2019年7月20日土曜日

吉本興業と新自由主義

これを書いている現在、吉本芸人の闇営業事件について宮迫とロンブーの亮が記者会見を行いました。ちょっと予想してなかった展開になりましたが、所属芸人の反社会勢力とのつながりを云々する以前に、当の吉本そのものが反社会勢力のような組織であることが明らかになりました。
ここ数年でテレビがすっかりお笑い芸人だらけになったのは、制作費が昔より安くなってきたためにコストが安いお笑いが重用されるようになったからだそうです。つまり、彼らはテレビに出てはいるけど、我々庶民が思っているほどは給料もらえてないのかもしれません。実際に、闇営業の背景については岡村隆史が言及するように「そうしないと食べていけない芸人も多い」という事情もあるようです。

そもそも、今回の一連の闇営業問題についての吉本の対応があまりにスクエア過ぎて、ちょっとどうなんだろうと思うことが多かったです。「何も変えない」契約なし、ギャラも上げない、移籍の自由もなしという社長のコメントには現場の芸人からも反論が出てました。この会社のコンセプトは非常に単純明快で、自分たちに都合のいいことにだけコンプライアンスなどの倫理規範を持ち出しますが、自分たちの都合の悪いこと(契約書で給与を明示するなど)については一般社会の概念には一切つきあわない。ということのようです。
吉本の社長はこのような姿勢を「吉本は家族的な会社」という言葉で自己肯定しにかかっています。なるほど、「家族」だと言えば「ウチはウチ、ヨソはヨソ」という理屈が通る…と言いたいんでしょうね。でも、家族なんだったら食べていける程度に給料を払うような扶助はするべきなんじゃないでしょうか?これは家族というアナロジーの文脈でいうとDVそのものです。

このような「DV=劣悪な雇用環境下での激しい生存競争の中でも文句言わずに勝ち抜き続けることを要求される」ということは、お笑いだけでなくタクシーやアイドルなど、なり手がいくらでもいる業界ではどんどん常態化していっています。そしてこの風潮は高橋源一郎が以前指摘していたように政治も含めて日本全体を覆いつくしています。
吉本と自民党は、この新自由主義的な世界観を共有していると思います。例えば松本人志なども弱肉強食の競争には非常に肯定的なコメントをしていますよね?(ネットカフェに寝泊まりする人について、「だんだん部屋小さくしていったら?」とか言ってました)。松本人志は安倍晋三とごはんたべてましたし、先日吉本の芸人が安倍晋三と戯れてましたよね?

例えばアメリカは徹底した新自由主義の国ですが、貧富の差があってもお金持ちが貧者に対して寄付することで支えることである程度社会全体が破綻を免れるようにできています。芸人の世界も売れっ子が若手に飲み食いをさせたりすることで扶助するなど、日本における新自由主義の特殊事例として割とうまくいってそうな印象はありました。少なくとも、これまでは。
先日のジャニーズ事務所への指導とセットで考えると、テレビ地上波というメディアで栄華を極めた二大勢力(ジャニーズと吉本)が相次いでその綻びを見せ始めているように見えます。吉本の幹部は「キー局は吉本の株主」と言っていたそうですが、この幹部の発言はテレビ地上波がオワコンに向かっているという可能性を全く考慮できていません。そろそろこの一連のシステムが限界に達して、新しい時代を迎えているのではないでしょうか?

そしてちょうど明日は選挙です。このあたりから世の中が変わってくれないかなぁ。

ビジネス英語ってどんな英語なんだろう?

