2018年9月8日土曜日

犠牲の物語としての高校野球

9月に入りました。まだ頭は夏休みボケの尾を引いたままなのですが、そうこういってる間にもだんだん涼しくなってきたので、これ以上話題の鮮度が落ちないうちに夏の高校野球の話をしたいと思います。今年の夏休みは奥様の妊娠中以来くらいで「泊りでのお出かけが無い夏休み」になってしまいました。どこかに泊りで行こうかと検討はするものの、どうしても「高い、暑い、混んでそう」なのはどこも一緒なので。だったら9月くらいの普通の土日にどこかに旅行に行った方がまだマシだろうと思うと、結局どこにも行く気になれませんでした。
そんなこんなで、どこにも行かない夏休みの間はほぼ毎日高校野球をぼんやり見ていました。僕は高校野球及びその頂点である甲子園については「どうかと思うことの方が多いけど、結局見ちゃう」のです。あんなに高校生を朝から晩まで毎日野球漬けにしたり、後の選手生命を台無しにするほどまで連戦で体を酷使するののが本当に「教育」なのか?とか、色々と思うのですが。でも、結局毎年見ちゃうのですね。

さて。決勝戦の金足農業と大阪桐蔭の試合は何から何まで好対照な両者の対決となりました。少年ジャンプのような金足農業の快進撃を期待しながらちょっとみんなワクワクしていたのに、蓋を開けてみたら大阪桐蔭の圧勝で終わって何か空虚な感じが残ってしまいましたね。あの決勝戦を見てて思い出したのは、小田嶋さんが昔言っていたように、高校野球は犠牲の物語であるという話です。まず見た目に「犠牲」が分かりやすいのは金足農業です。ピッチャーの吉田君はずっと連投で疲れ果てていたせいもあって、大阪桐蔭の打線を抑えることはできませんでした。これは「連投で体を酷使する」という犠牲の物語です。
一方の大阪桐蔭ですが。こちらは選手層も厚くてピッチャーも複数人いるようなチームです。はたから見ると金足農業に比べて余裕たっぷりに見えますが、大阪桐蔭、強さの秘密は過酷な寮生活 外出禁止、楽しみは月1の“コンビニ旅行”というウェブ上の記事を読んで納得しました。彼らも普通の高校生としての生活を犠牲にしているのです。コンビニさえ自由にいけないということは恋愛なんて尚の事無理なんでしょう。そんな生活を3年間も続けることで、彼らだって多大な犠牲を払っているのです。

大阪桐蔭(ワルモノ側)に金足農業が挑戦するという少年ジャンプ的な展開に対して日本人があそこまで盛り上がらずにはいられなかったことも、色々な示唆に富んでいると思います。昔から「判官びいき」という言葉に見られるように日本人が劣勢にある側を応援したがる心的傾向を持っていることはもちろん背景の一つとしてはあると思います。
しかし、どうもそれだけではないような気がするのです。以前から提唱している、「高校野球は旧日本軍を慰霊するために奉納される能である」という観点からすると、金足農業と大阪桐蔭の圧倒的な戦力差は第二次世界大戦における日本とアメリカの関係を再現しているように見えてならないのです。だからこそ「大阪桐蔭=ワルモノ=アメリカ」に「金足農業=日本」が挑む物語をどうしても日本人は応援したくなってしまったということなのではないでしょうか?

しかし話は「大阪桐蔭=アメリカ」という短絡的な話でもないんだと思います。大阪桐蔭はアメリカの代理表象というよりは「日本式メソッドで強力なアメリカみたいな軍事大国にのし上がった、架空の日本」なのではないでしょうか?こう考えると、あの決勝戦は「大阪桐蔭=あの時になりたかったけどなれなかった架空の日本」と「金足農業=あの時の日本」の戦いだったことになります。このように、あの決勝戦は精神分析的には非常に興味深い試合だったと思います。
以上、今回のblogは「こんな感じの事を誰かが書いてくれないかなと思って毎日twitterとかで検索してみたけど誰も言及しないから自分で書いてみた」というよくあるパターンです。そろそろこういうハッシュタグ作ろうかな。。

