Twitterでこういうtweetが流れてきたので思わず何も考えずにリツイートしました。
『お客様は神様だろ?』という変な客がいたんだが隣の席に座ってたガチムチな黒人のお兄さんが立ち上がり『神はアラーだけだ!お前はふざけてんのか!?』とバリバリの日本語でキレだしその客をビビらせて帰らせた。お礼を言うと『実は僕仏教なんだけどね』と笑って帰ってった。
どうやらこれ、所謂”パクツイ”で誰がオリジナルなのかよくわからない話のようです。本当の話かどうかもよくわかりません。でもよくできていて面白いですよね。
まず、この「お客様」と「店員」の関係の非対称性については、その昔スペインから帰ってきたときに僕も不思議に思ったものでした。ちょっとお金を払ったくらいのことで優越した立場に立てるという考え方の根拠がよく分からない上に、そこに「神」という言葉を持ち出すこと自体が一神教の世界観では考えられないですよね。
一昔前にネットで「神」とか「ネ申」とかいう言葉が流行りましたが、当時日常生活であの言葉遣いをする人が僕はたいてい大嫌いでした。「日本人は八百万の神が住まうアミニズムの国で一神教とは異なる宗教観を有しており…」みたいな話を差し引いても、「神」という母国語の既存言の意味を一過性のブームに乗って上書きできてしまうセンスが許容できなかったのです。
ところが、「お客様は神様です」のオリジナルである三波春夫の見解を引いてみたら、とてもまともな話でした。「神前での祈りのように雑念を払い、聴衆(お客様)を神と見ることで、自分の最高のパフォーマンスが出来る、という想いから出て来た、人前で何かを披露する際の芸の本質を表す言葉」なのだそうです。これは、「すべての芸事は神様に奉納する神事にその起源がある」ということからすると妥当な見解だと思います。少なくとも三波春夫の「お客様は神様です」は「芸事を行う者の心構えや矜持」としての話であって、客の側が優位に立った非対称な関係を肯定する話ではないようです。
さて、ここで僕からの提案なのですが。ここまでの議論で一切出てこない別の可能性も考えてみました。「お客様は神様です」という言葉は、「お客様は神様のように聖人君子として振る舞うことを求められている」と解釈することもできるのではないでしょうか?これは別の言い方をすると、「お客様は神様のような立ち振る舞いを理想として自己陶冶する責任があります」ということになります。とりあえずこれはクレーマーに対する有効な対策には成り得るような気がします。クレーマーに対しては「お客様は神様のはずですよね?であれば、お客様=神様は貴方のように攻撃的に無理難題を突き付けてきたりしません。つまり、あなたは神様でもないし、お客様でもありません。よって、我々はあなたの話に付き合う必要はありません。」これで済ませられそうな気がします。
ただし、上記の対応がロジックとして成立しそうなのも世界的に見ると日本くらいなんだろうと思います。というのも、一神教の世界では神というのは聖人君子でもなんでもなくて「人間の論理や理解を超越した存在である故に、人間から見ると不条理で怖い存在」であり、だからこそ「神が災いをもたらさないように、神と契約とする。その契約に従って戒律を守る。」というのが基本的なスタンスなんだそうです。このあたりの話は昔読んだ「ふしぎなキリスト教」という本の受け売りですが、ウェブで探しても同様の言及が見られるのでたぶん正しいんだと思います。ついでに言うと、だからこそ一神教に対して「神の愛」という大発明をイエスが持ち込んだことで、キリスト教は大ブレイクしたんだそうです。
2019年10月22日火曜日
2019年10月14日月曜日
区民しか入れないような避難所を作る国でオリンピックができるのか?
「今回の台風は本当にヤバい」というのが一週間くらい前から言われていた台風19号ですが、当初の想定ルートだとまぁまぁ我が家は直撃コースでした。そんなこともあってか、今回の台風ではブルーシートや水などが台風が来る数日前に全く売り切れてしまうという事態を初めて経験しました。結果としては予想よりはやや台風が逸れて進んだ結果、我が家は浸水はおろか停電さえもなく無事で済みました。しかし、もしも直撃していたらテレビに映っている街のように堤防が決壊して水没していたかもしれません。
さて、こんな台風のさなかに台東区の避難所がホームレスを門前払いしたということが結構な話題になっております。なんでも、「台東区では12日、自宅での避難が不安な区民のための避難所を4カ所、外国人旅行者などを念頭に置いた帰宅困難者向けの緊急滞在施設を2カ所に開設した。」ということだそうです。この避難所の件は
・人権や人道という概念が理解できない
・非常時と向き合うことができない
といった、日本人の抱えている病のようなものが端的に現れていると思うのですが。こんな国でオリンピックやるのは無理なんじゃないでしょうかね?オリンピックやってる時期に台風が来る可能性は十分にあるし、その時に区民向けの避難所に外国人やホームレスが命からがら避難して来ても「ここは区民用だからダメ」と言って門前払いになっちゃうわけですよね?
