我が家はWOWOWと契約しております。シングルインカムのサラリーマン家庭では、月々2500円だってバカにはできないのですが、それでも僕がリーガ・エスパニョーラを見たいので契約しているのです。そのついでと言ってはなんですが、WOWOWは映画プログラムが充実しているので、ときどき映画も録画してみています。
さて。先日、WOWOWで「鋼の錬金術師」(以下、面倒なのでハガレンと略します)の実写版の映画をやっていたのですが、今回はそれを見てて色々と思ったことをしたためてみようと思います。言いたいことを簡潔な一言にすると、タイトルにあるようにこの映画は原作の世界を踏襲した映画というより日本人によるハガレンのコスプレ大会に見えてしまいました。
まず。ハガレンの世界は西部開拓がひと段落した後のアメリカみたいな雰囲気がなんとなく漂っています。蒸気機関車は存在するけど自家用車はまだ存在しない…という世界感はあの作品の根幹を成す非常に重要な要素です。しかし、実写映画のロケ地はこの作品の世界観とかなり乖離していてかなり残念でした。ここにロケ地の情報がありましたが、欧州とアメリカの区別もぐちゃぐちゃで、「なんか欧米っぽかったらいいんでしょ?」と言ってるように見えます。
そして何よりも問題なのは、主要キャストが全部日本人だということです。これも実写にしてしまう以上仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが、どのキャラクターも日本人が演じるとコスプレにしか見えないのです。僕が監督だったらキャストは全員外国人にして、セリフだけ全部日本語に吹き替えにすると思います。そっちの方がまだ原作の世界観に対して誠実な気がします。
つまり、ハガレンの実写化は「漫画やアニメで既に高い完成度で作品の世界観を確立しているものを、わざわざ後発で実写にすることで劣化させた」ように見えるのです。ただでさえ小説や漫画の原作が存在するものを実写やアニメなどの他のメディアに持っていくと、がっかりすることは往々にしてあります。しかし、ハガレンの場合は漫画→アニメと来た流れの後でわざわざ無理のある実写を作って大失敗しているように見えるのです。ハガレンだけ非難するのもどうかと思うので、ちゃんと見たこともないことは正直に断った上で言いますが、進撃の巨人の実写版が散々酷評されていたのもハガレンと全く同じ話だと思います。
僕が現役でアニメオタクだった1990年前後の時代には、かたや宮崎勉事件の名残がまだあり、他方ではトレンディドラマ華盛りし時代で、我ながら一番厳しい時代にアニメオタクをやっていたと思います。それでも当時の僕は「アニメだったら人が空を飛んでても何も違和感が無いけど、実写だったらどうしても違和感が出てしまう。アニメの方が実写よりも表現手段として自由度が高いはずだ。」と、思ってました。あれから四半世紀以上経ちましたが、今もこの見解は妥当であると思っています。
以前このblogでも言及したのですが、ガンダム以前のアニメはなんとなく第二次世界大戦を引きずっていました。だからガンダムより前の時代、例えばちょっとガンダムより前の長浜ロマンロボくらいまで主人公側は基本的に日本人風のキャラクターだったのです。ガンダムはロボットアニメにリアリティを持ち込んだりと色々な革命をもたらしたけど、「日本人ぽくない人が主人公側にいる」という意味でも非常に意味深い作品だったと思います(後日譚として、主人公が日本人ぽくないのはよろしくないという当時の風潮があったので、アムロは鳥取にルーツを持つ日系2世という言い訳をしていたそうです)。
以上の歴史を踏まえた上でハガレンや進撃の巨人の後発の実写版のキャストを見ると。40年前にガンダムがようやく手にした「日本人ぽくないキャラでもよい」という自由を、わざわざ後発で日本人キャストによる実写映画を作ることで台無しにしているように見えるのです。これを円環が一巡りしたんだと考えることももちろん可能ではあるんだろうけど、やっぱり僕には漫画→アニメときた後で、不用意にコスプレごっこの実写映画を作ったことには「退化」に見えてしまうのです。
2018年10月28日日曜日
2018年10月16日火曜日
レンタル店に未来はあるのか?
「お父さん、休みの日だからってゴロゴロしないで!」と言われながら、掃除機をかけている奥様に邪見に扱われる…そんな漫画みたいなおじさんになる日が自分に訪れるとは全く思ってませんでした。少なくとも、子供が生まれるまでは全くそんなこと考えていなかったと思います。しかし、子供が生まれてひと段落して気が付いてみたら、僕は休日をほぼ「漫画みたいなお父さん」のように過ごしています。
なんでそうなるか?という問いに一言で答えると、「日本の育児においてお父さんは実質的には大して役に立たない」からです。もうちょっとちゃんと説明すると、役に立たないからといって、家族を放ったらかしで遊んでていいかというとそんなこともない。つまり、日本のお父さんというのは「育児において役に立たないけど、その役に立たなさにじっと耐える」ことが要求されているのです。
これを具体的に実践すると、休日は「ただ家でゴロゴロしている」しかないのです。奥様と子供の間の関係は平日も含めた日々の生活の中でしっかり構築されていて、そこに僕が休みの日だからといって張り切って混ざりに行ってもウザがられて終わるだけなのです。だからといって、自分ひとりで好き勝手に遊びにも行けない…となると、家でゴロゴロしている以外にできることか無いのです。
さて、こんな冴えない休日ではありますが、たまに子供と僕の二人だけで外出できるチャンスがあるなら、そういう時はなるだけ二人で外出するようにしています。理由は単純で、普段子供の相手をほとんど押し付けっぱなしになっている奥様に一人きりになれる時間を作ったり、普段なかなか無い母親不在での子供と二人だけの時間を作ったりできるわけです。それは、基本的に「役に立たないお父さん」としてゴロゴロしてるだけの休日の中では、ちょっとだけお父さんも張り切っちゃう時間なのです。
そんなわけで先日、子供が行きたいというので某大手のレンタル店にやってきました。ここは奥様が会員になっているので僕は奥様の会員カードを持っていきました。子供がプリキュアなどなどのDVDを選んできたのでいざセルフレジで会員カードで精算…とやろうとしたら「このカードはご利用になれません。カウンターまで来てください。」というメッセージが画面に表示されました。言われるがままカウンターに行くと、店員のお兄ちゃんが「これカードの名義が****様ですよね?ご本人様以外はご利用になれません」と言われてしまいました。かくして、結局一旦家に帰って奥様本人が後でお店まで行って借りることになりました。
