりお笑い芸人だらけになったのは、制作費が昔より安くなってきたためにコストが安いお笑いが重用されるようになったからだそうです。つまり、彼らはテレビに出てはいるけど、我々庶民が思っているほどは給料もらえてないのかもしれません。実際に、闇営業の背景については岡村隆史が言及するように「そうしないと食べていけない芸人も多い」という事情もあるようです。
そもそも、今回の一連の闇営業問題についての吉本の対応があまりにスクエア過ぎて、ちょっとどうなんだろうと思うことが多かったです。「何も変えない」契約なし、ギャラも上げない、移籍の自由もなしという社長のコメントには現場の芸人からも反論が出てました。この会社のコンセプトは非常に単純明快で、自分たちに都合のいいことにだけコンプライアンスなどの倫理規範を持ち出しますが、自分たちの都合の悪いこと(契約書で給与を明示するなど)については一般社会の概念には一切つきあわない。ということのようです。
吉本の社長はこのような姿勢を「吉本は家族的な会社」という言葉で自己肯定しにかかっています。なるほど、「家族」だと言えば「ウチはウチ、ヨソはヨソ」という理屈が通る…と言いたいんでしょうね。でも、家族なんだったら食べていける程度に給料を払うような扶助はするべきなんじゃないでしょうか?これは家族というアナロジーの文脈でいうとDVそのものです。
このような「DV=劣悪な雇用環境下での激しい生存競争の中でも文句言わずに勝ち抜き続けることを要求される」ということは、お笑いだけでなくタクシーやアイドルなど、なり手がいくらでもいる業界ではどんどん常態化していっています。そしてこの風潮は高橋源一郎が以前指摘していたように政治も含めて日本全体を覆いつくしています。
吉本と自民党は、この新自由主義的な世界観を共有していると思います。例えば松本人志なども弱肉強食の競争には非常に肯定的なコメントをしていますよね?(ネットカフェに寝泊まりする人について、「だんだん部屋小さくしていったら?」とか言ってました)。松本人志は安倍晋三とごはんたべてましたし、先日吉本の芸人が安倍晋三と戯れてましたよね?
例えばアメリカは徹底した新自由主義の国ですが、貧富の差があってもお金持ちが貧者に対して寄付することで支えることである程度社会全体が破綻を免れるようにできています。芸人の世界も売れっ子が若手に飲み食いをさせたりすることで扶助するなど、日本における新自由主義の特殊事例として割とうまくいってそうな印象はありました。少なくとも、これまでは。
先日のジャニーズ事務所への指導とセットで考えると、テレビ地上波というメディアで栄華を極めた二大勢力(ジャニーズと吉本)が相次いでその綻びを見せ始めているように見えます。吉本の幹部は「キー局は吉本の株主」と言っていたそうですが、この幹部の発言はテレビ地上波がオワコンに向かっているという可能性を全く考慮できていません。そろそろこの一連のシステムが限界に達して、新しい時代を迎えているのではないでしょうか?
そしてちょうど明日は選挙です。このあたりから世の中が変わってくれないかなぁ。
ビジネス英語ってどんな英語なんだろう?