僕のtwitterのTLはいわゆるリベラル派の人のツイートで埋め尽くされているのですが、その中で唯一ネトウヨ気味のツイートを流してくる某氏(なぜか僕のツイートに対しては政治以外のトピックであれば頻繁にコメントしてくるので一応僕もフォローしている。)が本件についてこのようなコメントをしていました。「村八分でも葬儀と災害(火事)の二分は対応すると言うのに。こういうのを迎え入れるのが日本人のはずなのに。すごく残念。」
いや、残念ながらこれはたぶん事実誤認です。wikipediaによると、村八分というのは葬儀と火事だけは一般の村人に迷惑がかかる可能性があるので支援するけどそれ以外は関わらない、という徹底的な非人情な制度なのです。そして、wikipediaによると「なお、残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行であるとされる。」だそうです。つまり水害時の世話は村八分に対してはしないんだそうです。
「ホームレス=村八分」と考えると、現代の台東区という大都会の災害対応でさえ、そのコンセプトは「村」の災害対応と何も変わっていないことがわかります。しかし、件のtwitterに登場したネトウヨ氏のように考えている日本人は多いんだろうなと思います。こういう人は「優しさ」とか「思いやり」とか、そういうものが日本人特有の美点だと思っている節があるのですが。日本ではそれらは村落共同体の中だけに対して限定的に適用されるものでしかなかったのではないでしょうか。それが基本にあるからこそ、そのカウンターとして「ヨソ者にわざわざ親切にしてあげる」ことが美徳として賞賛されるようなお国柄になったのではないかと思います。これは、「お・も・て・な・し」やワールドカップ会場でのごみ拾いのような、ブリっ子的な打算の匂いが鼻につく日本人特有の立ち振る舞いにつながっているように思えてならないのです。
さて、こんな台風のさなかに台東区の避難所がホームレスを門前払いしたということが結構な話題になっております。なんでも、「台東区では12日、自宅での避難が不安な区民のための避難所を4カ所、外国人旅行者などを念頭に置いた帰宅困難者向けの緊急滞在施設を2カ所に開設した。」ということだそうです。この避難所の件は
・人権や人道という概念が理解できない
・非常時と向き合うことができない
といった、日本人の抱えている病のようなものが端的に現れていると思うのですが。こんな国でオリンピックやるのは無理なんじゃないでしょうかね?オリンピックやってる時期に台風が来る可能性は十分にあるし、その時に区民向けの避難所に外国人やホームレスが命からがら避難して来ても「ここは区民用だからダメ」と言って門前払いになっちゃうわけですよね?
僕のtwitterのTLはいわゆるリベラル派の人のツイートで埋め尽くされているのですが、その中で唯一ネトウヨ気味のツイートを流してくる某氏(なぜか僕のツイートに対しては政治以外のトピックであれば頻繁にコメントしてくるので一応僕もフォローしている。)が本件についてこのようなコメントをしていました。「村八分でも葬儀と災害(火事)の二分は対応すると言うのに。こういうのを迎え入れるのが日本人のはずなのに。すごく残念。」
いや、残念ながらこれはたぶん事実誤認です。wikipediaによると、村八分というのは葬儀と火事だけは一般の村人に迷惑がかかる可能性があるので支援するけどそれ以外は関わらない、という徹底的な非人情な制度なのです。そして、wikipediaによると「なお、残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行であるとされる。」だそうです。つまり水害時の世話は村八分に対してはしないんだそうです。
「ホームレス=村八分」と考えると、現代の台東区という大都会の災害対応でさえ、そのコンセプトは「村」の災害対応と何も変わっていないことがわかります。しかし、件のtwitterに登場したネトウヨ氏のように考えている日本人は多いんだろうなと思います。こういう人は「優しさ」とか「思いやり」とか、そういうものが日本人特有の美点だと思っている節があるのですが。日本ではそれらは村落共同体の中だけに対して限定的に適用されるものでしかなかったのではないでしょうか。それが基本にあるからこそ、そのカウンターとして「ヨソ者にわざわざ親切にしてあげる」ことが美徳として賞賛されるようなお国柄になったのではないかと思います。これは、「お・も・て・な・し」やワールドカップ会場でのごみ拾いのような、ブリっ子的な打算の匂いが鼻につく日本人特有の立ち振る舞いにつながっているように思えてならないのです。
なぜ僕は安心してラグビーを応援できるのかというと
ラグビーや
ああラグビーや
ラグビーや
これを書いている現在、スコットランドとの激戦を制して日本がワールドカップの決勝トーナメントに進出した。という状況です。なんで僕がラグビーにここまで入れ込んでいるかと言うと、ラグビーはサッカーや野球の日本代表と違って、何も躊躇することなく応援できるからなのです。他の日本人はどう思ってるのか分からないですが、サッカーや野球の試合に国民全員が「日本ガンバレ!」と言ってるのを見てると、僕はどうしても「これ、いいのかな?なんか戦前の日本ってこんな感じだったんじゃないのかな?」と、どうしても思ってしまうのです。でもラグビーに関しては、この「躊躇」をしなくて済むので安心して熱中できるのです。
なぜ僕はラグビーについてだけは躊躇せずに済むのか。一つの理由は大昔にこのblogで紹介した国際化、多様性にあるような気がします。元々ラグビーはフォワードとバックス(プロレス的な語法を当てはめると、ヘビー級とジュニアヘビー級)が混在していて、それぞれに役割があります。さらに日本代表ではこの多様性が国籍や人種といった方向にも拡張されているので、サッカーや野球と違ってethnocentric (自民族中心主義)な傾向を緩和していると思います。