この店員の言ってることは規約上は何もおかしくないんだろうとは思うのです。しかし。例えば「身分証明書見せて苗字が一緒だったら家族だろうと推測されるから使っていいことにする」とか、その程度の融通の利く対応はできないんでしょうか?あらゆるサービスが「個人」にしか紐づいていなくて、「家族」という単位には結びついてくれないのはなんとも不便な気がするのです。例えばスペインだと銀行口座を奥様と共有するということができました。この場合、口座番号は一つだけで、そのカードを奥様と僕のそれぞれのために個別に発行してくれるのです。このサービスは今思い出しても非常に合理的でした。
同じようにレンタル店の会員資格を家族全員で共有しちゃダメなんですかね?だって、同時に借りられるソフトの上限は1個の会員資格につき決まった上限があるわけですから、会員資格を「口数」単位で購入して家族で共有するのは理にかなっているように思います。実際、我が家のように子供のためにDVD借りに行くだけの利用方法の場合、家族の誰かが都度子供を連れていくことになるので、家族間で会員資格を共有できてくれるとすごく助かるのです。
何よりもこういう融通の利き方ができないと、リアル店舗のレンタル屋とネットの動画配信サービスの差がどんどん広がる一方だと思うのです。ネットの動画配信サービスの場合、アカウントとパスワードさえ共有してしまえば誰が実際に使っているかは不問になります。つまり、サービスを家族全体で共有することができちゃうわけです。ただでさえ、お店までわざわざ行くのが手間だったり、ほかの人が借りてると借りれなかったり、店舗に在庫を抱える以上マイナーな作品までラインナップするのが難しかったり…と、実店舗のレンタル店は動画配信サービスに比べると色々不利な点があります。件のレンタル店の対応は、規則には順じているのですが結果的にレンタル店という業態そのものの「緩慢な自殺」のように僕には見えるのです。
とまぁ、ここまで色々文句言いながらもなんで我が家が動画配信サービスではなくリアル店舗にこだわっているかというと、
・多少たりとも子供と家の外に出るキッカケにしたい
・定額見放題の配信サービスは子供のテレビっ子ぶりに拍車がかかる
と、リアル店舗のデメリットが程々に我が家にとって都合がよいからなのです。子育て世代にはこんな理由でリアル店舗を利用する人がまだそこそこいるんじゃないかと思うのですが。そんな層に対しての利便性を向上させる努力をしないと、リアル店舗に明るい未来が見える気はやっぱりしないのであります。
なんでそうなるか?という問いに一言で答えると、「日本の育児においてお父さんは実質的には大して役に立たない」からです。もうちょっとちゃんと説明すると、役に立たないからといって、家族を放ったらかしで遊んでていいかというとそんなこともない。つまり、日本のお父さんというのは「育児において役に立たないけど、その役に立たなさにじっと耐える」ことが要求されているのです。
これを具体的に実践すると、休日は「ただ家でゴロゴロしている」しかないのです。奥様と子供の間の関係は平日も含めた日々の生活の中でしっかり構築されていて、そこに僕が休みの日だからといって張り切って混ざりに行ってもウザがられて終わるだけなのです。だからといって、自分ひとりで好き勝手に遊びにも行けない…となると、家でゴロゴロしている以外にできることか無いのです。
さて、こんな冴えない休日ではありますが、たまに子供と僕の二人だけで外出できるチャンスがあるなら、そういう時はなるだけ二人で外出するようにしています。理由は単純で、普段子供の相手をほとんど押し付けっぱなしになっている奥様に一人きりになれる時間を作ったり、普段なかなか無い母親不在での子供と二人だけの時間を作ったりできるわけです。それは、基本的に「役に立たないお父さん」としてゴロゴロしてるだけの休日の中では、ちょっとだけお父さんも張り切っちゃう時間なのです。
そんなわけで先日、子供が行きたいというので某大手のレンタル店にやってきました。ここは奥様が会員になっているので僕は奥様の会員カードを持っていきました。子供がプリキュアなどなどのDVDを選んできたのでいざセルフレジで会員カードで精算…とやろうとしたら「このカードはご利用になれません。カウンターまで来てください。」というメッセージが画面に表示されました。言われるがままカウンターに行くと、店員のお兄ちゃんが「これカードの名義が****様ですよね?ご本人様以外はご利用になれません」と言われてしまいました。かくして、結局一旦家に帰って奥様本人が後でお店まで行って借りることになりました。
この店員の言ってることは規約上は何もおかしくないんだろうとは思うのです。しかし。例えば「身分証明書見せて苗字が一緒だったら家族だろうと推測されるから使っていいことにする」とか、その程度の融通の利く対応はできないんでしょうか?あらゆるサービスが「個人」にしか紐づいていなくて、「家族」という単位には結びついてくれないのはなんとも不便な気がするのです。例えばスペインだと銀行口座を奥様と共有するということができました。この場合、口座番号は一つだけで、そのカードを奥様と僕のそれぞれのために個別に発行してくれるのです。このサービスは今思い出しても非常に合理的でした。
同じようにレンタル店の会員資格を家族全員で共有しちゃダメなんですかね?だって、同時に借りられるソフトの上限は1個の会員資格につき決まった上限があるわけですから、会員資格を「口数」単位で購入して家族で共有するのは理にかなっているように思います。実際、我が家のように子供のためにDVD借りに行くだけの利用方法の場合、家族の誰かが都度子供を連れていくことになるので、家族間で会員資格を共有できてくれるとすごく助かるのです。
何よりもこういう融通の利き方ができないと、リアル店舗のレンタル屋とネットの動画配信サービスの差がどんどん広がる一方だと思うのです。ネットの動画配信サービスの場合、アカウントとパスワードさえ共有してしまえば誰が実際に使っているかは不問になります。つまり、サービスを家族全体で共有することができちゃうわけです。ただでさえ、お店までわざわざ行くのが手間だったり、ほかの人が借りてると借りれなかったり、店舗に在庫を抱える以上マイナーな作品までラインナップするのが難しかったり…と、実店舗のレンタル店は動画配信サービスに比べると色々不利な点があります。件のレンタル店の対応は、規則には順じているのですが結果的にレンタル店という業態そのものの「緩慢な自殺」のように僕には見えるのです。