2018年8月20日月曜日

本田のカンボジア代表監督就任と医学部受験ブーム

夏休み。だったのに気が付けば最終日を迎えました。このblogに書こうと思って色々思ってたことのうち、書き上げられたのはたった1件だけになってしまいました。毎度のことながら日本の長期休暇のシステムとは致命的にかみ合わないのですが、今年はとうとう「本当にどこにも行かない夏休み」になってしまいました。夏休み最大のイベントは家族と一緒に海に行ったことですが、それも家の近所にある、海って言っていいのかよく分からないような海でした。
そんなこんなで夏休みが終わっていきます。しかも、もう23時なので普段会社に行っているのであれば寝なきゃいけない時間帯なのです。が、夏休みの間に自堕落の限りを尽くしたところ、普通の人より2-3時間早かった僕の体内時計は3時間くらいズレてすっかり普通の日本人にシンクロしていまい、ここ数日は1時すぎまで起きていて、8時くらいまで寝ている生活をつづけてきました。つまり、ちっともねむくないのです。
というわけで、この状況でせめて夏休み最後のアクティビティとして、残された時間でこのblogにどのくらいのクオリティの文章を残せるのかチャレンジしてみることにしました。キッカケは単純な話で、同年代の有名ブロガーであるフミコ・フミオ氏の文章にちょっと影響されてしまったのです。氏のblogはほぼ推敲なしでよどみなく書き綴られているにもかかわらず非常に理路整然としていて、それでいて「所要時間23分」とか書いてあるのです。これを見て、自分で同じことをやったらどれくらいのものになるのか試してみたくなったからです。

さて。そんな夏休みをのんべんだらりと過ごしていたら、本田圭祐、カンボジア代表の監督に就任、選手との二足の草鞋に挑戦という記事が目につきました。本田という選手は何かと僕には気になる存在でした。というのも、ACミラン入団以降の彼は「キャリアの後退局面のセルフプロデュースがうまくいっていない」という点において、日本という国の在り方とものすごくシンクロしているように見えたからです。
当然のことながら僕は素人なので、この本田の挑戦がどの程度無謀でどの程度現実的なのか、その判断さえもできません。しかしながら、本田が後退局面のキャリアをそれなりに自己造形でき始めているような雰囲気には好意的な印象を持ちました。上述したように彼の在り方は日本という国の問題とそのままリンクしているように見えたので、このまま本田とともに日本という国も出口を見つけてくれることを願わずにはいられません。

話が大きく変わりますが、ここ最近のトレンドとして大学受験界では医学部受験ブームなんだそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、特に国立大学の医学部は、東大か京大に行けるくらいの学力を要する狭き門です。そして、こういった国公立の医学部を目指す人の多くは中高一貫の受験シフトの学校でずっと勉強してきた人達です。この現象をどう見るか、なのですが。医学部受験ブームは一見すると学歴社会の行きついた先のように見えるのですが、僕には学歴社会の緩慢な自殺のように僕には見えるのです。
これまでの学歴社会は「高学歴=幸せな人生」という物語への信憑によって成立してきたのではないでしょうか。しかし、日本という国が斜陽化し、グローバル化の趨勢に取り残されようとしている中で、この物語の信憑性に対して日本人は疑問を持ち始めたように見えるのです。で、その結果として「社会がどうなろうとも高い地位と収入が約束されそうな医師という資格」に人気が集まり始めたのではないかと思います。
改めて言いますが、これは学歴社会の緩慢な自殺だと思います。最早学歴だけでは輝かしい将来が保証されなくなったので、より確実そうな「資格」の方が人気になってきたわけです。この根底にある発想は「寄らば大樹の陰」であり、だいぶ飛躍しますが日本が斜陽化する中で安倍政権を支持したがる人達と重なって見えます。

一方でこれまで東大や京大に人を送り込んできた中高一貫の名門高校では医学部とは全く逆のトレンドとして「海外の大学に行く」という進路を選ぶ学生も増えているそうです。僕としては「寄らば大樹の陰」で医学部を目指すよりはこっちのほうが好ましく思えます。森毅教授の名言botの中に以下のようなフレーズがありましたが、全くその通りだと思います。せっかく「エリート教育」を受けたのなら、学歴なしでやっていけるぐらいでなくちゃ、エリートと言えない。
斜陽化していくこの国の未来は不安だらけではあり、一般市民の間には「不安だからとりあえず周りの人と同じように行動したい」という群れの中の草食動物のような行動規範が広がっているように思います。しかし、海外を目指す本物のエリートや本田のような人がいることには、まだ救いがあるように思えます。もっとも、日本から一度出た人達のうち何人かは、「日本」という国に対して執着する気が最早無くなってしまうんじゃないかという気がするのですが。。かく言う僕自身がそうだったように。