そしてもう一つの理由は、例によって内的自己/外的自己の話になるのですが。ラグビーは「試合が終わればノーサイド」や「紳士のスポーツ」という日本人には非常に咀嚼が難しい概念をセントラルドグマに据えています。これは言わば「外的自己」として日本人の「内的自己」的な側面を抑制して程よくバランスを取っているように思うのです。ちょっと脱線しますが、この「外的自己」は統治システムの文脈で言うと「民主主義」や「憲法」や「人権」など日本の外側から持ち込まれた物に相当しており、いずれも「内的自己」のネトウヨや自民党からは目の敵にされています。
だいたい以上で僕が言いたかったことは終わりなのですが、最後にこの文脈でどうしても思い出してしまう中学時代の同級生のF君の話をします。硬式のリトルリーグで本格的に野球をやっていたF君は、体も大きくてスポーツ万能で女の子からも人気がありました。3年生の時に彼と同じクラスだったのですが、みんな受験勉強をやっている中で彼だけは早々と野球の強豪校(甲子園常連校)のスポーツ推薦入学が内定していたように思います。誰しもが甲子園で大活躍すると思っていたF君ですが、高校1年生の途中で野球をやめてしまいました。どうも、能力が高すぎて先輩の嫉妬やイジメに遭ってトラブルになり、結果的に野球部を追われてしまったんだそうです。とはいえ彼はスポーツ推薦で学校に入ったわけで…その後、彼は同じ高校でラグビーを始めました。そして持ち前の体格と運動神経を発揮して最終的には大学を経て社会人ラグビーの選手になりました。
もし彼があのまま野球を続けていたら、たぶんプロ野球選手になっていただろうと思います。でも、高校野球=純度の高い内的自己によってスポイルされかけた彼が、内的自己と外的自己が調和したラグビーによって人生を救われた…なんていう話だったらちょっとうれしいですね。まぁ、当のご本人がどう思っているかまでは僕にはわかりませんが。
なんかこうやって書いていると、ラグビーを相撲と並ぶ国技にしてはどうか?と、思い始めました。こうすれば日本人は外的自己と内的自己のバランスを取ることができるのではないだろうか?
ああラグビーや
ラグビーや
これを書いている現在、スコットランドとの激戦を制して日本がワールドカップの決勝トーナメントに進出した。という状況です。なんで僕がラグビーにここまで入れ込んでいるかと言うと、ラグビーはサッカーや野球の日本代表と違って、何も躊躇することなく応援できるからなのです。他の日本人はどう思ってるのか分からないですが、サッカーや野球の試合に国民全員が「日本ガンバレ!」と言ってるのを見てると、僕はどうしても「これ、いいのかな?なんか戦前の日本ってこんな感じだったんじゃないのかな?」と、どうしても思ってしまうのです。でもラグビーに関しては、この「躊躇」をしなくて済むので安心して熱中できるのです。
なぜ僕はラグビーについてだけは躊躇せずに済むのか。一つの理由は大昔にこのblogで紹介した国際化、多様性にあるような気がします。元々ラグビーはフォワードとバックス(プロレス的な語法を当てはめると、ヘビー級とジュニアヘビー級)が混在していて、それぞれに役割があります。さらに日本代表ではこの多様性が国籍や人種といった方向にも拡張されているので、サッカーや野球と違ってethnocentric (自民族中心主義)な傾向を緩和していると思います。
そしてもう一つの理由は、例によって内的自己/外的自己の話になるのですが。ラグビーは「試合が終わればノーサイド」や「紳士のスポーツ」という日本人には非常に咀嚼が難しい概念をセントラルドグマに据えています。これは言わば「外的自己」として日本人の「内的自己」的な側面を抑制して程よくバランスを取っているように思うのです。ちょっと脱線しますが、この「外的自己」は統治システムの文脈で言うと「民主主義」や「憲法」や「人権」など日本の外側から持ち込まれた物に相当しており、いずれも「内的自己」のネトウヨや自民党からは目の敵にされています。
だいたい以上で僕が言いたかったことは終わりなのですが、最後にこの文脈でどうしても思い出してしまう中学時代の同級生のF君の話をします。硬式のリトルリーグで本格的に野球をやっていたF君は、体も大きくてスポーツ万能で女の子からも人気がありました。3年生の時に彼と同じクラスだったのですが、みんな受験勉強をやっている中で彼だけは早々と野球の強豪校(甲子園常連校)のスポーツ推薦入学が内定していたように思います。誰しもが甲子園で大活躍すると思っていたF君ですが、高校1年生の途中で野球をやめてしまいました。どうも、能力が高すぎて先輩の嫉妬やイジメに遭ってトラブルになり、結果的に野球部を追われてしまったんだそうです。とはいえ彼はスポーツ推薦で学校に入ったわけで…その後、彼は同じ高校でラグビーを始めました。そして持ち前の体格と運動神経を発揮して最終的には大学を経て社会人ラグビーの選手になりました。
もし彼があのまま野球を続けていたら、たぶんプロ野球選手になっていただろうと思います。でも、高校野球=純度の高い内的自己によってスポイルされかけた彼が、内的自己と外的自己が調和したラグビーによって人生を救われた…なんていう話だったらちょっとうれしいですね。まぁ、当のご本人がどう思っているかまでは僕にはわかりませんが。
なんかこうやって書いていると、ラグビーを相撲と並ぶ国技にしてはどうか?と、思い始めました。こうすれば日本人は外的自己と内的自己のバランスを取ることができるのではないだろうか?
