2021年1月3日日曜日
nikeのCMとアメリカ村の苦い思い出
2020年12月30日水曜日
煉獄さんは反知性主義と戦って落命したのではないだろうか?
年末になりました。今年も例によってこのblogに書こうと思って書かず仕舞いだったことを可能な限り年末年始にしたためてみようかと思います。で、しかしながら、またしても鬼滅の話です。すいません。念のため申し上げておくと、僕はこれを書いている現在、TVで放映された内容以上にちゃんと鬼滅を見ていません。なので、漫画はもちろん読んでないし、みんな泣いたという映画もYouTubeで流れる断片以上には見ていない状態です。しかし、映画の話の筋については、煉獄さんが猗窩座に「鬼にならないか?」と誘われて断って、最後煉獄さんは落命する・・・という程度の粗筋は理解しているつもりで書いています。
鬼滅については「儒教的価値観の復権」という切り口で色々評論されているのをしばしば目にすることがあります。確かに、この作品は鬼殺隊のお館様への「忠」、炭治郎の兄弟への思いやり=「悌」、炭治郎のが倒した鬼に見せる惻隠の情=「仁」など、これまでの少年漫画では有り得ないくらいに儒教的なエッセンスが散りばめられています。一方で、この儒教的価値観の極北にあるのが、ここ数年日本のみならず世界で猛威を奮ってきた「反知性主義」なのではないかと思います。トランプや橋下徹、安倍晋三などの反知性主義者は「目先の勝ち負けに固執する」「弱者に対して配慮したがらない」「自分と政治信条の異なる人の利益を考える気がない」といった点において、儒教的価値観とは非常に相性が悪く見えるのです。
つまり、彼ら反知性主義者は「鬼」そのものなのではないかと思うのです。自分より弱い者の面倒を見たり、意見の異なる他人と折り合おうとしない方が、自己利益の追求だけ考えたら効率的なのです。でも、それを放棄したら、子供も育てられないし、社会を形成することもできない。つまり、人間ではなくなるのです。実際に鬼滅の鬼は子供を成すこともないし、単独でしか行動しない(鬼が群れて自分を襲ってくるのを鬼舞辻無惨が恐れたからだという説明が有りました)という設定になっています。
トランプが選挙に負け、安倍政権がやっと終わる、という形で2010年代に猛威を奮った反知性主義はようやく一時期の勢いを失い始めました。鬼滅の刃という作品はそういう世相に呼応して必然的に出てきたのではないでしょうか?そして、今回の映画の中で煉獄さんは反知性主義に対してNoを突きつけるべきだという強烈なメッセージを日本人に残して落命していったように見えます。その甲斐あってなのか、少しずつではありますが自民党政権に対して忖度する空気も変わってきているように思います。
あと10年くらい経った頃に、煉獄さんは反知性主義に対して反旗を翻した国民的英雄として感謝される日が来る・・・なんてことは無いかもしれませんが、この先の未来がそのような世界になってくれることを願わずにはいられません。
2020年11月30日月曜日
オリンピックがコケなかったら鬼滅の刃はここまでのブームにならなかったんじゃないだろうか?