奥様経由で、奥様のママ友から「ダンナが会社で英語をやれと言われているんだけど、どうやって勉強すればいいと思う?」と聞かれました。そのダンナ様ご本人にちゃんと確認したわけじゃないからどの程度本気で聞いているのかもわからないけど、本気で聞かれたとしてもあまり相手にとって有用なアドバイスができる気が全くしないのです。というのも、自分の場合こんないきさつで、周りの環境がキッカケになって紆余曲折の末今に至ってます。なので、「どうやって勉強したらいいと思う」と言われても「こうやればいいよ」という方法は具体的には思いつかないのです。
そもそも「英語=勉強するもの」という問題の前提自体が間違っている気もします。ある程度文法や語彙を勉強することは必要なんだけど、それだけを勉強し続けてもペーパーテストである程度の点は取れるようになっても、会話ができるようにはまずならないと思います。しかし、TOEICで点を取るのがとりあえずの目標なのであれば、それに向けた「勉強」はご当人にとっては意味があるのかもしれません。
と、ここまできて設問の前提の新たな問題にたどり着くのですが。「英語をやる」って何のためなんでしょうか?TOEICの点数を取りたいのか、外国人となんとなく雑談できるような汎用的なコミュニケーション力を求めているのか、自分の仕事の専門分野について外国人と会話できるようになることなのか…たいていの上司が言う「英語をやれ」という指示はこのあたりの目的が全く不明瞭です。ここがクリアになるともう少し具体的な提案ができそうな気がします。
目的によらず汎用的に有効だと思う方法を一つ提案すると、「シャドウイングはやる価値がある」と僕は思います。シャドウイングというのは、ネイティブの発話をひたすら真似して喋るというものです。地味な作業の反復になるのであまり面白みはないですが、ある程度ちゃんとやれば誰でも必ず効果は出ると思います。
なぜシャドウイングか?というと、語学に関しては「聞けたかったら話しなさい」だからです。口頭での言語コミュニケーションは、情報のやり取りという観点からいうと、情報を音にエンコード(符号化)して送ったものを受け手側でデコード(解読)していることになります。
言いたいこと → 発話運動 → 音 → 耳で聞く → 意味を理解する
もうこの段階でだいたいわかると思いますが、どのようにエンコード(発話運動)しているのかが分からないとデコード(リスニング)できるようになるわけないのです。以上がシャドウイングをおすすめする理由です。そもそも「英語=勉強するもの」という問題の前提自体が間違っている気もします。ある程度文法や語彙を勉強することは必要なんだけど、それだけを勉強し続けてもペーパーテストである程度の点は取れるようになっても、会話ができるようにはまずならないと思います。しかし、TOEICで点を取るのがとりあえずの目標なのであれば、それに向けた「勉強」はご当人にとっては意味があるのかもしれません。
と、ここまできて設問の前提の新たな問題にたどり着くのですが。「英語をやる」って何のためなんでしょうか?TOEICの点数を取りたいのか、外国人となんとなく雑談できるような汎用的なコミュニケーション力を求めているのか、自分の仕事の専門分野について外国人と会話できるようになることなのか…たいていの上司が言う「英語をやれ」という指示はこのあたりの目的が全く不明瞭です。ここがクリアになるともう少し具体的な提案ができそうな気がします。
目的によらず汎用的に有効だと思う方法を一つ提案すると、「シャドウイングはやる価値がある」と僕は思います。シャドウイングというのは、ネイティブの発話をひたすら真似して喋るというものです。地味な作業の反復になるのであまり面白みはないですが、ある程度ちゃんとやれば誰でも必ず効果は出ると思います。
なぜシャドウイングか?というと、語学に関しては「聞けたかったら話しなさい」だからです。口頭での言語コミュニケーションは、情報のやり取りという観点からいうと、情報を音にエンコード(符号化)して送ったものを受け手側でデコード(解読)していることになります。
言いたいこと → 発話運動 → 音 → 耳で聞く → 意味を理解する
最後にようやく「ビジネス英語」の話になるのですが。この機会にちょっと世の中の英会話教室や英語教材をネットで探してみました。すると、世の中には「ビジネス英語」なるものが存在するようです。ネット情報によると「とりあえずビジネスで使えればいいという想定で、敬語を使ったり使用頻度の高い定型フレーズの使い方を覚える」ということなんだそうですが。そんなカチコチした定型フレーズしか喋れないような人がビジネスの現場で通用するんでしょうかね?
