2021年5月1日土曜日

オリンピックと国体

GWに入りました。とはいえ朝は前日同様に4時台に目が覚めてしまいました。優秀な社畜たる自分を褒め称えるために「僕の休日に乾杯!」といいながら一人で朝からビールを2本飲んじゃった勢いで本稿を書き始めたもののきれいにまとまらず、夜になって再度体裁を整えています。さて。これを書いている現在は、

  • 大阪の医療崩壊に直面して、ちょっと前に解除したばかりの緊急事態宣言を再度発令
  • オリンピック組織委員会がオリンピックのために看護師500人の派遣を要請
  • インドで変異株が猛威をふるっていて、医療が完全に崩壊
という状況です。


今回の緊急事態宣言発令はオリンピックを返上するチャンスだったんじゃないかと思います。それも、もしかしたら最後のチャンスくらいだったのかもしれません。オリンピックに関する日本の対応については、あらゆる点で戦前の日本との共通点が指摘されていますが。この期に及んでも国民の生命よりもオリンピックの方が重要であると言わんばかりに頑なに開催の一点張りの現政権を見ていると、オリンピックは戦前における「国体護持」と同じような位置付けなのではないかと思えてきました。


世界各地で感染拡大が止まらない状況を鑑みると、選手の派遣を見送る国も出てくるだろうと思います。たとえオリンピックを開催できたとしても、日本以外の参加国が少い国体みたいなオリンピックになってしまうのではないでしょうか。つまり、オリンピックという「国体」は護持できたとしても、それは日本以外の参加選手が少ない国体みたいなオリンピックになってしまう可能性があります。そして、そんなオリンピックで日本のメダルラッシュに日本人だけがはしゃいでる…という結果になってしまうのではないかと危惧しています。


そんなオリンピックは世界に誇れるのでしょうかね?このコロナの状況下で無理矢理オリンピックを強行開催しても、結果的にオリンピックの権威を辱める行為として世界中から非難を浴びることになるのではないでしょうか?最初は「おもてなし」とか言ってはしゃいでたはずなのに、自公政権はコロナの失政をオリンピックを盾に「欲しがりません勝つまでは」という精神論にすり替えらて国民に我慢を強いてきたわけですが。国民にとって、これ以上我慢をした末に無理矢理オリンピックを開催しても結局何もいい事なんて無いんじゃないでしょうか。

2021年4月13日火曜日

「多様性」って簡単に口にする日本人について思うこと

 春になりました。とはいえ、しがないサラリーマンの僕には、これといって大した変化の無いまま桜が咲くだけの春が今年もやってきました。でも人生半分終わってしまった身としては、また桜が咲いているのを見れたという、ちょっと若い頃にはなかった感慨のようなものもあります。そんな春先なのですが、わが社の将来について考えるプロジェクトの報告を見る機会が最近ありました。その中で「多様性」と言う言葉が錦の御旗のように振り回されているのを見て、色々考えてしまったので、その話を今回は書きます。


SDGsの中に「多様性」というキーワードがあるせいか、昨今なにかと「とりあえず多様性って言う人」が増えてるように思うのですが。「多様性」って言うのは簡単なんですけど、「多様性」という言葉で何をイメージするかは個々人のそれまでの人生経験の振れ幅がそのまま反映されてしまうので、「多様性って大事だよねー」と違口同音に唱えている人の間でも実はかなり大きな乖離があるのではないかと思うのです。つまり、「多様性」という言葉でイメージすることが多様であるという再帰関係が存在するのですが、そのことが意識できてない人が多いように思うのです。


こういうこと言うと「海外経験マウンティングを取りにいってる」と言われるのであんまり会社では人前で言えないのですが、件の「多様性って大事ですよね」という報告を聞いたときの率直な印象としては「それって、ケンミンshowレベルの日本人の間でのチマチマした差異を多様性って言ってるだけなんじゃないのか?」と思ってしまうのです。確かにどこの国に行ってもケチな人、よくしゃべる人、怖そうな人…いろんな人がいるのは事実なんですが。でも一方で「多様性」という文脈で扱われるべき差異とは民族、宗教、性的指向など、差別や社会的分断をもたらすようなもっと大きな枠組みの話だと思います。