2018年8月14日火曜日

よりによってアメフトとチアリーディングというのが…

今僕が住んでいる街の公立学校の教育システムにはヨソ者である僕から見ると謎な点がいくつかありまして。その中でもダントツに謎なのが中学・高校で何かしらの部活動への参加が義務であるということです。このシステムについて、地元の公立学校で育ったうちの奥様は「当時は日本全国でそうなってると思ってた」みたいです。しかし、僕が育った関西の街では部活動は義務でもなんでもありませんでした。たぶんこちらの方が日本全体でみると普通なんだろうと思います。
僕が行ってた関西の公立中学校なんてニュータウンのマンモス学校だったので男女合わせて400人以上の同級生がいました。学年に200人程度いる男子のうち、バスケ部やテニス部に40人ずつくらいが入部して、その大半は数ヶ月でやめていきます。日本のどこの学校も大なり小なりこんなもんなんじゃないかと思います。もしも部活動が義務だったら、一学年だけで40人もいるテニス部が練習できる環境を提供するなんてまず無理ですからね。
話を今住んでる街に戻します。しかしながら、この街の公立学校も数年後にはとうとう部活動への参加が義務ではなくなるそうです。昨今の「教師と生徒の双方ともに、部活動の負担を適正化すべき」という風潮からすると当然の流れだと思います。まだうちの子供は幼稚園児ですが、子供が中学に上がる前に公教育システムが一つでもまともになってくれたのは歓迎したいです。

そもそも部活動という概念自体が日本という国のガラパゴス的奇習なのではないでしょうか。経験上、"部活"というのは、"同期"などと並んで外国人に説明するのが非常に難しい概念なのです。日本以外の国では学校は基本的に授業を受けるためだけに行く場所なので、生徒が課外活動に多大なエネルギーを費やす文化がありません。
更に謎なのは、部活動をやってる当人達が本気で楽しんでやっているかというと必ずしもそうでもないということです。もちろん中には楽しんでやってる人もいるんでしょうが、練習でシゴかれたり顧問や上級生に小突き回されるのを積極的に楽しめる人はほとんど少数派でしょう。でもなんでそれを続けられるかと言うと、「みんなと一緒だから」なんじゃないでしょうか。つまり、日本の部活動は「理不尽なシステムにみんなで一緒に抑圧されること」に慣れるためにあるのではないかと思います。

さて、ようやく本題です。アメフトのタックル問題についてはもう散々騒がれたので皆さんご存知のことかと思いますが、ここにきて同じ日大のチアリーディングからもパワハラ不祥事が騒がれてきました。これらの一連の日大の運動部の不祥事に登場する「ワルモノ」達は、いずれも上述した「部活」的な世界のヒエラルキーの頂点に君臨して、絶大な権力を振ってきたんだろうなということはなんとなくイメージがつきます。
これを書いている2018年の夏休みの段階では、アメフトについてはもう散々騒がれた後で世の中はひとしきり飽きちゃった感さえあります。なので今更この件について言及するにあたって、他の人があんまり言ってなさそうなことを言ってみることにします。このような日本の「部活」システムの不調が「アメフト」と「チアリーディング」というアメリカ由来の競技において顕在化したのは相応の必然性があったのではないでしょうか?つまり、アメリカ由来の競技に対して、アメリカ人の世界観の対極にある日本人の「部活」システムを適用したけど、うまくいかずにシステムクラッシュした…というように見えるのです。

そして、一連の不祥事が起きた場が日大という学校だったことにも必然性があったのではないかと思うのです。wikipediaをひいてみたところ、日大の建学の起源についてこのような記述がありました。「当時、明治政府は欧米の列強と条約改正交渉を進めるために新しい法律の整備を急いでいた。1889年2月11日、明治憲法の公布をきっかけに、欧米諸国の法律だけではなく、古典的な意味合いから日本独自の法律を教える学校を建設する必要性が高まっていった。これに対応するように、同年10月4日、皇典講究所の校舎を借り受ける形で、現法学部の前身にあたる日本法律学校を設立したことに始まる」
言ってることが分かるような分からないような話ですが。つまり、「欧米列強にまともな近代国家として認められるために法治国家としての体裁を作る必要があった」「一方で欧米の『法』の概念そのままでは日本人には馴染みにくいので馴染ませる方法を模索したかった」ということなんじゃないでしょうか。このblogで何度も言ってることですが、これは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルが指摘している日本人の有り様そのものです。