この「ビジネス英語」を極めて、仕事でバリバリ英語を使っている人は実在するなら会ってみたいです。どうも僕には「ビジネス英語」というのは、「プロになれる人なんてほんの一握りしかいない音楽専門学校」のような物なんじゃないかと思えてくるのです。それとも、世の中の「ビジネスマン」は「ビジネス」って頭につけられると「自分にもできそう」と思うんでしょうかね?僕は「ビジネス」っていう言葉を見た瞬間に、おじさんが履いてるような紺色のナイロン靴下が頭の中でイメージされて「ああ、これは自分とは関係ない」と思ってしまうんですが。
京都アニメーション放火事件とオウム
7月も下旬だというのに、いつまでも梅雨が終わりません。天気はずっと悪いままな上に、会社でも色々とあって、常にイライラ、悶々とした日々を過ごしております。こういう時に気分転換をするのがヘタな方だという自覚はあるのですが、そんなときに京都アニメーションの放火事件が起きました。ニュースで伝えられている話からすると、犯人はほぼ僕と同年代です。
このニュースを見たとき、不思議と疚しさ、罪悪感のようなものを感じました。自分の鬱々とした感情が放火と繋がっているような気がしたのです。そしてその次に思い出したのは、村上春樹の「アンダーグラウンド」という本についてでした。あの本は大昔に人から借りたものの、長すぎて途中で読むのをやめてしまったのですが。村上春樹があんな長い本を執筆するに至った経緯には「オウム事件についての共犯意識」があったのは間違いないと思います。
「アンダーグラウンド」以後の村上春樹の著作には、「直接自分が手を下していない殺人に対する共犯意識」が度々描かれています。例えば、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では「シロ=ユズ」を殺したのは自分ではないのか?という罪悪感に登場人物は苦悩します。「海辺のカフカ」でも、縁もゆかりもないはずの遠く離れた老人と少年の繋がりを描く中で、「老人が人を殺すと、遠く離れた少年は自分の手が血まみれになって目覚める…」という描写があります。
件の放火のニュースを見て、なんかこれはいかんぞ。という気分になったので、鬱々として気分を少しでも昇華するために最近思っていることをblogにしたためようという気分になりました。この投稿も普段に比べたら分量少な目だし、もうちょっと広げたり練ったりすると面白くなる可能性もいくらかあるのですが、そんなことよりもどんどん書いて吐き出したい。というわけで、今からどんどん連投します。
そうでもしないと、自分が次の放火犯になってしまうような気がしてならないのです。
このニュースを見たとき、不思議と疚しさ、罪悪感のようなものを感じました。自分の鬱々とした感情が放火と繋がっているような気がしたのです。そしてその次に思い出したのは、村上春樹の「アンダーグラウンド」という本についてでした。あの本は大昔に人から借りたものの、長すぎて途中で読むのをやめてしまったのですが。村上春樹があんな長い本を執筆するに至った経緯には「オウム事件についての共犯意識」があったのは間違いないと思います。
「アンダーグラウンド」以後の村上春樹の著作には、「直接自分が手を下していない殺人に対する共犯意識」が度々描かれています。例えば、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では「シロ=ユズ」を殺したのは自分ではないのか?という罪悪感に登場人物は苦悩します。「海辺のカフカ」でも、縁もゆかりもないはずの遠く離れた老人と少年の繋がりを描く中で、「老人が人を殺すと、遠く離れた少年は自分の手が血まみれになって目覚める…」という描写があります。
件の放火のニュースを見て、なんかこれはいかんぞ。という気分になったので、鬱々として気分を少しでも昇華するために最近思っていることをblogにしたためようという気分になりました。この投稿も普段に比べたら分量少な目だし、もうちょっと広げたり練ったりすると面白くなる可能性もいくらかあるのですが、そんなことよりもどんどん書いて吐き出したい。というわけで、今からどんどん連投します。