奥様経由で、奥様のママ友から「ダンナが会社で英語をやれと言われているんだけど、どうやって勉強すればいいと思う?」と聞かれました。そのダンナ様ご本人にちゃんと確認したわけじゃないからどの程度本気で聞いているのかもわからないけど、本気で聞かれたとしてもあまり相手にとって有用なアドバイスができる気が全くしないのです。というのも、自分の場合こんないきさつで、周りの環境がキッカケになって紆余曲折の末今に至ってます。なので、「どうやって勉強したらいいと思う」と言われても「こうやればいいよ」という方法は具体的には思いつかないのです。

そもそも「英語=勉強するもの」という問題の前提自体が間違っている気もします。ある程度文法や語彙を勉強することは必要なんだけど、それだけを勉強し続けてもペーパーテストである程度の点は取れるようになっても、会話ができるようにはまずならないと思います。しかし、TOEICで点を取るのがとりあえずの目標なのであれば、それに向けた「勉強」はご当人にとっては意味があるのかもしれません。
と、ここまできて設問の前提の新たな問題にたどり着くのですが。「英語をやる」って何のためなんでしょうか?TOEICの点数を取りたいのか、外国人となんとなく雑談できるような汎用的なコミュニケーション力を求めているのか、自分の仕事の専門分野について外国人と会話できるようになることなのか…たいていの上司が言う「英語をやれ」という指示はこのあたりの目的が全く不明瞭です。ここがクリアになるともう少し具体的な提案ができそうな気がします。

目的によらず汎用的に有効だと思う方法を一つ提案すると、「シャドウイングはやる価値がある」と僕は思います。シャドウイングというのは、ネイティブの発話をひたすら真似して喋るというものです。地味な作業の反復になるのであまり面白みはないですが、ある程度ちゃんとやれば誰でも必ず効果は出ると思います。
なぜシャドウイングか?というと、語学に関しては「聞けたかったら話しなさい」だからです。口頭での言語コミュニケーションは、情報のやり取りという観点からいうと、情報を音にエンコード(符号化)して送ったものを受け手側でデコード(解読)していることになります。
言いたいこと → 発話運動 → 音 → 耳で聞く → 意味を理解する
もうこの段階でだいたいわかると思いますが、どのようにエンコード(発話運動)しているのかが分からないとデコード(リスニング)できるようになるわけないのです。以上がシャドウイングをおすすめする理由です。

最後にようやく「ビジネス英語」の話になるのですが。この機会にちょっと世の中の英会話教室や英語教材をネットで探してみました。すると、世の中には「ビジネス英語」なるものが存在するようです。ネット情報によると「とりあえずビジネスで使えればいいという想定で、敬語を使ったり使用頻度の高い定型フレーズの使い方を覚える」ということなんだそうですが。そんなカチコチした定型フレーズしか喋れないような人がビジネスの現場で通用するんでしょうかね?
この「ビジネス英語」を極めて、仕事でバリバリ英語を使っている人は実在するなら会ってみたいです。どうも僕には「ビジネス英語」というのは、「プロになれる人なんてほんの一握りしかいない音楽専門学校」のような物なんじゃないかと思えてくるのです。それとも、世の中の「ビジネスマン」は「ビジネス」って頭につけられると「自分にもできそう」と思うんでしょうかね?僕は「ビジネス」っていう言葉を見た瞬間に、おじさんが履いてるような紺色のナイロン靴下が頭の中でイメージされて「ああ、これは自分とは関係ない」と思ってしまうんですが。

京都アニメーション放火事件とオウム

7月も下旬だというのに、いつまでも梅雨が終わりません。天気はずっと悪いままな上に、会社でも色々とあって、常にイライラ、悶々とした日々を過ごしております。こういう時に気分転換をするのがヘタな方だという自覚はあるのですが、そんなときに京都アニメーションの放火事件が起きました。ニュースで伝えられている話からすると、犯人はほぼ僕と同年代です。

このニュースを見たとき、不思議と疚しさ、罪悪感のようなものを感じました。自分の鬱々とした感情が放火と繋がっているような気がしたのです。そしてその次に思い出したのは、村上春樹の「アンダーグラウンド」という本についてでした。あの本は大昔に人から借りたものの、長すぎて途中で読むのをやめてしまったのですが。村上春樹があんな長い本を執筆するに至った経緯には「オウム事件についての共犯意識」があったのは間違いないと思います。