2019年9月26日木曜日
ラグビーワールドカップに対する日本人の微温的な対応について
ラグビーのワールドカップが始まりました。これまでラグビーをちゃんとみたことなかったのですが、ちゃんと見てみたらこれがすごく面白いのです。ラグビーの魅力はプロレスのパワーとサッカーの戦略が同時に融合していることなのではないかと思います。にわかラグビーファンがこういうことを言ってるのはダサいなぁとは思いつつ、にわかついでに失礼なことを言わせていただくと、この面白さはこれまで日本人だけでやってるラグビーをテレビで見てる限りではどうしても感じられなかったのです。
この理由は日本人の選手のプレーの質や体格だけの問題ではなく、見てる僕の問題だと思います。昭和育ちにはラグビーといえばスクールウォーズなどに代表される70-80年代のスポ根のイメージがどうしてもついて回ってしまうのです。日本人がたくさん集まってラグビーをやってるのを見ていると、どうしてもこのイメージから脱却するのが難しいのです。念のため改めて申し上げておくと、これは日本人のラグビー選手の問題ではなく、ほとんど見てる側の僕の問題だと思います。
とはいえ、一方でラグビー日本代表に対して日本人の大半はどこか冷たいですよね。いまだにラグビーといえば五郎丸以外の選手は知らない人が大半なんじゃないでしょうか(今回の代表チームに五郎丸はいないんですけどね)。以前もこのblogに書きましたが、その原因は「外国人が多い」からだと思います。テレビのCMにキャプテンのマイケル・リーチが出てたりはしますが、五郎丸ほどの国民的認知度には達していないと思います。
この是非はさておき、このあたりのラグビー日本代表に対する日本人のどこか冷たい感じは、そのままラグビーのワールドカップというイベントそのものに対する日本人の微温的な反応にもつながっていると思います。これに一番近いのは、日本で開催するサッカーのクラブワールドカップなのではないかと思います。
クラブワールドカップは海外のビッグクラブから有名選手が来るのですが、彼らに対する日本のテレビの対応は大昔の言葉でいうと「外タレ」、もうちょっと最近の言い方で言うと「海外セレブ来日」に近いです。一方で、日本で開催するクラブワールドカップにアジア代表として日本のどこかのクラブチームが出場していても、そのチームのサポーター以外の一般の日本人は「頼むから勝ってくれ」なんて言ってませんし、もしも勝ったところで渋谷の交差点で暴れる人は誰もいないでしょう。
運営面からみると、ラグビーのワールドカップは東京オリンピックのダメなところをことごとくクリアしている点でも好感が持てます。ちゃんと気候のいい時期を選んで開催していること、無駄にハコモノを増やさずに既存のスタジアムをそのまま利用していること、などなど、ことごとく来年の東京オリンピックに対するカウンターになっていると思います。
何よりも素晴らしいのは、日本人が「おもてなし」とかいってはしゃいでないことです。上述したようなラグビーワールドカップに対する微温的な日本人の態度は、「はしゃげばはしゃぐほど、明後日の方向にズレていく」という我が国の国民病の発症を見事に抑制しています。東京オリンピックにもこれくらいの姿勢で臨むのがたぶん丁度よいのではないでしょうか。
この理由は日本人の選手のプレーの質や体格だけの問題ではなく、見てる僕の問題だと思います。昭和育ちにはラグビーといえばスクールウォーズなどに代表される70-80年代のスポ根のイメージがどうしてもついて回ってしまうのです。日本人がたくさん集まってラグビーをやってるのを見ていると、どうしてもこのイメージから脱却するのが難しいのです。念のため改めて申し上げておくと、これは日本人のラグビー選手の問題ではなく、ほとんど見てる側の僕の問題だと思います。
とはいえ、一方でラグビー日本代表に対して日本人の大半はどこか冷たいですよね。いまだにラグビーといえば五郎丸以外の選手は知らない人が大半なんじゃないでしょうか(今回の代表チームに五郎丸はいないんですけどね)。以前もこのblogに書きましたが、その原因は「外国人が多い」からだと思います。テレビのCMにキャプテンのマイケル・リーチが出てたりはしますが、五郎丸ほどの国民的認知度には達していないと思います。
この是非はさておき、このあたりのラグビー日本代表に対する日本人のどこか冷たい感じは、そのままラグビーのワールドカップというイベントそのものに対する日本人の微温的な反応にもつながっていると思います。これに一番近いのは、日本で開催するサッカーのクラブワールドカップなのではないかと思います。
クラブワールドカップは海外のビッグクラブから有名選手が来るのですが、彼らに対する日本のテレビの対応は大昔の言葉でいうと「外タレ」、もうちょっと最近の言い方で言うと「海外セレブ来日」に近いです。一方で、日本で開催するクラブワールドカップにアジア代表として日本のどこかのクラブチームが出場していても、そのチームのサポーター以外の一般の日本人は「頼むから勝ってくれ」なんて言ってませんし、もしも勝ったところで渋谷の交差点で暴れる人は誰もいないでしょう。