鬼滅の刃については一回書いちゃったのですが。その後もブームは衰えるどころかどんどん加熱しています。一応申し上げておくと、これを書いてる現在、僕は「地上波で放送されたアニメしか見てない、煉獄さんが死ぬ映画はおろか、原作の漫画も一切読んでない」という立場です。しかしながら、この異様ともいえる鬼滅ブームをみてて、表題にあるように「オリンピックがコケなかったら鬼滅の刃はここまでのブームにならなかったんじゃないだろうか?」ということについてどうしても日々考えてしまうのです。
ここ数カ月の話ですが、とにかく自販機からコンビニのキャンペーンから、何から何まで鬼滅のキャラを目にしないで過ごすことはできないくらい街のあちらこちらに鬼滅のキャラを見かけます。しかし、半年ちょっと前の状況を思い浮かべると、今鬼滅のキャラが占拠している場所は全て「TOKYO2020」で埋め尽くされていたように思います。つまり、「TOKYO2020」で埋め尽くしてた場所を鬼滅で埋め尽くすことによって、あたかも「TOKYO2020」がなかったかのように糊塗することに暗黙の裡に国民的レベルで合意が形成されているように思うのです。
そんな最中に紅白の出場者が発表になりました。鬼滅の歌を歌っているLiSAは今年も当選、まぁ、それはいいとして。「TOKYO2020」と繋がっていた「パプリカ」を歌っていたFoorinが選ばれているのですね。NHKとしてはオリンピックがコケたとはいえ、ここまで散々プッシュしてきたFoorinは切れないのでしょうね。もしも紅白の場で「これで事実上Foorinは解散します」なんていうことは十分ありえるし、そういう形で「TOKYO2020」を供養して終わらせるのが一番美しいと思うのですが。まぁ、たぶんそうはならないですよね。。
前回鬼滅について言及したときに僕は、「鬼滅の果たしている役割は、懼れながら申し上げると天皇である」と言いましたが。この文脈で考えると「TOKYO2020」は、安倍政権が擁立した「天皇」だったのかもしれません。安倍政権はこの「天皇」を錦の御旗として掲げて長期政権を続けてきましたが、この偽物の「天皇」が去ったことで引導を渡されたともいえるでしょう。話を紅白に戻しますが、もしも紅白での出番がFoorin→LiSAだったら、これは「即位」という意味を持つことになる…と思ったのですが。よく見たら両方とも紅組なので連続して出場ということはどうやらなさそうです。
でも、やっぱりオリンピックと鬼滅はどうも繋がってるように見えるんだけどな。。オリンピックのロゴと炭次郎は市松模様で繋がっているし。
2020年10月31日土曜日
日曜の午前中にいいとも増刊号を再放送して欲しい
前回の続きです。
鬼滅の刃の人気が高じて、とうとう関西で鬼滅の刃をゴールデンタイムに再放送というニュースが入ってきました。鬼滅の刃のブームについては色々思うところもあるのですが、ここ最近の鬼滅ブームは過去のエヴァンゲリオンのときともだいぶ様子が違うように思います。鬼滅は老若男女問わずみんな好きなんです。我が家の幼稚園児も鬼滅のキャラは大好きで、毎日のように絵に描いています(アニメはグロ過ぎてみせられないのですが)。エヴァンゲリオンや進撃の巨人のときに、ここまで子供まで巻き込んだムーブメントはなかったと思います。
こういうこと言うと不敬だと怒られるかもしれませんが、現在の鬼滅は何に一番近いかというと憲法が規定する天皇制の役割なのではないかと思います。これだけ多くの国民が「鬼滅大好き」に染まっている様を見ると、鬼滅は「国民統合の象徴」なのではないかと思えてくるのです。しかし、一方では前回も触れたようにこの国では「みんなで同じ地上波のテレビを見ている」ことが終わり始めて、Netflixなどの動画サービスによって各々が好きな物を見るようにマルチカルチャー化が急速に進んでいます。以上をまとめると、かつて「国民統合の象徴」であったテレビがその機能を果たさなくなりつつある中で、鬼滅という一つのコンテンツがその「国民統合の象徴」の役割を果たしていると考えることもできます。そう考えれば、テレビがゴールデンタイムに鬼滅を再放送するのは自然な流れだと思います。