ちょっと話がそれますが、日本には武田鉄矢を筆頭に「坂本龍馬が好き」っていう人が結構いらっしゃるのですが。確かに、会社の設立や新婚旅行など、今の規範からしてみれば当たり前のことを最初にやった点では先駆者なのですよ。でも、脱藩などの行動にも見られるように、当時の常識からしたらほぼ変人と言ってもいいでしょう。「坂本龍馬が好き」と何の躊躇もなく公言できるような人って、こういうことを勘定に入れて考えられない人のように思うのです。つまり、もし今の時代に坂本龍馬みたいに規格外の行動を取る人がいたら真っ先に排斥しにかかるようなタイプの人が多いのではないかと思います。


話を多様性に戻します。「多様性」という言葉を安易に使う人にも「坂本龍馬が好き」という人と同じような感想を禁じ得ないのです。安く軽く簡単に「多様性」とか口にする人に限ってたぶん実際は多様性の芽を摘みたがるような人なのではないでしょうか。本当に多様性を大事にするなら、たとえ「多様性なんてどうでもいい」という人でさえも尊重するべきだと思います。これは、親鸞の悪人正機説にも通じる発想だと思うのですが、そこまでの覚悟を持って言うなら「多様性」という言葉も真に受けてもいいと思います。

2021年2月21日日曜日

NiziUとオリンピック組織委員会

 年明け以降、忙しさにかまけてこのblogをすっかり放置しておりました。まぁ、いつものことです。これを書いている現在、森喜朗の女性蔑視発言に端を発して、オリンピックの組織委員会の会長にすったもんだの末にようやく橋本聖子に決定した…という状況です。

話のマクラにオリンピックの話を持ち出したのですが、ここから少し昨年末の紅白歌合戦の話をします。この紅白歌合戦では、初出場のNiziUとナントカ坂の新旧アイドルがこれでもかというくらいに対照的に見えました。ナントカ坂はどのグループをとっても正直なところ同じに見えました。全員が同じ衣装で「替えのきく部品」として規格化された中で細かい個々人のキャラを楽しむ…というところはAKB商法そのままに見えるんですが、この手法そのもののオワコン感も含めてナントカ坂は総じて下り坂に見えました。

一方のNiziUですが、こちらは日本人がやってるけどイデオロギー的には韓国アイドルです。衣装もそれぞれ微妙に違ってる。ダンスもレベルが高い。BTTSの成功などを引き合いに出すまでもなく、「グローバル市場からやってきた黒船」なのです。NiziUとAKB=秋元との決定的な違いは何だろう?と考えると、NiziUは女の子に向けて訴求できることが大きいんじゃないかと思います。

思い返してみれば、男のための都合のいいアイドルvs男以外も楽しめるアイドルという構図について話を始めると、おニャン子クラブくらいから遡って長い歴史があると思うのですが。AKBは秋元康がおニャン子の成功体験を焼き直していたはずなのに、「会えるアイドル」という新規コンセプトの導入と引き換えに、おニャン子が確立した「女の子に支持される」という要素を捨ててしまったという弱点が、NiziUのブレイクのよって露見する形になりました。

男のための都合のいいアイドルと違って、NiziUは恋愛禁止なんていうことは言わなさそうだし、スキャンダルが発覚したからといって頭を丸めさせられるようなことはたぶんないでしょう。つまり、NiziUは女性が解放されている感じがするのです。他にもEXILEファミリーのアイドルとして売り出しているgirls girlsなど、ダンスに重点を置いて女の子から支持されるようなアイドルが市民権をだんだん支持を集めつつあるようです。

