2014年1月2日木曜日

「英語=グローバル」というのは周回遅れの発想ではないのか?

あけましておめでとうございます。年越し蕎麦を食べながら紅白を見て、おせち料理とお雑煮と初詣の新年を過ごしています。つまり、ものすごく普通のお正月なのですが。花見の時期とお正月は日本に住んでてよかったとつくづく思います(梅雨と真夏は本気でこの国が嫌になりますが)。その昔バルセロナに住んでた頃はバルセロナの昼の2時くらいの時間に紅白やってて、twitterとかでみんな楽しそうに盛り上がってるのがすごくうらやましかったのを覚えてます。で、なんだかさびしいのでネットに転がってたその前年のゆく年くる年の動画を見たりしてました。日本に住んでると毎年当たり前のようにやってくるお正月の風景ですが、一度それが全く無いところに住んでみると、日本のお正月は本当にいいものだとつくづく思ったのでした。

で、新年明けての今年第一回ですが。もうひとしきり話題にするのも飽きちゃった感のある楽天やユニクロなどのグローバル企業様の話をしようと思います。ただし、「企業が英語を公用化することの是非」ということよりは、彼らが英語を公用語化するに至った背景になんとなく伏流している「英語=グローバル」という物の考え方の方が僕には気になるので、そっちの話です。
英語が国際共通語として磐石のステータスを確立したことについては最早異論の余地はありません。例えば国際学会なんて全部英語ですしね。だけど、この先の世の中で英語だけでビジネスが成り立つかというと、それはさすがに無理なんじゃないかな?と思うのです。ご存知の通り、アメリカがだんだん落ち目になってきて以前ほどの勢いが無くなり、代わりにBRICsと呼ばれる国々が勢いを増しています。これらのBRICs国のうち、英語がまともに通用する国はインドくらい(って言ってもすごい訛ってるけど)で、後の国では英語はロクに通用しません。
我が社でも営業系の人のための語学研修は中国語、ロシア語、ポルトガル語、スペイン語などで、英語は「自分でやっといてください」という扱いになっています。市場として意識されているのはBRICsをはじめとする成長途上の国なのでまぁ必然的にそうなっちゃうんでしょうね。
「グローバル企業」を標榜している楽天やユニクロの人々がそんなこと知らないはずなんて無いし、彼らが今後展開していこうとしている先も同様に英語が通じる可能性は極めて低いことくらい彼らだって分かってると思うのですが。どうして彼らは「英語=グローバル」という旧世紀のパラダイムにこだわるんでしょうか?これが僕には不思議なのです。
たとえば、英語を公用語化することよりも中国語なりタイ語なりポルトガル語なりができる人を集めてきた方がいいんじゃないかと思うのですが。こういうこと言うと、英語偏重主義者は「いや、だったら英語が喋れる中国人なりタイ人なりブラジル人を雇って彼らと英語でコミュニケーションすればいいんだ。だから英語だけできればいいんだ。」とか言うんでしょうが。それこそ外資の「グローバル企業」が20世紀に走ってきた後を周回遅れで追いかけるだけになってしまうんじゃないかと思うんだけどな。。

ここからは僕の想像と偏見が多分に含まれるのですが。これって「信仰」の問題なんじゃないかなと思うのですよ。「英語=国際共通語によって世界中の人達を相手にビジネスすることができるようになった自分」という物語への信仰が背景にあって、これは英米人が英語という言語を布教するときに刷り込んだ物なんじゃないかと思うのです。やや脱線しますが、英米人はこうやって自分達の言語を文化や習慣とは切り離して単体で布教したことで、自らの言語を単なる「道具」に貶めてしまったように僕には見えるんですけどね。
さておき、僕の経験からも「英語=グローバル」という物語に拘泥する人や英語がすごく上手な人はたいてい英語以外の外国語ができないか、そもそも英語以外の言語に興味をあまり示さない印象がありまして。これはアメリカ人の大半が英語以外の言語を喋れないし、あまり外国語に関心を示さないこととそのまま繋がっているのではないかと思うのです(アメリカでもっともポピュラーな外国語といえばスペイン語なのですが、アメリカ人のスペイン語もこれまたすんごい無茶苦茶な人が多いのです。)。
これとは逆に、英語以外の言葉が上手な人はたいてい英語が苦手な人が多くて、また、そういう人はたいていアメリカ嫌いが多い印象があります。まぁ、これは僕の知ってる事例の大半が日本人なので若干日本特有のバイアスがかかってる可能性はあると思いますけどね。