とまぁ、ここまで色々文句言いながらもなんで我が家が動画配信サービスではなくリアル店舗にこだわっているかというと、
・多少たりとも子供と家の外に出るキッカケにしたい
・定額見放題の配信サービスは子供のテレビっ子ぶりに拍車がかかる
と、リアル店舗のデメリットが程々に我が家にとって都合がよいからなのです。子育て世代にはこんな理由でリアル店舗を利用する人がまだそこそこいるんじゃないかと思うのですが。そんな層に対しての利便性を向上させる努力をしないと、リアル店舗に明るい未来が見える気はやっぱりしないのであります。
2018年9月15日土曜日
ネトウヨが北方領土に示す微温的な反応について
台風ニモマケズ、地震ニモマケズ、安倍晋三がロシアに行ってきた結果、北方領土問題について取り合う気の無いプーチンから「年内に平和条約締結を」と言われてしまいました。この件に対する安倍晋三の中途半端な対応については、安倍政権に対して追従的な発言が多い産経でさえ「ロシアにナメられている、断固拒否せよ」と言い出しました。産経や読売などの親ネトウヨのメディアが安倍政権を批判するというのはここ数年あまり見たことがありません。
共産党の志位議長は首相、「条件なしで平和条約」とのプーチン発言について、「プーチン氏の平和条約締結への意欲の表れだと捉えている」と。 違うでしょう。「領土返還をしない」という「決意の表れ」であり、首相、あなたを舐め切っているという「態度の表れ」ですよ。という、ごもっともな発言をしていたので、これをリツイートしたのですが。そしたら、僕のフォロワーのうち数少ないネトウヨ気味の人から「リアリスティックに言って、ロシアに北方領土を返せる訳がない。その中でどの将来を目指すのか? 批判は簡単だけど、政治家にはそこを提案してほしい。」というコメントが帰ってきました。
かつて、ネトウヨが登場する以前の右翼は、街宣車に「北方領土返還」というスローガンが書かれた横断幕を必ずと言っていいくらい掲げていました。しかし現代のネトウヨは中韓に対しては病的なまでに攻撃性を剥き出しにしてきますが、その一方でロシアや北方領土に対しては微温的な反応しか示しません。これはネトウヨとネトウヨ以前のauthenticな右翼との違いなんじゃないかと思います。
ネトウヨ以前の右翼が北方領土を目の敵にしていた理由の一つは「ソ連=赤=左翼」との敵対構造にあったのではないでしょうか。「右翼」という概念は対極にある「左翼」なくしては成り立たない、つまり、左と右という対立構造の中に当時の右翼のアイデンティティがあったのではないかと思うのです。この説明はある程度の説得力があるように思います。そして、この観点からするとネトウヨは「左翼亡き後の右翼」と言えるでしょう。
この「左翼亡き後の右翼」という観点は、ネトウヨとそれ以前の右翼とを分かつポイントなのではないかと思います。やや乱暴な言い方になりますが、
カネがあった時代のauthenticな右翼:攻撃対象はソ連=ロシア→北方領土
カネが無くなって斜陽化していく日本に生まれたネトウヨ:攻撃対象は中韓→尖閣、竹島
というイデオロギーの違いが両者にはあります。だからこそネトウヨは北方領土について「自分が反応すべき案件だと思っていない」のではないでしょうか。
この「アメリカという父」に対するトラウマというのは現代のネトウヨとそれ以前の右翼の両方に共通しているテーマだと思います。旧日本軍の「英霊」の魂を慰めるためにせっせと靖国神社を参拝する割には、その「英霊」を殺傷したアメリカに対して「アメリカ憎し」と言っている右翼を僕は見たことがありません(いるのかもしれないですけど)。こうやって考えると、ネトウヨとそれ以前の右翼では表面的な攻撃対象がソ連=ロシアであるか中韓であるかという違いはあれど、一方で「アメリカという父」という共通項を認めることができます。
ちなみに件の僕のTwitterのフォロワー氏は今日見てみたら「勝てる見込み無いのになんで石破さんは選挙に立候補したのかな?玉砕?」というTweetをしていました。たぶんこの人は民主主義というシステムとか自分の信条なんかよりも、とにかく「多数派が正義」「勝てる見込みのない勝負はしない」という人なんでしょう。こうやって自分の意見を持つことを放棄して現実を容認している方が、この国では楽しく生きていきやすいんだろうとは思います。そして、そうやって知的負荷を減らしている自分は賢いとご本人はきっと思ってるんでしょうね。
なんで彼は僕をフォローしてるのかな?というのがずっと謎なのですよ。僕はtwitterではこのblogと大差ないことを言ってるつもりなんですが。
共産党の志位議長は首相、「条件なしで平和条約」とのプーチン発言について、「プーチン氏の平和条約締結への意欲の表れだと捉えている」と。 違うでしょう。「領土返還をしない」という「決意の表れ」であり、首相、あなたを舐め切っているという「態度の表れ」ですよ。という、ごもっともな発言をしていたので、これをリツイートしたのですが。そしたら、僕のフォロワーのうち数少ないネトウヨ気味の人から「リアリスティックに言って、ロシアに北方領土を返せる訳がない。その中でどの将来を目指すのか? 批判は簡単だけど、政治家にはそこを提案してほしい。」というコメントが帰ってきました。
かつて、ネトウヨが登場する以前の右翼は、街宣車に「北方領土返還」というスローガンが書かれた横断幕を必ずと言っていいくらい掲げていました。しかし現代のネトウヨは中韓に対しては病的なまでに攻撃性を剥き出しにしてきますが、その一方でロシアや北方領土に対しては微温的な反応しか示しません。これはネトウヨとネトウヨ以前のauthenticな右翼との違いなんじゃないかと思います。
ネトウヨ以前の右翼が北方領土を目の敵にしていた理由の一つは「ソ連=赤=左翼」との敵対構造にあったのではないでしょうか。「右翼」という概念は対極にある「左翼」なくしては成り立たない、つまり、左と右という対立構造の中に当時の右翼のアイデンティティがあったのではないかと思うのです。この説明はある程度の説得力があるように思います。そして、この観点からするとネトウヨは「左翼亡き後の右翼」と言えるでしょう。
この「左翼亡き後の右翼」という観点は、ネトウヨとそれ以前の右翼とを分かつポイントなのではないかと思います。やや乱暴な言い方になりますが、