さて。オリンピック組織委員会の話に戻りますが。オリンピック組織委員会の数々の問題は、AKBのような「男のための都合のいいアイドル」が幅を利かせていた日本という国の在り方と同根の問題なのではないでしょうか。イデオロギー的には韓国アイドルなNiziUとの違いを見ても分かるように、AKB的なアイドルは日本のガラパゴス環境でしか成立しないわけです。そして、NiziUの台頭にも明らかなように、この国のアイドル市場にもとうとうグローバル化の波が押し寄せてきています。

こういう時代の潮目を全く読めないような、頭の中が昭和のままの老人の集団がオリンピックのような国際イベントを仕切っているということで、結果的にこの国の恥を世界に晒してしまいました。森喜朗の子分の橋本聖子を組織委員長に据えるよりも、現行の組織委員会を全員解任して代わりにNiziUのメンバー全員を組織委員会に入れるとか、それくらい思い切ったことをするべきなんじゃないかな?と思ってしまう次第です。

2021年1月3日日曜日

nikeのCMとアメリカ村の苦い思い出

あけましておめでとうございます。月に1回程度しか更新しないような開店休業状態を長年続けているこのblogに熱心な読者がいるかどうか、僕の知るところではないですが。もしいるとしたら、本年も月一くらいのペースで更新しますので、思いついた時にチェックしてください。
今年は僕の冬休みが一週間もないので、これを書いている現在は「明後日は仕事始めだ、やれやれ」という気持ちです。そんな状況なので、せめて去年からずっとここに書きたかったことを少ししたためてみようと思います。

このblogの端々で時折言及しているように僕は高校卒業まで大阪で育ちました。高校生くらいにもなるとそれなりに流行りの若者文化に触れたくなったりするもので、当時の関西の若者文化のアイコンでもあったアメリカ村にビビリながらも足を踏み入れたことが何度かありました。しかしながら、アメリカ村のショップ店員もその道のプロですから、「あー、イケてないグループの子が頑張ってアメリカ村に来たんやな」ということはすぐに気取られてしまうのです。それを察知するや否や、ショップ店員達は「君、このシャツで決まりちゃうん?」とタメ口でいきなりまくし立ててくるのです。そこには、イケてない高校生を見下すようなやや侮蔑的なニュアンスも含まれていたように思います。こちらとしては、「なんでナケナシの金払ってまでオマエの言いなりにならなあかんねん!選ばせろ!」と、著しく気分を害するのですが。入る店ごとに同じことの繰り返しになるので、金もない上にイケてない自分が悪いかのような気分を引きずりながら何も買わずに逃げるようにアメリカ村を後にすることが何度かありました。

高校生の時のアメリカ村の話がだいぶ長引いてしまいましたが、そろそろ本題です。ちょっと前にnikeのCMが色々騒がれていた件についてです。あれについて「日本に差別は存在しない」などと言って攻撃するネトウヨについては、今更どうこう言う必要もないと思うのですが。でも、僕も一周回ってあのCMがあんまり好きになれませんでした。理由は、高校生の時にアメリカ村のショップ店員から感じたのと同じような上から目線の態度をあのCMから感じたからです。
つまり、スポーツの持っている力をnikeが政治利用しようとしているのがどうしても鼻についてしまったのです。「スポーツや芸術にはしばしば人種や宗教や政治の枠を超える力がある。それに人は感動することがある。」これは事実だと思います。でも、それはあくまで受け手が選択するものであって、スポーツ用品を売っている企業が「ほら、スポーツすごいでしょ?感動するでしょ?」という押し付けがましい態度を取ってしまうと一転して興醒めするようなものだと思います。