運営面からみると、ラグビーのワールドカップは東京オリンピックのダメなところをことごとくクリアしている点でも好感が持てます。ちゃんと気候のいい時期を選んで開催していること、無駄にハコモノを増やさずに既存のスタジアムをそのまま利用していること、などなど、ことごとく来年の東京オリンピックに対するカウンターになっていると思います。
何よりも素晴らしいのは、日本人が「おもてなし」とかいってはしゃいでないことです。上述したようなラグビーワールドカップに対する微温的な日本人の態度は、「はしゃげばはしゃぐほど、明後日の方向にズレていく」という我が国の国民病の発症を見事に抑制しています。東京オリンピックにもこれくらいの姿勢で臨むのがたぶん丁度よいのではないでしょうか。
2019年9月1日日曜日
子供向け番組を通して見える日本のジェンダー
うちの娘も幼稚園に入るまではスーパー戦隊やウルトラマンをわりと喜んで見ていました。現役でテレビでやってる特撮だけでなく、ウルトラマンタロウとかジャッカー電撃隊とか、妙にシブいものをツタヤで借りてきて見てた時期もありました。が、幼稚園に入ったあたりからはジェンダーに対する意識が割と明確になってきたのか、特撮を一緒に見ようと言うと「えー、それって男が見るやつじゃん」とか言うようになりました。
しかし、テレビの放映はプリキュアが終わったらその後に仮面ライダーとスーパー戦隊が続く「スーパーヒーロータイム」になっておりまして。プリキュアの後の惰性でぼんやりとではありますが僕は一応ストーリーを追える程度にはスーパーヒーロータイムを見ています。この8月末をもって仮面ライダージオウが終了したのですが、この最終回を見ながら考えたことを少し書いてみようと思います。
仮面ライダージオウでは、仮面ライダー側にツクヨミという女の子キャラが出てきます。当初はこれと言って特殊な能力を持つキャラではなかったのですが、だんだん最終回に近づくにつれて、実は悪者のボスの妹であったことが明らかになってきます。そして、最終回の一話前になって、このツクヨミは仮面ライダーに変身しました。仮面ライダーの歴史上かなり画期的な女性の仮面ライダーが誕生したわけです。
仮面ライダーについてはこの一作前のビルドでも同じような立ち位置の女性キャラクターがいました。さすがに仮面ライダーに変身まではしないのですが、物語の終盤までは特に普通の人だったのに、終盤になって実は火星の王妃の魂が乗り移っていたことになって、あんなことやこんなことをする…という展開でした。
最近の男の子向けの特撮って、特殊能力を持たない普通の女の人があんまり出てこないんですよね。もちろん、スーパー戦隊シリーズでは必ず戦隊の中に一人は女性がいるのですが、あれは変身して戦うという特殊能力をしっかり持っています。僕が言いたいのは、
・大昔の仮面ライダーなどに出てきた、子供やヒロイン的立場の女性
・戦隊モノの特撮に出てくる、司令官の補佐役の女の人
みたいな、これと言って特殊能力を持たない人が最近の特撮には出てこないように思うのです。
ここに、今の世の中の世相が反映されているような気がするのです。例えば安倍政権の「女性の活用」なんかは典型的だと思うもむのですが、「女性の活用」と言いいながらも、例えば稲田朋美とか片山さつきみたいな、ああいう男社会の中で価値を認められる女性にしか社会的な立場を認めていないですよね?最近の男の子向けの特撮を見てると、どうもあの「女性の活用」と同じ匂いがするように思うのです。
ゲストキャラとはいえ、女性の仮面ライダーである「仮面ライダーツクヨミ」が誕生したことは、一期前のプリキュアで男性のプリキュアが誕生したことと相似形の出来事で、ジェンダーの垣根が解体されつつあることを象徴しているようにも見えます。しかしその一方で、結局は男社会の都合に合わせられる女性にしか活躍の場が与えらえてないという日本の有り様もそのまま男の子向けの特撮には反映されているように思います。
ちなみに、ここから上の世代に上がって少年漫画になると、女性キャラには「萌え」や「無駄に巨乳」などの性的な愛玩要素が加わってきて、話がややこしくなります。しかも、その性的愛玩要素を持った女の子が戦ったりする(「艦これ」とか「ガルパン」なんかをイメージしてください)となる…とまぁ、こうやって書いてて思いますが、冷静に考えたら結構な変態ですよね。日本人って。。
登場人物が全員ゲイの仮面ライダーとか、男だけのプリキュアとか、そんなものが出てくるような時代になれば相当面白いと思うんですけどね。。
しかし、テレビの放映はプリキュアが終わったらその後に仮面ライダーとスーパー戦隊が続く「スーパーヒーロータイム」になっておりまして。プリキュアの後の惰性でぼんやりとではありますが僕は一応ストーリーを追える程度にはスーパーヒーロータイムを見ています。この8月末をもって仮面ライダージオウが終了したのですが、この最終回を見ながら考えたことを少し書いてみようと思います。