これから先の「グローバル化」は、英語と欧米的(こういうまとめ方を便宜上使います)価値観による世界の支配ではなく、多様な民族・文化・言語が混在する世界へと向かうのは間違い無いでしょう。「英語だけでなく、英語以外の言語が何かできないと強みにならない」というのは僕が新入社員として会社に入った10年以上前から世の中的には言われてますし、慶応SFCなんかは第二外国語に力を入れる教育をかなり昔からやってたりします。「英語=グローバル」という旧世紀の物語に篤い信仰を寄せ続ける人達が本当に時代の最先端なんでしょうかね?
「英語公用語化」は、英語はできるけど英語以外の外国語に関心を示さない人達ばっかりを集めてしまうことになったりしないかと思うのですよ。で、ここから先は本当に100%僕の偏見ですが。それは単に口先の語学力の問題だけでなく、平田オリザなどが提唱しているような「異文化コミュニケーション能力」があまり高くない反面、「英語のできる自分は国際感覚が豊富である」という自意識だけ過剰な「アメリカ人の出来損ない」みたいな人ばっかりの会社を作ってしまうんじゃないかと思うのですね。
もしも柳井や三木谷という人達が英語よりも英語以外の外国語能力を重視するような会社を目指すのであれば、それはなかなかの器なんじゃないかと思います。それは単に、ここまでに何度も述べたような時代の趨勢の問題だけでなく。それって、自分ができないことができる部下や、自分と価値観の異なる部下を使いこなせる度量が無いとできないことだろうと思うからです。しかし、そういう度量や資質こそ”グローバル時代”に本当に必要なことなんじゃないかと僕は思うのですが。

-----アップした翌日の追記-----
三木谷は中国語をやってるそうです。まぁ、そりゃさすがにそうなりますよね。でも、英語が半分ネイティブとかいう彼が中国語を習得する労力と、普通の日本人が英語を習得する労力が等価だとは思わないけどな。。

2013年12月23日月曜日

スペインのクリスマス

日本に帰国して以来二度目のクリスマスを迎えようとしています。相変わらず明石家サンタがあって、ケンタッキーを中心としたフライドチキン戦争が激しくて…何から何まで日本のクリスマスです。「スペインに住んでいたんだから本場のクリスマスはさぞ楽しかったでしょう?」とか言われたことがあったのですが、実際のところそうでもないのですよ。クリスマスの日から年明けまではほとんどのお店が閉まっていて、人通りもまばらです。スペイン人的なクリスマスの過ごし方をする習慣の無い日本人の僕には、ヒマで仕方ない上にお店も閉まってて、あんまり楽しいものではなかったのですが。ともあれ今回はスペインのクリスマスの話をしようと思います。

バルセロナに住んでた当時、古式ゆかしき日本の伝統に従って我が家ではクリスマスの日にケンタッキーでチキンを買って食べてました。これは日本人にはものすごく当たり前のことなのですが、スペイン人の感覚から言うと相当有り得ないことなのです。日本人に直感的に理解しやすいように例えて言うなら、「お正月におせち料理とお雑煮ではなくて吉牛を食べる」くらいのことなんだと思います。こうやって例えると、欧米人にとって「クリスマスにケンタッキー」というのは相当おかしな習慣に見えるということがご理解いただけるかと思います。
とはいえ。僕はキリスト教徒でもなければスペイン人でもないので、クリスマスの日にチキンとケーキを食べる以外のことを何も思いつかなかったので。日本だと予約しないと買えないKFCがクリスマスの日にいとも簡単に買えてしまうことにすっかり味をしめて大喜びで買いに行ってました。実際のところ、クリスマスの日にKFCにチキンを買いに行くとほとんど店内には客がいなくて、中南米系と思われるバイトのお兄ちゃんがやる気なさそうに店番しているのでした。
そんなこんなで、このKFCの話は外人に日本のオモシロ文化ネタとして話すと、ウォシュレットの話と並んで必ずウケる鉄板ネタなのでよく自分からネタにしてました。

上記のたとえ話にあったように、ざっくり言うとスペイン人にとってのクリスマスは日本人にとってのお正月みたいな物なのです。だからクリスマスの日はだいたい家族で過ごすのが基本です。スペイン人と結婚した日本人の話では、クリスマスの時期は親戚一同含めて家全員が集まって、朝から晩まで起きてる時間の半分以上の時間をただごちそうを飲み食いして過ごすんだそうです。最後の方は食傷気味でうんざりするそうな。例えばクリスマスの時期に生ハムを一本(片足)買って、それを家族でクリスマス中に平らげたりするのはすごく普通のことで、クリスマス時期になるとゲーム機やシャンパンのCMと並んで生ハムのCMをよく見ることがありました。