「アンダーグラウンド」以後の村上春樹の著作には、「直接自分が手を下していない殺人に対する共犯意識」が度々描かれています。例えば、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では「シロ=ユズ」を殺したのは自分ではないのか?という罪悪感に登場人物は苦悩します。「海辺のカフカ」でも、縁もゆかりもないはずの遠く離れた老人と少年の繋がりを描く中で、「老人が人を殺すと、遠く離れた少年は自分の手が血まみれになって目覚める…」という描写があります。

件の放火のニュースを見て、なんかこれはいかんぞ。という気分になったので、鬱々として気分を少しでも昇華するために最近思っていることをblogにしたためようという気分になりました。この投稿も普段に比べたら分量少な目だし、もうちょっと広げたり練ったりすると面白くなる可能性もいくらかあるのですが、そんなことよりもどんどん書いて吐き出したい。というわけで、今からどんどん連投します。

そうでもしないと、自分が次の放火犯になってしまうような気がしてならないのです。

2019年6月17日月曜日

プレゼンの時間を大幅に超過する彼らは何が問題かというと

ここ最近は、日曜のお昼ご飯を「NHKのど自慢」を見ながら食べるのが我が家の定番になってきました。年齢も社会階層も違う色々な人が「歌」で繋がっているのが面白いのです。この番組は全体としては日本社会の均質性を体現している一方で、その中で出演者が無自覚のうちに放っている日本社会の微細な多様性が垣間見えるのです。毎回必ず最低一人は「この人普段何してるんだろ?」と考えてしまうような不思議な人が出てくるんですよ。
しかし、のど自慢を見ていて時々「あーあ。。」と思うことがあるのです。歌い終わった後のアナウンサーのインタビューに対して、どうでもいいことを延々喋って尺を食ってしまう人が必ず一人はいるのです。たいてい年配のおじさんで、しかも、合格じゃなかった人。アナウンサーも「さっさと会話を切り上げたい」という空気を相槌の端々に匂わせているのに、空気を読まず(読めず)そのまま尺を食ってしゃべり続けるので、見てるこっちもハラハラ、イライラすることになるのです。

これと同じような気分になるのが、会社で限られた時間枠内で複数人がプレゼンを行う機会です。月に最低1回はこういう機会があるのですが、想定されている時間配分を守ってオンタイムで進行することなんてほとんどありません。最初からできるわけないと分かっているのに「質疑応答込みで一人10分で、終わりが近づいてくるとベルを鳴らしますから、時間厳守でお願いします」とか言うだけは言うんですよ。でも、場を主催している側も言うだけは言うけど本気で守らせるつもりが無いんですよね。
特に前に立って喋るのがエラいオジさんたちばかりなのにことごとく時間超過していると、「この会社は自分の喋る尺も管理できないようなオジさんでも管理職になれる会社です。しかも、場を主催する立場の人もそこそこのポジションのくせに、オジさんたちが尺を超過することを分かっていながらなんのリスクヘッジできません。というより、しようという気がありません。」ということをわざわざ下々を集めてプレゼンしてるだけにしか見えなかったりするときもあります。

先日、まさにそんな場で自分が最後に発表する立場だったのですが。最初の人がいきなり所定の時間の1.5倍も使ってしまったために、そのフォローのために自分の発表の内容をいくつか削ったり、巻きで話すために色々とせわしなかったり…というような目に遭いました。終わった後さすがに本人から「反省しました」というメールは届いたのですが、彼がこうやって時間超過した皺寄せを受けるのは今回に限ったことではありません。
この文脈で言いたいことはこのblogの初期の投稿「遅刻に厳しいけいど終わる時間には寛容な日本人」にも通じるところがあります。日本だと始まる時間には意味不明なまでに厳格ですが、尺を管理できずに時間を超過することにはなぜか寛容です。僕から見ると、仮に遅刻したとしても残り時間に応じてプレゼンの内容を適切に再構成して時間内に終わらせられる方が、終わった後の時間は予定通り進むのでマシだと思うのですが、なぜか日本人はそうは思わないみたいです。