カネがあった時代のauthenticな右翼:攻撃対象はソ連=ロシア→北方領土
カネが無くなって斜陽化していく日本に生まれたネトウヨ:攻撃対象は中韓→尖閣、竹島
というイデオロギーの違いが両者にはあります。だからこそネトウヨは北方領土について「自分が反応すべき案件だと思っていない」のではないでしょうか。
かつて日本とロシアは歯舞と色丹の二島返還が実現する寸前までこぎつけていました。当時、日本とロシアの経済力の差は一番開いていて、日本もまだまだカネがあった時代だと思います。でも、結局二島返還は実現しませんでした。後から考えてみるとこの事件は、上述した「日本の斜陽化」と並んでネトウヨが日本に台頭しはじめる一つのキッカケだったのではないかと思います。
「北方領土問題」の問題を掘り下げていくと、その先は必ず「南方領土問題=沖縄の米軍」と繋がっています。これについては内田先生が折に触れて言及している通りだと思います。ロシアにしてみれば、北方領土の返還はアメリカ軍が沖縄から撤退することとセットじゃないと受け入れられないのです。つまり、「北方領土返還」の背後には「南方領土=アメリカという父」というトラウマが付きまとっていて、「父=アメリカ」に対して出ていけと面と向かって言えないので昔の右翼は「北方領土返還」だけを叫んでいたのではないでしょうか。この「アメリカという父」に対するトラウマというのは現代のネトウヨとそれ以前の右翼の両方に共通しているテーマだと思います。旧日本軍の「英霊」の魂を慰めるためにせっせと靖国神社を参拝する割には、その「英霊」を殺傷したアメリカに対して「アメリカ憎し」と言っている右翼を僕は見たことがありません(いるのかもしれないですけど)。こうやって考えると、ネトウヨとそれ以前の右翼では表面的な攻撃対象がソ連=ロシアであるか中韓であるかという違いはあれど、一方で「アメリカという父」という共通項を認めることができます。
ちなみに件の僕のTwitterのフォロワー氏は今日見てみたら「勝てる見込み無いのになんで石破さんは選挙に立候補したのかな?玉砕?」というTweetをしていました。たぶんこの人は民主主義というシステムとか自分の信条なんかよりも、とにかく「多数派が正義」「勝てる見込みのない勝負はしない」という人なんでしょう。こうやって自分の意見を持つことを放棄して現実を容認している方が、この国では楽しく生きていきやすいんだろうとは思います。そして、そうやって知的負荷を減らしている自分は賢いとご本人はきっと思ってるんでしょうね。
なんで彼は僕をフォローしてるのかな?というのがずっと謎なのですよ。僕はtwitterではこのblogと大差ないことを言ってるつもりなんですが。
2018年9月8日土曜日
犠牲の物語としての高校野球
9月に入りました。まだ頭は夏休みボケの尾を引いたままなのですが、そうこういってる間にもだんだん涼しくなってきたので、これ以上話題の鮮度が落ちないうちに夏の高校野球の話をしたいと思います。今年の夏休みは奥様の妊娠中以来くらいで「泊りでのお出かけが無い夏休み」になってしまいました。どこかに泊りで行こうかと検討はするものの、どうしても「高い、暑い、混んでそう」なのはどこも一緒なので。だったら9月くらいの普通の土日にどこかに旅行に行った方がまだマシだろうと思うと、結局どこにも行く気になれませんでした。
そんなこんなで、どこにも行かない夏休みの間はほぼ毎日高校野球をぼんやり見ていました。僕は高校野球及びその頂点である甲子園については「どうかと思うことの方が多いけど、結局見ちゃう」のです。あんなに高校生を朝から晩まで毎日野球漬けにしたり、後の選手生命を台無しにするほどまで連戦で体を酷使するののが本当に「教育」なのか?とか、色々と思うのですが。でも、結局毎年見ちゃうのですね。
さて。決勝戦の金足農業と大阪桐蔭の試合は何から何まで好対照な両者の対決となりました。少年ジャンプのような金足農業の快進撃を期待しながらちょっとみんなワクワクしていたのに、蓋を開けてみたら大阪桐蔭の圧勝で終わって何か空虚な感じが残ってしまいましたね。あの決勝戦を見てて思い出したのは、小田嶋さんが昔言っていたように、高校野球は犠牲の物語であるという話です。まず見た目に「犠牲」が分かりやすいのは金足農業です。ピッチャーの吉田君はずっと連投で疲れ果てていたせいもあって、大阪桐蔭の打線を抑えることはできませんでした。これは「連投で体を酷使する」という犠牲の物語です。
さて。決勝戦の金足農業と大阪桐蔭の試合は何から何まで好対照な両者の対決となりました。少年ジャンプのような金足農業の快進撃を期待しながらちょっとみんなワクワクしていたのに、蓋を開けてみたら大阪桐蔭の圧勝で終わって何か空虚な感じが残ってしまいましたね。あの決勝戦を見てて思い出したのは、小田嶋さんが昔言っていたように、高校野球は犠牲の物語であるという話です。まず見た目に「犠牲」が分かりやすいのは金足農業です。ピッチャーの吉田君はずっと連投で疲れ果てていたせいもあって、大阪桐蔭の打線を抑えることはできませんでした。これは「連投で体を酷使する」という犠牲の物語です。
一方の大阪桐蔭ですが。こちらは選手層も厚くてピッチャーも複数人いるようなチームです。はたから見ると金足農業に比べて余裕たっぷりに見えますが、大阪桐蔭、強さの秘密は過酷な寮生活 外出禁止、楽しみは月1の“コンビニ旅行”というウェブ上の記事を読んで納得しました。彼らも普通の高校生としての生活を犠牲にしているのです。コンビニさえ自由にいけないということは恋愛なんて尚の事無理なんでしょう。そんな生活を3年間も続けることで、彼らだって多大な犠牲を払っているのです。
大阪桐蔭(ワルモノ側)に金足農業が挑戦するという少年ジャンプ的な展開に対して日本人があそこまで盛り上がらずにはいられなかったことも、色々な示唆に富んでいると思います。昔から「判官びいき」という言葉に見られるように日本人が劣勢にある側を応援したがる心的傾向を持っていることはもちろん背景の一つとしてはあると思います。
しかし、どうもそれだけではないような気がするのです。以前から提唱している、「高校野球は旧日本軍を慰霊するために奉納される能である」という観点からすると、金足農業と大阪桐蔭の圧倒的な戦力差は第二次世界大戦における日本とアメリカの関係を再現しているように見えてならないのです。だからこそ「大阪桐蔭=ワルモノ=アメリカ」に「金足農業=日本」が挑む物語をどうしても日本人は応援したくなってしまったということなのではないでしょうか?