そしてクリスマスといえば、"el gordo"と呼ばれる宝くじ。日本の年末ジャンボみたいなものなのですが、スペイン人の熱狂ぶりたるや日本の年末ジャンボの比ではありません。理由の一つは、賞金額が日本よりも高いから。そして、スペイン人は宝くじみたいに他力本願な射幸心をくすぐる物が元々大好きな上に、経済危機のおかげでさらに宝くじ熱が高まってしまい、経済危機でヤバいとか言いつつも宝くじの売り上げ自体は経済危機の前よりも後の方が上がってるそうです。こういうところがスペイン人。
そして日本と違って、同じ番号のくじが複数あります。切手シートみたいな感覚で同じ番号のくじが複数枚つづりになったシートを買って、それを職場や家族や友達に小分けして配るんだそうです。だから、当選すると自分だけでなく周りの人も同じようにお金がもらえることになるのです。日本の宝くじでよく言われる、「当選したことを秘密にする」みたいなことは無いんだろうと思われます。その昔、こういった相互扶助的な宝くじの贈与によって、小さな村の全員が一等に当選したこともあるそうです。

最後に、ケンタッキーの話とは逆に、日本人にとって理解不能な不思議な習慣がカタルーニャ州にはありまして。カガネと呼ばれるウンコ人形をクリスマスに飾る?のです。クリスマスが近づいてくるとみやげ物や屋台など色々な場所でカガネが売られているのです。スポーツ選手から芸能人、政治家、果てはアニメのキャラまで、あらゆるモチーフのカガネが売られています。
http://ameblo.jp/asonde-spain/entry-11099946552.html
我が家では在西時にドラえもんのカガネを買って日本に持って帰ってきました。ドラえもんのカガネはウンコが水色です。。このカガネは今も我が家の日本のトイレに飾ってあります。


2013年12月4日水曜日

斜陽の先進国スペインから日本が学ぶべきこと

先週一週間ほどバルセロナへ出張してきて、日曜日に日本に帰ってきました。寒かったことを除けばやっぱりバルセロナは楽しかったです。あそこにいると、それだけで自分が何かしら開放されたような気分になれるのです。さて一方、日本に帰ってきてテレビをつけると12月から就職活動が解禁になったとかで、大学3年生の学生さん達がリクルートスーツに身を包んで企業説明会に参加している映像がニュースで流れてました。
なんというか、直感的に言って”スペイン的”から一番遠い”日本的”な映像を見た気分になりました。そのニュースでは、地方の大学が学生の就職活動を支援するために無料でバスを東京や大阪に走らせるという取り組みについても紹介していたのですが。大学も学生も、日本はこんなに日本人を必要としていないということは分かってるはずなのに、それでもまだみんなで一連のシステムにしがみつこうとしてるように見えてしまったのです。
大学側も日本で普通に就職するだけじゃなくて、もっと他に道を示してあげればいいんじゃないかな?と思うんですけどね。例えば、自分達で起業する人を支援するとか、海外に就職する道を支援するとか。まぁ、当の大学は少子化で学生が減っていく中で自分達自身の生き残りに必死で、だから結果として学生をお客様扱いして手厚い就職活動支援をしてるのでしょうが。

というわけで今回は国全体の失業率が25%、若者の失業率に至っては50%を超えている地方もあるスペインという国と日本をちょっと比較してみようと思います。まず。この失業率はスペイン人にとってたいへんに深刻な問題であることには確かなのです。でも、スペイン社会は”失業率50%”と聞いて日本人が想像するような(極端に言うと北斗の拳みたいな)世界ではありません。とりあえず表面上はみんなヘラヘラ楽しそうに暮らしています。
何が違うってまず、日本みたいに職歴に空白があることが好ましく無いとする風潮はスペインには全くありません。スペインではほぼ全員が契約社員のような雇用形態で、契約を更新せずに契約期間が満了したら従業員は会社から放り出されるのが当たり前なのです。なので職の移行期間に一時的に無職の状態になるのは割と普通にあることなのです。このシステムを積極的に活用して、一年契約で働いてその後半年旅行して、お金がなくなったらまた働いて…というようなサイクルを繰り返すような人も普通にいます。よって失業しているという状況を、経済面はさておき、社会的なステイタスとして日本ほど否定的にとらえてはいないと思います。
また、失業給付が割と充実していているので失業給付でなんとか生活できなくはないみたいです。そして、失業給付をもらいつつもこっそり働く人もいます。企業側にとっては失業給付をもらいながらなので給料を比較的安くできたり社会保険料も払わなくてよい、働く側としては失業給付と仕事の給料の両方がもらえる、といった具合に労使双方にメリットがあるのです。なので、本当の失業率は統計に出てくる数字よりはもう少し低いんだとは思います。