この話を展開した先に到達する結論を一言で言うと「プレゼンの時間が守れない人は日本型マザコンの特徴である」になるのですが、この話を始めると長くなるのでそこは置いとくとして。プレゼン時間の尺を守れない人に共通しているのは、だいたい話を聞いててもつまらないということです。いつまでも聞いてたくなるような面白い話だったら、時間超過してもらってもまだ許せなくもないのですが。残念ながらプレゼン時間を過剰に超過する人の話が面白かったという事例はほとんど記憶にありません。
なぜこうなるかというと、彼らの本質的な問題点は「自分が分かっていほしいことを話している」からなんだと思います。わざわざこうやって書くのも躊躇するくらい凡庸でつまらない一般論ですが、プレゼンの基本としては「相手が聞きたいことを話す」だと思います。ところが、時間を超過して喋り続ける彼らはこのような受け手の視点から自分の話の内容を検討することができてないように思います。だから彼らは受け手から見ると「どうでもいい話」に時間を割いてしまうのではないでしょうか?僕にはそんな彼らは「自分をそのまま受け入れてくれるママ」に向かって喋っているように見えます。

2019年5月6日月曜日

おじさんがプリキュアにハマる気持ちがわかるようになってきた

10連休。だったはずなのに今日が最終日です。GW前に引いた風邪がだいたい治ったかとおもったら、ぶり返して2日寝込んだり、車のミラーを壊してしまったり…そうこうしているうちに終わろうとしています。せめて最後になんかやった気になれるようなことの一つでもしようと思い、久しぶりにこのblogを更新しようと思い立ちました。以前も長期休暇の最終日に同じことをしたのですが、これはここから本稿で述べる「面倒くさい」病へのカウンターだと考えるのが妥当な気がします。
つまらない話で恐縮なのですが、僕もここ最近は年相応に仕事が忙しくなり始めました。しかも、40歳超えると何かしら体力的にもさらに1ランク下がってきてるのが実感できるようになりました。するとどうなるかというと、仕事以外の時間に何か「余計なことをする」ことについて考えなくなるのです。たとえば、ずっと使っている携帯をいい加減変えようと前々から思っているのですが、つい面倒くさくなって「まぁいいか」をここ1年くらいずっと続けています。もう少し若くて時間があった頃なら、次の携帯は何を買うか考えたりすることをそれなりに楽しんで検討できたと思うのですが。最近はそれよりも「面倒くさい」の方が勝ってしまうのです。

この「面倒くさい病」による「おじさん化」の進行は僕の帰宅後のささやかな楽しみの一つである「録画しといたテレビを夜な夜なビール飲みながら見る」ことにも、少しずつ影響が出てき始めています。たとえばちょっと前までやっていた「約束のネバーランド」というアニメは最初数回だけ見たら後は見なくなってしまいました。話はまぁまぁ面白かったんですけど、作品全体を覆っている空気(鬼に食べられる食糧として育てられている子供達が脱走を試みる)が重い上に、毎回脱走計画が行き詰まったりバレそうになるのが見ちゃいられないのです。
また、内容が深くてぼんやり流して見れないようなNHKの教養番組も、撮ったはいいけど見るのが面倒くさくなってHDDの中にどんどん溜まっていくようになりました。こちらはGWで暇なときにある程度見て解消できたのですが、録画した後に「ちゃんと見る」というサイクルを維持することがだんだん面倒くさくなってきてるのは実感しています。とまぁ、こんな具合に、ここまでに何回書いたかわからないですけど、とにかくいろいろなことが「面倒くさい」と思うようになってきました。