仮面ライダージオウでは、仮面ライダー側にツクヨミという女の子キャラが出てきます。当初はこれと言って特殊な能力を持つキャラではなかったのですが、だんだん最終回に近づくにつれて、実は悪者のボスの妹であったことが明らかになってきます。そして、最終回の一話前になって、このツクヨミは仮面ライダーに変身しました。仮面ライダーの歴史上かなり画期的な女性の仮面ライダーが誕生したわけです。
仮面ライダーについてはこの一作前のビルドでも同じような立ち位置の女性キャラクターがいました。さすがに仮面ライダーに変身まではしないのですが、物語の終盤までは特に普通の人だったのに、終盤になって実は火星の王妃の魂が乗り移っていたことになって、あんなことやこんなことをする…という展開でした。
最近の男の子向けの特撮って、特殊能力を持たない普通の女の人があんまり出てこないんですよね。もちろん、スーパー戦隊シリーズでは必ず戦隊の中に一人は女性がいるのですが、あれは変身して戦うという特殊能力をしっかり持っています。僕が言いたいのは、
・大昔の仮面ライダーなどに出てきた、子供やヒロイン的立場の女性
・戦隊モノの特撮に出てくる、司令官の補佐役の女の人
みたいな、これと言って特殊能力を持たない人が最近の特撮には出てこないように思うのです。
ここに、今の世の中の世相が反映されているような気がするのです。例えば安倍政権の「女性の活用」なんかは典型的だと思うもむのですが、「女性の活用」と言いいながらも、例えば稲田朋美とか片山さつきみたいな、ああいう男社会の中で価値を認められる女性にしか社会的な立場を認めていないですよね?最近の男の子向けの特撮を見てると、どうもあの「女性の活用」と同じ匂いがするように思うのです。
ゲストキャラとはいえ、女性の仮面ライダーである「仮面ライダーツクヨミ」が誕生したことは、一期前のプリキュアで男性のプリキュアが誕生したことと相似形の出来事で、ジェンダーの垣根が解体されつつあることを象徴しているようにも見えます。しかしその一方で、結局は男社会の都合に合わせられる女性にしか活躍の場が与えらえてないという日本の有り様もそのまま男の子向けの特撮には反映されているように思います。
ちなみに、ここから上の世代に上がって少年漫画になると、女性キャラには「萌え」や「無駄に巨乳」などの性的な愛玩要素が加わってきて、話がややこしくなります。しかも、その性的愛玩要素を持った女の子が戦ったりする(「艦これ」とか「ガルパン」なんかをイメージしてください)となる…とまぁ、こうやって書いてて思いますが、冷静に考えたら結構な変態ですよね。日本人って。。
登場人物が全員ゲイの仮面ライダーとか、男だけのプリキュアとか、そんなものが出てくるような時代になれば相当面白いと思うんですけどね。。
2019年8月4日日曜日
自由というのはある程度他人に迷惑をかけて成立しているんだけどな
僕のTwitterのTLが「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」一色になっています。この件についてまず最初に僕の見解を述べておくと、経緯はどうあれ、津田大介も中止にするなら「この国の『表現の不自由』を白日の下に晒したという点では大成功だった」くらい言えばよかったのに、と思っています。
Twitterは人を所属クラスタごとに遠心分離する装置なので、僕のTwitterは所謂リベラル寄りの方で埋め尽くされています。その多くの内容は、ネトウヨ論客が少女像を「不愉快にさせる」などと攻撃しているのに対してリベラル側が「表現の自由を守れ」と反論している構図で埋め尽くされています。僕は断然リベラル派寄りなのですが、リベラル側も単に「表現の自由」と言うだけではなくて、表現の自由が成立する社会を維持するためには何が必要か?ということについて言及すべきだと思うのです。
そこで表題の「自由というのは、ある程度他人に迷惑をかけて成立するもの」という話になるのですが。これはもうすでに僕がこのblogで何度も言及しているような話です。改めて例を挙げると、スペインで屋内の公共空間での喫煙を禁じる法律の是非について議論していたときに、あるスペイン人は「確かに屋内での煙草は迷惑だとは思う。だけど、彼らの煙草を吸う自由を奪うことはしたくない。」と言いました。「自由」が憲法に記された「理念=きれいごと」ではなく、実生活において本当に自由が保証される社会を実現するためには「お互いに迷惑をかけ合うことができる」レベルの市民的成熟が不可欠なのです。
一方で、我が国のネトウヨ論客は少女像を攻撃する理由を「国民を不愉快にさせる」と言っていますが、これをもう少し分解すると
・自分は世の中の多数派であるという根拠のない確信に満ちている
・日本国民の最上位の行動規範は憲法や法律よりも「迷惑をかけない教」だと思っている
・だから多数派の自分が不愉快で迷惑だと思うものは国民の敵と見做して攻撃してよい
・以上のような思想的な偏りについておそらく自覚がない
といったところでしょうか?政治的見解が異なる人も社会の成員として受け入れるような市民的成熟などという概念自体がおそらく彼らの頭に無いと思います。