蛇足ですが、タックル問題が起きたときの試合の相手がキリスト教系の関学であったことも偶然ではないような気がします。「部活」とその背景にある日本人の内的自己は、アメフトというアメリカ人の発明した競技を通じて、アメリカ人のキリスト教徒が作った関学に復讐しようとしたとも取れるのです。
たまたまなのかもしれませんが、関学のようなキリスト教の大学では日大のように悪質な事件を起こす人が長年トップに居座り続けて絶大な権力をふるうようなことは起きにくいんじゃないかと思います。ガバナンスの根底に「神の愛」という宗教的な規範があることは日大のような「やりすぎ」に対する抑止力に成り得るのではないでしょうか。

こうやって書いてると、子供をこの先私立の学校に入れることがあるとしても、できればキリスト教系のところの方がいいんじゃないかという気がしてきました。僕としてはお金のかからない公立の学校でうまいことやっていけてくれるのが一番有難いんですけどね。。

2018年5月6日日曜日

アニメソングの世界は老人に老いることを許さない

風邪をひいたうえに結局どこにも行かなかったGWが終わろうとしているのですが。いまだに風邪が治りきりません。GWが終わるのは仕方ないとして、せめて風邪とともに去ってほしいです。そんなこんなでぱっとしないGWなので、せめて普段このblogに書こうと思って手が付けられずにいた話を一つ書いてみようと思います。「日本のアニメ」についてはたびたびこのblogで取り上げる定番アイテムになっていますが、今日は「アニメソング」についての話です。
いつ頃からなのかは覚えていないですが、NHKでアニメソングの歌謡ショーのような番組をやっていたり、アニメソングのフェスのライブ映像を流したりしているのをたびたび見かけることが度々あります。それを見つけたからといってそんなに熱心に見るわけではないのですが、だいたいアニメソングの歌手が何人か出てきて歌って、最後は全員で「マジンガーZ」を歌って終わるようなパターンで必ず構成されているような印象があります。

これを見ていてどうもひっかかるのは、老いも若きもすべて含めて「アニメソング界」という一つのジャンルが存在することについての合意形成が成されているように見えるのです。とはいっても、日本のアニメは半世紀以上の歴史があるわけで、この半世紀にわたってずっとリアルタイムでアニメを見続けている人なんてほとんどいないでしょう。
アニメソングのイベントに集う若者の大半はマジンガーZなんてまともに見たことないだろうと思います。彼らが実際にリアルタイムで接しているのはたとえば水樹奈々みたいな最近のアニソン歌手なんだろうと思います。それでも彼らは「アニメソング」というジャンルのイベントが新旧とりまぜて紅白歌合戦みたいなラインナップになっていることに異議を唱えない。これって不思議なことだと思いませんか?

これについては色々な説明や解釈が可能だと思うのですが、僕の見解を少々述べてみます。アニメソング、というよりもアニメというメディアは「メディアそのものに対する帰属意識」によって成立しているのではないでしょうか。一口にアニメと言ったって、ラブコメ、美少女、子供向け、ロボット、戦闘、果ては将棋や囲碁まで色々なジャンルがあります。仮に自分が見ているのがロボットアニメだけだったとしても、ラブコメや将棋のアニメを見る人に対しても同胞として遇することがアニメ界の住人に要求されるわけです。
これと同じ原理を時間方向に展開して適用できるからこそ、アニメソングのイベントに集う若者は自分の世代と明らかにズレているマジンガーZの歌で一緒に盛り上がることができるんだろうと思います。かくして時間の概念を排除してジャンルとしての一体感を獲得している半面、アニメソングというジャンルは時間という概念を忌避したエバーグリーンな世界を作り上げているように思うのです。