さて、ようやく本題のプリキュアなのですが。先日、会社で同僚の女性社員(女の子が一人いる)から「酸味げるさんって時々プリキュアの話してますよね?実はうちのダンナが最近プリキュアにハマり始めて、過去の作品の動画を見たり歌を覚えたりし始めて色々ヤバいんですが。。で、家で酸味げるさんの話をしたら、酸味げるさんを同志のように思い始めたみたいで、それでよかったらこれどうぞって…」と言いながら、箱買いしたプリキュアのお菓子を一つもらってしまうことがありました。
まぁ、確かにダンナちょっと大丈夫か?とは思いました。しかし同時になんとなく気持ちがわからないでもないなと思いました。プリキュアの何が素晴らしいかというと、
・最後ハッピーエンドで終わることが保証されているので安心してみれる
・敵を倒すというよりは敵の救済→共生の物語である
といったところでしょうか。別の言い方をすると、プリキュアは性善説の彼岸に位置する神話のようなものに思えるのです。そして。これが、色々なことが面倒くさくなったおじさんにはすごく効くのです。みんなそうかはさておき、少なくとも僕の場合はそうでした。

もしも10年以上前の「余計なことがしたい」盛りだった頃の僕がプリキュアを見たら、諸々の設定のディテールの幼稚さがいちいち気になって見ていられなかっただろうと思います。当時の僕はプリキュアよりも攻殻機動隊みたいに世界観やストーリーが大人向けに緻密に練られた作品の方にまだ関心を持てたと思います。しかし、今となっては逆に攻殻機動隊は観るのが「面倒くさい」部類に入りつつあります。細かすぎて疲れるんです。それよりは娘と一緒にプリキュア見てた方がいいかなと思います。
以上を踏まえた上での話ですが、エンターテイメントの中でプリキュアに一番近いのはたぶんプロレスなのではないかと僕は思います。ドロップキックを受けるプロレスラーを見て「あんのはやらせのショーだ」と切り捨てるのは誰でもできるのですが、そんなことよりリング上で展開される戦いに熱狂したり魅了されたりするには相応のリテラシーが要求されます。この「理屈を一旦放棄する」というリテラシーにおいて、大人になってプリキュアにハマれる人とプロレスファンはつながっているような気がします。

でも、僕はせいぜい子供と一緒に見る程度で十分なのですけどね。。

2019年3月3日日曜日

「便利」のコスト

コンビニ業界 転換点 セブン「脱24時間」実験へというニュースを見て、「とうとうこういう日が来たのか」という安堵のような気持ちと、「いずれこうなるってわかってたでしょ?」という暗澹たる気持ちが混ざったなんとも言えない気分になりました。コンビニ業界は外国人の技能実習生を店頭に立たせてまでコンビニという業態を死守しようとしていますが、そんな悪あがきをしたところでとうとう逆らいきれなくなったのでしょうね。
何度もこのblogに書いている話ですが、その昔スペインから日本に帰ってきたときの話をまたします。2年間スペインで生活して日本に帰ってきたときには、あまりにアレもコレも違い過ぎて日本人の世界に強烈な違和感を感じました。僕は6年以上経った今でもそれをずっと引きずり続けているのですが、そのうちの一つに、「夜が無駄に明るすぎる」というのがありました。都会ならまだしも、僕の住んでいるような地方都市でさえ深夜に開いてるお店がたくさんあるのです。その煌々とした光を放っているものの一つがコンビニです。

コンビニという業態はその名の通り、日本人に「便利は正義」という価値観を植えつけながら成長してきました。スーパーに比べたら値段が割高でもコンビニが成立するのは、コンビニが啓蒙してきた「便利」に対して我々日本人が合意の上で「便利税」として割高な料金を払ってきたからだと思います。その果てには「コンビニで手に入る物で生活はだいたい事足りる」というような人も結構な数いると思います。ここに至っては、日本人はコンビニの啓蒙する「便利は正義」という価値観に都合のいいように自己造形してきたとさえ言えるでしょう。
この「便利は正義」の自転車操業的な展開によって、コンビニは公共料金の払い込みやATM,コーヒーマシンに至るまであらゆるサービスを取り込んでいき、社会インフラの一翼を担うまでに至ったわけです。こうやってサービスを増やしていけばそれだけ店舗運営の労力は増えていくわけですが、それをフランチャイズ制という形で店のオーナーやその下のバイトに一方的に押し付けつづけるのにもとうとう限界がきたのでしょう。上記の東京新聞の記事にあるように、牛丼やファミレスなどの外食チェーンはもう数年前から不必要な24時間営業を見直す方向に舵を切っています。おそらく外食チェーンはフランチャイズ制ではないために不利益を押し付ける相手もいないのでコンビニより先にこうならざるを得なかったのでしょう。