日本人とテレビについて多くの的確な批評を残したナンシー関が存命だった当時、テレビは国民統合の象徴であり、テレビから流れてくる国民的合意事項(というファンタジー)を我々国民は「なんかちょっとヘンな気がするけど、みんな見てるんだからきっとこれでいいんだと思う」と内心疑問に思いつつも納得して享受していました。ナンシー関の功績はそのギャップを的確にとらえてみせたことだと思います。話がナンシー関に少し飛びましたが戻しますと、かつてテレビは国民統合の象徴でありました。そのようにテレビが隆盛を極めた時代の中心に「笑っていいとも!」という番組がありました。僕は今でもときどき「いいとも増刊号をぼんやり見る日曜日の午前中」を過ごしたいと思うことがあります。実際にリアルタイムで放送されていた当時には積極的に見ていたわけでもなかったのですが、あの何もやることもない日曜の午前にぼんやり「いいとも増刊号」を見ている時間が時々懐かしく思えてくるのです。
話を鬼滅に戻しますが、ゴールデンタイムに鬼滅を再放送するというのは「テレビは無理に新しい番組をつくらなくても、国民的な合意形成ができている過去の良質なコンテンツだけ放送すればよい」という時代の始まりのようにも見えます。このような流れが、資本主義が生来的に抱えている「新しい物を無理矢理に作り出さなくてはいけない」「経済成長しなくてはいけない」という病からの解放へと繋がってくれると願いたいです。
以上より、これをキッカケにテレビは中途半端に新しい番組を作るのをやめて、昔の優良コンテンツを再放送する方向に舵を切るべきだと思います。というよりも、そうなっていくと思います。この先のテレビは、緩やかにではありますが「紙メディアでしかエロを摂取できない世代に特化して細々生き残っているエロ本」と同じような道を歩むことになると思います。エロ本は対象世代の嗜好をそのまま反映してか、人妻モノとか熟女モノだけが残っているようです。テレビも今後は老人しか見ないものにだんだんなっていくので、老人が喜ぶような昔のテレビ番組を再放送する形にだんだん近づいていくことになるのは必然だと思います。
2020年10月25日日曜日
斜陽国日本の最後のキラーコンテンツ:池の水を全部抜く
またしてもテレビの話をします。およそ5年ほど前に、日本という国ではネットはテレビに勝てなかったという投稿をしました。この投稿の当時には「多数派でいたい」という人が多数派のこの国において、テレビは最大多数の最大幸福のための娯楽としてインターネットが登場した後も揺るぎない地位な保持していました。しかしここ最近はNetflixなどの動画配信サービスに押されてか、日本という国の国力の衰退を反映しているのか、かつてあれほど栄華を極めたテレビが目に見えて凋落の一途を辿っているように見えます。「悪化乱造」を得にしたかのように、番組の質は下がっていくのに各局とも判で押したように同じような番組ばっかりだし、CMなのか番組なのかわからない通販が増えてきたりと、5年前だったらちょっと想像できないくらいの劣化ぶりですね。
僕自身、Amazon Fire Stick TVを買って以来、家のテレビはほぼNetflixやYouTubeなどのネット動画サービス専用機となっていて、地上波のテレビ番組を見る機会がほとんどなくなりました。かつてはテレビのハードディスクレコーダーの残容量を常に気にしていて、録ったくせに見てもいないデータのせいで残容量が逼迫したときにはそれが原因で奥様とケンカにさえなっていたものでしたが。とうとう、ハードディスクレコーダーの残容量を気にしなくなり始めました。多分もう容量オーバーして溢れてるんだと思いますが、そのまま放置しています。例えとして妥当なのかは分かりませんが、育児放棄してホストクラブなどで好き放題遊んでる母親のような気分をちょっと味わっています。
