2021年10月24日日曜日
僕は日本語の文章に!と(笑)は使いたくない
2021年9月11日土曜日
白鵬にだけ品格を求めるのはどうなんだろ?
2021年9月4日土曜日
角川文庫とオリンピック
- 誰が見てもオリンピックと関係があるとしか思えない感染爆発が日本中に広がっている
- 関東を中心に自宅療養という名目で医療崩壊が起きていて、とうとう感染者の妊婦が自宅で自力出産の末に赤ちゃんが亡くなるという事件まで起きた
- それでもパラリンピックは予定どおり開幕した
- 一方で、フジロック開催の是非については賛否両論の議論になっている
- 自公政権への国民の不満が募る中、スガ首相のお膝元の横浜市長選で自民党惨敗→とうとうスガ首相が退陣を表明
という状況です。 日本のテレビはコロナの被害を伝える一方で、オリンピック&パラリンピック関連のトピックについては依然として今まで通りはしゃいでいます。日本のテレビを見ていると、オリンピックを開催している日本という国は、今自分が生きている日本とはどこか別の場所にあるような気がしてしまいます。このように、日本全体が統合失調症のような状態に陥ってるのを見ていると、結局日本人の内的自己と外的自己の分裂という症状はオリンピックでは快癒することなどなかったのだということを思い知らされます。「オリンピックの開催=外的自己の満足」と「メダルラッシュ=内的自己の満足」で支持率が維持できるとスガ政権は考えていたようですが、これらはどちらも岸田秀が言うように「幻想」でしかないのです。「幻想」はコロナによる生命の危機や、生きる糧を奪われた飲食業の人々の問題を何も解決できません。結果としてスガ政権は散々強気で通した挙句にとうとう崩壊しました。
2021年7月11日日曜日
「騎士団長殺し」と佐野元春
- この世界の問題はそう簡単には解決しないのが、未来に希望を託そう
- 震災と原発事故によって、日本という国は何か重たいものを抱えてしまった
2021年6月29日火曜日
今更ながら改めて考えてみる「おもてなし」
これを書いている現在、
2021年5月1日土曜日
オリンピックと国体
GWに入りました。とはいえ朝は前日同様に4時台に目が覚めてしまいました。優秀な社畜たる自分を褒め称えるために「僕の休日に乾杯!」といいながら一人で朝からビールを2本飲んじゃった勢いで本稿を書き始めたもののきれいにまとまらず、夜になって再度体裁を整えています。さて。これを書いている現在は、
- 大阪の医療崩壊に直面して、ちょっと前に解除したばかりの緊急事態宣言を再度発令
- オリンピック組織委員会がオリンピックのために看護師500人の派遣を要請
- インドで変異株が猛威をふるっていて、医療が完全に崩壊
今回の緊急事態宣言発令はオリンピックを返上するチャンスだったんじゃないかと思います。それも、もしかしたら最後のチャンスくらいだったのかもしれません。オリンピックに関する日本の対応については、あらゆる点で戦前の日本との共通点が指摘されていますが。この期に及んでも国民の生命よりもオリンピックの方が重要であると言わんばかりに頑なに開催の一点張りの現政権を見ていると、オリンピックは戦前における「国体護持」と同じような位置付けなのではないかと思えてきました。
世界各地で感染拡大が止まらない状況を鑑みると、選手の派遣を見送る国も出てくるだろうと思います。たとえオリンピックを開催できたとしても、日本以外の参加国が少い国体みたいなオリンピックになってしまうのではないでしょうか。つまり、オリンピックという「国体」は護持できたとしても、それは日本以外の参加選手が少ない国体みたいなオリンピックになってしまう可能性があります。そして、そんなオリンピックで日本のメダルラッシュに日本人だけがはしゃいでる…という結果になってしまうのではないかと危惧しています。
そんなオリンピックは世界に誇れるのでしょうかね?このコロナの状況下で無理矢理オリンピックを強行開催しても、結果的にオリンピックの権威を辱める行為として世界中から非難を浴びることになるのではないでしょうか?最初は「おもてなし」とか言ってはしゃいでたはずなのに、自公政権はコロナの失政をオリンピックを盾に「欲しがりません勝つまでは」という精神論にすり替えらて国民に我慢を強いてきたわけですが。国民にとって、これ以上我慢をした末に無理矢理オリンピックを開催しても結局何もいい事なんて無いんじゃないでしょうか。
2021年4月13日火曜日
「多様性」って簡単に口にする日本人について思うこと
春になりました。とはいえ、しがないサラリーマンの僕には、これといって大した変化の無いまま桜が咲くだけの春が今年もやってきました。でも人生半分終わってしまった身としては、また桜が咲いているのを見れたという、ちょっと若い頃にはなかった感慨のようなものもあります。そんな春先なのですが、わが社の将来について考えるプロジェクトの報告を見る機会が最近ありました。その中で「多様性」と言う言葉が錦の御旗のように振り回されているのを見て、色々考えてしまったので、その話を今回は書きます。
SDGsの中に「多様性」というキーワードがあるせいか、昨今なにかと「とりあえず多様性って言う人」が増えてるように思うのですが。「多様性」って言うのは簡単なんですけど、「多様性」という言葉で何をイメージするかは個々人のそれまでの人生経験の振れ幅がそのまま反映されてしまうので、「多様性って大事だよねー」と違口同音に唱えている人の間でも実はかなり大きな乖離があるのではないかと思うのです。つまり、「多様性」という言葉でイメージすることが多様であるという再帰関係が存在するのですが、そのことが意識できてない人が多いように思うのです。
こういうこと言うと「海外経験マウンティングを取りにいってる」と言われるのであんまり会社では人前で言えないのですが、件の「多様性って大事ですよね」という報告を聞いたときの率直な印象としては「それって、ケンミンshowレベルの日本人の間でのチマチマした差異を多様性って言ってるだけなんじゃないのか?」と思ってしまうのです。確かにどこの国に行ってもケチな人、よくしゃべる人、怖そうな人…いろんな人がいるのは事実なんですが。でも一方で「多様性」という文脈で扱われるべき差異とは民族、宗教、性的指向など、差別や社会的分断をもたらすようなもっと大きな枠組みの話だと思います。
ちょっと話がそれますが、日本には武田鉄矢を筆頭に「坂本龍馬が好き」っていう人が結構いらっしゃるのですが。確かに、会社の設立や新婚旅行など、今の規範からしてみれば当たり前のことを最初にやった点では先駆者なのですよ。でも、脱藩などの行動にも見られるように、当時の常識からしたらほぼ変人と言ってもいいでしょう。「坂本龍馬が好き」と何の躊躇もなく公言できるような人って、こういうことを勘定に入れて考えられない人のように思うのです。つまり、もし今の時代に坂本龍馬みたいに規格外の行動を取る人がいたら真っ先に排斥しにかかるようなタイプの人が多いのではないかと思います。
話を多様性に戻します。「多様性」という言葉を安易に使う人にも「坂本龍馬が好き」という人と同じような感想を禁じ得ないのです。安く軽く簡単に「多様性」とか口にする人に限ってたぶん実際は多様性の芽を摘みたがるような人なのではないでしょうか。本当に多様性を大事にするなら、たとえ「多様性なんてどうでもいい」という人でさえも尊重するべきだと思います。これは、親鸞の悪人正機説にも通じる発想だと思うのですが、そこまでの覚悟を持って言うなら「多様性」という言葉も真に受けてもいいと思います。