そうでもしないと、自分が次の放火犯になってしまうような気がしてならないのです。
2019年6月17日月曜日
プレゼンの時間を大幅に超過する彼らは何が問題かというと
ここ最近は、日曜のお昼ご飯を「NHKのど自慢」を見ながら食べるのが我が家の定番になってきました。年齢も社会階層も違う色々な人が「歌」で繋がっているのが面白いのです。この番組は全体としては日本社会の均質性を体現している一方で、その中で出演者が無自覚のうちに放っている日本社会の微細な多様性が垣間見えるのです。毎回必ず最低一人は「この人普段何してるんだろ?」と考えてしまうような不思議な人が出てくるんですよ。
しかし、のど自慢を見ていて時々「あーあ。。」と思うことがあるのです。歌い終わった後のアナウンサーのインタビューに対して、どうでもいいことを延々喋って尺を食ってしまう人が必ず一人はいるのです。たいてい年配のおじさんで、しかも、合格じゃなかった人。アナウンサーも「さっさと会話を切り上げたい」という空気を相槌の端々に匂わせているのに、空気を読まず(読めず)そのまま尺を食ってしゃべり続けるので、見てるこっちもハラハラ、イライラすることになるのです。
これと同じような気分になるのが、会社で限られた時間枠内で複数人がプレゼンを行う機会です。月に最低1回はこういう機会があるのですが、想定されている時間配分を守ってオンタイムで進行することなんてほとんどありません。最初からできるわけないと分かっているのに「質疑応答込みで一人10分で、終わりが近づいてくるとベルを鳴らしますから、時間厳守でお願いします」とか言うだけは言うんですよ。でも、場を主催している側も言うだけは言うけど本気で守らせるつもりが無いんですよね。
特に前に立って喋るのがエラいオジさんたちばかりなのにことごとく時間超過していると、「この会社は自分の喋る尺も管理できないようなオジさんでも管理職になれる会社です。しかも、場を主催する立場の人もそこそこのポジションのくせに、オジさんたちが尺を超過することを分かっていながらなんのリスクヘッジできません。というより、しようという気がありません。」ということをわざわざ下々を集めてプレゼンしてるだけにしか見えなかったりするときもあります。
先日、まさにそんな場で自分が最後に発表する立場だったのですが。最初の人がいきなり所定の時間の1.5倍も使ってしまったために、そのフォローのために自分の発表の内容をいくつか削ったり、巻きで話すために色々とせわしなかったり…というような目に遭いました。終わった後さすがに本人から「反省しました」というメールは届いたのですが、彼がこうやって時間超過した皺寄せを受けるのは今回に限ったことではありません。
この文脈で言いたいことはこのblogの初期の投稿「遅刻に厳しいけいど終わる時間には寛容な日本人」にも通じるところがあります。日本だと始まる時間には意味不明なまでに厳格ですが、尺を管理できずに時間を超過することにはなぜか寛容です。僕から見ると、仮に遅刻したとしても残り時間に応じてプレゼンの内容を適切に再構成して時間内に終わらせられる方が、終わった後の時間は予定通り進むのでマシだと思うのですが、なぜか日本人はそうは思わないみたいです。
この話を展開した先に到達する結論を一言で言うと「プレゼンの時間が守れない人は日本型マザコンの特徴である」になるのですが、この話を始めると長くなるのでそこは置いとくとして。プレゼン時間の尺を守れない人に共通しているのは、だいたい話を聞いててもつまらないということです。いつまでも聞いてたくなるような面白い話だったら、時間超過してもらってもまだ許せなくもないのですが。残念ながらプレゼン時間を過剰に超過する人の話が面白かったという事例はほとんど記憶にありません。