さて、そんな中でこの前地上波のテレビを見ていたら、池の水を全部抜くという番組をやっていました。これ、最近のテレビ番組では割と当たりの企画のようなのですが、生物の生態系について素人の僕でさえ「こんなことやる必要があるのか?」と思うわけですから、当然その道のプロからは色々と批判されることにはなるわけです。でも、この企画がヒットする理由もすごく分かる気がするのです。この番組では「外来種は駆除、在来種は保護」という極端で単純な二分法によって水棲生物を扱っていますが、このようなシンプルなロジックはネトウヨに代表される排外主義的なマインドに通底しているのです。外来種が捕獲→駆除される様子にカタルシスを感じる人達は、関東大震災の時に朝鮮人を探し出して虐殺することに加担した人達と同じマインドを共有しているのではないかと思います。
「池の水を全部抜く」のもう一方の側面として、日常生活のすぐそばにありながら普段接する機会の無い池に潜んでいる在来種というお宝を「保護」しています。これは、古い蔵や開かずの金庫を開けるテレビ番組と同じで「普段の生活では気にもしていなかったところに隠れているお宝を見つける」というカタルシスを提供していると思います。このフォーマットは「なんでも鑑定団」のような形で四半世紀近く前から存在するのですが、今思えば「なんでも鑑定団」がブレイクしたのはちょうどバブルが弾けたことの具体的な影響を国民が感じ始めた時期でした。伸びしろのなくなったこの国では「向上心を持って努力する」ことよりも「日常生活の中で見落としていた棚ぼた的ラッキー」の方がリアルであることが四半世紀に渡って続いているからこそ、このフォーマットの番組は廃れずに今も残っているんだと思います。
以上まとめると、「池の水を全部抜く」は排外主義と「日常生活の中で見落としている棚ぼた的ラッキー」のコンボでできているので、斜陽国日本の庶民には抜群の訴求力を持ったアタリの企画なんだろうと思います。でも、こんなことしてまで新しいコンテンツを無理矢理作らなくても、テレビは過去に作った優良なコンテンツを再放送してた方がよっぽどマシなのではないか?ということを次回は書いてみたいと思います。
2020年9月6日日曜日
スポンジボブをラカン風に読み解く
前回の投稿でお伝えしたように、動画サービス入会+引っ越しの忙しさによってこのblogを更新するのが2カ月くらい後手に回り続けてきたのですが。引っ越しの疲れによってちょっと病気になり、おかげで酒をやめているために時間も増えたので今まで書こうと思っていて書いてなかった話を一つしてみようと思います。といっても、結局動画サービスとは切っても切れない話で、我が家の幼稚園児がNetflixで狂ったように見続けているスポンジボブについてです。スポンジボブをそれなりに長い時間子供の隣で見ていると、時々「あー、これってラカンのアレだよ!」という描写が度々登場するのです。そこで今回は、スポンジボブとラカンが繋がって見えるポイントについて語ってみることにします。
■「秘密のレシピ」は対象aである
スポンジボブの物語を駆動する一つの要素として、スポンジボブが働いてるカニカーニの看板メニューである「カー二バーガー」の「秘密のレシピ」があります。スポンジボブの話のうちたぶん5回に1回くらいはこの「秘密のレシピ」ネタで構成されているのではないでしょうか。この「秘密のレシピ」ネタの話は、秘密のレシピを奪おうと常に狙っているプランクトンという悪者(カニカーニのオーナーであるカーニさんとは長年敵対しつつも腐れ縁)があの手この手で「秘密のレシピ」を手に入れようとします。
もちろん、何回もネタとして出てくるということは、結局は毎回入手できないのですが。この秘密のレシピの存在自体がラカンの言うところの「対象a」そのものだと思います。対象aについてはウェブで検索すればいくらでも解説が出てきて、それぞれ言ってることが微妙に違ってたりすると思いますが。僕の理解だと、「あらゆる人の欲の中心にあるけど、誰もそれを手に入れることができない。しかし、手に入れることができないことが世界を駆動している。」というものです。わかりやすい例を挙げると、
- 「火の鳥」の火の鳥
- 「桐島部活やめるってよ」の桐島
なんかはその最たる例だと思います。
■「スポンジボブの運転免許」も対象aである