日本のどこかしこも「人手不足」とは言ってるのですが、この「人手不足」には「都合よく安い給料で働いてくれる人材」という暗黙の但し書きがついているように思います。コンビニだってもっと給料払えば働きたいという人はいるはずですが、フランチャイズのオーナーにとって採算が合うような範囲では「人手不足」なのです。その窮余の策として外国人の技能実習生を店頭に立たせてなんとか凌ごうということになってしまうのだと思います。
じゃぁ今まではどうやって凌いでいたのか?と考えると、かつてそこを埋めていたのは「フリーター」だったのではないかと思います。今から20年くらい前に僕が学生だった頃は「フリーター」という業種の人が結構な数いましたが、最近はフリーターという言葉は最早死語の響きさえ帯びています。「なぜそうなったか?」の話をすると長くなるのでそこはさておき、かつてコンビニの24h営業を可能にしていたのは彼ら「フリーター」の存在に依るところが大きかったのではないでしょうか?

以上をまとめると。「便利の追及」の自転車操業によってコンビニは現在の地位を築き上げました。しかし、「便利」にするためのコストは膨らむ一方で、それを店舗オーナーやバイト(特にフリーター層)に押し付けながらここまで来ました。それがいつか破綻する日がくることはなんとなくわかっていたのですが、とうとう「便利」のコストを押し付ける先がなくなってしまったために24h営業が成立しなくなった…ということではないでしょうか。本当は「便利の追及」以上に本質的な問題として「日本の衰退」が背景にはあると思うのですが、それについて書いてたらまとまらないので、またいつかの機会にしようと思います。
これを書きながら、学生時代に毎日のように発泡酒を買いに行ってたコンビニのフリーターの店員の事を思い出しました。神田さん(仮名)という30手前くらいのフリーターの店員は、研究室からの帰り(深夜4時くらい)に行くとほぼ必ず店にいて、あんまり毎日通ってるうちに少しだけ挨拶を交わす間柄になりました。そのコンビニで昼間バイトしている大学の後輩に神田さん(仮名)について聞いたら「あの人フリーターなんですけど、あの人がいないとあの店は回らないんですよ。週6とかでシフト入ってますから。」と言っていた。神田さん(仮名)は今どこで何をやってるんだろう?たぶん年齢的には50歳に近いはずなんだけどな。。

2019年1月14日月曜日

RIZAP的な詰め込みは”学び”と言えるんだろうか?

年明け以降、上司命令で東京のビジネススクールの講座に出張で通う羽目になりました。3月末までの間に数回の講座の度に新幹線に乗って出張しなければいけない上に事前に宿題が出たりと色々面倒この上ないのですが。どうしてもイヤというわけでもないので、今回は逆らわずに受けてみることにしました。新卒で入社して以来、大半の時間は社外の人とも接することなく過ごしてきたので。たまにはそういう場に出てみるのも悪くないと思ったわけです。
がしかし。1回目の講義を受けた段階で、もう既に次に行くのが正直なところ面倒になってきているのです。講義が始まる前は、隣の席におネイルがバッチリのお姉さん(仕事は超文系の総合職)が座ってたりしたので、ちょっとウキウキしていたのですが。講義が始まるなり講師の人が「皆さんで楽しく学びましょう!」と元気一杯に言い出して、そこからは乗せられた受講生が小学生のように手を挙げる…という展開が3時間続いたのです。