そしてよく言われることですが。ラテンなので陽気なのです。陽気というよりは、日本人の僕の感覚から言うと「物事を深刻に考える才能に最初から恵まれてない」という言い方の方が妥当だと思います。スペインに在住してたときに「平成狸合戦ぽんぽこ」という映画を見たのですが、この映画に出てくる「環境破壊によって少しずつ生活を脅かされつつもどこか楽天的で悲壮感の無い狸たち」が、経済危機が深刻で本当にヤバいとか騒ぎながらも普段はヘラヘラ楽しそうにしているスペイン人と一緒に見えたのでした。
実際のところ、自殺率は日本の方がスペインの三倍も高いんだそうです。スペイン人はカトリックなので自殺を禁忌としているのもこうなる理由の一つなんでしょうが。それだけじゃなくて、お金が無くても仕事が無くてもそのことを深刻に考えたり思い悩まないということや、家族の結びつきが強いので家族の相互扶助がセーフティーネットの役割を果たしていることなども自殺率の低さに寄与していると思います。
スペインに在住当時に、「そんなに仕事が無いなら日曜日もお店を開ければ仕事が増えるんじゃないか?」と言ったら、「そんなことしても、企業は今いる従業員に対して同じ給料で日曜日も働くように要求するだけで雇用促進の効果は無い。」と返されました。また、経済危機だからって無理矢理新しい食品を作り出そうなんて考える気は彼らには全然無いのです。

スペインやポルトガルなどの国は大航海時代の後からもう400年以上もずっと斜陽国なのです。20世紀のポップカルチャーの歴史を語る際の背景として、イギリスが斜陽国であったことがよく取り上げられますが。斜陽であること、もっと簡単に言うと”ダメであること”に動じずに受け入れることにかけてはイギリスなんかよりもスペインやポルトガルは経験値がはるかに高いんじゃないかと思います。日本や韓国のように「ダメな人(最低限の社会的ステイタスを維持できない人)に生きれる道を示さない社会」は経済成長がある程度ひと段落した後は、どうしても自殺が増えるんじゃないかと思うのです。
安倍晋三は失われた20年を取り戻すとか言ってましたけど、日本がバブル期みたいな景気に戻るのはどう考えたってもう無理でしょう。たぶんよくてこのままくらいなんじゃないでしょうか。もう昔のような景気には戻れない日本や韓国がこれから先をよりよく生きるために、斜陽の先進国であるスペインやポルトガルに学べる事は多いんじゃないかと思います。

2013年11月17日日曜日

林檎をかじった人類はコンピュータを進歩史観で語り続けるのか

仕事柄、僕はコンピュータを単に普通の文房具(メールとかネットとかwordとかexcelとか…)として使うだけでなく、コンピュータの上で動く何かをプログラム書いたりして作る立場なので。僕のコンピュータ観というのは「使う側」よりは「作る側」の観点にバイアスされているのはある程度自覚があるのですが。それにしても、ちょっとここ数年のAppleはどうなのかなー?と思ったりするので今回はその辺のことを書いてみようと思います。

ここ数年のAppleのやってることって、新しいOSを出してはそのサポート対象から古いデバイスを切り捨てていくことでユーザーに暗黙のうちにハードの定期的な買い替えという形で年貢を納めることを要求したり。また、その新しいOSを出す度に結構OSの仕様が変わる上に下位互換を割とアッサリ切り捨てるので、以前のOSで動いていたソフトがそのまま動かなくなりまして。ソフトを作る側はOSが新しく出るたびに昔動いてたものが動かないとか、対策しようとしたらまず新しいOS向けにはビルドが通らないとか、そんな状況に遭遇するわけです。
しかしですね。そもそもコンピュータの何が便利かって考えたら、ぱっと思いつく範囲でこういうことだと思うのですよ。
・人間と違って計算を間違えない
・答えを出す方法が自明な問題を解くのは人間とは比べ物にならないくらい早い
・データは媒体が壊れない限りいつまでも保存される
・データは他のコンピュータでも利用できる:互換性、再現性
この最後の項目は人と人が結びつく上で非常に重要です。僕のPCで作ったデータが他の人のPCでも同じように再現されて編集できるから、PCは単に個人の生産性を向上させただけでなく複数人でのコラボレーションの生産性をも向上させるわけです。この"コラーボレーション"という概念を同時代だけでなく時系列に拡張すると、例えば「10年前の自分が使っていたソフトが今使ってるコンピュータでも動く」とか、「10年前に作ったデータが最新のコンピュータでも何らかの方法で閲覧・編集可能である」とか、「10年前のパソコンでも最新のOSが動く」とかいうことになるわけです。

例えば「64bitに対応する」とか正当な理由があるなら昔のハード、ソフト、データ等との互換性を捨てるのもやむなしという気がします。実際のところ、コンピュータってこれまでそうやって古いものを捨てながら発展してきたんだと思いますしね。でも、過去のソフト・データなどの資産との互換性を大した理由も無く損ってまで、「新しさ」を自転車操業的に繰り出し続ける必要があるのかな?と思うのですよ。当のAppleにしてみればユーザーエクスペリエンスがどうとか色々言い分はあって、Apple信者という人々の大半はそれを好意的に支持しているように見えるのですが。「互換性」「再現性」というコンピュータの恩恵をちょっと軽視しすぎなんじゃないでしょうか?
そういう意味ではMicrosoftの方がまだ過去の資産との互換性や再現性に対して丁寧だと僕は思います。まぁ、VistaがコケたせいでXPが10年近く生きてしまったので、過去の資産に対する互換性が7や8においては重要視せざるを得なくなったのもあるかもしれませんけどね。実際のところ、例えば予算が限られていて頻繁な買い替えやアップデートが難しい教育の現場や、支出を少しでもケチりたい企業などでは、2-3年でサポート対象から外れてしまうApple製品を選ぶのは余程の理由が無い限り難しいんじゃないかと思います。