この代償を一番引き受けているのはアニメソング界のレジェンドともいうべき老人たちなんじゃないでしょうか。例えば、アニキこと水木一郎(70)、ささきいさお(75)、堀江美都子(61)などは未だにこの手のアニメソング関連のイベントに登場しては現役で歌っています。彼らは年齢的にはもはや老人の域に達しているのですが、彼らの外見は年齢不相応に若作りなのです。彼らを見ていると、彼らはアニメソングというジャンルによって「老いる」ということを許されていないように見えて、なんだか気の毒になるのです。
アニメソングの世界がこのままいつまでも老いることを許さないままエバーグリーンな世界を維持するのか、それとも別の道へ進むのか…やや不謹慎ですが、アニメソング界のレジェンドが亡くなる頃くらいにその答えを見ることになるのではないかと思います。声優であれば、例えば山田康雄が亡くなったときに栗田貫一がモノマネでルパンを再現したように「そっくりさんがシレっと後を継ぐ」という方法もありました。しかし、歌手ともなるとそうもいかないんじゃないでしょうか。超具体的に言うと、「水木一郎が亡くなった後に代わりにマジンガーZを歌える人材は現れるのか?」という難問に直面するだろうと思います。どうするんだろ?VOCALOIDってわけにもいかないだろうしなぁ。。

2018年5月5日土曜日

イチローの「事実上の引退」は即身仏と同じに見える

風邪が治りきらないままぼんやりGWを過ごしていると、イチローの事実上の引退のニュースが入ってきました。しかし、言ってることがなんとも不可解なのです。

「イチローは引退ではない」と今後についてあらゆる可能性を否定しなかった。
少なくとも今季中はプレーしないこととなったが、同GMによれば試合前にはこれまで通りに他の選手たちと練習するという。遠征にも同行予定。前例のない形での特別アドバイザー契約になるが、球団側が何よりも重視したのはチーム内でのイチローの存在感と必要性だった。

例えば「今シーズンは怪我の影響でコンディションを落としているけど、それが治れば来シーズンはプレーできる可能性がある」といった理由が添えられていればまだ納得もできるのですけどね。しかし、この次の一行を見て急に理解できた気がしました。

「彼は我々のクラブハウスで、ダライ・ラマのような存在だ」

「クラブハウスのダライ・ラマ」という言葉はものすごいパンチがありますね。これまで聞いたことがある中でも「ナイトクラブのクセナキス」とか「群馬のシャブババア」に匹敵するくらいの破壊力があるのですが。ともあれ、言いえて妙だと思います。


この「クラブハウスのダライ・ラマ」という一行を見て僕が納得した理由は、このフレーズから仏教の即身仏を連想したからです。即身仏というのは仏教の高僧などがお経を唱えたりしながらミイラになるという、究極の修行法みたいなやつです。聞きかじりであんまり簡単に宗教を批判すべきではないのでしょうが、どうもこの即身仏というのは仏教のコンセプトと乖離しているような気がするのです。
仏教のメインテーマの一つは「いかに執着を捨てるか」ということにあると思うのですが。それに対して即身仏はどうも「修行しながら死にたい」と言ってるように見えるのです。なんだかこれって、修行によって功徳を積むという行為にいつまでも執着しているように感じるのです。しかも、自分の姿をミイラという形に残そうとするなんて、自らの肉体や生命にいつまでも執着して、死後も影響を保持したがっているようにさえ見えるのです。


話をイチローに戻します。彼は「自身のキャリアの終焉」という断裂を受け入ることを拒んで、「終焉をこれまでのキャリアの延長であるかのように偽装する」ことを選んだように見えるのです。これは上述したように僕が即身仏に対して感じる欺瞞と全く同じ構造を持っています。特に、「試合には出ないけどこれまで通りに練習はやる」という辺りは、即身仏が「死を修行という形に偽装する」のとそのまま対応しているように思います。
プロスポーツ選手の引退については、「やめないままでいること」がやめられない中山やカズとか、現役時代の四股名のまま親方になった貴乃花親方の抱える幼児性など、これまでも色々とこのblogで考察してきたトピックです。これと絡めてここから色々話を展開しようかと思ったのですが、それをやるとこの文章の収まりがどうにも悪くなって今日はここまでにします。「適切なタイミングで終焉を受け入れるべきだ」という論旨の文章の構造が論旨に反してしまうわけにはいかないので。。