最後に岸田秀を引用していくつか付け加えてみますが、まずネトウヨvsリベラルの戦いというのは日本人全体を一つの人格と見立てて精神分析を適用すると、日本人は内的自己vs外的自己に分裂しており、ネトウヨとリベラルの戦いはその代理戦争だと言えるでしょう。そして、この分裂の起源を岸田秀はアメリカという父の問題だと言っています。
また、岸田秀に言わせれば人類というのは「本能の壊れた猿」であり、その壊れた本能を代替するために、人類は「文化」を必要としているのだと説いています。以前、「ろくでなし子」という芸術家の作品が物議を醸したことがありましたが、芸術家というのは基本的に「わざわざいらんことをする人=ろくでなし」だと僕は思います。そもそも、木の上で暮らしてたらいいのに、わざわざ地上に降りて二足歩行を行うという「いらんことをした猿」の子孫が我々人類なのですから、芸術は人類に不可欠だと僕は思います。
Twitterは人を所属クラスタごとに遠心分離する装置なので、僕のTwitterは所謂リベラル寄りの方で埋め尽くされています。その多くの内容は、ネトウヨ論客が少女像を「不愉快にさせる」などと攻撃しているのに対してリベラル側が「表現の自由を守れ」と反論している構図で埋め尽くされています。僕は断然リベラル派寄りなのですが、リベラル側も単に「表現の自由」と言うだけではなくて、表現の自由が成立する社会を維持するためには何が必要か?ということについて言及すべきだと思うのです。
そこで表題の「自由というのは、ある程度他人に迷惑をかけて成立するもの」という話になるのですが。これはもうすでに僕がこのblogで何度も言及しているような話です。改めて例を挙げると、スペインで屋内の公共空間での喫煙を禁じる法律の是非について議論していたときに、あるスペイン人は「確かに屋内での煙草は迷惑だとは思う。だけど、彼らの煙草を吸う自由を奪うことはしたくない。」と言いました。「自由」が憲法に記された「理念=きれいごと」ではなく、実生活において本当に自由が保証される社会を実現するためには「お互いに迷惑をかけ合うことができる」レベルの市民的成熟が不可欠なのです。
一方で、我が国のネトウヨ論客は少女像を攻撃する理由を「国民を不愉快にさせる」と言っていますが、これをもう少し分解すると
・自分は世の中の多数派であるという根拠のない確信に満ちている
・日本国民の最上位の行動規範は憲法や法律よりも「迷惑をかけない教」だと思っている
・だから多数派の自分が不愉快で迷惑だと思うものは国民の敵と見做して攻撃してよい
・以上のような思想的な偏りについておそらく自覚がない
といったところでしょうか?政治的見解が異なる人も社会の成員として受け入れるような市民的成熟などという概念自体がおそらく彼らの頭に無いと思います。
最後に岸田秀を引用していくつか付け加えてみますが、まずネトウヨvsリベラルの戦いというのは日本人全体を一つの人格と見立てて精神分析を適用すると、日本人は内的自己vs外的自己に分裂しており、ネトウヨとリベラルの戦いはその代理戦争だと言えるでしょう。そして、この分裂の起源を岸田秀はアメリカという父の問題だと言っています。
また、岸田秀に言わせれば人類というのは「本能の壊れた猿」であり、その壊れた本能を代替するために、人類は「文化」を必要としているのだと説いています。以前、「ろくでなし子」という芸術家の作品が物議を醸したことがありましたが、芸術家というのは基本的に「わざわざいらんことをする人=ろくでなし」だと僕は思います。そもそも、木の上で暮らしてたらいいのに、わざわざ地上に降りて二足歩行を行うという「いらんことをした猿」の子孫が我々人類なのですから、芸術は人類に不可欠だと僕は思います。
チャーシューメンに挑戦するラストチャンスかもしれない
# 例によって、なるだけ構えずに思いついたことをサラサラと書いてみるシリーズです。
長かった梅雨もすっかり明けて、本格的に暑くなってきました。あと一週間で夏休みに入ろうというところです。これだけ暑くなったというのに、ここ数日僕の頭の中ではこの天気とは真逆のラーメンについてずっと考えているのです。というのも、「人生経験としてチャーシューメンを食べてみるならそろそろラストチャンスなんじゃないか?」ということについてずっと考えてしまうのです。
そもそもラーメンという食べ物自体、お世辞にも体にいいとは思えません。つまりラーメンのおいしさの何割かは背徳の味だと言ってもよいでしょう。僕はそんな部分も含めてラーメン大好き人間なんですが、ラーメン屋では基本的に普通のラーメンを注文します。ワンタンメンは好きなのでメニューにあればたまに頼むことはあります。でも、チャーシューメンは頼んだことが一度もありません。
ラーメン屋でわざわざチャーシューメンを注文するには相応のポテンシャルが要求されるような気がするのです。チャーシューメンはなんだが、「お母さんに怒られそう」というか、ラーメン屋のメニューの中でも突出して背徳感が高いのです。ラーメンの食べ歩きblogを見ると「基本的にチャーシューメンを注文します」とか書いてあったりするのですが、こういう人は背徳への耐性が強いのか、若しくは自分の欲望に正直なのか、どっちにしても僕にはない資質を持っているように見えます。