スポンジボブの免許ネタというのもこの作品の中で頻繁に現れるテーマです。スポンジボブは常軌を逸して運転がヘタで、そのために教習所に通っているけどいつまで経っても免許証を手に入れることができないのです。スポンジボブにとっての運転免許というのも、対象aとしてこの物語を駆動していると思います。
■ビキニタウンはラカンの三界における想像界である
三界というのもラカンを語る上で欠かせないキーワードです。今まで聞いた中では、この概念を説明する上ではマトリックスという映画が一番妥当な気がします。スポンジボブの世界もこのラカンの三界と同じような構造を持っていることが時々垣間見えるのです。スポンジボブの世界(ビキニタウン)の大半の登場人物は魚などの海の生物です。これらの海の生き物は魚であっても通常は二足歩行して口を開いて会話する半魚人のような擬人化された形で描写されています。ただし、ビキニタウンという舞台の外に出てしまうと、時々彼らはリアルな魚として描かれる時があるのです。これをラカン風に言うなら、「海の生物はビキニタウンという想像界の中にいる限りは二足歩行して会話する半魚人のように描かれている。しかし、一度ビキニタウンという想像界から出て現実界に入ってしまうと、途端にリアルな魚として描写される」と言えるかと思います。
極まれにですが、スポンジボブは実写の世界と交わったりします。たいていの場合には海賊パッチ―という実写のキャラクターが登場するのですが、こういうシーンもビキニタウン=想像界の外側の存在を知らしめているように見えます。結果的にスポンジボブは「単なる海の生物の擬人化」ではなく、ラカンの三界における象徴界と現実界が折り重なった世界として描かれています。
■スポンジボブとサンディーは三界の結び目に位置する存在
ラカンの三界を持ち出したついでに言うと、海の生物でないスポンジボブ(スポンジ)とサンディー(リス)について言及しておきます。この両名は時々カップルのように描かれることもあるのですが、海の生物ではない故に三界の結び目に位置しているという点が彼らには共通しているのです。この両者でもスポンジボブはまだ「水が無いと干からびてしまう」という点で海の生物と同じ生息圏を共有しています。一方、サンディーは普段は空気のある場所に住んでいて、海の生き物と同じ場所(海中)に出る際には空気を供給できる宇宙服のようなものを装備して海の生物と完全に一線を画しています。
■ラカンと関係ないオマケ:ビキニタウンはバイストン・ウェル
子供がスポンジボブを昼間散々見たあとに、僕は夜な夜な動画サービスでダンバインをみています。ダンバインは「海と大地の間の世界バイストン・ウェル」の物語で、時々「空の上まで行ったら海に出てしまう」という台詞が出てきたりするのですが。これって、海の底の世界であるビキニタウンと同じなのではないかと思えてくるのです。たぶん、ダンバインとスポンジボブを同時に見てる僕じゃないと思いつかないことだろうと思うので、ここについでに書き残しておきます。
2020年9月1日火曜日
今更ですが鬼滅の刃の話を
約2か月に渡って、このblogの更新をサボっていました。理由は新居(中古住宅)のリフォームや引っ越しで忙しかったからです。未だに家の中に段ボールは沢山残ってますし、家のリフォームもまだ続きをやらなきゃいけなかったりで、やらなきゃいけないことだらけなのですが。一方でとりあえず日常生活に問題ない程度には片付いています。「いやいや、ここで気を抜いてはいけない、ちゃんとやらなきゃ」という気持ちと「とりあえず暮らせるようになったし、いいや」という気持ちとのせめぎ合いの中を日々暮らしています。
もう一つblogの更新をサボってしまっていた理由は、とうとう動画サービスに入ってしまったからです。引っ越しで忙しくなるので子供の相手をせずに済むように動画サービスに入ってみたたものの、子供が寝た後は僕自身が酒飲みながらぼんやり動画サービスでアニメを見るのがすっかり定着してしまったのです。いやー、あんなのあったらいくらでも廃人になれますよ。しかも引っ越しの諸々で疲れてると、自分が楽をできる方向についつい流れてしまうのです。おかげで、ここ数か月はblogは更新してないし本もロクに読んでいません。