なぜこうなるかというと、彼らの本質的な問題点は「自分が分かっていほしいことを話している」からなんだと思います。わざわざこうやって書くのも躊躇するくらい凡庸でつまらない一般論ですが、プレゼンの基本としては「相手が聞きたいことを話す」だと思います。ところが、時間を超過して喋り続ける彼らはこのような受け手の視点から自分の話の内容を検討することができてないように思います。だから彼らは受け手から見ると「どうでもいい話」に時間を割いてしまうのではないでしょうか?僕にはそんな彼らは「自分をそのまま受け入れてくれるママ」に向かって喋っているように見えます。
しかし、のど自慢を見ていて時々「あーあ。。」と思うことがあるのです。歌い終わった後のアナウンサーのインタビューに対して、どうでもいいことを延々喋って尺を食ってしまう人が必ず一人はいるのです。たいてい年配のおじさんで、しかも、合格じゃなかった人。アナウンサーも「さっさと会話を切り上げたい」という空気を相槌の端々に匂わせているのに、空気を読まず(読めず)そのまま尺を食ってしゃべり続けるので、見てるこっちもハラハラ、イライラすることになるのです。
これと同じような気分になるのが、会社で限られた時間枠内で複数人がプレゼンを行う機会です。月に最低1回はこういう機会があるのですが、想定されている時間配分を守ってオンタイムで進行することなんてほとんどありません。最初からできるわけないと分かっているのに「質疑応答込みで一人10分で、終わりが近づいてくるとベルを鳴らしますから、時間厳守でお願いします」とか言うだけは言うんですよ。でも、場を主催している側も言うだけは言うけど本気で守らせるつもりが無いんですよね。
特に前に立って喋るのがエラいオジさんたちばかりなのにことごとく時間超過していると、「この会社は自分の喋る尺も管理できないようなオジさんでも管理職になれる会社です。しかも、場を主催する立場の人もそこそこのポジションのくせに、オジさんたちが尺を超過することを分かっていながらなんのリスクヘッジできません。というより、しようという気がありません。」ということをわざわざ下々を集めてプレゼンしてるだけにしか見えなかったりするときもあります。
先日、まさにそんな場で自分が最後に発表する立場だったのですが。最初の人がいきなり所定の時間の1.5倍も使ってしまったために、そのフォローのために自分の発表の内容をいくつか削ったり、巻きで話すために色々とせわしなかったり…というような目に遭いました。終わった後さすがに本人から「反省しました」というメールは届いたのですが、彼がこうやって時間超過した皺寄せを受けるのは今回に限ったことではありません。
この文脈で言いたいことはこのblogの初期の投稿「遅刻に厳しいけいど終わる時間には寛容な日本人」にも通じるところがあります。日本だと始まる時間には意味不明なまでに厳格ですが、尺を管理できずに時間を超過することにはなぜか寛容です。僕から見ると、仮に遅刻したとしても残り時間に応じてプレゼンの内容を適切に再構成して時間内に終わらせられる方が、終わった後の時間は予定通り進むのでマシだと思うのですが、なぜか日本人はそうは思わないみたいです。
この話を展開した先に到達する結論を一言で言うと「プレゼンの時間が守れない人は日本型マザコンの特徴である」になるのですが、この話を始めると長くなるのでそこは置いとくとして。プレゼン時間の尺を守れない人に共通しているのは、だいたい話を聞いててもつまらないということです。いつまでも聞いてたくなるような面白い話だったら、時間超過してもらってもまだ許せなくもないのですが。残念ながらプレゼン時間を過剰に超過する人の話が面白かったという事例はほとんど記憶にありません。
なぜこうなるかというと、彼らの本質的な問題点は「自分が分かっていほしいことを話している」からなんだと思います。わざわざこうやって書くのも躊躇するくらい凡庸でつまらない一般論ですが、プレゼンの基本としては「相手が聞きたいことを話す」だと思います。ところが、時間を超過して喋り続ける彼らはこのような受け手の視点から自分の話の内容を検討することができてないように思います。だから彼らは受け手から見ると「どうでもいい話」に時間を割いてしまうのではないでしょうか?僕にはそんな彼らは「自分をそのまま受け入れてくれるママ」に向かって喋っているように見えます。