2018年5月4日金曜日

英語を「勉強」しようとするのは問題の反復生産でしかないんじゃないだろうか

GWに入りました。今年は子供を連れて車で実家に帰ろうかとも思っていたのですが、渋滞情報を調べたらエゲツないことになっていて迷いが生じたところに、さらに子供がやや風邪気味になりまして。結局、「どうせ1泊くらいなんだったら、無理してGWに帰らなくてもいいじゃん」という結論に落ち着きつつあります。
そんなこんなで、ぼんやり寝正月ならぬ寝GWをだらだらと満喫しております。どうやら僕にも風邪が感染ってしまったようで、今日はとうとう一日寝倒して終わりました。まぁ、休みのときしかできない過ごし方と言えばその通りなんですけど、なんだかちょっともったいないような気もします。

さて。そんなGWなので、せめて普段このblogに書こうと思っていたネタをいくつか書こうと思います。今回は職場の30歳くらいの後輩の話です。この人は都の西北のスーパーフリーな感じの一流大学をご卒業なさっておりまして。この人を見ていると、ゆとり世代にありがちな「自分の利益よりもとりあえず周囲との調和を最優先する」というマインドに加えて、彼の大学の卒業生に特有の「勉強熱心に見えるのはダサいから嫌=勉強した自慢より勉強しなかった自慢の方を好む」という気質がなんとなく感じられるのです。
そんな彼が最近ずっと昼休みに大学受験時代の単語帳を眺めているのです。しかも、そのとき彼は必ずイヤホンを耳に装着しているのです。そこから彼が放っているであろうメッセージは簡単に言うと「気になるかもしれないけどイジらないでください」なのですが。残念ながらその程度のメタメッセージに屈する僕ではないので当然ちょいちょい声かけてイジりにいってしまい、彼はそれにやや迷惑そうに応じてきたりするのですが。。この一連のやりとりについて思うことを書き連ねようと思います。

「今見返すと、『こんなことも忘れてたのか』という発見がいっぱいあるんですよ。」と彼は言いました。まぁ、そりゃそうなんでしょう。仕事でちょいちょいしか英語を使わないと、日常会話や政治用語なんてどんどん忘れるでしょうからね。彼が受験当時の単語帳を見直している背景には「英語を何とかしたい」という気持ちがあるんだろうし、それ自体は全然良いと思うのです。しかし、30くらいになった彼が今になって英語のために努力するにあたって、大学受験の時の単語帳を見直しているのはどうも本末転倒な気がするのです。
「英語をなんとかしたい」をもう一段掘り下げると、彼がなんとかしたいのは「英語を使ったコミュニケーション」なんじゃないでしょうか。だったら単語を覚えることよりも、もうちょっと実践的なコミュニケーションの練習(例えば職場には外国人が何人かいるので、彼らに話しかけにいってみるとか)をする方がはるかに効果的だと思います。勿論語彙力はあった方がいいに越したことはないですが、実践的なコミュニケーションにおいては知らない単語をパラフレーズ("目薬"という単語が思い出せなかったら、"a liquid for eye"みたいに言い換える)する能力の方がはるかに有用だと思います。そういえば日本人の辞書や語彙力に対する固執については似たような話を昔このblogに書いたのでした。

これは往々にして勉強ができた人が陥りがちなピットフォールだと思うのですが、彼は「勉強することで問題が解決する」という成功体験に固執しすぎなんじゃないかと思うのです。そう考えると、彼が自分の考える「英語の勉強」におけるキャリアハイである「大学受験のときの自分」にいつまでも固執しようとするのも納得がいくのです。しかし、彼が「英語をなんとかしたい」と思うに至った原因が「英語を使ったコミュニケーションは勉強では解決できない」からだと仮定すると、単語帳を眺めているということは問題に対する解決策ではなく問題の原因を反復生産しているだけなのではないでしょうか。
彼を見ていると、昔自分が楽器をやってたときのことを思い出します。僕は自分ひとりで練習してる分にはいいのですが、他の人と一緒に合わせると途端にボロボロになるのでした。合奏は相手がいて成り立つもので、せめて一人で練習するにしてもメトロノームや他のパートの録音に合わせて弾いたり、間違えても止まらずに弾くようにしないと、むやみに一人で練習しても意味が無いどころか逆効果だったりするのです。そして、最高の練習は言うまでもなく人と一緒に合奏することでした。この話は「合奏」を「外国語によるコミュニケーション」に置き換えてもそのまま同じことが言えると思います。

2018年3月21日水曜日

「HUGっと!プリキュア」は女の子に過大な要求を突き付けてるんじゃないだろうか?