しかし話は「大阪桐蔭=アメリカ」という短絡的な話でもないんだと思います。大阪桐蔭はアメリカの代理表象というよりは「日本式メソッドで強力なアメリカみたいな軍事大国にのし上がった、架空の日本」なのではないでしょうか?こう考えると、あの決勝戦は「大阪桐蔭=あの時になりたかったけどなれなかった架空の日本」と「金足農業=あの時の日本」の戦いだったことになります。このように、あの決勝戦は精神分析的には非常に興味深い試合だったと思います。
以上、今回のblogは「こんな感じの事を誰かが書いてくれないかなと思って毎日twitterとかで検索してみたけど誰も言及しないから自分で書いてみた」というよくあるパターンです。そろそろこういうハッシュタグ作ろうかな。。
以上、今回のblogは「こんな感じの事を誰かが書いてくれないかなと思って毎日twitterとかで検索してみたけど誰も言及しないから自分で書いてみた」というよくあるパターンです。そろそろこういうハッシュタグ作ろうかな。。
2018年8月20日月曜日
本田のカンボジア代表監督就任と医学部受験ブーム
夏休み。だったのに気が付けば最終日を迎えました。このblogに書こうと思って色々思ってたことのうち、書き上げられたのはたった1件だけになってしまいました。毎度のことながら日本の長期休暇のシステムとは致命的にかみ合わないのですが、今年はとうとう「本当にどこにも行かない夏休み」になってしまいました。夏休み最大のイベントは家族と一緒に海に行ったことですが、それも家の近所にある、海って言っていいのかよく分からないような海でした。
そんなこんなで夏休みが終わっていきます。しかも、もう23時なので普段会社に行っているのであれば寝なきゃいけない時間帯なのです。が、夏休みの間に自堕落の限りを尽くしたところ、普通の人より2-3時間早かった僕の体内時計は3時間くらいズレてすっかり普通の日本人にシンクロしていまい、ここ数日は1時すぎまで起きていて、8時くらいまで寝ている生活をつづけてきました。つまり、ちっともねむくないのです。
というわけで、この状況でせめて夏休み最後のアクティビティとして、残された時間でこのblogにどのくらいのクオリティの文章を残せるのかチャレンジしてみることにしました。キッカケは単純な話で、同年代の有名ブロガーであるフミコ・フミオ氏の文章にちょっと影響されてしまったのです。氏のblogはほぼ推敲なしでよどみなく書き綴られているにもかかわらず非常に理路整然としていて、それでいて「所要時間23分」とか書いてあるのです。これを見て、自分で同じことをやったらどれくらいのものになるのか試してみたくなったからです。
さて。そんな夏休みをのんべんだらりと過ごしていたら、本田圭祐、カンボジア代表の監督に就任、選手との二足の草鞋に挑戦という記事が目につきました。本田という選手は何かと僕には気になる存在でした。というのも、ACミラン入団以降の彼は「キャリアの後退局面のセルフプロデュースがうまくいっていない」という点において、日本という国の在り方とものすごくシンクロしているように見えたからです。
当然のことながら僕は素人なので、この本田の挑戦がどの程度無謀でどの程度現実的なのか、その判断さえもできません。しかしながら、本田が後退局面のキャリアをそれなりに自己造形でき始めているような雰囲気には好意的な印象を持ちました。上述したように彼の在り方は日本という国の問題とそのままリンクしているように見えたので、このまま本田とともに日本という国も出口を見つけてくれることを願わずにはいられません。
話が大きく変わりますが、ここ最近のトレンドとして大学受験界では医学部受験ブームなんだそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、特に国立大学の医学部は、東大か京大に行けるくらいの学力を要する狭き門です。そして、こういった国公立の医学部を目指す人の多くは中高一貫の受験シフトの学校でずっと勉強してきた人達です。この現象をどう見るか、なのですが。医学部受験ブームは一見すると学歴社会の行きついた先のように見えるのですが、僕には学歴社会の緩慢な自殺のように僕には見えるのです。
これまでの学歴社会は「高学歴=幸せな人生」という物語への信憑によって成立してきたのではないでしょうか。しかし、日本という国が斜陽化し、グローバル化の趨勢に取り残されようとしている中で、この物語の信憑性に対して日本人は疑問を持ち始めたように見えるのです。で、その結果として「社会がどうなろうとも高い地位と収入が約束されそうな医師という資格」に人気が集まり始めたのではないかと思います。
改めて言いますが、これは学歴社会の緩慢な自殺だと思います。最早学歴だけでは輝かしい将来が保証されなくなったので、より確実そうな「資格」の方が人気になってきたわけです。この根底にある発想は「寄らば大樹の陰」であり、だいぶ飛躍しますが日本が斜陽化する中で安倍政権を支持したがる人達と重なって見えます。
一方でこれまで東大や京大に人を送り込んできた中高一貫の名門高校では医学部とは全く逆のトレンドとして「海外の大学に行く」という進路を選ぶ学生も増えているそうです。僕としては「寄らば大樹の陰」で医学部を目指すよりはこっちのほうが好ましく思えます。森毅教授の名言botの中に以下のようなフレーズがありましたが、全くその通りだと思います。せっかく「エリート 教育」を受けたのなら、学歴なしでやっていけるぐらいでなくちゃ、エリートと言えない。
斜陽化していくこの国の未来は不安だらけではあり、一般市民の間には「不安だからとりあえず周りの人と同じように行動したい」という群れの中の草食動物のような行動規範が広がっているように思います。しかし、海外を目指す本物のエリートや本田のような人がいることには、まだ救いがあるように思えます。もっとも、日本から一度出た人達のうち何人かは、「日本」という国に対して執着する気が最早無くなってしまうんじゃないかという気がするのですが。。かく言う僕自身がそうだったように。
そんなこんなで夏休みが終わっていきます。しかも、もう23時なので普段会社に行っているのであれば寝なきゃいけない時間帯なのです。が、夏休みの間に自堕落の限りを尽くしたところ、普通の人より2-3時間早かった僕の体内時計は3時間くらいズレてすっかり普通の日本人にシンクロしていまい、ここ数日は1時すぎまで起きていて、8時くらいまで寝ている生活をつづけてきました。つまり、ちっともねむくないのです。
というわけで、この状況でせめて夏休み最後のアクティビティとして、残された時間でこのblogにどのくらいのクオリティの文章を残せるのかチャレンジしてみることにしました。キッカケは単純な話で、同年代の有名ブロガーであるフミコ・フミオ氏の文章にちょっと影響されてしまったのです。氏のblogはほぼ推敲なしでよどみなく書き綴られているにもかかわらず非常に理路整然としていて、それでいて「所要時間23分」とか書いてあるのです。これを見て、自分で同じことをやったらどれくらいのものになるのか試してみたくなったからです。