ご存知の通り、90年代半ばのWindows3.1とインターネットの登場辺りからコンピュータは爆発的な勢いで一般に普及して身近な存在となり、それに伴い、ソフト・ハードともに爆発的な勢いで発展してきました。この辺りまでの経緯を所謂「進歩史観」(歴史は良い方向へと自然と向かって進んで行ってるという物の見方)で説明するのは皆さんほとんど異論は無いんだろうと思うのですが。最近のAppleを見てると、コンピュータの歴史はこのままずっと進歩史観的に語られ続けるのかちょっと怪しくなってきた気がするのです。
もうスマホやタブレットでさえ、ハードのスペックとしてはネットとメール等とちょっとした文房具程度ならば十分になってしまったので、それでもお客さんの購買意欲を喚起するためには手を替え品を替えOSを替え…でハードを買えという風に持っていかざるを得ないのかもしれませんが。なんだか新しさの自転車操業というスパイラルに入り始めている上に、そのためにコンピュータの恩恵の一つである互換性や再現性をわざわざ壊してるんじゃないかなという気がするのですよ。
コンピュータがこれだけ身近になって、この先もどんどん生活の中に入り込んでくるのはもうどう考えても避けられないでしょう。だからこそ、20年とか30年経った後も今あるデータがちゃんと閲覧・編集できることを願いますし、10年前の古いハードでも動くようなものが優秀なOSであるという価値観になってほしいと思います。

2013年11月4日月曜日

ヘタにアメリカ人のモノマネするよりも武道の方が国際社会を生きていく上で有用なんじゃないだろうか?

仕事なんで、まぁしょうがないといえばしょうがないことなのですが。海外と共同で進行しているプロジェクトで、こちら側とあちら側との間で意見が対立してちょっとした揉め事になりそうな状況になりました。離れている人と正面からケンカになることはプロジェクト全体の生産性を落とす上に、こちらは語学力に明らかにハンデがあるし、さらにこちら側は少しだけ前言撤回をしなければならない後ろめたさもある状況なので。とりあえず軽く謝って譲歩しつつも落としどころを探していくようなやり方にしてはどうかと僕は提案してみたのですが。こちら側(全員日本人。僕以外は海外に住んだ経験ナシ。純粋な語学力は僕とさほど変わらないけど、英語で喋るとだいたいこんな感じになる。)の日本人達が言ってることは、まぁこんな感じです。
・口頭の議論ではこちらが言いたいことを十分に言えなくて不利なのでメールの往復にしよう
・あちら側に空気読まずに言いたいこと言ってくるメンドクサい奴がいるから、リーダーの奴とだけ話をしよう
・譲ったり謝ったりしたら負けだ、とにかくまずはこちら側に都合の良い事を一方的に主張しよう

言い換えると、「語学力のハンデによる不利益を最小限に抑えつつもこちらの意図している方向に少しでも向かうようにしようよ。相手はガイジンだろ?アイツら流のグローバルスタンダードに習って都合のいいこと主張しておけばいいんだよ。どうせ向こうは向こうで言いたいこと言って削ってくるんだからさ。ペコペコ謝るなんて日本人だけらしいぜ。そんなことしたって損するだけだろう?」といったところでしょうか。
ここまできて、さすがにちょっと違うんじゃないのかなぁ?と思ったわけです。まず彼らの発想にぼんやり伏流している「ガイジン=たぶんだいたいアメリカ人みたいな感じ」という国際感覚はいくらなんでも雑すぎるんじゃないでしょうか(ちなみに今回のあちら側は欧州人です)?アメリカ人はどうか知らないけど、少なくとも欧州人(より厳密に言えば僕が知ってるのは主にスペイン人)は日本人に比べたら確かに自己主張はするけど、譲り合う能力は日本人より高いと思います。だから日本人みたいに「議論=斬り合い」にならないのです。
逆に言うと、日本人同士なら分かり合えると彼らは思ってるみたいなんですが。彼らと日々仕事をしていると僕がいつも感じるのはこういうことで。現にこの案件に関して「我々は語学力にハンデがある=弱者」という点以外では僕と彼らの見解は全く相反しているのです。