早いもので我が家の娘も春から幼稚園に入ることになりました。ここ最近は女子向けのアニメだけでなく仮面ライダーやスーパー戦隊、ウルトラマンなどの男の子向けの特撮まで見るようになって、ますますテレビっ子ぶりに拍車がかかってる感があるのですが。幼稚園に入ったら男の子とも一緒に遊べるようになるはずだと前向きに考えることにしたいと思います。
1月が娘の誕生日だったのでその時期に誕生日プレゼントに何が欲しいのか聞いたところ、「プリキュアのマスコットのぬいぐるみ」と言われました。しかし、その時点でプリキュアは2月から新しいシリーズに入ることが分かっていたので親としては「いや、先回りして次のプリキュアのマスコット買おうよ?」と言いたかったのですが。まぁ、子供にそんなこと言って理解してもらえるわけもなく、結局その時やっていたプリキュアアラモードのマスコットをAmazonでポチっとお買い上げしました。
この時点ではまだ放映が続いていたにも拘わらずAmazonではすでに半額くらいに値引きされていたので、「あー、もう在庫を売り切るモードに入ってるんだな」と思ったのですが。今おもちゃ売り場では2月までで放映が終了した旧プリキュア(プリキュアアラモード)と旧スーパー戦隊(キュウレンジャー)のおもちゃは残酷なほどに値引きされて叩き売られています。おもちゃ業界のこのあたりのフットワークの軽さと冷酷さには驚かされますが、なんでこうなるかもよくわかりました。というのも、子供達の関心も放映終了と同時に急降下して次の作品に移ってしまうみたいなのです。

さて本題の「HUGっと!プリキュア」なのですが。「子供達にとって一番身近なお母さんこそ女の子にとっての強く、優しく、カッコいいヒロイン像を体現している」というコンセプトを掲げているそうです。その点では過去のプリキュアとは少し一線を画すことを意図しているんだろうということは見ているこちらにも伝わってきます。プリキュア達は悪の組織に狙われている謎の赤ちゃんをお世話しつつも、悪の組織と戦っているという話になっています。まぁ、ここまではいいんですよ。プリキュアとしては新機軸なんでしょうけど、セーラームーンまで遡れば未来の子供(ちびうさ)が出てくること自体は前例がありますしね。
ところがこの一方で、この作品の掲げているコピーは「なんでもできる!なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!」なのです。ここからうかがえるように、「キッザニア東京」のように子供に将来の職業について啓蒙することもこの作品のもう一つのテーマのようなのです。だから、プリキュア達に色々な職業体験をさせるようなシーンが多く盛り込まれていますし、エンディングの歌なんて「将来アレにもコレにもなれる」みたいなことをひたすら羅列して歌ってたりします。
以上より。「HUGっと!プリキュア」は「母性」と「労働者としてのキャリアデザイン」という二つの要素を同時に子供に啓蒙しようとしているように見えるのです。この二つは決して対立する概念ではないので両立は不可能ではないし、両立することを求められる方向に日本の社会も向かってはいるのでしょう。でも、現状ではまだまだ両立なんて難しいわけで、その二つを同時に突き付けるのはなんだか子供が気の毒なように思えてしまうのです。

ちなみに、日曜日の朝のテレビ朝日はプリキュア→仮面ライダー→スーパー戦隊という流れになっています。つまり、プリキュアの後には仮面ライダーとスーパー戦隊が控えているわけですが、これらの男の子向けの特撮番組は、プリキュアとは対照的にこれといって子供に何かを過大な要求を突き付けているようには見えないのです。
これらの特撮番組が「強くてカッコいい正義のヒーローが戦ってる姿を楽しむ」という娯楽性によって成り立っているということは僕が子供の頃とさして変わっていないように思えます。スーパー戦隊に限って言えば、「5人という縛りをやめる:キュウレンジャー」→「スーパー戦隊が怪盗側と警察側に分かれて戦う:ルパンレンジャーvsパトレンジャー」という風に、むしろ既存のフォーマットを崩して柔軟に新機軸を導入しているようにさえ見えます。
そんなわけで、「HUGっと!プリキュア」とその後の男の子向けの特撮を比較すると、なんだか女の子は色々要求されていることが多すぎて気の毒なようにどうしても思えてしまうのです。