2019年5月6日月曜日
おじさんがプリキュアにハマる気持ちがわかるようになってきた
10連休。だったはずなのに今日が最終日です。GW前に引いた風邪がだいたい治ったかとおもったら、ぶり返して2日寝込んだり、車のミラーを壊してしまったり…そうこうしているうちに終わろうとしています。せめて最後になんかやった気になれるようなことの一つでもしようと思い、久しぶりにこのblogを更新しようと思い立ちました。以前も長期休暇の最終日に同じことをしたのですが、これはここから本稿で述べる「面倒くさい」病へのカウンターだと考えるのが妥当な気がします。
つまらない話で恐縮なのですが、僕もここ最近は年相応に仕事が忙しくなり始めました。しかも、40歳超えると何かしら体力的にもさらに1ランク下がってきてるのが実感できるようになりました。するとどうなるかというと、仕事以外の時間に何か「余計なことをする」ことについて考えなくなるのです。たとえば、ずっと使っている携帯をいい加減変えようと前々から思っているのですが、つい面倒くさくなって「まぁいいか」をここ1年くらいずっと続けています。もう少し若くて時間があった頃なら、次の携帯は何を買うか考えたりすることをそれなりに楽しんで検討できたと思うのですが。最近はそれよりも「面倒くさい」の方が勝ってしまうのです。
この「面倒くさい病」による「おじさん化」の進行は僕の帰宅後のささやかな楽しみの一つである「録画しといたテレビを夜な夜なビール飲みながら見る」ことにも、少しずつ影響が出てき始めています。たとえばちょっと前までやっていた「約束のネバーランド」というアニメは最初数回だけ見たら後は見なくなってしまいました。話はまぁまぁ面白かったんですけど、作品全体を覆っている空気(鬼に食べられる食糧として育てられている子供達が脱走を試みる)が重い上に、毎回脱走計画が行き詰まったりバレそうになるのが見ちゃいられないのです。
また、内容が深くてぼんやり流して見れないようなNHKの教養番組も、撮ったはいいけど見るのが面倒くさくなってHDDの中にどんどん溜まっていくようになりました。こちらはGWで暇なときにある程度見て解消できたのですが、録画した後に「ちゃんと見る」というサイクルを維持することがだんだん面倒くさくなってきてるのは実感しています。とまぁ、こんな具合に、ここまでに何回書いたかわからないですけど、とにかくいろいろなことが「面倒くさい」と思うようになってきました。
さて、ようやく本題のプリキュアなのですが。先日、会社で同僚の女性社員(女の子が一人いる)から「酸味げるさんって時々プリキュアの話してますよね?実はうちのダンナが最近プリキュアにハマり始めて、過去の作品の動画を見たり歌を覚えたりし始めて色々ヤバいんですが。。で、家で酸味げるさんの話をしたら、酸味げるさんを同志のように思い始めたみたいで、それでよかったらこれどうぞって…」と言いながら、箱買いしたプリキュアのお菓子を一つもらってしまうことがありました。
まぁ、確かにダンナちょっと大丈夫か?とは思いました。しかし同時になんとなく気持ちがわからないでもないなと思いました。プリキュアの何が素晴らしいかというと、
・最後ハッピーエンドで終わることが保証されているので安心してみれる
・敵を倒すというよりは敵の救済→共生の物語である
といったところでしょうか。別の言い方をすると、プリキュアは性善説の彼岸に位置する神話のようなものに思えるのです。そして。これが、色々なことが面倒くさくなったおじさんにはすごく効くのです。みんなそうかはさておき、少なくとも僕の場合はそうでした。