このように我々が弱者だという点では見解が一致しているのに、そこから導き出される見解が全然違うのはどうしてだろうと考えてみたのですが。どうやら僕の2年間のスペイン生活は「語学的にハンデが有る”弱者”としてスペイン人の社会の中で生きていく」という訓練の場になっていて、以後、日本語が通じない相手と接する際にはこの「弱者」の態度を基本的なフォームとして採用しているようなのです。
そしてようやく本題になるのですが、これは内田樹氏の武道論とほとんど同じことを言ってると思うのです。氏の修行論という本の紹介文では武道をこのように位置づけています。
武道の修業、なかでも著者が長年稽古をつづけている合気道の修業を通じて開発されるべき能力とは、「生き延びるための力」である。それは「あらゆる敵と戦って、これをたおす」ことを目的とするものではなく、「自分自身の弱さのもたらす災い」を最小化し、他者と共生・同化する技術をみがく訓練の体系である。
もうこの文章に言いたいことはだいたい集約されているのですが。以下、webに散らばっている氏の武道論を引用しつつ、こちら側の日本人の何が問題か考えてみます。

■天下無敵とは敵をつくらないこと
「無傷な、完璧な状態にある自分」が存在するとした時に、そうじゃない状態(今あるような自分のこと)を「敵による干渉の結果」として説明するような方法をとる、これが敵を生みだすロジックです。
こちら側の日本人は「英語になるから言いたいことが伝わらないんだ」といった具合に、「完璧な自分」の能力が「語学の壁」という敵の干渉によって損なわれているという語法をうらめし気に使うのですが。このような考え方は内田氏の指摘の通り、あちら側を敵とみなす物の考え方に帰着する結果になっています。そんな事言っても、有り物の語学力でやりくりするしかないんですけどね。。

■居付き(ここの最初の方にだいたい書いてあります)
僕の理解した範囲で「居付き」の極端な例は、夜道でナイフを振り回して脅してくる敵のナイフに対する恐怖で体がこわばって身体運用の自由が制限されてしまうような状況です。こうなるとベストパフォーマンスを引き出すことが難しくなるので危険を回避できる可能性がより低くなってしまうわけです。こちら側の日本人の態度もこれと同じで、自分達が語学的に弱者である(=相対的に相手が強い)という恐怖が相手に対して過剰に防衛的かつ攻撃的な態度(アメリカ人のモノマネ)に出るような結果になってしまっているように見えるのです。純粋な語学力の観点からは、僕の語学力はこちら側の彼らより多少マシな程度でそんなに大差無いと思うのですが。こちら側の彼らと僕の大きな違いは、自分が語学的に弱い状況に対する経験値なんじゃないかと思いました。

■キマイラ=相手と同化する(ここの2ページ目に書いてあります)
二人の人間が対峙しているとき、その事態を『頭が二つ、体幹が二つ、手が四本、足が四本』のキマイラ(ギリシア神話に出てくる怪物)的な生物が一人いるととらえる…<中略>…私と相手を同時に含む複素的な身体がある。…<中略>…複素的身体はすでに成立しており、すでに動き始めている。その構成要素として、私と相手は事後的に分節されるばかりである。その枠組みで考えれば、私と相手の動きの先後や強弱勝敗巧拙の差は問題にならない。」(「修行論」より)
自分と相手を対立する物と考えるのではなく、相手と同化して一つのキマイラを作るんだと考えるということです。夜道でナイフを振り回して脅してくる相手(利害が100%相反する)と対峙するときでさえ瞬間的にキマイラを作れと言っているわけです。今回の例で言うと、あちら側とこちら側はプロジェクトの運営という共通の利害を持っているので、瞬間的どころか恒常的にキマイラを形成することを本来目指しているはずなのです。メンドクサい奴があちら側にいるからといって話から外すという態度は結果的にこのキマイラの成立を妨げるだけなのです。
実際のところあちら側のリーダーだって、メンドクサい彼に何もお伺いを立てずにこちら側と話をするなんて無理なので。当然そのメンドクサい彼にも意見を聞かざるを得ないわけです。結果として、こちら側がメンドクサい彼を邪魔だと思っているという事実だけが伝わるだけで、何も得るものは無いのです。


以上述べたように、大多数が語学的に弱者である我々一般の日本人が弱者なりに国際社会を生きていく上で、内田氏の提唱する武道論の方が「グローバルスタンダード」を標榜してアメリカ人のヘタなモノマネをするよりもはるかに有用なんじゃないだろうかと僕は思うのです。