しかし、40歳を超えたあたりからだんだんと胃腸や食欲が衰えていくのを感じる今日この頃、時々考えるのです。死ぬ前に人生を振り返った時にチャーシューメンを食べた経験がある人生とない人生のどっちがいいか?そう言われたら、そりゃチャーシューメンを食べた経験があった人生のほうがいいような気はします。
一方で、来るべきチャーシューメンを食べる機会があったとしても、それをおいしく食べれる能力を自分の体は失いつつあるんじゃないか?という危惧があります。これは正直に言うと単なる危惧です。本当にそうなのかわかりません。なにせ僕はチャーシューメンを食べたこと無いですから。。しかし、もしこの危惧が正しい、つまり、自分の消化能力とチャーシューメンの乖離は今後どんどん開いていく一方に向かうのであるとするならば、「もうチャーシューメンを食べるなら今しかない」というシンプルな結論になるのです。
チャーシューメンの問題は「お金持ちになったらおいしいステーキを食べてみたい」とか「一生に一度テレビに出てくるような銀座の寿司屋で寿司を食べてみたい」などとは近いようでちょっと違います。ラーメン屋はどこにでもあるし、チャーシューメンはラーメンより数百円払いさえすれば食べられるはずなんです。でも、問題は僕にとってはチャーシューメンを注文するという行為にはその数百円以上に高いハードルが横たわっているのです。
この「40歳を超えての遅咲きのチャーシューメンデビュー」についてここ数日真剣に考えています。問題はどこで食べるか、なのです。ラーメン屋はどこにでもあると言いつつも、最初で最後になるかもしれないチャーシューメンともなると、せっかく食べるならチャーシューがおいしいところで食べたいな。。
長かった梅雨もすっかり明けて、本格的に暑くなってきました。あと一週間で夏休みに入ろうというところです。これだけ暑くなったというのに、ここ数日僕の頭の中ではこの天気とは真逆のラーメンについてずっと考えているのです。というのも、「人生経験としてチャーシューメンを食べてみるならそろそろラストチャンスなんじゃないか?」ということについてずっと考えてしまうのです。
そもそもラーメンという食べ物自体、お世辞にも体にいいとは思えません。つまりラーメンのおいしさの何割かは背徳の味だと言ってもよいでしょう。僕はそんな部分も含めてラーメン大好き人間なんですが、ラーメン屋では基本的に普通のラーメンを注文します。ワンタンメンは好きなのでメニューにあればたまに頼むことはあります。でも、チャーシューメンは頼んだことが一度もありません。
ラーメン屋でわざわざチャーシューメンを注文するには相応のポテンシャルが要求されるような気がするのです。チャーシューメンはなんだが、「お母さんに怒られそう」というか、ラーメン屋のメニューの中でも突出して背徳感が高いのです。ラーメンの食べ歩きblogを見ると「基本的にチャーシューメンを注文します」とか書いてあったりするのですが、こういう人は背徳への耐性が強いのか、若しくは自分の欲望に正直なのか、どっちにしても僕にはない資質を持っているように見えます。
しかし、40歳を超えたあたりからだんだんと胃腸や食欲が衰えていくのを感じる今日この頃、時々考えるのです。死ぬ前に人生を振り返った時にチャーシューメンを食べた経験がある人生とない人生のどっちがいいか?そう言われたら、そりゃチャーシューメンを食べた経験があった人生のほうがいいような気はします。
一方で、来るべきチャーシューメンを食べる機会があったとしても、それをおいしく食べれる能力を自分の体は失いつつあるんじゃないか?という危惧があります。これは正直に言うと単なる危惧です。本当にそうなのかわかりません。なにせ僕はチャーシューメンを食べたこと無いですから。。しかし、もしこの危惧が正しい、つまり、自分の消化能力とチャーシューメンの乖離は今後どんどん開いていく一方に向かうのであるとするならば、「もうチャーシューメンを食べるなら今しかない」というシンプルな結論になるのです。
チャーシューメンの問題は「お金持ちになったらおいしいステーキを食べてみたい」とか「一生に一度テレビに出てくるような銀座の寿司屋で寿司を食べてみたい」などとは近いようでちょっと違います。ラーメン屋はどこにでもあるし、チャーシューメンはラーメンより数百円払いさえすれば食べられるはずなんです。でも、問題は僕にとってはチャーシューメンを注文するという行為にはその数百円以上に高いハードルが横たわっているのです。
この「40歳を超えての遅咲きのチャーシューメンデビュー」についてここ数日真剣に考えています。問題はどこで食べるか、なのです。ラーメン屋はどこにでもあると言いつつも、最初で最後になるかもしれないチャーシューメンともなると、せっかく食べるならチャーシューがおいしいところで食べたいな。。
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