故・ナンシー関は、90年代くらいから日本のTVのオリンピック報道が「感動をありがとう」といった感動ポルノの形になっていルコとを鋭く指摘していました。30年近く経った今も、日本という国は未だにスポーツを「感動ポルノ」の文脈でしか扱えない、いや、むしろ昔よりむしろひどくなってきているのではないかとさえ思います。繰り返し申し上げますが、スポーツが感動を呼ぶことは否定しないのです。でも、「感動」するかどうかについては受け手に100%の自己決定権が与えらるべきです。スポーツ用品のメーカーやテレビ局が勝手に受け取り方を強制する権利はないと思いますし、むしろスポーツによってもたらされる感動というのは、そういう社会的な押し付けによって一瞬で興醒めするような類の物だと思います。

言いたいことはだいたい終わりなので、冒頭のアメリカ村のショップ店員の後日譚を少々。その後、社会人になってそこそこ自由になるお金も手にした後に、僕は正月に実家に帰省しました。丁度これを書いている今くらいの時期でした。とはいえ正月に実家にいてもやることが特にないので、相当久しぶりにアメリカ村へ行ってみることにしました。そこで僕は積年の恨みを晴らすためのショップ店員撃退法を編み出したのです。店に入ってしばらく経つと必ず寄ってくるショップ店員に「何探してんの〜?」と聞かれたら、「微妙にダサい服ない?」と返すのです。
彼らは「カッコいい」を上から目線で客に啓蒙することには慣れている、というか、それ以外の可能性について考えたことがそもそもなさそうなのです。なので、「微妙にダサい服ない?」と返されると、彼らはほぼ思考停止状態に陥ります。そして、「え〜っと〜‥‥‥微妙にダサい服‥‥‥」と、困惑しながらも店の中の服をあれこれ探した後で「え〜っと、これとかどう?」と半分笑いながらヤケクソで言ってきます。ここで間髪入れずに「いや、それホンマにダサいだけやん。ぜんぜん微妙じゃない。」と返すと、彼らはグウの音も出なくなります。

かくして、アメリカ村のショップ店員を撃退する必勝法を編み出した僕は、高校生時代からの積年の恨みを晴らすため、アメリカ村のアパレル店に入っては同じことを繰り返して、ショップ店員を切って捨てて歩いたのでした。これももう15年も前の話なので今のアパレルで同じことが通用するかはなんとも言えませんが、アパレル店員との付き合いに困っている人は一度お試しください。もう干支一回り以上行ってないけど、アメリカ村ってまだあるのかな?

2020年12月30日水曜日

煉獄さんは反知性主義と戦って落命したのではないだろうか?

 年末になりました。今年も例によってこのblogに書こうと思って書かず仕舞いだったことを可能な限り年末年始にしたためてみようかと思います。で、しかしながら、またしても鬼滅の話です。すいません。念のため申し上げておくと、僕はこれを書いている現在、TVで放映された内容以上にちゃんと鬼滅を見ていません。なので、漫画はもちろん読んでないし、みんな泣いたという映画もYouTubeで流れる断片以上には見ていない状態です。しかし、映画の話の筋については、煉獄さんが猗窩座に「鬼にならないか?」と誘われて断って、最後煉獄さんは落命する・・・という程度の粗筋は理解しているつもりで書いています。

鬼滅については「儒教的価値観の復権」という切り口で色々評論されているのをしばしば目にすることがあります。確かに、この作品は鬼殺隊のお館様への「忠」、炭治郎の兄弟への思いやり=「悌」、炭治郎のが倒した鬼に見せる惻隠の情=「仁」など、これまでの少年漫画では有り得ないくらいに儒教的なエッセンスが散りばめられています。一方で、この儒教的価値観の極北にあるのが、ここ数年日本のみならず世界で猛威を奮ってきた「反知性主義」なのではないかと思います。トランプや橋下徹、安倍晋三などの反知性主義者は「目先の勝ち負けに固執する」「弱者に対して配慮したがらない」「自分と政治信条の異なる人の利益を考える気がない」といった点において、儒教的価値観とは非常に相性が悪く見えるのです。