2013年10月20日日曜日

パエリアは米という野菜を使った料理なんだそうです

スペインに住んでたという話をすると日本人が連想するのが、サグラダファミリア(およびガウディ)、闘牛、フラメンコ、サッカー、ワイン、そして食べ物だと真っ先に出てくるのはやっぱりパエリアです。今回はパエリアの話を書こうと思うのですが、その前にまず上述のキーワードがスペインのどこに行っても同じように見られるわけではないという話をちらっとしますね。例えば闘牛。これはバルセロナを含むカタルーニャ自治州では法律で禁止されているのでもう見れません。フラメンコも本場は南部のアンダルシア地方なのでカタルーニャでは観光客相手のなんちゃってフラメンコしか見れません。こんな具合に地方によって文化がだいぶ違うのです。
食文化も当然地域によって異なっておりまして。ざっくり言うと、海沿いのエリアでは魚介類を食べますが、例えばマドリなどの内陸部は海から離れているので魚介よりも肉中心の食文化だったりします。

で、ようやくパエリアの話になるんですが。。パエリアはスペイン全土である程度食べられてはいますが、やっぱり本場は発祥の地であるバレンシアです。なんたってバレンシアはパエリア作るのに必要な米の一大生産地ですから。そして、パエリアの具なんですが。日本人の想像するパエリアというのはたいていエビやムール貝などの魚介類の乗った物だろうと思うのですが。本場バレンシアのパエリアは基本的にウサギ(か鶏肉)とインゲン豆なんだそうです。
バルセロナ(およびカタルーニャ地方)でもパエリアは食べられていますが、雑炊みたいにスープがわりと残っているパエリアや、フィデウアと呼ばれる極細パスタのパエリアなど、ちょっと本場バレンシアとは色々と事情が違ってます。あとなぜか、木曜日はパエリアの日ということになっているので木曜日はあらゆる食堂が必ずと言っていいくらいパエリアを出します。ただし、基本的に前菜として。

この「前菜として」というのが曲者なのです。パエリアをメイン料理として出すお店もあるにはあるのですが、一般的にスペイン人の習慣ではパエリアは前菜の扱いなのです。これたぶん、イタリアでパスタが前菜なのと同じ感覚だろうと思います。
そしてスペイン人の感覚ではパエリアと言うのは米という野菜を使った料理なんだそうです。ここが日本人には理解しがたいところなのですが、スペイン人の食文化では米はあくまで野菜のカテゴリに入るため、主食だとは思っていません。だから何って、パエリアを主食のパンにのせて食べるのはスペイン人の感覚からすると普通のことなのです。日本人の感覚から言うとお好み焼き定食みたいな炭水化物と炭水化物の組み合わせなんですけどね。

そして問題は塩加減です。主食のパンと一緒に食べて丁度いい程度の塩加減になることを想定されているので、日本人の感覚から言うとスペインの一般的なパエリアはしょっぱいことが多いのです。定住しはじめて最初に近所のテキトーなバルで食べたパエリアはあまりにしょっぱいので1/4くらい食べたところでギブアップしました。以来、パエリアを頼んだ経験の無い店では不用意にパエリアを頼まなくなりました。
現在の日本の職場にいる外国人を見てる範囲での話ですが、日本の食文化の中でも「味のついていない白ごはん」が苦手な外国人は多いようです。三角食べになじめない人が多いとか、そこそこ塩味のついてるパンに比べると白ご飯は塩気がほとんど無いとか、色々理由はあるのですが。彼らからすると、日本の白ごはんというのは米という野菜を煮ただけで味がついていない物なので、そのままだと食べるのが辛いというのもあるようです。イメージしやすいようにたとえ話にすると、日本人が外国で味のついてない茹でただけのジャガイモを主食として出されたらたぶん塩くらいはかけたくなるでしょう?それと同じことです。実際のところ、白ごはんの苦手な外国人はたいてい白ごはんに醤油をかけて食べてます。

2013年10月12日土曜日

パワーポイントの一人歩きにご用心

最近あまりお目にかからないのですが、エンジニアの世界にはあらゆるドキュメントを何でもエクセルで作りたがる人というのがいらっしゃいまして。こういう人達はwordなんかの普通のワープロソフトで作ればいいようなものでも、とにかく何でもかんでもエクセルで作りたがるのです。例えば、基本的に図と文章で構成されてるようなソフトの仕様書なんかもエクセルで書いちゃう人が実際にいるんですよね。これって、「Illustratorをワープロ代わりに使ってしまうデザイナー」と並んでよくある話なんじゃないかと思います。
一方、僕は昔から人一倍パワーポイント多用派です。理由はお絵描きがしやすいのと、描いた絵などを後でプレゼン資料としてそのまま使い回しやすいからです。さすがにソフトの仕様書全部をパワポで作るなんて事はしないですけど、各論の細かい仕様を外注さんに説明する場合は絵を中心にして説明した方が早いと思ったら、パワーポイントで絵を描いた後にそのまま箇条書きで文章まで一緒に追記して渡しちゃうこともありました。
こんな具合に僕はパワポにわりと好意的な方なんですが。そんな僕でさえどうかと思うような、「プロジェクトの概要から予算、スケジュール、ステークホルダーの関係などの情報をまとめた資料はなるだけパワーポイントで作るように」というお達しが最近お上から降りてきたのです。これまではエクセルで作られた官僚的で冗長なフォームがあって、それをブーブー言いながら埋めて資料を作ってきたのですが。今度はこれをなるだけパワーポイントにせよと言うわけです。
そりゃまぁ上の立場の人からすれば、自分がさらに上の人とか外の人に説明するときにも使い回せて便利なのでパワポで作れと言い出すのは分からんでもないですが。パワポって本来は口頭説明を伴う”プレゼンテーション”のためのスライドを作るためにあるものであって、スライドだけを見て内容が理解できるように情報を載せるのにはあんまり向いてないと思うのです。でもお上が言ってることは「口頭説明は一切無しでパワポだけ一人歩きしても理解できるように資料を作れ」ということのようなのです。