さすがに講師もプロですから、このあたりは手馴れたものだなと思いました。集団としての我々日本人は「互いに空気読みあって消極的になる」か、「幼稚園児みたいに従順になってはしゃぐ」の、どちらかしかできないということをつくづく思い知らされました。例えば、思春期くらいになると学校の音楽の授業ではお互いに空気を読みあってまともに誰もちゃんと唄おうとしないですよね?かたや、テレビで中高生の合唱の全国大会を見ていると、ヤバいクスリでもやってるんじゃないかと思うくらい目を見開いて恍惚の表情で歌ってる人がいますよね。我々日本人が集団として取りうる行動はこのどっちかしかないのではないかと思います。
「楽しく学ぶ」のは結構。でも、我々日本人にそれを言いっても、「うわついたりはしゃいだりせずに落ち着いて学ぶ」ということはどうしてもできないのです。このような「ハイ」な状態というのは短期的に情報を詰め込んで洗脳するに一番効率がいいのは認めるのですが、それは中長期的な「学び」を喚起するとは僕にはどうしても思えないのです。中長期的に学びを維持するためには「落ち着いて考える」ことを地道に繰り返すしかない。

本当の「学び」というのは教えられることを鵜呑みにするのではなく、「本当にそうかな?」「なぜそうなるんだろう?」と考えることの中にしか存在しないと思うのです。
これに対して、この手のセミナーは短期間で受講生の「何か学んだ・達成できたかのような気分」を最大化することだけが目的になっていて、結局やってることがRIZAPと変わらないと思うのです。講師の人の口ぶりを聞いてる限りでは、”ビジネス”という言葉さえ持ち出せば「洗脳による詰め込み」が正当化されると考えているような節があるのですが、「洗脳による詰め込み」って受講生の知性を見下してナメてるとしか僕には思えないのです。
一時的にハイになっている状態で学んだことの中に、後々臨終の間際に人生を振り返って「あれで人生変わった」と思えるようなことが含まれている事は絶望的に期待できないと思います。本来の意味での「学び」が起動すれば後はほっといても学び続けることになると思うのですが、ここで一時的にハイになってはしゃいでる人は講座が終わった後にそこから先を自ら学ぼうとはしないでしょう。せいぜい同じようにハイになって洗脳されることを「学び」だと思って自転車操業的に同じようなことを追いかけるんじゃないかと思います。

この講座の一番辛いところは、宿題として事前にやってきた課題(例えば「自分で企画書を作る」というようなものだと思ってください)を受講生同士で添削させられることなのです。なんとなく想像つくと思いますが、残念な人とペアにされると本当に苦痛な時間になってしまうのです。いきなり一回目でハズレをひきました。僕が作ってきた企画書は授業で教えられるような模範的な枠組みとはかなり違う構成になっていたのですが、残念なパートナー氏は僕がやってきた課題について何一つ褒めずに、授業で教えられたことを杓子定規に振り回して問題点だけを指摘してきました。
以下はそのとき僕が頭の中で考えてたことです。「あのさー、さっきから講義で言ってる話は『こういう風にした方がうまく行くことが多いよ』という経験則の話でしかなくて、その通りじゃないものはダメって言ってるわけじゃないはずなんだよ。どんなモデルやテンプレートにも適用可能な限界は必ずあるし、それだけが正解ではないんだよ。たぶんアンタ、自分の頭で考えてないことに自覚ないよね?あとさ、ダメ出しはしてもらって構わないんだけど、相手のいいところをいくつか見つけて褒めてバランス取るでしょ、普通?ダメ出しなんてアホでもできるんだけど、相手のいいところ見つけて褒めるほうがはるかに難しいんだよ。」

ちなみに「ビジネススクール」の講座は欧米のビジネススクールのものをそのまま教えているんだそうです。欧米人の思考様式や習慣という大前提が共有できていない日本人に表面的なテクニックとして欧米人の猿真似をやらせるからこんなことになるんだと思います。欧米人は例えばプレゼンなどに対して反対意見を述べるときでも、まずプレゼンした人の話のいいところを見つけて褒めるところから話を始めます。ビジネススクールは、まずこういうところでの「欧米人のフォーム」を教えることから始めてくれないかな。。

あと数回、先が思いやられる。。