つまり、彼ら反知性主義者は「鬼」そのものなのではないかと思うのです。自分より弱い者の面倒を見たり、意見の異なる他人と折り合おうとしない方が、自己利益の追求だけ考えたら効率的なのです。でも、それを放棄したら、子供も育てられないし、社会を形成することもできない。つまり、人間ではなくなるのです。実際に鬼滅の鬼は子供を成すこともないし、単独でしか行動しない(鬼が群れて自分を襲ってくるのを鬼舞辻無惨が恐れたからだという説明が有りました)という設定になっています。

トランプが選挙に負け、安倍政権がやっと終わる、という形で2010年代に猛威を奮った反知性主義はようやく一時期の勢いを失い始めました。鬼滅の刃という作品はそういう世相に呼応して必然的に出てきたのではないでしょうか?そして、今回の映画の中で煉獄さんは反知性主義に対してNoを突きつけるべきだという強烈なメッセージを日本人に残して落命していったように見えます。その甲斐あってなのか、少しずつではありますが自民党政権に対して忖度する空気も変わってきているように思います。

あと10年くらい経った頃に、煉獄さんは反知性主義に対して反旗を翻した国民的英雄として感謝される日が来る・・・なんてことは無いかもしれませんが、この先の未来がそのような世界になってくれることを願わずにはいられません。

2020年11月30日月曜日

オリンピックがコケなかったら鬼滅の刃はここまでのブームにならなかったんじゃないだろうか?

 鬼滅の刃については一回書いちゃったのですが。その後もブームは衰えるどころかどんどん加熱しています。一応申し上げておくと、これを書いてる現在、僕は「地上波で放送されたアニメしか見てない、煉獄さんが死ぬ映画はおろか、原作の漫画も一切読んでない」という立場です。しかしながら、この異様ともいえる鬼滅ブームをみてて、表題にあるように「オリンピックがコケなかったら鬼滅の刃はここまでのブームにならなかったんじゃないだろうか?」ということについてどうしても日々考えてしまうのです。

ここ数カ月の話ですが、とにかく自販機からコンビニのキャンペーンから、何から何まで鬼滅のキャラを目にしないで過ごすことはできないくらい街のあちらこちらに鬼滅のキャラを見かけます。しかし、半年ちょっと前の状況を思い浮かべると、今鬼滅のキャラが占拠している場所は全て「TOKYO2020」で埋め尽くされていたように思います。つまり、「TOKYO2020」で埋め尽くしてた場所を鬼滅で埋め尽くすことによって、あたかも「TOKYO2020」がなかったかのように糊塗することに暗黙の裡に国民的レベルで合意が形成されているように思うのです。

そんな最中に紅白の出場者が発表になりました。鬼滅の歌を歌っているLiSAは今年も当選、まぁ、それはいいとして。「TOKYO2020」と繋がっていた「パプリカ」を歌っていたFoorinが選ばれているのですね。NHKとしてはオリンピックがコケたとはいえ、ここまで散々プッシュしてきたFoorinは切れないのでしょうね。もしも紅白の場で「これで事実上Foorinは解散します」なんていうことは十分ありえるし、そういう形で「TOKYO2020」を供養して終わらせるのが一番美しいと思うのですが。まぁ、たぶんそうはならないですよね。。

前回鬼滅について言及したときに僕は、「鬼滅の果たしている役割は、懼れながら申し上げると天皇である」と言いましたが。この文脈で考えると「TOKYO2020」は、安倍政権が擁立した「天皇」だったのかもしれません。安倍政権はこの「天皇」を錦の御旗として掲げて長期政権を続けてきましたが、この偽物の「天皇」が去ったことで引導を渡されたともいえるでしょう。話を紅白に戻しますが、もしも紅白での出番がFoorin→LiSAだったら、これは「即位」という意味を持つことになる…と思ったのですが。よく見たら両方とも紅組なので連続して出場ということはどうやらなさそうです。