僕は「一人歩きできるようにパワポを作れ」ということ自体に明らかに反対ですが、少なくとも賛成・反対を論じれる程度には上の人が言わんとしていることは理解できるつもりではあります。でもこの件に関して賛成・反対を論じれる人って、世界的に見ると日本人を中心とした一部のマイノリティだけなんじゃないだろうか?と思うのです。つまり、日本人以外の世の中の大半は「パワポのようなスライドで一人歩きできるような資料を作る」という事に対して賛成・反対以前にそもそもそんなこと考えた事がなかったり、なんでそんなことを言い出すのか理解できないんじゃないかと思うのです。なぜかって、日本人の作るパワポってものすごく特殊だからです。
日本人が作るパワポは字がやたら多い上に、とっても細かい図が一杯載ってて複雑な漫画みたいに見える。というのは外国人からよく言われることなんですが。たぶんこうなる原因の一つは漢字を使っているおかげで日本語の記述がすごくコンパクトに済んでしまうために、スライドの端から端まで使えばそれなりに文章が書けてしまうということがあるんじゃないかと思います。twitterだって英語だと本当に一文だけつぶやいて140文字が終わりになるけど、日本語だと140文字あればそれなりの長文が書けてしまうのと同じことです。だから日本人はついつい文章を沢山パワポに書いてしまい、結果として一人歩きできるようにパワポを作ることも比較的やりやすいんじゃないでしょうか。もしそうだとすると中国人にも日本人と同様に字がやたら多いパワポを一人歩きさせるような文化が受け入れられる素地があるのかもしれません。
いずれにせよ、アルファベットなどの表音文字を使っている人達には漢字みたいな表意文字に比べるとパワポに文章を入れることは難しいので、パワポにはキーワードを列挙して細かいことは口頭で説明するだけにならざるを得ない傾向があると思います。結果として、口頭説明を前提としたキーワードの羅列で構成されたパワポの一人歩きは当然難しくなります。

日本に中間管理職が多すぎるのも「一人歩きできるようにパワポを作れ」というお達しがお上から降りてくる別の理由なんじゃないかと思います。彼らの仕事は基本的に自分の上下(と外)に挟まれて利害を調整することなんだろうと思うのですが。その際には上や外に向けて、現場で進んでいるプロジェクトについて説明する必要があるわけです。当然中間管理職の彼らは現場の担当者ほどの知識や情報を持つことは難しいわけで。だからこそ、それでも順番に読み上げればひとしきり説明が成立するようなパワポを彼らは欲しがるわけです。
しかし、どんなにパワポが一人歩きできるように作られていたとしても。僕は人一倍不器用なので、他人の作ったパワポそのままでプレゼンで喋るのは無理なんです。その昔、「資料はこっちで作るからプレゼンだけ君がやって」と頼まれてプレゼンをやったことがあったのですが。結局このときはもらった資料を全部いじって自分が喋りやすいように作り直したのでした。
このように、どんなに丁寧にパワポに文章を書いて一人歩きできるようにしたところで、結局は作った人の想定するストーリーなどの属人性が入り込んでしまうのが避けられないと思うのですが。一人歩きできるパワポを望む人達って他人の作ったパワポでそのまま喋れるんでしょうから、僕より器用で柔軟なのか、或いはそんな細かい事言ってられないくらい忙しいのか、どっちかなんじゃないかなと思います。

ありがちな「日本人だけが世界の中で特殊」という話形にあまり拘泥したくないですし、それを一ひねりしただけで「日本は外国と違っている=だからダメ」と大橋巨泉みたいなことを言うつもりも無いのですが。「一人歩きできるようにパワポを作れ」と言う彼らは、字ばっかりのパワポを作れるのは世界的に見るとたぶん少数派だということは理解してほしいなと思います。その上で、外国人に向かっても「一人歩きできるようにパワポを作れ」と言えるのであれば、それはそれで立派な御意見だとは思いますよ。
後でガイジンに説明する必要に迫られたときの使い回しまで考えたら、一人歩きは潔く諦めて最初から全部英語で作っておいた方が効率良いと思うんだけどな。。