さて。そんな夏休みをのんべんだらりと過ごしていたら、本田圭祐、カンボジア代表の監督に就任、選手との二足の草鞋に挑戦という記事が目につきました。本田という選手は何かと僕には気になる存在でした。というのも、ACミラン入団以降の彼は「キャリアの後退局面のセルフプロデュースがうまくいっていない」という点において、日本という国の在り方とものすごくシンクロしているように見えたからです。
当然のことながら僕は素人なので、この本田の挑戦がどの程度無謀でどの程度現実的なのか、その判断さえもできません。しかしながら、本田が後退局面のキャリアをそれなりに自己造形でき始めているような雰囲気には好意的な印象を持ちました。上述したように彼の在り方は日本という国の問題とそのままリンクしているように見えたので、このまま本田とともに日本という国も出口を見つけてくれることを願わずにはいられません。
話が大きく変わりますが、ここ最近のトレンドとして大学受験界では医学部受験ブームなんだそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、特に国立大学の医学部は、東大か京大に行けるくらいの学力を要する狭き門です。そして、こういった国公立の医学部を目指す人の多くは中高一貫の受験シフトの学校でずっと勉強してきた人達です。この現象をどう見るか、なのですが。医学部受験ブームは一見すると学歴社会の行きついた先のように見えるのですが、僕には学歴社会の緩慢な自殺のように僕には見えるのです。
これまでの学歴社会は「高学歴=幸せな人生」という物語への信憑によって成立してきたのではないでしょうか。しかし、日本という国が斜陽化し、グローバル化の趨勢に取り残されようとしている中で、この物語の信憑性に対して日本人は疑問を持ち始めたように見えるのです。で、その結果として「社会がどうなろうとも高い地位と収入が約束されそうな医師という資格」に人気が集まり始めたのではないかと思います。
改めて言いますが、これは学歴社会の緩慢な自殺だと思います。最早学歴だけでは輝かしい将来が保証されなくなったので、より確実そうな「資格」の方が人気になってきたわけです。この根底にある発想は「寄らば大樹の陰」であり、だいぶ飛躍しますが日本が斜陽化する中で安倍政権を支持したがる人達と重なって見えます。
一方でこれまで東大や京大に人を送り込んできた中高一貫の名門高校では医学部とは全く逆のトレンドとして「海外の大学に行く」という進路を選ぶ学生も増えているそうです。僕としては「寄らば大樹の陰」で医学部を目指すよりはこっちのほうが好ましく思えます。森毅教授の名言botの中に以下のようなフレーズがありましたが、全くその通りだと思います。せっかく「エリート
斜陽化していくこの国の未来は不安だらけではあり、一般市民の間には「不安だからとりあえず周りの人と同じように行動したい」という群れの中の草食動物のような行動規範が広がっているように思います。しかし、海外を目指す本物のエリートや本田のような人がいることには、まだ救いがあるように思えます。もっとも、日本から一度出た人達のうち何人かは、「日本」という国に対して執着する気が最早無くなってしまうんじゃないかという気がするのですが。。かく言う僕自身がそうだったように。
2018年8月14日火曜日
よりによってアメフトとチアリーディングというのが…
今僕が住んでいる街の公立学校の教育システムにはヨソ者である僕から見ると謎な点がいくつかありまして。その中でもダントツに謎なのが中学・高校で何かしらの部活動への参加が義務であるということです。このシステムについて、地元の公立学校で育ったうちの奥様は「当時は日本全国でそうなってると思ってた」みたいです。しかし、僕が育った関西の街では部活動は義務でもなんでもありませんでした。たぶんこちらの方が日本全体でみると普通なんだろうと思います。
僕が行ってた関西の公立中学校なんてニュータウンのマンモス学校だったので男女合わせて400人以上の同級生がいました。学年に200人程度いる男子のうち、バスケ部やテニス部に40人ずつくらいが入部して、その大半は数ヶ月でやめていきます。日本のどこの学校も大なり小なりこんなもんなんじゃないかと思います。もしも部活動が義務だったら、一学年だけで40人もいるテニス部が練習できる環境を提供するなんてまず無理ですからね。
話を今住んでる街に戻します。しかしながら、この街の公立学校も数年後にはとうとう部活動への参加が義務ではなくなるそうです。昨今の「教師と生徒の双方ともに、部活動の負担を適正化すべき」という風潮からすると当然の流れだと思います。まだうちの子供は幼稚園児ですが、子供が中学に上がる前に公教育システムが一つでもまともになってくれたのは歓迎したいです。
そもそも部活動という概念自体が日本という国のガラパゴス的奇習なのではないでしょうか。経験上、"部活"というのは、"同期"などと並んで外国人に説明するのが非常に難しい概念なのです。日本以外の国では学校は基本的に授業を受けるためだけに行く場所なので、生徒が課外活動に多大なエネルギーを費やす文化がありません。
更に謎なのは、部活動をやってる当人達が本気で楽しんでやっているかというと必ずしもそうでもないということです。もちろん中には楽しんでやってる人もいるんでしょうが、練習でシゴかれたり顧問や上級生に小突き回されるのを積極的に楽しめる人はほとんど少数派でしょう。でもなんでそれを続けられるかと言うと、「みんなと一緒だから」なんじゃないでしょうか。つまり、日本の部活動は「理不尽なシステムにみんなで一緒に抑圧されること」に慣れるためにあるのではないかと思います。
更に謎なのは、部活動をやってる当人達が本気で楽しんでやっているかというと必ずしもそうでもないということです。もちろん中には楽しんでやってる人もいるんでしょうが、練習でシゴかれたり顧問や上級生に小突き回されるのを積極的に楽しめる人はほとんど少数派でしょう。でもなんでそれを続けられるかと言うと、「みんなと一緒だから」なんじゃないでしょうか。つまり、日本の部活動は「理不尽なシステムにみんなで一緒に抑圧されること」に慣れるためにあるのではないかと思います。
さて、ようやく本題です。アメフトのタックル問題についてはもう散々騒がれたので皆さんご存知のことかと思いますが、ここにきて同じ日大のチアリーディングからもパワハラ不祥事が騒がれてきました。これらの一連の日大の運動部の不祥事に登場する「ワルモノ」達は、いずれも上述した「部活」的な世界のヒエラルキーの頂点に君臨して、絶大な権力を振ってきたんだろうなということはなんとなくイメージがつきます。
これを書いている2018年の夏休みの段階では、アメフトについてはもう散々騒がれた後で世の中はひとしきり飽きちゃった感さえあります。なので今更この件について言及するにあたって、他の人があんまり言ってなさそうなことを言ってみることにします。このような日本の「部活」システムの不調が「アメフト」と「チアリーディング」というアメリカ由来の競技において顕在化したのは相応の必然性があったのではないでしょうか?つまり、アメリカ由来の競技に対して、アメリカ人の世界観の対極にある日本人の「部活」システムを適用したけど、うまくいかずにシステムクラッシュした…というように見えるのです。