でも、やっぱりオリンピックと鬼滅はどうも繋がってるように見えるんだけどな。。オリンピックのロゴと炭次郎は市松模様で繋がっているし。

2020年10月31日土曜日

日曜の午前中にいいとも増刊号を再放送して欲しい

前回の続きです。

鬼滅の刃の人気が高じて、とうとう関西で鬼滅の刃をゴールデンタイムに再放送というニュースが入ってきました。鬼滅の刃のブームについては色々思うところもあるのですが、ここ最近の鬼滅ブームは過去のエヴァンゲリオンのときともだいぶ様子が違うように思います。鬼滅は老若男女問わずみんな好きなんです。我が家の幼稚園児も鬼滅のキャラは大好きで、毎日のように絵に描いています(アニメはグロ過ぎてみせられないのですが)。エヴァンゲリオンや進撃の巨人のときに、ここまで子供まで巻き込んだムーブメントはなかったと思います。

こういうこと言うと不敬だと怒られるかもしれませんが、現在の鬼滅は何に一番近いかというと憲法が規定する天皇制の役割なのではないかと思います。これだけ多くの国民が「鬼滅大好き」に染まっている様を見ると、鬼滅は「国民統合の象徴」なのではないかと思えてくるのです。しかし、一方では前回も触れたようにこの国では「みんなで同じ地上波のテレビを見ている」ことが終わり始めて、Netflixなどの動画サービスによって各々が好きな物を見るようにマルチカルチャー化が急速に進んでいます。以上をまとめると、かつて「国民統合の象徴」であったテレビがその機能を果たさなくなりつつある中で、鬼滅という一つのコンテンツがその「国民統合の象徴」の役割を果たしていると考えることもできます。そう考えれば、テレビがゴールデンタイムに鬼滅を再放送するのは自然な流れだと思います。

日本人とテレビについて多くの的確な批評を残したナンシー関が存命だった当時、テレビは国民統合の象徴であり、テレビから流れてくる国民的合意事項(というファンタジー)を我々国民は「なんかちょっとヘンな気がするけど、みんな見てるんだからきっとこれでいいんだと思う」と内心疑問に思いつつも納得して享受していました。ナンシー関の功績はそのギャップを的確にとらえてみせたことだと思います。話がナンシー関に少し飛びましたが戻しますと、かつてテレビは国民統合の象徴でありました。そのようにテレビが隆盛を極めた時代の中心に「笑っていいとも!」という番組がありました。僕は今でもときどき「いいとも増刊号をぼんやり見る日曜日の午前中」を過ごしたいと思うことがあります。実際にリアルタイムで放送されていた当時には積極的に見ていたわけでもなかったのですが、あの何もやることもない日曜の午前にぼんやり「いいとも増刊号」を見ている時間が時々懐かしく思えてくるのです。

話を鬼滅に戻しますが、ゴールデンタイムに鬼滅を再放送するというのは「テレビは無理に新しい番組をつくらなくても、国民的な合意形成ができている過去の良質なコンテンツだけ放送すればよい」という時代の始まりのようにも見えます。このような流れが、資本主義が生来的に抱えている「新しい物を無理矢理に作り出さなくてはいけない」「経済成長しなくてはいけない」という病からの解放へと繋がってくれると願いたいです。

以上より、これをキッカケにテレビは中途半端に新しい番組を作るのをやめて、昔の優良コンテンツを再放送する方向に舵を切るべきだと思います。というよりも、そうなっていくと思います。この先のテレビは、緩やかにではありますが「紙メディアでしかエロを摂取できない世代に特化して細々生き残っているエロ本」と同じような道を歩むことになると思います。エロ本は対象世代の嗜好をそのまま反映してか、人妻モノとか熟女モノだけが残っているようです。テレビも今後は老人しか見ないものにだんだんなっていくので、老人が喜ぶような昔のテレビ番組を再放送する形にだんだん近づいていくことになるのは必然だと思います。