そんな矢先に、なんと病気になってしましました。おそらく引っ越しを含めて夏の疲れが溜まっていたのでしょうが、現在投薬治療中です。ちゃんと治せばちゃんと治る病気なんだそうですが、これまで経験したことないレベルで日常生活に支障をきたす(飲食が難しい)レベルの病気なので、さすがに投薬治療中は酒は飲めなくなりました。これによって、今まで夕食後に酒とアニメで埋めていた時間がなくなったので、いい加減サボっていたblogを更新しようかということになったのです。
前置きがだいぶ長くなりましたが、そう、鬼滅の刃の話でした。結局、世のブームに乗ってアニメは動画サービスで全話見ちゃいました。いやー、これ、みんなが騒ぐのも分かるくらい面白かったです。四半世紀くらいジャンプはまともに読んでないですが、ジャンプの漫画として新たな可能性を開拓したんじゃないかとさえ思いました。以下はTV放送されたアニメだけを見ただけのコメントです。ちょっと前に漫画は完結しているらしいので漫画で一気に読んじゃいたいけど、一過性のブームで消費するのは勿体ない気がするので続きをアニメでじわじわ見ていきたいです。というわけで、漫画をちゃんと読んだ人から見ると的外れな事も言ってるかもしれませんが、そこはご容赦ください。
■主人公がしっかり者
これまでのジャンプ漫画の主人公の王道はドラゴンボールの悟空やHUNTER X HUNTERのゴンなど、「ちょっと抜けてて、どこかおバカ」なのです。これは長嶋茂雄や浅田真央にも通じる日本人がどうしても好きなキャラクターであり、ONE PIECEのルフィに至ってはこの路線の最終形だと思います。一方で鬼滅の刃の主人公の炭次郎は思慮深くて明るく前向きな、リーダータイプの優等生なのです。もう四半世紀以上ジャンプはまともに読んでないですが、「こんなに非の打ちどころのない完璧な人間が主人公の漫画がジャンプで連載されている」ということに、隔世の感を覚えずにはいられませんでした。
■波紋法=呼吸法による肉体への回帰
鬼滅の刃の作者本人も言及しているそうですが、鬼滅の刃はJOJOから多大な影響を受けているようです。たとえば、「JOJO」の吸血鬼と「鬼滅の刃」の鬼は、「太陽の光に弱い」という設定が類似しています。そしてこのJOJOとのつながりの中で最も重要なのはJOJO第二部までの「波紋法」と鬼滅の刃の「呼吸法」の類似性です。ここからちょっと脱線してJOJOの話になりますが、JOJOは第二部までは「波紋法」という肉体技によるバトル漫画でした。そこから第三部になって「スタンド」という異能力で戦うことが中心のバトル漫画に大きく様変わりします。現在では「スタンド」はこの後に少年漫画の主流となる「異能力バトル漫画」の元祖という位置づけにされているようなのですが、当時小学校高学年だった僕は「スタンド」が登場したときに「あれ?肉体で戦わなくていいの?あ、でもみんな受け入れちゃってるんだ。そうなんだ。。」と違和感を感じたのを覚えています。
今にして思えば、「スタンド」はその当時のバブル末期→破綻という世相とリンクしていたのではないでしょうか。つまり、もう汗水たらして肉体で戦う(稼ぐ)よりもバーチャルで戦う(稼ぐ)という時代の空気に合致していたように思います。話を鬼滅の刃に戻すと、鬼滅の刃は鬼(=異能力)と人間(=呼吸法と剣)を戦わせることによって、人間の戦い方をもう一度肉体のドメインに戻すことを試みているように見えたのです。ややこじつけな感はありますが、バブル崩壊以降もバブル期と同じ「マネーゲームとしての経済」という価値観だけをそのまま延命させてすがりついてきた日本人が、またかつての身体性を伴った経済に回帰しようとしている過程とリンクしているように思えるのです。こうやって考えると、鬼滅の刃のブームと安倍政権の崩壊は繋がっているとも言えるのではないでしょうか。
■鬼を倒すことで鬼が供養される
倒される鬼の側についてもそれぞれのドラマがちゃんとあって、特に鬼が刀で首を切られて絶命するまでの間に走馬灯のように鬼になるに至ったキッカケや鬼としての苦悩などが描写されます。「鬼を倒して供養する」というのはどこか能に通じるところがあるのではないかと思いました。