つまらない話で恐縮なのですが、僕もここ最近は年相応に仕事が忙しくなり始めました。しかも、40歳超えると何かしら体力的にもさらに1ランク下がってきてるのが実感できるようになりました。するとどうなるかというと、仕事以外の時間に何か「余計なことをする」ことについて考えなくなるのです。たとえば、ずっと使っている携帯をいい加減変えようと前々から思っているのですが、つい面倒くさくなって「まぁいいか」をここ1年くらいずっと続けています。もう少し若くて時間があった頃なら、次の携帯は何を買うか考えたりすることをそれなりに楽しんで検討できたと思うのですが。最近はそれよりも「面倒くさい」の方が勝ってしまうのです。
この「面倒くさい病」による「おじさん化」の進行は僕の帰宅後のささやかな楽しみの一つである「録画しといたテレビを夜な夜なビール飲みながら見る」ことにも、少しずつ影響が出てき始めています。たとえばちょっと前までやっていた「約束のネバーランド」というアニメは最初数回だけ見たら後は見なくなってしまいました。話はまぁまぁ面白かったんですけど、作品全体を覆っている空気(鬼に食べられる食糧として育てられている子供達が脱走を試みる)が重い上に、毎回脱走計画が行き詰まったりバレそうになるのが見ちゃいられないのです。
また、内容が深くてぼんやり流して見れないようなNHKの教養番組も、撮ったはいいけど見るのが面倒くさくなってHDDの中にどんどん溜まっていくようになりました。こちらはGWで暇なときにある程度見て解消できたのですが、録画した後に「ちゃんと見る」というサイクルを維持することがだんだん面倒くさくなってきてるのは実感しています。とまぁ、こんな具合に、ここまでに何回書いたかわからないですけど、とにかくいろいろなことが「面倒くさい」と思うようになってきました。
さて、ようやく本題のプリキュアなのですが。先日、会社で同僚の女性社員(女の子が一人いる)から「酸味げるさんって時々プリキュアの話してますよね?実はうちのダンナが最近プリキュアにハマり始めて、過去の作品の動画を見たり歌を覚えたりし始めて色々ヤバいんですが。。で、家で酸味げるさんの話をしたら、酸味げるさんを同志のように思い始めたみたいで、それでよかったらこれどうぞって…」と言いながら、箱買いしたプリキュアのお菓子を一つもらってしまうことがありました。
まぁ、確かにダンナちょっと大丈夫か?とは思いました。しかし同時になんとなく気持ちがわからないでもないなと思いました。プリキュアの何が素晴らしいかというと、
・最後ハッピーエンドで終わることが保証されているので安心してみれる
・敵を倒すというよりは敵の救済→共生の物語である
といったところでしょうか。別の言い方をすると、プリキュアは性善説の彼岸に位置する神話のようなものに思えるのです。そして。これが、色々なことが面倒くさくなったおじさんにはすごく効くのです。みんなそうかはさておき、少なくとも僕の場合はそうでした。
もしも10年以上前の「余計なことがしたい」盛りだった頃の僕がプリキュアを見たら、諸々の設定のディテールの幼稚さがいちいち気になって見ていられなかっただろうと思います。当時の僕はプリキュアよりも攻殻機動隊みたいに世界観やストーリーが大人向けに緻密に練られた作品の方にまだ関心を持てたと思います。しかし、今となっては逆に攻殻機動隊は観るのが「面倒くさい」部類に入りつつあります。細かすぎて疲れるんです。それよりは娘と一緒にプリキュア見てた方がいいかなと思います。
以上を踏まえた上での話ですが、エンターテイメントの中でプリキュアに一番近いのはたぶんプロレスなのではないかと僕は思います。ドロップキックを受けるプロレスラーを見て「あんのはやらせのショーだ」と切り捨てるのは誰でもできるのですが、そんなことよりリング上で展開される戦いに熱狂したり魅了されたりするには相応のリテラシーが要求されます。この「理屈を一旦放棄する」というリテラシーにおいて、大人になってプリキュアにハマれる人とプロレスファンはつながっているような気がします。
でも、僕はせいぜい子供と一緒に見る程度で十分なのですけどね。。
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