そして、一連の不祥事が起きた場が日大という学校だったことにも必然性があったのではないかと思うのです。wikipediaをひいてみたところ、日大の建学の起源についてこのような記述がありました。「当時、明治政府は欧米の列強と条約改正交渉を進めるために新しい法律の整備を急いでいた。1889年2月11日、明治憲法の公布をきっかけに、欧米諸国の法律だけではなく、古典的な意味合いから日本独自の法律を教える学校を建設する必要性が高まっていった。これに対応するように、同年10月4日、皇典講究所の校舎を借り受ける形で、現法学部の前身にあたる日本法律学校を設立したことに始まる」
言ってることが分かるような分からないような話ですが。つまり、「欧米列強にまともな近代国家として認められるために法治国家としての体裁を作る必要があった」「一方で欧米の『法』の概念そのままでは日本人には馴染みにくいので馴染ませる方法を模索したかった」ということなんじゃないでしょうか。このblogで何度も言ってることですが、これは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルが指摘している日本人の有り様そのものです。
蛇足ですが、タックル問題が起きたときの試合の相手がキリスト教系の関学であったことも偶然ではないような気がします。「部活」とその背景にある日本人の内的自己は、アメフトというアメリカ人の発明した競技を通じて、アメリカ人のキリスト教徒が作った関学に復讐しようとしたとも取れるのです。
たまたまなのかもしれませんが、関学のようなキリスト教の大学では日大のように悪質な事件を起こす人が長年トップに居座り続けて絶大な権力をふるうようなことは起きにくいんじゃないかと思います。ガバナンスの根底に「神の愛」という宗教的な規範があることは日大のような「やりすぎ」に対する抑止力に成り得るのではないでしょうか。
こうやって書いてると、子供をこの先私立の学校に入れることがあるとしても、できればキリスト教系のところの方がいいんじゃないかという気がしてきました。僕としてはお金のかからない公立の学校でうまいことやっていけてくれるのが一番有難いんですけどね。。
これを書いている2018年の夏休みの段階では、アメフトについてはもう散々騒がれた後で世の中はひとしきり飽きちゃった感さえあります。なので今更この件について言及するにあたって、他の人があんまり言ってなさそうなことを言ってみることにします。このような日本の「部活」システムの不調が「アメフト」と「チアリーディング」というアメリカ由来の競技において顕在化したのは相応の必然性があったのではないでしょうか?つまり、アメリカ由来の競技に対して、アメリカ人の世界観の対極にある日本人の「部活」システムを適用したけど、うまくいかずにシステムクラッシュした…というように見えるのです。
そして、一連の不祥事が起きた場が日大という学校だったことにも必然性があったのではないかと思うのです。wikipediaをひいてみたところ、日大の建学の起源についてこのような記述がありました。「当時、明治政府は欧米の列強と条約改正交渉を進めるために新しい法律の整備を急いでいた。1889年2月11日、明治憲法の公布をきっかけに、欧米諸国の法律だけではなく、古典的な意味合いから日本独自の法律を教える学校を建設する必要性が高まっていった。これに対応するように、同年10月4日、皇典講究所の校舎を借り受ける形で、現法学部の前身にあたる日本法律学校を設立したことに始まる」
言ってることが分かるような分からないような話ですが。つまり、「欧米列強にまともな近代国家として認められるために法治国家としての体裁を作る必要があった」「一方で欧米の『法』の概念そのままでは日本人には馴染みにくいので馴染ませる方法を模索したかった」ということなんじゃないでしょうか。このblogで何度も言ってることですが、これは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルが指摘している日本人の有り様そのものです。
蛇足ですが、タックル問題が起きたときの試合の相手がキリスト教系の関学であったことも偶然ではないような気がします。「部活」とその背景にある日本人の内的自己は、アメフトというアメリカ人の発明した競技を通じて、アメリカ人のキリスト教徒が作った関学に復讐しようとしたとも取れるのです。
たまたまなのかもしれませんが、関学のようなキリスト教の大学では日大のように悪質な事件を起こす人が長年トップに居座り続けて絶大な権力をふるうようなことは起きにくいんじゃないかと思います。ガバナンスの根底に「神の愛」という宗教的な規範があることは日大のような「やりすぎ」に対する抑止力に成り得るのではないでしょうか。
こうやって書いてると、子供をこの先私立の学校に入れることがあるとしても、できればキリスト教系のところの方がいいんじゃないかという気がしてきました。僕としてはお金のかからない公立の学校でうまいことやっていけてくれるのが一番有難いんですけどね。。
2018年5月6日日曜日
アニメソングの世界は老人に老いることを許さない
風邪をひいたうえに結局どこにも行かなかったGWが終わろうとしているのですが。いまだに風邪が治りきりません。GWが終わるのは仕方ないとして、せめて風邪とともに去ってほしいです。そんなこんなでぱっとしないGWなので、せめて普段このblogに書こうと思って手が付けられずにいた話を一つ書いてみようと思います。「日本のアニメ」についてはたびたびこのblogで取り上げる定番アイテムになっていますが、今日は「アニメソング」についての話です。
いつ頃からなのかは覚えていないですが、NHKでアニメソングの歌謡ショーのような番組をやっていたり、アニメソングのフェスのライブ映像を流したりしているのをたびたび見かけることが度々あります。それを見つけたからといってそんなに熱心に見るわけではないのですが、だいたいアニメソングの歌手が何人か出てきて歌って、最後は全員で「マジンガーZ」を歌って終わるようなパターンで必ず構成されているような印象があります。
これを見ていてどうもひっかかるのは、老いも若きもすべて含めて「アニメソング界」という一つのジャンルが存在することについての合意形成が成されているように見えるのです。とはいっても、日本のアニメは半世紀以上の歴史があるわけで、この半世紀にわたってずっとリアルタイムでアニメを見続けている人なんてほとんどいないでしょう。
アニメソングのイベントに集う若者の大半はマジンガーZなんてまともに見たことないだろうと思います。彼らが実際にリアルタイムで接しているのはたとえば水樹奈々みたいな最近のアニソン歌手なんだろうと思います。それでも彼らは「アニメソング」というジャンルのイベントが新旧とりまぜて紅白歌合戦みたいなラインナップになっていることに異議を唱えない。これって不思議なことだと思いませんか?
これについては色々な説明や解釈が可能だと思うのですが、僕の見解を少々述べてみます。アニメソング、というよりもアニメというメディアは「メディアそのものに対する帰属意識」によって成立しているのではないでしょうか。一口にアニメと言ったって、ラブコメ、美少女、子供向け、ロボット、戦闘、果ては将棋や囲碁まで色々なジャンルがあります。仮に自分が見ているのがロボットアニメだけだったとしても、ラブコメや将棋のアニメを見る人に対しても同胞として遇することがアニメ界の住人に要求されるわけです。
これと同じ原理を時間方向に展開して適用できるからこそ、アニメソングのイベントに集う若者は自分の世代と明らかにズレているマジンガーZの歌で一緒に盛り上がることができるんだろうと思います。かくして時間の概念を排除してジャンルとしての一体感を獲得している半面、アニメソングというジャンルは時間という概念を忌避したエバーグリーンな世界を作り上げているように思うのです。
この代償を一番引き受けているのはアニメソング界のレジェンドともいうべき老人たちなんじゃないでしょうか。例えば、アニキこと水木一郎(70)、ささきいさお(75)、堀江美都子(61)などは未だにこの手のアニメソング関連のイベントに登場しては現役で歌っています。彼らは年齢的にはもはや老人の域に達しているのですが、彼らの外見は年齢不相応に若作りなのです。彼らを見ていると、彼らはアニメソングというジャンルによって「老いる」ということを許されていないように見えて、なんだか気の毒になるのです。
アニメソングの世界がこのままいつまでも老いることを許さないままエバーグリーンな世界を維持するのか、それとも別の道へ進むのか…やや不謹慎ですが、アニメソング界のレジェンドが亡くなる頃くらいにその答えを見ることになるのではないかと思います。声優であれば、例えば山田康雄が亡くなったときに栗田貫一がモノマネでルパンを再現したように「そっくりさんがシレっと後を継ぐ」という方法もありました。しかし、歌手ともなるとそうもいかないんじゃないでしょうか。超具体的に言うと、「水木一郎が亡くなった後に代わりにマジンガーZを歌える人材は現れるのか?」という難問に直面するだろうと思います。どうするんだろ?VOCALOIDってわけにもいかないだろうしなぁ。。
いつ頃からなのかは覚えていないですが、NHKでアニメソングの歌謡ショーのような番組をやっていたり、アニメソングのフェスのライブ映像を流したりしているのをたびたび見かけることが度々あります。それを見つけたからといってそんなに熱心に見るわけではないのですが、だいたいアニメソングの歌手が何人か出てきて歌って、最後は全員で「マジンガーZ」を歌って終わるようなパターンで必ず構成されているような印象があります。
これを見ていてどうもひっかかるのは、老いも若きもすべて含めて「アニメソング界」という一つのジャンルが存在することについての合意形成が成されているように見えるのです。とはいっても、日本のアニメは半世紀以上の歴史があるわけで、この半世紀にわたってずっとリアルタイムでアニメを見続けている人なんてほとんどいないでしょう。
アニメソングのイベントに集う若者の大半はマジンガーZなんてまともに見たことないだろうと思います。彼らが実際にリアルタイムで接しているのはたとえば水樹奈々みたいな最近のアニソン歌手なんだろうと思います。それでも彼らは「アニメソング」というジャンルのイベントが新旧とりまぜて紅白歌合戦みたいなラインナップになっていることに異議を唱えない。これって不思議なことだと思いませんか?
これについては色々な説明や解釈が可能だと思うのですが、僕の見解を少々述べてみます。アニメソング、というよりもアニメというメディアは「メディアそのものに対する帰属意識」によって成立しているのではないでしょうか。一口にアニメと言ったって、ラブコメ、美少女、子供向け、ロボット、戦闘、果ては将棋や囲碁まで色々なジャンルがあります。仮に自分が見ているのがロボットアニメだけだったとしても、ラブコメや将棋のアニメを見る人に対しても同胞として遇することがアニメ界の住人に要求されるわけです。
これと同じ原理を時間方向に展開して適用できるからこそ、アニメソングのイベントに集う若者は自分の世代と明らかにズレているマジンガーZの歌で一緒に盛り上がることができるんだろうと思います。かくして時間の概念を排除してジャンルとしての一体感を獲得している半面、アニメソングというジャンルは時間という概念を忌避したエバーグリーンな世界を作り上げているように思うのです。
この代償を一番引き受けているのはアニメソング界のレジェンドともいうべき老人たちなんじゃないでしょうか。例えば、アニキこと水木一郎(70)、ささきいさお(75)、堀江美都子(61)などは未だにこの手のアニメソング関連のイベントに登場しては現役で歌っています。彼らは年齢的にはもはや老人の域に達しているのですが、彼らの外見は年齢不相応に若作りなのです。彼らを見ていると、彼らはアニメソングというジャンルによって「老いる」ということを許されていないように見えて、なんだか気の毒になるのです。
アニメソングの世界がこのままいつまでも老いることを許さないままエバーグリーンな世界を維持するのか、それとも別の道へ進むのか…やや不謹慎ですが、アニメソング界のレジェンドが亡くなる頃くらいにその答えを見ることになるのではないかと思います。声優であれば、例えば山田康雄が亡くなったときに栗田貫一がモノマネでルパンを再現したように「そっくりさんがシレっと後を継ぐ」という方法もありました。しかし、歌手ともなるとそうもいかないんじゃないでしょうか。超具体的に言うと、「水木一郎が亡くなった後に代わりにマジンガーZを歌える人材は現れるのか?」という難問に直面するだろうと思います。どうするんだろ?VOCALOIDってわけにもいかないだろうしなぁ。。
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